はざまの庵

分類し難い存在を愛でる覚え書き by aiwendil お気軽にコメントをどうぞ。

東京遠征12/2。

2006-12-06 15:49:15 | アートなど
諸般の事情(笑)により記事が遅くなりましたが、とりあえず忘れないうちにアップ。
先週の土曜12月2日は、東京で展示会1つと芝居を1ステージ観て参りました。

まずは、横浜新港地区で開催されていた「OPEN STUDIO Vol.3  おもしろさへの焦点」。東京芸術大学大学院映像研究科のメディア映像専攻における、ラボ公開を兼ねた制作・研究発表イベントです。
今回は、5月のVol.1、7月のVol.2を経た第3回目の開催。
校舎を使って一般に制作物を公開するという意味では前回同様ですが、制作物の位置づけが前回とは大きく異なりました。展示物はいずれも16人の学生さんたちそれぞれが作家として制作した自分の作品。つまり、一人ひとりが独自のテーマを自ら発案し取り組んだ成果が展示発表されているということになります。
そのようなコンセプトだけあって、今回は作品も多様。さらにテーマ自体が作家本人の中から生まれたものなので、当然の帰結として作品にも個性が表れていて、その点が非常に面白く感じられました。
シンプルで鋭かったり、壮大だったり、微笑ましかったり。
そしてなにより、科学研究の中間発表とは違って、経過報告ではなく作品としての提示を求められるのがこの分野のシビアなところだと感じました。科学以上にハイペースで走り続けているその姿勢にはただただ感心するばかりです。
以下、作品覚え書きと、敬意を表して勝手にコメント&感想。

