会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

伝教大師と会津徳一の旅        

2010-09-03 18:35:16 | 日記

 
←武執行(左)の法話に聞き入る参加者

           伝教大師と会津徳一の旅5      

 

昼食が終わってから一行に合流し、蒲生氏郷のお墓がある大徳寺黄梅院を訪れました。普通は非公開とされているお寺ですが、会津からのお客さんということで、小林太玄住職から大変なおもてなしを受けました。

黄梅院は、織田信長が永禄5年に入洛したときに、父信秀の追善供養に建立したのが始まりといわれます。天正106月の本能寺の変で信長が討たれると、一時、豊臣秀吉がその寺に遺骸を葬ったのでした。

門をくぐると、目の前には水を打った石畳が目の前にあり、俗世界からは隔絶されたような静寂が支配していました。まずは茶室に案内されてから、抹茶をご馳走になりました。住職からお寺の説明がありましたが、千利休ゆかりの寺であることを再確認させられました。

秀吉の命により千利休が作庭した池泉式枯山水庭園が有名ですが、参加者もまたその庭に見惚れていました。まったく予備知識もなかったのですが、ついつい見入ってしまいました。

本堂前の破頭庭、本堂の北裏側の作仏庭も、枯山水の禅宗らしい趣きが感じられてなりませんでした。破頭とは、悟りへ至ることともいわれすし、作仏とは、森羅万象の全てが仏だというのを表現しているのだそうです。一幅の風景画を見るような安易な気持ちではなく、次回訪れる機会があったならば、じっくりと腰を落ち着けて、その世界に浸ってみたいと思いました。

今回の旅行の目的地であった比叡山延暦寺に到着したのは、まだ外が明るい午後4時頃でした。そこに至るまでの有料道路は、会津若松市の背あぶり山の道路を走っているような感じで、それこそ関白平にお寺が建っているというような印象を受けました。

宿泊先の比叡山会館は、モダンな建物で、一流ホテル並みの施設でしたが、早速、そこの大会議室で、武覚超(たけ・かくちょう)執行の法話が行われました。天台宗から見た徳一というテーマが取り上げられたこともあり、参加者は熱心にメモを取っていました。

武執行は叡山学院教授もなさっておられるだけに、最澄と徳一との関係についても、わかりやすく説明をして下さいました。とくに冒頭では、今昔物語に徳一が登場しているにもかかわらず、根本的な資料がほとんどないことから、「伝教大師と論争したことで後世に名をとどめることになったわけです」と述べておられました。

また、武執行は「全てのものが仏になると法華経で示されていますが、伝教大師が一番大事にされたのも、その慈悲の心なのです」と言い切られました。仏教は本来一種類の乗り物であるのに、法相宗が声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三種類の乗り物に分けたのは、天台宗からすれば方便でしかないからです。

さらに、「伝教大師と徳一の論争に決着をつけたのは、平安中期の天台宗の僧であった源信が書いた『一乗要訣』であった」ということを指摘されていました。このことについては、かいつまんでお話をされただけですが、『岩波仏教辞典』でも、源信の項目では「『一乗要訣』は長く争われてきた法相宗とと対立に終止符を打ち、天台教学の宣揚に光彩を放つ栄を担った」と書かれています。
 法話に引き続いては、国見町在住の菅野利津子さんのヴィオリラ演奏が行われましたが、オープニングの曲が「天台宗宗歌」「比叡山賛歌」だったこともあり、厳かなコンサートでした。


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