土狸庵ゆめ日記

土タヌキおやじのひとりごと。

雨上がる

2018年06月18日 17時42分02秒 | 一閑張り考

夕方になって日差しが戻って来ました。その分暑くなりそうです。

今日の生徒さんの頑張りです。千代紙をベースに、書をあしらっています。千代紙は柿渋がムラになり易く、仕上げにちょっと注意が必要です。

こちらは不思議な柄のバッグです。シャツ用の生地を張っています。若い女性に受けそうですが、作ったのはおばちゃんです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨と地震。

2018年06月18日 14時14分46秒 | 一閑張り考

時々、激しい雨が降る涼しい朝です。
梅雨らしい朝になりました。
庭の紫陽花達が雨を楽しむように、咲いています。その下には。桔梗の紫色の花が競うように咲いています。

午前中の教室を終えて、テレビの大阪地震のニュースを見ながら、何も感じなかった鈍感さを恥じています。(震度1ではほとんど無理か)
来る来ると言われて30年。すっかり鈍感になっています。災害は忘れた頃にやってくる!
昔から言われている言葉です。
チコちゃんに叱られないように、心掛けたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自由自在!

2018年06月17日 11時21分00秒 | 一閑張り考

こちらは、先日の教室での生徒さんの作品。
旅の思い出でしようか、気に入った包装紙を無駄にしない辺り、かなり一閑張りの真髄を理解してくれていると感激しています。無駄に気張らないのが一番です。
この場合、古文書などは入れない方が、絵柄が生きます。空間を活かすのも、良いデザインの秘訣です。柿渋が微妙な良いムラ(質感)を作ってくれます。有り難いことです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

珍品?

2016年10月17日 13時29分23秒 | 一閑張り考


ある生徒さんが持って来た一閑張りの菓子器です。いわゆる、乾漆と云う技法で作られた漆器のひとつです。
一閑張りは、木地に麻布や和紙を漆で張り、更に漆で表面を塗り固める。現在17代目が引き継ぐ一閑張り本家の漆器技法のひとつです。

初代一閑和尚が、その技法を漆の代わりに身近な柿渋を使って庶民に伝授したのが、いま私達がやっている一閑張りだと云われています。強度は漆には及びませんが、簡単に出来て実用的なところから、親しまれ伝えられて来たものと思われます。

漆仕上げにすれば高級品として格も上がる…と勧められた時もありましたが、一人前になる前にあの世に行きそうだし、柿渋の魅力も捨てがたく…ということで今に至っています。その柿渋だけでも奥が深く、最後まで半人前で終わりそうですが…。(笑)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一閑楽座考10

2013年12月20日 09時31分44秒 | 一閑張り考


あれやこれやの試行錯誤の結果は、どうやら「素」に戻るような気がします。

周りの目を意識すると、どうしても受けを狙うようになるし、
売れることを目的にすると飾り過ぎになるのも自然です。

それが良いとか悪いとか言うつもりはありません。

自分の中で「何が目的か?」「何か違わないか?」と問うたときに、
次第に見えてくる、感じてくるものがありました。

利休の「侘び」や武蔵の「空」の境地に通じるのでしょうか。

いえいえ、そんなレベルには到底なれませんが、
何か、気持ちの中に軽い解放感を感じられるときがあるのです。

興味のない方からみればゴミと紙一重の作品たちの中で、
試行錯誤の日々がつづきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一閑楽座考9

2013年12月09日 17時54分30秒 | 一閑張り考
最近の過飾気味な一閑張りに疑問がわいていたところで出会ったのがコレ。



生徒さんが知人からいただいたものだが、さすがにコレは無理!と、
捨てるというのでいただいた。
その荒れた姿に、逆に創作意欲がわいてきた。



出来るだけ原形を残し、下張りをして古文書を張り渋を塗る。
穴の開いた部分も無理にふさがないで、素材の持つ侘びた雰囲気を残す。
これにはもう絵柄は要らない。あとはどう利用できるか考える。



こちらは花活けに活用した例。ペットボトルを黒い和紙で巻き花瓶とした。
両手を広げたような形状が、朽ちたカゴとは思えぬ生気を感じさせてくれる。



一閑張りの枯れた風情には、路傍の草花こそが良く似合う。





ひとつの方向を見い出せたようで、好きな作品達になった。




コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一閑楽座考8

2013年12月06日 02時55分47秒 | 一閑張り考


こちらが最近の椿の絵。
葉が薄墨になり、花の形もかなり変わって、
自分では、少し大人の感じがしていると思っている。

元々の一閑張りには絵は普通入らない。
古文書などの墨文字に柿渋が塗られているだけだ。

でも、文字だけではつまらないし、まず楽しくない。
そこで、最初は絵手紙風に文字と絵をからめて入れてみた。
それがけっこう楽しくて、あんがい好評だった。

問題は柿渋だった。
和紙だけでは水気に弱いため、丈夫にするために柿渋を塗る。
柿渋は、年月を経るごとに濃く変色するのが特徴だ。
そのため、せっかくのきれいな絵が見えなくなってしまうのだ。