1 津田道子氏「風画@新港」:エントランスに設置された作品。風除室に生じた気流によって感知ファンが揺れ、その動きと連動してディスプレイ上に線が描画される作品。設置場所によって反応がまったく違ってきそうなのが想像され、別位置での稼働を観てみたくなりました。
2 小佐原孝幸氏「抽出と欠如」:OPEN STUDIOのポスターにも使用されている、写真を加工した作品群。鉄塔の支柱や自転車のフレーム、ビール瓶など日常目にする風景を対象に、あるべきものの一部を消失させた画像プリント11作品。規則性をもった物体の一部を欠損させるだけであれだけの心象を惹起できることに驚きました。鉄塔や観覧車のモチーフでは、なぜだか見ているだけでドキドキしてしまうほど。タクシーとそろばんのモチーフには、「不在」というものを強烈に感じさせられました。作品形態は全く異なりますが、なぜかボルタンスキーの作品を連想しました。ビール瓶、そしてプリングルスは、手法こそ他の8作品と一緒ですが、欠如ではなく消去法による抽出に主眼を置いた作品のように思えました。ロゴやラベルの存在をこれほど強烈に感じさせる手法があるとは驚きです。殊にプリングルス。思わず笑ってしまいました。あの行列は最強だと思います。個人的にとても好きな作品群です。
3 山峰潤也氏「テマエトオク」:広い部屋に対面して設置された2脚の椅子。奥の1脚は床に投影された白い線で視覚的に区画されている。音声の流れるヘッドホンを装着し、区画されたほうの椅子へ座ると音が遮断されたかのようにヘッドホンの音声が途切れる。 というインスタレーション。まるで目に見えない防音室があるかのように感じられる効果が面白い。防音される椅子が入れ替わればもっと面白そうだなあと夢想してしまいました。
4 坂本洋一氏「私と神様と王様」:広い部屋の床に42個×32個ほどの白いドットが10cm程度の等間隔で投影され、3m×4mほどのエリアを形成している。その中に、ドット7マスぶんほどの大きさの白い正方形があり、鑑賞者が踏もうとするとパッと位置を変えて逃げてしまう。いくらがんばっても踏むことはできない。(神様)
 次の部屋に行くと、さきほど動き回っていたエリアがカメラを通してモニタに映し出されていて、さらにそこではエリア内の正方形を動かすことができるようになっている。正方形を踏もうとする鑑賞者をモニタで見ながら、じつはこんなところで操作が行われていた(かもしれない)、というインスタレーション。(王様)
 「神様」と「王様」の関係性がとても面白いと思いました。あらかじめ決まっていてどうしても無理なこと、すなわち、法則による制約かと思っていたものが、実は恣意的に操作され演出された「無理」だったかもしれないという構造。被験者が置かれている状態は同一なのに、その意義が全く異なってしまう可能性。壁で隔てられた秘密を開示することにより、一種の驚きとともにその概念を提示する手法はとても意義深いものだと思います。
 作品の本質とは関係ない話ですが、もしも大勢の人々が映写エリアに大挙して押し寄せたら逃げる正方形はどうなってしまうのか? 逃げ場を失わないのか? という素朴な疑問が浮かびました。気になるところです。
 子どもの集団に遊ばせてみたい作品だなと思いました(笑)。
5 木村奈緒、重田祐介両氏の合作「ヒトケイ」:どこにでもありそうな、シンプルな形の壁掛け時計。ところが、時計としてはありえないような突飛な動きで針が動いてしまう。という作品。時計であって時計でない、まさに非時計。
 はじめに目にした時はたまたま動きが止まっていて、しかも偶然に正しい時間を指していたので、作品の意味がわからず不審に思っていたところ、展示を一周した後に再び見に行って衝撃を受けました。挙動不振な時計の様子は、狂気的でもありますが、ある意味ユーモラスで、その動きを見た時は思わず笑ってしまいました。不規則で痙攣的な動きはどこか生物的でもあるように感じられました。印象深い作品です。
6 米沢慎祐氏「Monster」:左右二つに並んだディスプレイ。黒い背景の中、それぞれに目玉のような映像が一つづつ浮かんでいる。鑑賞者が前を通ると、視線で追うように目玉が動き、近づくと、注視するように目玉が大きくなる。その様子がまるで巨大な生物がこちらを見つめ返しているように感じられる。さらによく見ると、目玉の中の瞳孔部分に、鑑賞者の姿が映像として映り込んでいるのが見える。という作品。瞳の中への像の映り込み現象をよく観察しているなあと思いました。鑑賞者の動きが作品の挙動に影響を与え、さらに鑑賞者の動きそのものが作品の中に映像として反映されているという2重のインタラクションも面白い。目玉をモチーフにしている時点で、作品が生物じみた要素を帯びたものになることは明白。一歩間違えれば気味悪さや不快感が生じそうなところを、どこかとぼけたユーモラスなモンスターに仕上げているところが絶妙だと思います。子どもたちの反応が見てみたい作品です。
7 越田乃梨子氏「二画面による実験」:左右に分割されたひとつづきの映像によって、位相のねじれを表現した作品。奥行きを逆転させた映像間をボールや人が動くことで、形容し難い騙し絵的効果が生じ、見る側を翻弄します。その不自然さに一度気付いてしまうと、思わず目を奪われて見入ってしまう作品だと思いました。後出する同氏の作品に通じるものが感じられ、位相のねじれが越田氏のテーマのひとつなのかなと想像されました。
8 津田道子氏「camera>TV on cart」:壁に描画された円。それを撮影するカメラA。その映像を写し出すTVモニタA。そのモニタを撮影するカメラB。その映像を写し出すTVモニタB。カメラAとモニタAは同じカートの上に搭載されており、壁に対してX軸方向に平行に移動する。そのため、円に対してカメラは動いているが、カートの動きが相殺され、モニタA上の円はモニタ上をスライドしながらも、まるで慣性によって一点に滞空しているごとく固定されて見える。それゆえ、床に固定されたカメラBは常にモニタAに映った円を中心にとらえることができ、結果として、別の棚に固定されたモニタB上には、元の壁同様静止している円が写し出される。というインスタレーション作品。
動いているのに動いていない。動いていないとされる場合の観測基点をどこに据えるかで「動き」の関係性が変化してしまう。そういった構造の面白さを見事に露呈させた作品だと思います。
このような構造をどこかで見たことがあるような気がしていたものの、観賞中には思い出せず気になっていましたが、帰宅途中に思い出しました。慣性を利用した免震構造に似ているのです。
他にもまだ意識の底に引っかかる類似構造があったような気がして気になっています。しばらくの間、宝探しのお題として楽しめそうです(笑)。
