会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

伝教大師と会津徳一の旅2

2010-09-02 09:33:11 | 日記

 ―  ←大仏殿前での記念撮影
   
       

大和朝廷の都が奈良盆地南の天香久山近くの藤原宮から、奈良盆地北の奈良山を背にした平城京に移ったのは、和銅33月10日のことで、今年が遷都1300年にあたります
 バスガイドさんに案内された参加者は、たまたま居合せた修学旅行生の大群にもみくちゃになりながら、はぐれないようにして向かったのが東大寺の金堂(大仏殿)でした。

奈良の大仏は、聖武天皇によって発願され、天平勝宝4年(752)に開眼供養が行われました。源平争乱期と戦国時代の二度、兵火に遭ったために、現在の大仏は原仏像ではありませんが、両袖、腹前の一部、膝前と台座の大部分に天平時代の面影をたたえているといわれます。
 お水取りで有名な二月堂、東大寺建築でもっとも古いともいわれる法華堂(三月堂)があるあたりは、喧騒さとは無縁な静寂さと神秘性をたたえていました。千年以上の時間の経過がそうさせるのでしょう。

あいにく昼間だったので、二月堂から眺める奈良市街の夕景を見ることはできませんでしたが、観光客もまばらであったせいか、落ち着いた雰囲気を味わうことができました。

そして、島村抱月が『奈良より』のなかで、二月堂と三月堂とを「栄と寂、生と死の対照である」と比較していたのを思い出してしまいました。今も信仰の対象となり、お水取りの儀式が行われる二月堂に対して、「その傍の平地に立ったまま千年の戸はすべて鎖されて、寂然として永久の眠りに入っている」のが三月堂なのだそうです。

小野隆市社長が「あっちに行ってみようか」とおっしゃったので、脇道に入ってみましたが、隠れスポットというのはどこにでもあるもので、少し歩くと、目の前に鐘楼が現れました。鐘楼そのものは、鎌倉時代に栄西が再建したものでしたが、梵鐘は大仏開眼供養に造られたものでした。いずれも、国宝の指定を受けています。

東大寺は華厳宗の総本山であると同時に、学僧を養成する機関でもありました。法相宗を始めとする三論、成実、倶舎、華厳、律の南都六宗の学舎があり、分け隔てなく教義を習得できました。徳一がそこで学んだことだけは確かです。

東大寺には中央の戒壇がありましたから、受戒の儀式を受けたと思われます。だからこそ、一時期、東大寺別当の職にあった空海は、徳一のことを耳にしていたので、わざわざ手紙を書くことになったともいわれます。

引き続いて私たちは、法相宗の総本山である興福寺へと移動しました。それこそ、徳一ゆかりの寺といわれており、藤原家の氏寺でもあります。興福寺蔵の法相宗系図では、徳一の名前も記されています。
 司東真雄氏は『東北の古代探訪』のなかで、「師である興福寺の修円から徳一は、会津の稲川庄の庄寺建立を頼まれ、仏師と共に下ってきた」と書いています。そして、修円にそのことを依頼したのは、藤原緒嗣であったというのです。

緒嗣が大同4年に、東山道観察使兼出羽鞍察使として1年間にわたって巡察したときに、朝廷から賜ったのが稲川庄だったともいわれます。

緒嗣の父親は、藤原百川です。孝謙天皇が再び皇位について称徳天皇となると、道鏡を盛り立てるために藤原仲麻呂を滅ぼしましたので、藤原家で傍流の百川が息を吹き返したのでした。天智天皇系の白壁王を光仁天皇として即位させたのも、山部親王が後に桓武天皇として皇位につけたのも、百川がいたからです。その子供であった緒嗣の権力も、絶大だったに違いありません。

そもそも藤原家は、中臣鎌足が大化の改新の功績によって、天智天皇から藤原の姓を賜ったのが始まりです。その子供である藤原不比等が初代で、不比等の長男武智麿が南家、次男の房前が北家、三男の宇合が式家、四男の麻呂が京家と呼ばれています。式家は宇合-百川-緒嗣となりますが、南家の武智麿の後を継いだのが仲麻呂でした。

徳一については、南家の武智麿の後継であり、反乱を起こして斬首された仲麻呂の子供であったという説もありますが、真実のほどは定かではありません。ただ、朝廷の身分の高い人間のバックアップがなければ、会津に乗り込むことは難しかったはずです。

時間がそれほどなかったので、一直線に国宝館を目指しました。そこも修学旅行客で溢れていましたが、子供たちはそれほど興味がないのか、一瞥して通り過ぎているだけのように見えました。
 少しでも長く鑑賞したいと思って、人波をかきわけたら、いつの間にか先頭にいました。一番長く立ちつくしたのは、八部衆立像の一つである阿修羅の像です。初めてではないのに、常に新しい発見があるというのは、芸術性が高いからでしょう。

天平時代の将軍万福の作と伝えられていますが、阿修羅像は、まるで生きているかのようでした。目が爛々と輝き、写実のすごさに、私は魅了されてしまいました。釈迦に教化された異教の神である阿修羅。三面六臂の異様さはあっても、両手を合わせた姿は、どこまでも人間的でした。表情はどこまでも愁いに満ちていますが、どことなく、小悪魔的なずるがしさもあります。

このほかにも、将軍万福の作といわれているのに、八部衆立像などがありますが、どこまでもリアルであるために、鑑賞しているはずの自分が、逆に鑑賞されているかのような錯覚すら覚えました。

それ以外では仏頭に魅了されました。白鳳時代の作とみられていますが、じっと見入ってしまいました。昭和1210月、興福寺の本寺東金堂を修理したときに、本尊壇下より発見されたのでした。曽我氏の一族である蘇我石川麿呂が発願し、桜井市山田に建立された、山田寺講堂の本尊であったともいわれています。

大化の改新では中大兄皇子の味方をしたにもかかわらず、その後謀反の疑いをかけられて石川が自害したため、その冥福を祈って造られたのだそうです。鎌倉時代の興福寺復興期においては、東金堂の本尊となっていました。応永18年の興福寺東金堂火災で焼失したと思われていましたが、頭部だけは、焼けることなく、かろうじてそのまま残っていたのです。
 どことなく憎めない顔をしています。仏というよりも、どこにでもいる正直者が目の前にいるような気がしてなりませんでした。

ただ、残念であったのは、鎌倉時代の運慶の作である無著菩薩立像、世親菩薩立像が見当たらなかったことです。無著、世親といえば、4世紀頃に実在したといわれる、大乗仏教唯識派の思想を大成した兄弟です。徳一はその血脈を受け継いだのでした。後になって北円堂に安置されていたのを知りましたが、そこまでは回る時間はありませんでした。     

コメント
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