まあ、それが本来の一閑張りの姿と思えば良いのだが、
そんな中でも、この赤い椿は頑張ってくれるのが嬉しい。



残念に思うのは、一閑張りを飾り物と思っている人が多いことだ。
飾られたままで、埃をかぶった一閑張りを見るのは悲しいものだ。

蔓(ツル)のカゴを編む職人さんが言っていた言葉を思い出す。
「高価なものだから大切にしたいのは解るが、
 ビニールで包んで、押し入れに仕舞っている方が多いのが残念だ。
 あれでは蔓は育たない。カビが出たり、乾燥して朽ちてしまう。
 毎日使って手で撫でられることで、脂がつき艶と粘りが増す。
 一番良い色と艶が出るのは20年程先になる。
 そこまで使って育てて欲しいのだが・・・。」

一閑張りも同じことが言えそうだ。
本来は道具であるから、いろんなモノを入れて使って欲しい。
そして、折に触れ手で撫で愛でて欲しいのだ。
それによってより艶も出るし風格も増す、つまり育つのだ。

20年とは言わない。5年先を楽しみにして欲しい。
破れたり傷がついたりもするだろうが、
それを直すのも一閑張りの楽しみの一つだ。

数年すると柿渋も色褪せてくる。
そこで、補修し塗り直すことで生気を取り戻す。
それが出来て、本当のプロと言えるのかも知れない。









コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一閑楽座考7

2013年12月03日 21時19分52秒 | 一閑張り考


こちらは初期の頃の椿のバッグ。
薄墨のふちどりと緑の葉が特徴で懐かしい。

うちの教室では、入会するとまず椿を描く。

当初は、本物や写真の椿を見ながらスケッチしてもらった。
でも、大方の生徒さんは嫌がった。
そこで、楽に描いて形になる方法は無いかと考えた。
それが、お絵かき教室式の描き方だった。

「はい、丸を描いて、次に中を塗りながら・・・」
半信半疑で筆を動かす生徒さん達。
やがて、紙面にそれぞれの椿が咲きはじめる。

これが、写生と違って面白いほど個性が出る。
生徒さんたちも、おたがいの椿を見比べながら楽しそうだ。
以来、椿はうちの一閑張りの看板になっていった。

やがて、生徒さんたちも上達し、展示会や販売を望むようになった。
私は、やる気のある生徒さんにはそれを勧めた。
他人の眼や評価を受けることは、良い鍛練になると思うからだ。

おかげで、あちこちに同じような椿の柄があふれ出した。
「おい、お前の偽物が売られているぞ!」
友人からそんな連絡をもらうこともあった。



以来、生徒さんと間違われないようにしなければ・・・と、
私にとっても良い刺激になっていった。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一閑楽座考6-2

2013年11月29日 09時25分55秒 | 一閑張り考



最近、生徒さんが個展やグループ展を開くことが増えた。
その際に、私のことを師範として紹介してくれることがある。

身に余ることだと感謝していたし、それが、
生徒さんの自信につながればと黙認していたが、
どうやら良いことばかりではなさそうだ。

生徒さんの中には、嫉妬からかいろいろ言う人もいるようだ。

最近は、自分の教室を開いている生徒さんも多い。そのためか、
それぞれの生徒間に本家・分家みたいな意識が芽生え、お互いを意識し、
批評、批判し合うことも起きているようだ。

私の生徒さんだからといって、全員が上手だということは無い。
中には、生徒だと言って欲しくないような下手な生徒さんもいる。(笑)
だが、皆さんが楽しみながら夢中になっている姿は、とても美しく愛しい。
そして、そんな場を提供できることが、なにより嬉しいと思っている。

私の教室では、基本意外は出来るだけ教えないようにしている。
それは、それぞれの生徒さんの感性を引き出したいと思うからだ。
感性には上手も下手も無い。個性が在るだけだ。
その、それぞれの個性で自由に楽しんで欲しいと思うのだ。

当然、教室を開けるような師範を養成するつもりは無い。
だから、初心者もベテランも同じ場で楽しんでもらっている。
個展を開くにも、教室を開くにも、資格も何も無い。
熱い想いと責任感があれば、誰でもやれることなのだ。

でも、長いあいだにそんな空気が生まれているとしたら、
師範としては、自戒せねばならないことと思う。

いろんな意味で、区切りの時期が来ているのかも知れない。















コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一閑楽座考6

2013年11月28日 20時01分47秒 | 一閑張り考


最近の一閑張りの世界に、妙な変化が現れた。

作る人が増えるとともに、
自分の作り方が本流だとか、アレは変だとか、
他人の作品をけなす人が多くなったようだ。

一閑張りがここまで流行した要因は、
それほど難しい技術も用具も要らず、
身近にあるもので手軽に楽しめるということだろう。

我々が一閑張りと称して作っているものは、
伝承されている本来の一閑張りとは大違いなものだ。

その昔、一閑和尚が農民に教えたとされる手法を、
今の時代にあわせて自由にアレンジしたもので、
それぞれの感性で自由に楽しめるのが良い点なのだ。

多少の手先の器用さとかセンスの良し悪しはあるが、
他人の感性をとやかくいう資格は誰にも無い。

ちょっと評判が良かったからと、
売ることを目的に作る人が増えたからだろうか、
玄人気どりの素人が増えたからだろうか、

それにしても、イヤな風潮である。
その責任の一片は、自分にもありそうだ。















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする