Ⅰ.温暖化論に隠されたウソと真実
——社会主義革命を希求するリベラリストの暗躍 :231129情報
1980年代後半に突如台頭した「地球温暖化論」。社会主義が没落した今、温暖化規制論こそが統制社会を生み出すカギになるようです。
今日は、「 地球温暖化説こそは形を変えた社会主義革命だった」と説く、国際政治学の解説を引用します。
温暖化論は単なる方便
地球温暖化が全くの虚構であることは、明々白々である。
なぜ、 このような嘘が正々堂々とまかり通り、日本政府を含む各国政府は「地球温暖化防止」と称して毎年、 膨大な予算を支出しているのか。
全くの無駄遣いであるどころか、本来の経済成長を阻害する支出である。 世界全体が「CO2真理教」というカルトにとり憑かれて、集団自殺をしているように見受けられる。なせ、このようなことになってしまったのだろうか。
様々な答えがあるだろうが、歴史的・マクロ的に見ると、「地球温暖化を看板に掲げた経済規制論は、形を変えた社会主義革命だ」というのが、筆者の主張である。自由経済を圧殺し、統制経済を実現する—その為の方便として地球温暖化論が使 われているのだ。それが現実の背後 にあるトリックである。
70年で滅びたソ連社会主義 1917年、ロシア革命によって 誕生したソビエト連邦は、1991 年に崩壊した。社会主義は、豊かな 社会をつくることも出来ず、個人の 自由を尊重する社会をつくることも 出来なかった。
第2次大戦後、ソ連は世界の覇権国の1つとして君臨した。米ソ冷戦時代である。この時、ソ連ははるかに経済力や軍事力に勝るアメリカに対抗し、また社会主義陣営の雄であったが、最終的には2つの理由で崩壊する。第1は非効率な経済、第2は自由を求める一 般市民の反乱で ある。
ソ連崩壊の2年前、1989年に は既に社会主義陣営の敗北は誰の目にも明らかになっていた。ベルリン の壁が崩壊し、東西ドイツは統一への道を歩み始め、東ヨーロッパの社会主義国も次々にドミノ倒しのように崩壊していった。ソ連内でも共産党独裁による政治体制は自由を求める人々の声によって覆されていった。
そして91年、遂にソビエト連邦という国家自体が崩壊した。ソ連は共産党一党独裁国家であったが、形式的には15の共和国の連邦国家であった。その建前が現実となり、ソ連は 15の共和国に分裂してしまったのである。米ソ冷戦においてソ連は敗北したのだ。
この時、絶望したのはソ連共産党の指導者たちばかりではない。世界中の左翼活動家、社会主義にシンパシーを持っている人々は、強烈な敗北感を味わった。そして彼らの左翼運動をどのように再組織化するかで 頭を悩ませた。
世界中の左翼勢力は濃淡の差こそ あれ、地球上で初めて社会主義国家を実現したソ連にシンパシーを抱いていた。一部の極端な新左翼は、ソ連邦を社会帝国主義として攻撃した が、それでも社会主義の原理そのものには反対しなかったのである。
このソ連の崩壊で、我々のような 自由主義と市場経済を支持する人々は、少々油断しすぎてしまったようだ。社会主義は完全に敗北した。「人類の行くべき道は、自由民主政治と 市場経済の二本立て以外にあり得ないはずだ」と我々は納得し、その原則に自信を強めたのである。
中には調子に乗って「ソ連社会主義の終焉は歴史の終焉」と言い出す者まで現れた。つまり「資本主義」対「社会主義」、「自由社会」対「統 制社会」のどちらが優れているかといった議論は最早、決着がついたので、それが歴史の到達点だというわけである。
人類の試行錯誤の時代は終わったのだ。だから歴史は終焉したのだという、随分、おっちょこちょいで楽天的な理論というか、見通しであった。しかし、当時はそんな本も結構、売れたのである。
ソ連崩壊後に生まれた 新しい社会主義のカタチ
ところが左翼の人たちは、彼らの目標追及を諦めなかった。そして彼 らの社会主義革命を実現する、巧妙な方法を考え付いたのである。 先ず第1にチャイナだが、ソ連型 の社会主義はどう考えても上手くゆかないことは確かだった。そこで中国共産党は鄧小平の指導のもとに、疑似的な資本主義制度を導入することにした。鄧小平のいう「改革開放」である。