9 佐藤哲至氏「情報コミュニケーションの考察と実験」:情報コミュニケーションという事象そのものを要素還元し、一般解として提示してゆこうとする壮大なテーマの研究プロジェクトを、文章および例示実験作品としての星座描画システムで表現した研究展示。テーマが広く、しかも根源的である性質上どうしても抽象的になりがちな主題を、具体的なシステム作品と併存提示することで両者を架橋したのかなと想像されました。プロジェクトが立体的になるいっぽうで、テーマと作品両者の位置づけに少なからぬギャップが生じるおそれもはらんでおり、バランスの取り方が難しそうだとも感じました。展開によっては非常に興味深く有意義な研究になるものと予想され、今後がとても楽しみです。
10 河内晋平氏「映像を用いた、伝統工芸における質の判断力の研究」:伝統工芸等の製作過程における、言語では伝達し難いにもかかわらず確実に共有されている『美意識』や『質』の判定基準が、同一文化グループの中で生成されているという仮定のもとに、それらの基準の生成機構を分析し、かつ、他者との共有が可能となるような視覚的手法(たとえば映像化など)を構築する、というプロジェクトの基礎研究。第1段階として、研究対象とした刀鍛冶職人へのビデオアナリシスを用いたインタビューから得られた知見をパネルにまとめたものを展示。さらに、インタビューの映像をサンプル展示。
 研究上の問題点として挙げられていた「『質』の判断意識を聞くべきが『技術面』の問題に話題がスライドしてしまう」という現象は、じつは質と技術が不可分に結びついているが故のものなのではないかと感じ、興味深く思えました。質と技術と美の判断基準との関係性を掘り下げたら面白いのではないか、また、それらにはいずれも身体性が関与しているのではないかと勝手に考えて面白がってしまいました。また、解析対象として挙げられていた「ある瞬間に突然『わかる』」という体験は、工芸職人に限らず技術屋であれば少なからず誰しも経験があるもののような気がして興味深いです。現状では作業量をこなすことで突然訪れるあの『わかる』瞬間を確実に伝えることができたなら、どんなにかいいだろうと思います。色々な意味で今後の展開が気になるテーマです。
11 渡辺水季氏「焦点距離」:スクリーンにプロジェクションされたピントの甘い林檎の映像。プロジェクタの隣に大きな虫眼鏡が置かれていて、『これでピントの合う場所を探してください』と注意書きが添えられている。鑑賞者は虫眼鏡のレンズを手に取ってあちこち試してみる、という作品。
 虚像と実像の関係性で、レンズを腕いっぱい遠く離してスクリーンの映像を反転すれば良いのかと思って見ていたら、じつはプロジェクタの光をレンズに通すことで、写像の一部分だけ焦点を合わせることが出来るというのが正解だったようです。ちょっと気付きませんでした。
12 井高久美子氏「顔」:モニタに写し出された人間の顔。静止画像かと思いきや、目などのパーツが徐々に変わってゆき、それによって顔の表情が変化する、という作品。
 一部の変化が全体の印象を左右するのが面白く感じられました。前の週にビル・ヴィオラを観たばかりだったので、手法は異なりますが、ヴィオラのスローモーション作品を思い出しました。
13 小野崎理香氏「door」:同じ線分が背景との相対性により次々と意味を変えてゆくシンプルなアニメーション作品。抽象と具象の間で、どことなくユーモラスな世界が展開するさまが微笑ましい。
14 越田乃梨子氏「箱の中」:白い箱の上に写し出された映像作品。真っ白な部屋の角に白い箱と椅子が据えられ、その中に白い立方体を持った女性が座っている。アングルが部屋の角から角へスライドしてゆくたびに、人物の位置と重力方向が入れ替わってゆく。さらに、人物の持つ立方体にズームアップした映像が再びズームアウトすると、それが部屋の角に置換されている。というだまし絵的作品。
 同じ構造物=画面  における重力方向が変化するという意味で、エッシャーの「相対性」という作品を思い出しました。また、凸面→凹面という位相の置換も、だまし絵としてはよく目にする概念ですが、しかし、それを実写映像として具現化していることにとても面白みを感じました。
 ホワイトアウトしそうな、ある種幻想的な淡い画面も印象的。大きな白い部屋に投影したり、逆に、小さな箱の中に映像を仕込んで覗き眼鏡箱的な形態にしたら面白そうだなと夢想してしまいました。
15 安本匡佑氏「桐山研究室公開」:ラボ公開を兼ねて、安本氏の手がける3作品を展示したもの。作品名を見てくるのを忘れてしまいましたが、前回も展示されていた「彩二式」を発展させた作品や、空間上に情報を配して読み出せるようにするためのプロジェクトなど、実用性と密接に結びついた技術作品が主体であったように思います。
16 重田佑介氏「コレクターに聞いてみた」:対面する壁2面に投影した部屋の映像が、部屋の主らしきインタビュー音声に合わせて顔のようにゆがんで喋る、というインスタレーション作品。
 天井まで壁一面を埋め尽くした書籍やビデオのあふれる部屋が、その主の声とともに喋るさまは、まるで部屋自体が意志を持ち、あるじと一体化したような印象を与えます。人格の拡張としての部屋、という概念が端的に表現されていたような気がしました。
17 牧園憲二氏「shutter change」:写真を加工した作品群。写真の中の一部に位相のズレや、モチーフの増幅、そして、対象を限定したtime extention的な効果を盛り込んだ20作品。いっけん、小佐原氏の「抽出と欠如」と似通った形態であるように見えますが、テーマとしては明らかな方向性の違いを感じました。日常のエアポケットのような画が満載なのが印象的です。
18 牧園憲二氏「上と下と左と右と斜め」:二つの正方形が左右並んで映写されている。正方形の中には赤白青白赤白青・・・と規則的に並んだ斜線模様が描かれていて、それらの模様が右側は右へ、左側は左へとスライドしている。映写された模様をさまざまな形のフレームで切り取ると、思いもよらぬ視覚効果が得られる。というインスタレーション作品。
 古典的な、理容所マークを彷彿とさせるものから上下の動きを知覚させるものまで、シンプルなしくみながら新鮮な驚きを味わいました。斜線は偉大です。
19 津田道子氏「TV in TV」:暗いテレビモニタに鏡像として映り込んだ自分を映すカメラの映像が、会場のモニタに写し出されていて、そのモニタには鑑賞者もまた鏡像として映り込む、という構造の面白さを提示した作品。
 制作者と鑑賞者を作品の中で同じディメンジョンに存在させる、という意味で、形態は違えど藤幡氏の『モレルのパノラマ』と同様の構造を実現しているように思いました。あれだけシンプルながら実に見事だと思います。

