<font size="-3">【ネタバレ】ポツネン「○-maru-」の特性。</font> 2006-03-23 23:58:56 | さもないこと 私は今回の「○-maru-」という公演をいたく気に入ってしまったわけなのですが、「satellite : pungency」の森羅さまの記事(→こちら【ネタバレ注意】)を読んで、なぜ自分がこれほどこの公演に反応してしまうのか、その理由に思い到りました。 以下ネタバレなので、続きはコメント欄にて。 « <font size="-3">メンテナン... | トップ | <font size="-3">KKP#5「TAKE... »
6 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 以前、親族代表の舞台観賞時に感じた疑問がありま... (aiwendil) 2006-03-24 00:08:10 以前、親族代表の舞台観賞時に感じた疑問がありました。それが、「佐藤雅彦氏の言う『悪意の無い表現』は笑いの世界でも可能か?『悪意の無い笑い』は成立するか?」という疑問です。(参照記事→こちら )いっけん不可能に思えたこの命題。しかし、この命題へのひとつの答えが今回の「○-maru-」で示されているのではないか。私にはそう思えます。「○-maru-」という作品には悪意がまったく無いわけではありませんが、明らかな悪意はとても少なく、コントによっては悪意の無い世界の構築に成功しているように思えます。つまり、「○-maru-」は『悪意が無くても面白い表現が作れる』という事実を提示しているように思うのです。モンティ・パイソンのように攻撃的で悪意を最大限に利用した笑いも好きではありますが、それでもやはり、悪意の無い笑いがあるのであれば、そちらのほうがより本質的な感動に近い笑いではないかと私は思います。「ピタゴラスイッチデラックス」の『フレーミーのうた』で私が予期せず感動してしまったのは、それが悪意の無い世界の体現だったからです。それと同様に、「○-maru-」が極力悪意を用いないで笑いを構築しているから、だから私はこんなにもこの公演作品に反応してしまっているのではないかと、そう思えます。こう気が付いてとても腑に落ちました。『悪意』というキーワードを思い出させて下さった森羅さまに感謝です。 返信する はじめまして。お邪魔します。 (hare_1979) 2006-03-24 02:13:24 はじめまして。お邪魔します。なるほど!悪意の無い世界・・・そうかぁ。「○-maru-」一回の鑑賞でどうしてこんなに引き込まれたのか、充たされたと思ったのか。フレーミーは何か素敵で愛おしく思う、その「何か」ってなんだろう?と考えてました。答えが見えた気がします。 返信する ただ今福岡より帰りました。 (hama) 2006-03-25 23:05:41 ただ今福岡より帰りました。あの、答えですが・・・・。ちょっと長方形でしたが、末広がりのすり鉢上の会場でした。理想としては、もっと扇形っぽくなってほしかったけど、規模などを考えると福岡としてはあれが限界だったのではないかな、と。おしいっ、って感じがします。それと、舞台について、本当にご意見共感します。福岡初日を観て、私は最後の○で涙涙でして。3日間、泣いてしまいました。すぐ泣いてしまう泣き上戸ということもあるのですが、私個人的な悩みを慰められているような、そんな錯覚も起こしてしまって、涙してしまいました。それくらい、優しさ、せつなさ、暖かさを感じさせる舞台でした。賢さんの持ってるヒューマンさ、というのでしょうか、それが本当に前面にでた舞台だったように思えます。確かに、攻撃的な笑、というのもおもしろく思います。なんか、ある雑誌で黒い笑いがおもしろい、というのもわかるのですが、何か笑ってて心が切り裂かれるような気がしてならないことが、時々あるのです。でも、今回の○は、こんなこというとおかしいのかな、と思うのですが、子供と一緒に観たい〔本当に子供がいるわけではありません〕、と思わせる○でした。 返信する トラックバックありがとうございました。 (森羅) 2006-03-26 02:00:54 トラックバックありがとうございました。自分の言葉が伝わって、新しい広がりができてくことに、改めて感激しています。本当にブログを始めて良かったです!『○-maru-』では、話が「悪意」に転がりそうになるけど、すっとそこをよけて展開していったように感じました。そして今にして、本当に「○」かったのは、作者の小林さんが「世界を見る視点」だったんじゃないのかなぁ、と思っています。 返信する はじめまして。神戸初日観劇後からなんとなく抱き... (粟) 2006-03-26 22:36:18 はじめまして。神戸初日観劇後からなんとなく抱き続けていた印象をすんなりとコトバになさっている方々のコメントを拝見し、大きく肯いてしまいました。≪話が「悪意」に転がりそうになるけど、すっとそこをよけて展開していったように・・・≫そうなんですよね。私が引っ掛かったのは、「足音のコント」に出てくる蛙・・・膨らまされて飛ばされても平気でちゃんと元気に生きている・・・というところ。逆の解釈もあるでしょうが、わたしはこれも悪意の回避だと感じる(そう思いたい)んです。以前、ある対談記事で「最後には悪役もいい人だったっていうのは、無条件で泣きます」と語ってらっしゃいましたが、今回の「○-maru-」は小林氏のそういう心向きが実にわかりやすく表れていたように思います。それから本当に「子供と一緒に観たい」と感じるとともに、大人になった自分が「子供の頃の自分に観せたかったな」と思えるような、そんな作品でした。 返信する >hare_1979さま (aiwendil) 2006-03-27 01:26:51 >hare_1979さまはじめまして。ようこそお越しくださいました!なるほど、hare_1979さまも似たように感じられたんですね。佐藤氏の表現が持つ幸福感を、小林氏も踏襲しているのかなと考えるととても嬉しくなります。これは私の勝手な思い入れではありますが、解釈の一助となれば幸いです。>hamaさま福岡遠征お疲れ様です(^^。ももちパレスは末広がりのすり鉢状!はは~ん、それはおそらく「かでる2・7」ととても近い構造だと思います。となると、仮説は棄却されないことになりますね(笑)。少しほくそ笑んでしまいました(^^。(何のことかわからない方は→こちら を参照)今回の作品は、何かを追い求めたり、何かに夢中になったりしたことのある人間にとっては、とりわけ心に響く内容ではなかったかと思います。作ることへのひたむきさのようなものを感じました。ところで、面白いことにhamaさんとまったく同様の感想を書いてらっしゃる方がいるんですよ(笑)。『裏番長のおやつ部屋』のumeさまの記事→こちら私も『子供たちに見せたいなあ』と思いましたし。そういう意味でも間口の広~い公演だったのかもしれませんね。>森羅さま佐藤氏の言葉を聞いて以来、私にとって『表現の中の悪意』はけっこう重要な問題だったので、『笑いと悪意』問題の解答が他ならぬ小林氏から提示されたことに少なからぬ感動を覚えました。まあこれは、私の勝手な思い入れなのですが(笑)。私も、今回の公演は何から何まで丸かったんではないかと思います。会場も、視点も、言葉も、モチーフも。丸にこだわり抜いた作品、それが「○-maru-」なのかもしれませんね。ブログの担う有機的なつながりには瞠目すべきものがあると思います。使い方によっては思いがけないほど有意義なものとなるはず。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。>粟さまはじめまして。ようこそお越しくださいました!あのカエルについては、私は『悪意を越えるもの』としてとらえています。私が観た公演回では、小林氏はカエルを飛ばした後に邪悪に笑っていました。しかし、その悪意に満ちた意図を越えてカエルが動き出した時の表情。そこに私は悪意の敗北を感じました。あの場面が可笑しいのはきっとその「悪意の敗北」によるものだと思うのです。その前ではいかなる悪意も無力化するような、そんな存在を、今回の公演で小林氏は描いていたようにも感じます。いろいろ想像の余地のある公演だけに、想像力豊かな子供たちはどう捉えるのか、子供の頃の自分に見せたらどうだったか・・・それはとても興味深い命題ですね(笑)。自分だったらとりあえず、小細工を真似しようとしただろうことは想像に難くないです(笑)。振り返っても、その点は昔からちっとも変わってないなと思います(^^;。皆さまはどんな子供だったのでしょう?思いを馳せるのもまた一興ですね(^^。 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
それが、「佐藤雅彦氏の言う『悪意の無い表現』は笑いの世界でも可能か?『悪意の無い笑い』は成立するか?」という疑問です。(参照記事→こちら )
いっけん不可能に思えたこの命題。
しかし、この命題へのひとつの答えが今回の「○-maru-」で示されているのではないか。私にはそう思えます。
「○-maru-」という作品には悪意がまったく無いわけではありませんが、明らかな悪意はとても少なく、コントによっては悪意の無い世界の構築に成功しているように思えます。
つまり、「○-maru-」は『悪意が無くても面白い表現が作れる』という事実を提示しているように思うのです。
モンティ・パイソンのように攻撃的で悪意を最大限に利用した笑いも好きではありますが、それでもやはり、悪意の無い笑いがあるのであれば、そちらのほうがより本質的な感動に近い笑いではないかと私は思います。
「ピタゴラスイッチデラックス」の『フレーミーのうた』で私が予期せず感動してしまったのは、それが悪意の無い世界の体現だったからです。
それと同様に、「○-maru-」が極力悪意を用いないで笑いを構築しているから、だから私はこんなにもこの公演作品に反応してしまっているのではないかと、そう思えます。
こう気が付いてとても腑に落ちました。
『悪意』というキーワードを思い出させて下さった森羅さまに感謝です。
なるほど!悪意の無い世界・・・そうかぁ。
「○-maru-」一回の鑑賞でどうしてこんなに引き込まれたのか、充たされたと思ったのか。
フレーミーは何か素敵で愛おしく思う、その「何か」ってなんだろう?と考えてました。
答えが見えた気がします。
あの、答えですが・・・・。ちょっと長方形でしたが、末広がりのすり鉢上の会場でした。理想としては、もっと扇形っぽくなってほしかったけど、規模などを考えると福岡としてはあれが限界だったのではないかな、と。おしいっ、って感じがします。
それと、舞台について、本当にご意見共感します。福岡初日を観て、私は最後の○で涙涙でして。3日間、泣いてしまいました。すぐ泣いてしまう泣き上戸ということもあるのですが、私個人的な悩みを慰められているような、そんな錯覚も起こしてしまって、涙してしまいました。それくらい、優しさ、せつなさ、暖かさを感じさせる舞台でした。
賢さんの持ってるヒューマンさ、というのでしょうか、それが本当に前面にでた舞台だったように思えます。
確かに、攻撃的な笑、というのもおもしろく思います。なんか、ある雑誌で黒い笑いがおもしろい、というのもわかるのですが、何か笑ってて心が切り裂かれるような気がしてならないことが、時々あるのです。でも、今回の○は、こんなこというとおかしいのかな、と思うのですが、子供と一緒に観たい〔本当に子供がいるわけではありません〕、と思わせる○でした。
自分の言葉が伝わって、新しい広がりができてくことに、改めて感激しています。
本当にブログを始めて良かったです!