チャイナは共産党一党独裁の政治制度を固く維持する一方、先進国から技術と資本を導入し、国内で疑似資本主義的な制度を作り上げた。そして経済力をつけ、一時は「世界の工場」と言われるまでに大成長を遂 げた。我々は、チャイナが資本主義制度 のよいところを取り入れ、外国人との接触を増やし、経済を発展させれば、おのずとチャイナ社会は民主化・ 自由化してゆくものと期待した。
外国の情報も入り、外国人と接触する人が増えれば、守旧的なかたくなな独裁制度は維持することが不可能になるだろうと思ったのである。
89年6月に天安門事件が起きた。 鄧小平は、民主化を力をもって弾圧したのである。しかしその後も改革開放の方針は変わらなかったので、我々は長期的にはこの路線がチャイナの自由化・民主化に結び付くものと希望的に観測していたのである。
ところが10年、20年、いや30年経つ て、これが全くの幻想であることが 分かった。中国共産党は外国の資本 や技術を利用しただけであって、自由の弾圧は寧ろ強化されてさえいる からだ。
一方、先進国の左翼は、新しい社会主義革命の戦略を打ち出してきた。 それはソ連が劣勢になったことが明 らかになった1976年くらいから、 実はアメリカの民主党左派が志向し ていた方針でもある。
その方針はズバリ言って2つある。 第1は環境主義。第2は人種差別やジェンダー差別への反対運動を極端化することである。この2つをもつ て、既存の社会を崩壊させ、社会主義革命を成し遂げようとしたのである。歴史を振り返ってみると様々な試行錯誤はあったが、そういう方向に動いてきている。
社会主義の没落と地球温暖化論の台頭
1960年代から70年代にかけて、 大気・水・土壌などの汚染問題と、それに付随する様々な公害が出現した。この汚染問題に関しては、少な とも先進国に関する限り、直ぐに反省が起こり、様々な規制が導入されて、環境汚染は著しく改善して いった。
その成果が明らかになってきたのが、ちょうど社会主義国が崩壊に向かう80年代後半である。戦後復興から高度成長の時代に、日本では水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくなどの極端な公害病 発生した。確かにこれらは悲劇で はあったが、日本国民は速やかに反省し、工業第一主義を見直して、環境にも配慮した経済発展の新しい ルールを作った。
1970年の公害国会はその大きな転換点であった。 保守党である自由民主党も素早くこの国民の要求にこたえて、公害・ 汚染問題に取り組んだ。保守主義者の心情からすれば、山紫水明の日本を守ることは、国民がなすべき当然の義務と思えたからである。ヨー ロッパ でもアメリカでも同様の転換 が行なわれた。
公害汚染の問題に関して言えば、 80年代の後半、問題は殆ど解決してしまった。そこで突如、登場したのが「地球温暖化論」であった。これは失業しかけていた環境学者の飯の食い上げを防いだ。これは1つの事実である。
しかしそれ以上に、もっと大きな謀略が進行していた。地球温暖化論に新旧を含む左翼勢力がどっと参入してきたのである。理由を考えれば簡単なことだ。
地球温暖化論が浮上してきた80年 代後半は、社会主義の失敗が明らかになった時代でもある。社会主義が没落すると同時に、地球温暖化論が急浮上したのである。1989年は その節目になっている。
思えば89年は、戦後、日本経済のピークの年でもあった。そして89年は昭和最後の年でもあった。戦後、冷戦時代の終焉は即ち、冷戦時代という温室の中で庇護され、ひ弱な花として成長してきた日本経済繁栄の最後の年でもあったのだ。偶然では ない。
(続く)
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