大乗仏教とか小乗仏教とかいう言い方がありますが、それを明確に区別する考え方は日本仏教特有のもののようです。『現代語訳最澄全集』全四巻を執筆された、大竹晋先生の『大乗仏教と小乗仏教―声聞(しょうもん)と声聞乗とはどうみられてきたか』を読んで、この私でも、薄ぼんやりと理解することができました。
声聞と縁覚(さまざまなものごとを縁として、独力で仏法の部分的な覚りを得た境涯)については、小乗仏教と呼ばれ、大乗仏教の利他行を重んじる菩薩とは区別されます。
大竹先生は、インドや中国では、そうした小乗仏教の教えを拒絶したのではなく、あくまでも「同じ仏教ではあるが、劣った道である」と述べるにとどまり、「声聞乗は仏教の教えではない」と切る捨てたわけではないというのです。
日本天台の開祖であられる伝教大師様の声聞乗理解が独得であったことを、インドや中国との違いから論じたのでした。声聞とは「仏の声を聞く者」という意味のサンスクリット語です。釈迦が実在しなくなってからは、その四諦(したい)の理を取得することで、阿羅漢となることをなることを目指しました。
大竹先生の本を熟読することで、まず相違点を把握することができましたが、私としては、仏教の根本的な教えを伝教大師様が無視されたわけではなく、救いを求めている人たちに、利他行により菩薩となることを、自ら念じられたのです。それが法華経を源泉として、日本の大地に根を下ろすことになったのだと思います。
いずれにしても、その根本にあるのは釈迦が説いたとされる「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」の四つの四諦(真理)です。この世の全て苦であり、それには原因があるという見方をします。そして、苦を滅するには「八正道(はっしょうどう)」が大事だというのです。「八正道」とは正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のことです。正しい見解、正しい思惟、正しい言葉、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい思念、正しい瞑想のことです。
何が正しい解釈であったかというよりも、どのようにして仏教が日本化したかを解明する上でも、大竹先生のこの本は大いに勉強になります。
合掌