<font size="-3">【ネタバレ】ポツネン「○-maru-」最後のコントに関する覚え書き。</font> 2006-03-04 23:41:23 | さもないこと ポツネン「○-maru-」に関して、一点だけ冷静ではいられないほど思うところがあったので、レポまとめ前に書きとめます。 以下、ポツネン「○-maru-」の完全なネタバレなので、続きはコメント欄にて。 未見の方はコメント欄を覗かないようご注意を。 しかも長いです。 重ねてご注意を。 « <font size="-3">ポツネン「○... | トップ | <font size="-3">「ポツネン... »
8 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 >はなきさま (aiwendil) 2006-03-11 08:36:19 >はなきさまもったいないお言葉。恐縮です。あのコントは「採集」&「アトムより」と並んで私にとって特別なものになりそうな予感がします。>Isfilithさまそうなんです。それ相応のラボなら問題はないのです。が、しか~し。某研究所への誘いを蹴って就職した時点である程度予想はついていましたが、ここまで引きずるとは思ってもみませんで・・・(^^;。生命には替えられないので最近は自重しておりますけれどね(^^;。 返信する >なぜか本来業務の他に研究を続ける日々。実験、... (isfilith) 2006-03-09 21:18:42 >なぜか本来業務の他に研究を続ける日々。実験、実験、また実験。気がつけば真夜中の3時過ぎだったり、実験の仕込みのためだけにわざわざ朝4時に自主出勤してみたり。徹夜もざら。ハタから見れば『おかしいんじゃないか?』という行為。私のまわりには、そういう人達が山程います。むしろ、そういう人間が一番研究に向いているのではないでしょうか(笑 返信する 言葉を失いました。 (はなき) 2006-03-08 22:07:57 言葉を失いました。同じものを同じ場所で同じ時間に観ても人はそれぞれ違う印象を持つものですよね。私もあきあかねさんのように、のどかにうるっとしながら観ていました。aiwendilさんの見解にはいつもいつも驚かされますが、今回のコントへのコメントは、全てのラーメンズファンの方に読んで欲しいと思うような、心に響く内容でありました‥。札幌では、本当にありがとうございました。aiwendilさんに出会えた事は、賢太郎さん、仁さん、久ヶ沢さんに出会えたのと同じくらい私には素晴らしい奇跡であります!ありがとうございます。 返信する >vddさま (aiwendil) 2006-03-06 01:02:44 >vddさまあくまでコントの感想という文脈の中で話しています。なので、普通の読み方をすると、ちょっとズレると思いますよ(笑)。様々な背景を持ったたくさんの人の個的な記憶を引出すことは、それだけでもう、ひとつの普遍だと思います。なので、個人的な体験を重ねて発生した感動は、個々人の中ではまぎれもない本物であって、さらに、多くの人に同時に感動を誘発させた作品も同様に何らかの真実を含んでいるのだと思います。とにかく、見ればわかる(笑)。東京公演は3月14日~21日@東京グローブ座です。参考まで。>あきあかねさまご笑覧ありがとうございます。私も、公共の場ではなく部屋でひとりで観ていたら号泣していたかもしれません(笑)。感動の涙。ある意味うれし涙です。札幌の3月3日公演では、あのラストシーン暗転後に完全な静寂が訪れました。会場中が我を忘れたかのような、ステージの世界からしばし戻って来られなくなったかのような、そんな美しい静寂でした。ふたたび明転してはじめて、堰を切ったように割れんばかりの拍手の嵐。皆が心を奪われていたんですね。今でもあの美しい静寂のことばかりが心に浮かびます。あの公演回を見られて本当によかった。忘れられない大切な記憶になりそうです。>あきさまあきさまとは、方向性こそ違えど、本質的なところでどこかつながっているように思います。