民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「高等遊民について」 ネットより 

2014年09月19日 00時23分15秒 | 生活信条
 「高等遊民について」 ネットより http://www.ryuichiro-misaki.jp/world/leisure

 特に日本の定年退職を迎えて社会の第一線を退き、会社から解放されて自由の身になった世代において、高度経済成長時代の価値観をもって自身の生活を測り、やることを見出せない、虚無感を抱きながら元気なく生きる人々が増えている。

 そのような世代の人々に、教養を磨いて、世俗的な欲望(出世、名声、財産)や多忙さから開放されて、独自のオリジナル生活をエンジョイする“現代の高等遊民”を目指そう、と提言したい。一言で言えば、お金持ちより心持ち、物持ちよりも心持ちの生き方である。その信条は“欲しがらない”ということだ。

 夏目漱石は、「こころ」や「それから」といった作品の中で描いた、高等教育を受けながら、時代の風潮を受けきれず、仕事にもつかずにぶらぶらして暮らしている人たちを、「高等遊民」と呼んだ。これらの人々は教養人であり、帝国主義的体制という時代背景になじめなかったインテリであるが、我々のこの時代に、いまさらこの明治大正期の「高等遊民」をすすめようというのではない。

 わずらわしい世俗を半分捨てるという「半隠遁」の思想を持ち、金よりも面白味のある仕事を続けながら、誰にも気兼ねしない暮らしをしてみよう、というものだ。

 目覚まし時計で起きなくてもいい生活、
 満員電車に乗らなくてもいい生活、
 スケジュール帳を持ち歩かなくてもいい生活、
 寝たいときに寝て起きたいときに起きる生活、
 人に命令も強制もしない、あるいはされない生活、
 そして何よりも演技をしなくてもいい生活。

 これをやろうということである。

 そんなことができるのか。できるのである。ただし世俗の見栄や体裁を捨て、地位とか名誉とか財産とか、世間の多くの人が求めている欲求を捨てたらの話であるが・・・。

「足し算か引き算か」 その7(最終回)

2014年09月17日 00時06分51秒 | 雑学知識
 中島敦と身体のふしぎ ネットより http://f59.aaacafe.ne.jp/~walkinon/nakajima.html

 「足し算か引き算か」 ―『名人伝』に見る教育 その7

 思うに、「引き算の修行」が目指すものというのは、このすべての意識がどこにも重心がかかることなく、完全にニュートラルな位置にある状態に、任意で入っていけるということではないのだろうか。そう考えていくと

 木偶のごとき顔は更に表情を失い、語ることも稀となり、ついには呼吸の有無さえ疑われるに至った。「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる。」というのが、老名人晩年の述懐である。

 という表現が非常に納得がいくのである。つまり、知覚のどこにも意識のウェイトがかからず、何かひとつに焦点化しているわけではない。「力」が身体のどこか一箇所にかかっているわけでもなく、どこかが緊張しているわけでもない。こういう身体が完全にニュートラルな状態のことを言っているのではないかと思うのだ。
 この状態に至って解き放つのが「フォース」なのか「不射之射」なのか、はたまた何も解き放たないのかもしれない。ともかく「名人」の境地というのはこういうものではないかと思うのである。

 こういう状態を「心身脱落」と呼んではダメかしら?

「足し算か引き算か」 その6

2014年09月15日 00時18分27秒 | 雑学知識
 中島敦と身体のふしぎ ネットより http://f59.aaacafe.ne.jp/~walkinon/nakajima.html

 「足し算か引き算か」 ―『名人伝』に見る教育 その6

 わたしたちは、意識があまりにひとつのことに向きすぎるとき、こういう言葉を使って、行き過ぎを抑えようとする。

 視野が狭くなる。
 まわりが見えなくなる。
 聞く耳を持たない。

 こういうことを考えていくと、「集中」というのは、全身の感覚が一点に集まるということではないように思えてくる。

 わたしたちは、何かを夢中になってやっているときでも、ほかのものを見、ほかの音も聞いている。そういうときは「目に入る」「耳に入る」のような言い方をして、「見る」「聞く」とは隔てているわけだが、実はやはり見もし、聞きもし、匂いを嗅ぎ、あるいは舌が味わうのは自分の唾液だけかもしれないが、なにかを味わい、体のさまざまな部分がさまざまなものに触れているのを感じている。感じているが、そこに意識は向かっていない。

