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読経を上げる黒谷本山金戒光明寺 の副住職と参加者
二日目は、三十三間堂が最初の目的地でしたが、その前に三人ばかりで別行動をとらせてもらいました。参加者のなかに、浄土真宗西本願寺の信者の方がおり、この機会に御参りしたいという申し出があったからです。柴田住職に頼まれて、私が案内することになりました。
朝の清々しいなかで、阿弥陀如来が安置されている阿弥陀堂で手を合わせてきました。反り返った大きな瓦屋根が目の前に飛び込んできただけで、圧倒されてしまいましたが、僧侶の剃髪に見慣れている身としては、ふさふさとした髪の毛の僧侶の姿に、かえって厳かなものを感じてしまいました。
妻帯して子どもをもうけることは、仏教徒として許されることではありませんでした。現実の世に染まることで、泥田に咲くことで、蓮の花が一層美しく見えるように、俗世に浸かった民衆の気高い信仰心に触れたような気がしてなりませんでした。
また、西本願寺という所は、新選組が屯所を置いた場所であったわけですが、今ではその面影を残すものは何一つありません。そんなことをついつい考えてしてしまうのは、会津人であるからでしょう。聖域を踏み荒らされた過去は、跡形もなく消し去られていたのでした。
文久2年に将軍家茂の上洛にあたって編成された浪士組のうち、京都に残留したグループが会津藩預かりとなり、壬生浪士組を名乗るようになりましたが、文久三年の8・18クーデターでは、会津藩とともに御所の警備にあたり、長州藩を一掃するのに活躍したのでした。そのときから新選組と呼ばれるようになったといわれます。
それから間もなく、試衛館派の近藤勇や土方歳三が水戸派の芹沢鴨らを粛清して主導権を握り、京都守護職の会津藩配下の警察組織として、名実共に京都の治安の維持にあたったのでした。今でも語り草になっているのは、元治元年6月5日の池田屋事件ですが、その斬り込みのシーンは、何度となく映画やテレビでドラマ化されています。そして、蛤御門の変でも、長州藩と第一線で刃を交えたのでした。
その以降、200人を超える隊士を擁するようになった新選組は、京都を警備するのに、もっともふさわしい場所として、西本願寺に白羽の矢を立てたのでした。それは同時に、薩摩や長州と関係が深かった西本願寺を牽制する意味もあったといわれます。
それほど距離が離れていなかったので、タクシーを使って、三十三間堂と西本願寺の両方を拝観しました。三十三間堂は後白河上皇の勅願によって建立されたもので、全長120㍍の本堂には、約1千体の千手観音像が祀られているのでした。
私からは「その千手観音のなかには、興福寺と同じような阿修羅の像が安置されている」ことや「一心三観という言葉がありますが、過去、現在、未来をお見通しということではないですかね」ということをお話しました。
引き続いて、黒谷本山金戒光明寺へと向かい、会津藩関係者の墓地で線香を手向けました。浄土宗の名刹として知られ、比叡山で修行した法然が最初に建てた寺といわれます。
法然についてはまったくの門外漢でしたので、副住職が話をされるまでは、京都守護職時代に、会津藩が陣を張った所という認識しかありませんでした。それだけに、俄然興味を覚えてしまいました。
わざわざ黒谷という地名にしたのも、まだ18歳であった法然が、比叡山西塔の黒谷に隠棲していた慈眼房叡空の弟子となったからであり、そこで中国浄土教の大成者である善導著の『観無量寿経疏』の「一心専念弥陀名号」の文により心眼を開いたからだとか。
会津藩と黒谷との関係については、供養の読経の後に、副住職が詳しい説明をされましたので、新しい知識を色々と仕入れることができました。いくら徳川幕府でも、京都には御所よりも大きな城をつくることはできず、せいぜい二条城が精一杯でした。しかし、それでは京都を防衛することは難しいので、高台で、交通の便のよい黒谷の地を要塞化することを考えていたのだそうです。
風雲急を告げる京都に会津藩が乗り込むにあたっては、事前に準備が整っていたのでした。徳川幕府は、イザというときに備えていたのです。
黒谷のその墓地では、副住職によって読経が上げられ、参加者は一人ひとり線香をたむけましたが、会津から遠く離れたこの地で没した人たちの声が、そこはかとなく聞こえてくるような気がしてなりませんでした。
昼食は各自自由で西陣会館が予定されていましたが、そこの近くがどこもかしこも満杯だったので、小野社長のお供をすることになり、タクシーの運転手さんに案内をしてもらうことになりました。
手慣れたもので、15分ほどで、京都らしい町家が続く一角にタクシーは停まりました。玄関に入ると、着物姿の女将さんがすぐに部屋に通してくれました。そこで京料理を堪能させてもらいました。後になって調べてみると、何と私たちは、上七軒に紛れ込んだのでした。
京都観光のガイドブックである『たびまる京都』によると、「京都で最も古い花街。北野天満宮が造営された際、余りの木材で七軒の茶屋を建てたのが始まりといわれます。夕暮れ時は、軒先に吊るされた提灯に明かりが灯され、粋な雰囲気」と紹介されています。
格子戸の町屋が立ち並び、どことなく風情がありましたが、隠れた京都の名所であったのです。ともすれば祇園にばかり目が向いてしまいますが、それよりも古い京都が息づいていたのでした。
日本浪漫派のリーダーであった保田與重郎も『京あない』で、上七軒に触れています。「一番京都らしいところはどこだろうか、こころみに京都の古い土着の人々にきいてみるがよい。西陣のあたり、六角堂の附近、そういう答えの根底は、なつかしい市民生活のあり方からくる。上七軒のはかない家の二階の雨戸を開いた時の、眼の前の雪の比叡は、まことに拜むべき山であった。あまりにも美しい、王城の鎮めということばをかつて疑ったことが申訳ないと思ったほど美しい重々しい山である。見るところが大事である」。
たまたま訪れたわけですが、それも縁ということでしょう。昼食をとったその料亭も、玄関が狭くて、一番奥の部屋に通されました。廊下を踏みしめる音が、心地よく感じてなりませんでした。京言葉のようなまろやかさを帯びていたからです。
北野天満宮といえば、学問の神様である菅原道真公ですが、時間がなかったのでお参りすることはかないませんでした。しかし、八坂神社と同じように、牛の神様が鎮座されているのは、京に都が移る前からあった土俗的な信仰が、どこかにとどめているのではないか、と直感的にひらめきました。大和朝廷に統合される以前の素朴な信仰が、いくら都であっても、名を変え、形を変えて受け継がれていても、不思議でも何でもないからです。
小野社長と京料理に舌鼓を打つことになりましたが、そこのお上さんの心遣いに感心してしまいました。会津からの遠来の客に、親しく接してくれたからです。それは通り一遍のおもてなしではなく、形にのっとった心がこめられていました。