それは読むことであったり、つくることであったり、おもしろがることであったり。なかでも、つくること、これは重要なポイントではないでしょうか。だから一見どんなに違うアプローチであろうと、いつでもなぜだかわかりあえるのだと思います(笑)。また寄せていただきますね(^^。ところで、液体状のマグネット!それ、実在しますよ!児玉幸子氏の「モルフォタワー」という作品では、磁性流体が利用されています。先週東京で見てきたばかりなのでニアミスなシンクロにちょっと驚きました(笑)。なお、「モルフォタワー」の動画は→こちら のページの一番下から見ることができます。ご覧あれ。 返信する コメントを拝見していろいろ思い出したり考えたり... (あき) 2006-03-05 10:24:53 コメントを拝見していろいろ思い出したり考えたりしていました恥ずかしいのでaiwendilさんのおうちでは「ありがとうございます」とだけ書いておきます(笑)拙宅BBS(最近海外からの書き込みに邪魔されて唸っておりますが)につらつら書いてみましたよろしかったらひきつづきおしゃべり、おつきあいください^^昨日は「キューブに液体状のマグネットを注入する」とかいう???な夢を見ましたふふふ、でございました 返信する aiwendilさーん、 (あきあかね) 2006-03-05 06:23:35 aiwendilさーん、グシュグシュ・・・。コメント欄を読んで泣いちゃっています。最後のコント、神戸最終日(三回目の観劇)に涙がポタポタとこぼれて、あわてました。初見は何だかホンワカと、二回目はウルッと、三回目は自覚なく泣いてしまいました。私はそんなにいろいろと深く考えられるタイプではないので、すべてになんとなく…という言葉がついてしまうのですが、あったかさと、ものがなしさと、せつなさと、でも次の朝につながる希望と。。。大好きです、あのコント。今度お会いした時は、あのコントのお話、ゆっくりしたいです、素敵なお話ありがとう。 返信する そのコントを見たことはありませんが、気になった... (vdd) 2006-03-05 01:44:04 そのコントを見たことはありませんが、気になったことが2つあるので参考に。何かと自分(の体験)を重ねて得られた感動は偽物な気がする。バカになれる何かは本物だと思う。特に探求は人間の特権ではないでしょうか。仕事だと、ついつい利益を追求されちゃうけど、そうでないなら、勝手にできる。有名になっても、需要なんかに左右されない芯念を持っていたい。最近、強くそう思うようになった。 返信する ポツネン「○-maru-」の最後のコント。 (aiwendil) 2006-03-04 23:45:53 ポツネン「○-maru-」の最後のコント。私はあのコントにいたく感動してしまったわけなのですが、思うにこのコント、何かをつくったり、追い求めたりしている(あるいはそういった経験のある)人間にはとりわけダイレクトに心に響くのではないかと思うのです。あのコントのラストシーンは、悲劇というとらえ方もできるでしょうし、本当にいろいろな解釈があることと思います。しかし私は敢えて、あれをひとつの優しくさもない奇跡ととらえたいのです。---○(まる)を追い求め、翻弄され、すべて失いつつ、それでもなお○を追い求め続ける男。究極の○を目前に、それを諦め失いかけたとき、意図せず完璧な○を生み出す。○ の息吹き。他ならぬ○からの「おやめなさい」との声。それでもなお男はあきらめてはいない。祝福のように降りしきる雪。その中で○から人形を造り出す男。○の造形。つくるということをあきらめていない。○人形と戯れ、ひとり遊ぶ男。やがて遊び疲れ、○人形の傍らに眠る男。自ら動くはずのない○人形の手が男を気遣うように動き出す。帽子をずらし、風邪を引くよ、と言いたげに肩を叩き、それでも眠ってしまった男を、優しくコートへ包むように抱き寄せる○人形・・・・-----すべて失い、何もかも諦めかけたかのような男が、それでもなお○を追い求めたこと、その強い想いへ対するひとつの答えが、ひとつの小さな奇跡として○から示されたのだと私は思いたいのです。