この他、実際に制作者に質問をしたりお話をうかがったりすることもでき、じつに楽しく密度の濃い時間を過ごすことができました。感謝。
今回のOPEN STUDIOを通じて強く感じたのが、こうしていろいろなことを考え、実践し、具現化させてくれている人々がいるという事実のありがたさです。多くの若者たちが真摯に向き合っているその現実に触れ、とても頼もしく感じました。
アートの担う役割というものは複層的で、一筋縄ではゆかないものだと思います。しかし、だからこそ多様な表現が存在する意義があり、またその表現が文化全体に影響を与え得る可能性も生ずるのだと思えます。
表現のために走り続けるその先に、学生さんたち各自の目指す面白さが実現されることを願ってやみません。
次回のOPEN STUDIOが今から楽しみです。


さて、次に、下北沢本多劇場で上演されていたサモアリナンズの「昔の侍」19時公演を拝見しました。
2年前の「AB男」後初の、サモアリ復活公演です。
妖刀を巡る事件に巻き込まれた用心棒とその周辺を描いた物語なのですが、物語の内容やあらすじはもはや無意味。
馬鹿馬鹿しさへの全力投球と小松氏の素笑い、戦略的に組まれた肩すかしと挑発と脱力の応報は、見ていて清々しさを感じました。
後方席で俯瞰するように見ていてもこれですから、間近で見ていたら一体どんなことになっていたのか、想像するだに面白いです。
カオスと即興とナンセンスに宿る普遍。
これからもずっとサモアリナンズがサモアリナンズでありつづけることを願ってやみません。


この日は他にも、OPEN STUDIOの会場に来場していたメディアアーティストの方にお会いしたり、サモアリ観劇後に大勢の方とお会いしたりと盛りだくさんでした。
多種多様なものをたくさん見たり、いろいろな人に会っていろいろな話をしすぎて、情報処理が追いつかないような不思議なくらくら感を味わいました。
実に充実した東京遠征第1日目。
人間の創造性と多様性に感謝。


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2 コメント

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ご無沙汰しております。東京芸大メディア映像専攻1... (佐藤哲至)
2013-04-13 03:45:27
ご無沙汰しております。東京芸大メディア映像専攻1期修了生の佐藤哲至ともうします。本日から1ヶ月ほど越田らと展示を行っています。「幽体離脱しちゃったみたい。」という展示です。もし、東京遠征の際にでもタイミングが合えば、お立ち寄りくださいませ。
詳しくはtensenmen.comをごらんください。
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ご無沙汰しております。東京芸大メディア映像専攻1... (佐藤哲至)
2013-04-13 03:47:38
ご無沙汰しております。東京芸大メディア映像専攻1期修了生の佐藤哲至ともうします。本日から1ヶ月ほど越田らと展示を行っています。「幽体離脱しちゃったみたい。」という展示です。もし、東京遠征の際にでもタイミングが合えば、お立ち寄りくださいませ。
詳しくはtensenmen.comをごらんください。
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