 このように、ちょうど、個々の楽器の音色を聞きつつ、そのどれにも意識を向けず、オーケストラ全体として聞いているときのように、見ることを意識せずに見、聞くことを意識せずに聞く、という、五感の意識がすべて「意識しないでいられる状態」というのが、もっとも集中した状態といえるのではないか。最高の力を解き放つ瞬間というのは、そういう状態ではないかと思うのだ。


「足し算か引き算か」 その5

2014年09月13日 23時07分03秒 | 雑学知識
 中島敦と身体のふしぎ ネットより http://f59.aaacafe.ne.jp/~walkinon/nakajima.html

 「足し算か引き算か」 ―『名人伝』に見る教育 その5

 さて、ここでは話を先に進める。
 仮に師匠の導きの下、「日常の身構えからの脱出」が可能になったとする。それはいったいどんな状態なのだろう。異様に感覚が研ぎ澄まされた状態なんだろうか。

 たとえば、音楽を聴くとする。わたしたちはある旋律を「メロディライン」あるいは「主旋律」という言い方をして取りだす。歌なら、歌手によって歌われるその部分を取りだすのは簡単だ。それでも、インストゥルメンタルの曲でも、交響曲でも、わたしたちはたとえばドヴォルザークの八番、というと、あの二楽章の印象的なメロディを口ずさむだろうし、ラッシュの "XYZ" というと、あのキャッチーなギターとベースのユニゾンを口ずさむだろう。わたしたちはメロディラインなら、とくに音楽の知識がなくても、簡単に全体から取りだすことができる。

 つぎに、少し楽器の音も詳しくなってきたとする。たとえばビオラの響きに心引かれるようになる、あるいはベースの刻むリズムが心地よく感じられるようになる。そうなってくると、知らないころは渾然一体となっていた音の中から、ベースやビオラの音が浮きあがって聞こえてくるようになるはずだ。  そうなると、同じ曲がこれまでとはずいぶんちがって、ずいぶん立体的に聞こえてくるようになる。

 さらに、もっと曲を聞きこむ、あるいはさまざまな楽器のさまざまな音を聞き分けられるようになると、今度はまた、聞こえ方が変わってくる。何の音を聞いているというわけでもない、ヴァイオリンも、チェロも、オーボエも、ホルンもそれぞれに聞こえているのだが、そのどれかを聞いているわけではない、それぞれの音を全体として聞く、という状態にいたる。そうして、おそらくその状態が音楽がよく聞こえているように思う。


「足し算か引き算か」 その4

2014年09月11日 00時15分53秒 | 雑学知識
 中島敦と身体のふしぎ ネットより http://f59.aaacafe.ne.jp/~walkinon/nakajima.html

 「足し算か引き算か」 ―『名人伝』に見る教育 その4

 つまり、「力を入れる」というのは、「力を抜く」に対して、身体化しやすいメタファーなのである。竹内敏晴は『ことばが劈かれるとき』で書いていたが、人間には「力を抜く」ことはできないという。力をほかの場所に移すことができるだけだ、と。そうして『「からだ」と「ことば」のレッスン』のなかでは、実際に身体から力を抜いていくトレーニングが紹介される。ふたりが一組になって、一方が相手の身体にふれ、揺する。

 揺するレッスンは筋肉の緊張に気づくことから始め、結果としてそれがゆるみ、ほぐされることになるのだが、一つの部分の筋肉がふっとゆるんだ、という知覚は、必ず、ある「身構え」の脱落感と共にあるのであって、言いかえれば「身構え」が崩れることが「からだがほぐれる」ことに他ならない。精神医学者の森山公夫氏のことばを借りれば、世界との、自分との、他者との、「和解」ということになろうか。… このような意味での日常の「身構え」からの脱出が、深い集中に導かれ、ある「脱自」へと至る、のだ。

(竹内敏晴『「からだ」と「ことば」のレッスン』講談社現代新書)

 竹内は同書のなかでそのプロセスを実例を交えながら細かく書いていくが、それでもそれを読んだだけでは実際のところはちっともわからない。書いてあることを仮に、言葉通りに実践したとしても、おそらく、実際のトレーニングとは似ても似つかぬものであろう。つまり、実際にそのトレーニングを経験しないところで、つまりは身体的理解のないところで、そのトレーニングの型、相手へのふれかたや、横になりかた、ほぐしかたなどは、ちょうど「畳の上の水練」のように、言葉を読んだだけではなにひとつわからない。つまり「日常の身構えからの脱出」というのは、言葉による理解ではなく、教え手の身体から学習者の身体へと「型」が受け継がれていくのだろう。