『○-maru-』では、話が「悪意」に転がりそうになるけど、すっとそこをよけて展開していったように感じました。
そして今にして、本当に「○」かったのは、作者の小林さんが「世界を見る視点」だったんじゃないのかなぁ、と思っています。
≪話が「悪意」に転がりそうになるけど、すっとそこをよけて展開していったように・・・≫
そうなんですよね。私が引っ掛かったのは、「足音のコント」に出てくる蛙・・・膨らまされて飛ばされても平気でちゃんと元気に生きている・・・というところ。逆の解釈もあるでしょうが、わたしはこれも悪意の回避だと感じる(そう思いたい)んです。
以前、ある対談記事で「最後には悪役もいい人だったっていうのは、無条件で泣きます」と語ってらっしゃいましたが、今回の「○-maru-」は小林氏のそういう心向きが実にわかりやすく表れていたように思います。
それから本当に「子供と一緒に観たい」と感じるとともに、大人になった自分が「子供の頃の自分に観せたかったな」と思えるような、そんな作品でした。
はじめまして。ようこそお越しくださいました!
なるほど、hare_1979さまも似たように感じられたんですね。
佐藤氏の表現が持つ幸福感を、小林氏も踏襲しているのかなと考えるととても嬉しくなります。
これは私の勝手な思い入れではありますが、解釈の一助となれば幸いです。
>hamaさま
福岡遠征お疲れ様です(^^。
ももちパレスは末広がりのすり鉢状!
はは~ん、それはおそらく「かでる2・7」ととても近い構造だと思います。
となると、仮説は棄却されないことになりますね(笑)。
少しほくそ笑んでしまいました(^^。
(何のことかわからない方は→こちら を参照)
今回の作品は、何かを追い求めたり、何かに夢中になったりしたことのある人間にとっては、とりわけ心に響く内容ではなかったかと思います。
作ることへのひたむきさのようなものを感じました。
ところで、面白いことにhamaさんとまったく同様の感想を書いてらっしゃる方がいるんですよ(笑)。
『裏番長のおやつ部屋』のumeさまの記事→こちら
私も『子供たちに見せたいなあ』と思いましたし。
そういう意味でも間口の広~い公演だったのかもしれませんね。
>森羅さま
佐藤氏の言葉を聞いて以来、私にとって『表現の中の悪意』はけっこう重要な問題だったので、『笑いと悪意』問題の解答が他ならぬ小林氏から提示されたことに少なからぬ感動を覚えました。
まあこれは、私の勝手な思い入れなのですが(笑)。
私も、今回の公演は何から何まで丸かったんではないかと思います。
会場も、視点も、言葉も、モチーフも。
丸にこだわり抜いた作品、それが「○-maru-」なのかもしれませんね。
ブログの担う有機的なつながりには瞠目すべきものがあると思います。
使い方によっては思いがけないほど有意義なものとなるはず。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
>粟さま
はじめまして。ようこそお越しくださいました!
あのカエルについては、私は『悪意を越えるもの』としてとらえています。
私が観た公演回では、小林氏はカエルを飛ばした後に邪悪に笑っていました。
しかし、その悪意に満ちた意図を越えてカエルが動き出した時の表情。そこに私は悪意の敗北を感じました。
あの場面が可笑しいのはきっとその「悪意の敗北」によるものだと思うのです。
その前ではいかなる悪意も無力化するような、そんな存在を、今回の公演で小林氏は描いていたようにも感じます。
いろいろ想像の余地のある公演だけに、想像力豊かな子供たちはどう捉えるのか、子供の頃の自分に見せたらどうだったか・・・それはとても興味深い命題ですね(笑)。
自分だったらとりあえず、小細工を真似しようとしただろうことは想像に難くないです(笑)。
振り返っても、その点は昔からちっとも変わってないなと思います(^^;。
皆さまはどんな子供だったのでしょう?
思いを馳せるのもまた一興ですね(^^。