あのときあの○人形にはまさに○が宿っていたのだと、有り体にいえば○の神様が宿っていたのだと思いたい。そして、男はそれに気付くことなく朝を迎えて、ぼやきながらまた○を追い続けるのではないかと。○の祝福を受けたことを知らぬまま、いつまでもひたむきに○を追い求め続けるのではないかと、そう思いたいのです。私にも、どうしても追い求めることを止められないものが2つあります。ひとつは、書くこと。つくること。もうひとつは、『なぜ?』と問うこと。すなわち研究。はじめの1つは完全な趣味として位置を確立しており、生活をおびやかすようなことはありません。安定した関係性を保っています。しかし、2つ目。これが曲者です。ものごころついた時から知りたがり屋でした。小学生の頃から科学が大好き。中学・高校で生物学に傾倒し、きわめつけは大学。分子生物学と、とあるテーマ・謎に出会ってしまったのが決定的でした。それ以来、科学のしもべ。就職してからも、なぜか本来業務の他に研究を続ける日々。実験、実験、また実験。気がつけば真夜中の3時過ぎだったり、実験の仕込みのためだけにわざわざ朝4時に自主出勤してみたり。徹夜もざら。ハタから見れば『おかしいんじゃないか?』という行為。自分でも、人間としてどうかと思う、そんな生活を続けて参りました。それで少し身体をこわし、今では少し研究からは距離を置いているのですが、それでもやはりどうしても研究を完全に捨てることができません。勝負する前から負けているような、いわば科学者としては『向いてない』はずなのに、それでもなお追い求めてしまう自分。まさしく「○-maru-」のコントの絵描きと通じるものがあるような気がしてしまって、どうにも冷静ではいられませんでした。私は科学の徒なので、いわゆる世界宗教的な『神』は信じていません。しかし時々ふと、『実験の神様』や『科学の神様』とでも呼ぶべきものに祈ってしまうことがあります。自分が追い求めているモノの、その先に存在する何か。崇高な何か。もしそれを『神』と、多神教的な『神』、と呼ぶのであれば、『実験の神様』も、『科学の神様』も、『○の神様』も、『コントの神様』も、個々人の持つ様々な『神様』も、みなどこかでつながっているのではないか、そう思えてなりません。そう考えると、コントの絵描きに訪れた小さな優しい奇跡は、何かを追い求める人間にとっての福音のようなものではないかと、そう思える----思いたいのです。求め続けたその想いに対する何らかのレスポンス。求め続けていいんだよ、と、示される小さな奇跡。たとえそれが、本人に気付かれなかったとしても、小さな奇跡は日々どこかに降りているのかもしれない。奇跡はきっとあなたの傍にある。そんなメッセージを、私はあのコントから勝手に感じとり、勝手に感動してしまったわけなのです。私にとっての「○」が科学であるように、小林氏にとっての「○」はコントなのではないか、あのコントに小林氏は祈りと希望を託しているのではないか、そのように思った次第です。長々失礼。おそまつ。 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
もったいないお言葉。恐縮です。
あのコントは「採集」&「アトムより」と並んで私にとって特別なものになりそうな予感がします。
>Isfilithさま
そうなんです。それ相応のラボなら問題はないのです。
が、しか~し。
某研究所への誘いを蹴って就職した時点である程度予想はついていましたが、ここまで引きずるとは思ってもみませんで・・・(^^;。
生命には替えられないので最近は自重しておりますけれどね(^^;。
私のまわりには、そういう人達が山程います。
むしろ、そういう人間が一番研究に向いているのではないでしょうか(笑
同じものを同じ場所で同じ時間に観ても
人はそれぞれ違う印象を持つものですよね。
私もあきあかねさんのように、のどかにうるっとしながら観ていました。aiwendilさんの見解にはいつもいつも驚かされますが、今回のコントへのコメントは、全てのラーメンズファンの方に読んで欲しいと思うような、心に響く内容でありました‥。
