会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

伝教大師と会津徳一の旅1

2010-09-01 14:46:27 | 日記

 

 ←柴田住職から説明を聞く参加者。 一番手前が団長   
                       の小野隆市小野漆器店社長  
 

             
             

 

会津から奈良、京都に出かけるにあたっては、飛行機か新幹線を利用するのが普通ですが、今回はあえてバスを利用しました。日本海を眺めながら会津から奈良、京都までの道のりを車で走ってみたかったからです。長旅にもかかわらず、誰一人落伍することなく、徳一や伝教大師最澄の心にじかに触れる旅となりました。

伝教大師(最澄)と会津徳一の旅実行委員会が主催し、6月1日から3日までの2泊3日の日程で、会津美里町の天王寺の檀家の方々、会津経済懇話会の関係者、徳一菩薩を学ぶ会の会員、さらに、徳一に関心を持たれている県外からの参加者も含めて、合わせて34名が参加しました。

 1日目の6月1日午前時、会津若松インターから磐越自動車道に乗って、一路奈良を目指しました。早朝にもかかわらず、出発時間前に全員が顔をそろえ、お互いに「お世話になります」という元気な声を掛け合って、バスに乗り込んだのでした。

 天候に恵まれたこともあり、朝焼けの磐梯山に見送られながらの旅立ちとなりました。車内ではまず、団長で、会津経済懇話会会長の小野隆市小野屋漆器店社長からの挨拶、実行委員長の柴田聖寛会津天王寺住職からスケジュールの説明がありました。それが終わると、新潟中央インターまでの1時間は、見慣れた風景なので、大半の人たちはウトウトしていたようで、かすかな寝息すら聞こえてきました。

北陸自動車道に入ると、朝日が射しこんできて、周囲も明るくなったので、一人ひとり自己紹介をすることになりましたが、徳一と伝教大師の論争のことも話題になり、最初からかなりヒートアップ気味でした。

さらに、天台宗からは、柴田住職だけでなく、北塩原村の渡部孝田住職も参加されたので、会津地方の徳一開基の寺がほとんど真言宗になってしまっていることや、伝教大師の『山家学生式』のなかの六条式に含まれる「照于一隅、此則国宝」の言葉についても、色々と意見が出されました。原文がそうなっていることもあり、「世の中の一部分に光を与える者、これが国宝である」という意味に解されがちですが、伝教大師の直筆お文字が「照千一隅」ということから、「千(里)照らし一隅(を守る)」との解釈もあるからです。

長岡を経て上越に入ると、右手に日本海が広がってきました。白い波が突き出た岩を洗っていましたが、どこまでも穏やかな光景で、さんさんと降り注ぐ太陽の光が、ことさらまぶしくてなりませんでした。

とくに印象に残ったのは、新潟県の最西端に位置し、富山県糸魚川市振りまでの15㌔にわたって断崖が続く、親不知子不知です。北アルプスが北につきて日本海に落ちる所で、その断崖の裾を国道8号線が通っています。北陸自動車道はその上を走っていますが、車内からも、どこまでも続く渚に、白い波が寄せては崩れるのを見ることができました。

森鴎外の『山椒大夫』では、安寿と厨子王が母親と離れ離れになった場所です。中野重治は「しらなみ」と題する詩で、「ああ/越後のくに/親しらず市振の海岸/ひるがえる白浪のひまに/旅の心はひえびえとしめりをおびて来るのだ」と詠んでいます。

また、市振には、奥州の旅を終えた松尾芭蕉も立ち寄っており、「一つ家に遊女も寝たり萩と月」という句を残しています。

北陸自動車道をひた走ると、あっという間に富山、金沢、福井という都市を通過しましたが、福井県に入ってから前方に、丸岡城を望むことができました。小高い丘に立っており、柴田勝家の甥である勝豊が築造したものです。現存する天守閣としては、日本最古のものといわれており、国の重要文化財に指定されています。

それから間もなく、前方をさえぎるように山並みが迫ってきました。難所の敦賀トンネルと越坂トンネルを通り抜けると、同じ福井県でも越前と若狭というように、別な世界が目の前に拡がってきました。

そこから琵琶湖までは目と鼻の距離です。車内も活気づいてきました。湖水の東岸を南下したバスは、米原ジャンクションから名神高速道路を大津方面に。瀬田西インターチェンジの手前から京慈バイパスへ。さらに京奈道路を走行し、木津インターチェンジを経て、午後2時近くには奈良公園に到着しました。

 

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