札幌では、本当にありがとうございました。aiwendilさんに出会えた事は、賢太郎さん、仁さん、久ヶ沢さんに出会えたのと同じくらい私には素晴らしい奇跡であります!ありがとうございます。
あくまでコントの感想という文脈の中で話しています。
なので、普通の読み方をすると、ちょっとズレると思いますよ(笑)。
様々な背景を持ったたくさんの人の個的な記憶を引出すことは、それだけでもう、ひとつの普遍だと思います。
なので、個人的な体験を重ねて発生した感動は、個々人の中ではまぎれもない本物であって、さらに、多くの人に同時に感動を誘発させた作品も同様に何らかの真実を含んでいるのだと思います。
とにかく、見ればわかる(笑)。
東京公演は3月14日~21日@東京グローブ座です。
参考まで。
>あきあかねさま
ご笑覧ありがとうございます。
私も、公共の場ではなく部屋でひとりで観ていたら号泣していたかもしれません(笑)。
感動の涙。ある意味うれし涙です。
札幌の3月3日公演では、あのラストシーン暗転後に完全な静寂が訪れました。
会場中が我を忘れたかのような、ステージの世界からしばし戻って来られなくなったかのような、そんな美しい静寂でした。
ふたたび明転してはじめて、堰を切ったように割れんばかりの拍手の嵐。
皆が心を奪われていたんですね。
今でもあの美しい静寂のことばかりが心に浮かびます。
あの公演回を見られて本当によかった。忘れられない大切な記憶になりそうです。
>あきさま
あきさまとは、方向性こそ違えど、本質的なところでどこかつながっているように思います。
それは読むことであったり、つくることであったり、おもしろがることであったり。
なかでも、つくること、これは重要なポイントではないでしょうか。
だから一見どんなに違うアプローチであろうと、いつでもなぜだかわかりあえるのだと思います(笑)。
また寄せていただきますね(^^。
ところで、液体状のマグネット!
それ、実在しますよ!
児玉幸子氏の「モルフォタワー」という作品では、磁性流体が利用されています。
先週東京で見てきたばかりなのでニアミスなシンクロにちょっと驚きました(笑)。
なお、「モルフォタワー」の動画は→こちら のページの一番下から見ることができます。
ご覧あれ。
恥ずかしいのでaiwendilさんのおうちでは「ありがとうございます」とだけ書いておきます(笑)
拙宅BBS(最近海外からの書き込みに邪魔されて唸っておりますが)につらつら書いてみました
よろしかったらひきつづきおしゃべり、おつきあいください^^
昨日は「キューブに液体状のマグネットを注入する」とかいう???な夢を見ました
ふふふ、でございました
グシュグシュ・・・。
コメント欄を読んで泣いちゃっています。
最後のコント、神戸最終日(三回目の観劇)に涙がポタポタとこぼれて、あわてました。初見は何だかホンワカと、二回目はウルッと、三回目は自覚なく泣いてしまいました。
私はそんなにいろいろと深く考えられるタイプではないので、すべてになんとなく…という言葉がついてしまうのですが、あったかさと、ものがなしさと、せつなさと、でも次の朝につながる希望と。。。大好きです、あのコント。
今度お会いした時は、あのコントのお話、ゆっくりしたいです、素敵なお話ありがとう。
何かと自分(の体験)を重ねて得られた感動は偽物な気がする。
バカになれる何かは本物だと思う。
特に探求は人間の特権ではないでしょうか。
仕事だと、ついつい利益を追求されちゃうけど、
そうでないなら、勝手にできる。
有名になっても、需要なんかに左右されない芯念を
持っていたい。
最近、強くそう思うようになった。
私はあのコントにいたく感動してしまったわけなのですが、思うにこのコント、何かをつくったり、追い求めたりしている(あるいはそういった経験のある)人間にはとりわけダイレクトに心に響くのではないかと思うのです。
あのコントのラストシーンは、悲劇というとらえ方もできるでしょうし、本当にいろいろな解釈があることと思います。しかし私は敢えて、あれをひとつの優しくさもない奇跡ととらえたいのです。
---○(まる)を追い求め、翻弄され、すべて失いつつ、それでもなお○を追い求め続ける男。究極の○を目前に、それを諦め失いかけたとき、意図せず完璧な○を生み出す。
○ の息吹き。他ならぬ○からの「おやめなさい」との声。
それでもなお男はあきらめてはいない。
祝福のように降りしきる雪。
その中で○から人形を造り出す男。
○の造形。つくるということをあきらめていない。○人形と戯れ、ひとり遊ぶ男。
やがて遊び疲れ、○人形の傍らに眠る男。
自ら動くはずのない○人形の手が男を気遣うように動き出す。帽子をずらし、風邪を引くよ、と言いたげに肩を叩き、それでも眠ってしまった男を、優しくコートへ包むように抱き寄せる○人形・・・・-----
すべて失い、何もかも諦めかけたかのような男が、それでもなお○を追い求めたこと、その強い想いへ対するひとつの答えが、ひとつの小さな奇跡として○から示されたのだと私は思いたいのです。あのときあの○人形にはまさに○が宿っていたのだと、有り体にいえば○の神様が宿っていたのだと思いたい。
そして、男はそれに気付くことなく朝を迎えて、ぼやきながらまた○を追い続けるのではないかと。
○の祝福を受けたことを知らぬまま、いつまでもひたむきに○を追い求め続けるのではないかと、そう思いたいのです。
私にも、どうしても追い求めることを止められないものが2つあります。
ひとつは、書くこと。つくること。
もうひとつは、『なぜ?』と問うこと。すなわち研究。
はじめの1つは完全な趣味として位置を確立しており、生活をおびやかすようなことはありません。安定した関係性を保っています。
しかし、2つ目。これが曲者です。
ものごころついた時から知りたがり屋でした。
小学生の頃から科学が大好き。中学・高校で生物学に傾倒し、きわめつけは大学。分子生物学と、とあるテーマ・謎に出会ってしまったのが決定的でした。
それ以来、科学のしもべ。
就職してからも、なぜか本来業務の他に研究を続ける日々。実験、実験、また実験。気がつけば真夜中の3時過ぎだったり、実験の仕込みのためだけにわざわざ朝4時に自主出勤してみたり。徹夜もざら。ハタから見れば『おかしいんじゃないか?』という行為。自分でも、人間としてどうかと思う、そんな生活を続けて参りました。
それで少し身体をこわし、今では少し研究からは距離を置いているのですが、それでもやはりどうしても研究を完全に捨てることができません。
勝負する前から負けているような、いわば科学者としては『向いてない』はずなのに、それでもなお追い求めてしまう自分。
まさしく「○-maru-」のコントの絵描きと通じるものがあるような気がしてしまって、どうにも冷静ではいられませんでした。
私は科学の徒なので、いわゆる世界宗教的な『神』は信じていません。
しかし時々ふと、『実験の神様』や『科学の神様』とでも呼ぶべきものに祈ってしまうことがあります。自分が追い求めているモノの、その先に存在する何か。崇高な何か。もしそれを『神』と、多神教的な『神』、と呼ぶのであれば、『実験の神様』も、『科学の神様』も、『○の神様』も、『コントの神様』も、個々人の持つ様々な『神様』も、みなどこかでつながっているのではないか、そう思えてなりません。
そう考えると、コントの絵描きに訪れた小さな優しい奇跡は、何かを追い求める人間にとっての福音のようなものではないかと、そう思える----思いたいのです。
求め続けたその想いに対する何らかのレスポンス。
求め続けていいんだよ、と、示される小さな奇跡。
たとえそれが、本人に気付かれなかったとしても、小さな奇跡は日々どこかに降りているのかもしれない。
奇跡はきっとあなたの傍にある。
そんなメッセージを、私はあのコントから勝手に感じとり、勝手に感動してしまったわけなのです。
私にとっての「○」が科学であるように、
小林氏にとっての「○」はコントなのではないか、
あのコントに小林氏は祈りと希望を託しているのではないか、そのように思った次第です。
長々失礼。
おそまつ。