中島敦と身体のふしぎ ネットより http://f59.aaacafe.ne.jp/~walkinon/nakajima.html
1.足し算か引き算か ―『名人伝』に見る教育 その3
この「引き算」のトレーニングを描いた小説や映画はないかな、と考えて思いだしたのが、映画《スターウォーズ エピソード5/帝国の逆襲》で、ヨーダがルーク・スカイウォーカーにフォース(理力)を解き放つことを教える場面である。フォースというと何だんねん、という感じなのだが、要はジェダイの騎士が使うことができる超能力のようなものだ。
ジェダイの血を引くルークは、すでにフォースを自らの内に備えている。ただ、その使い方がわからない。その力を引き出し、さらには自分の思うままにコントロールできるようにならなければならない。そのためにヨーダの下で修行するのである。
映画では、ルークは自分が乗ってきた小型宇宙船を「フォースの力で」宙に浮かせる訓練をする。小石ならば宙に浮かすこともできる。ならば、宇宙船が浮かせられないはずがない。宇宙船は「重いから」というのは固定観念じゃ、といった類のことをジェダイ・マスターのヨーダは言うのである。つまり、ルークがこれまで人間(?)として生きるなかで、意識的無意識的に身についた常識や固定観念を取り除くことが修行の第一歩なのである。映画ではルークは逆立ちしていたが、それはおそらく常識や固定観念が教える身体の意識を切り離すには、日常では決して取ることのない姿勢が必要だったのだろう。
このジェダイマスターのヨーダ、なんとなく名前といい雰囲気といい物言いといい、中国の仙人っぽい。これだけの貧弱な例で言ってしまうにはムリがあるがそれでも言ってしまえば、「引き算」のトレーニングには東洋的なイメージがあるように思える。
よく昔の剣豪小説にあるのが、剣の修行をしに師匠のもとに出かけたが、薪割りや掃除や水くみばかりさせられていて、いっこうに剣を教えてくれない、というパターンである。業を煮やした主人公が師匠に剣で切りつけると、師匠はふりむきもせず、木のナベブタでそれをばしっと受け止める、というのを、わたしはいったいどこで読んだのだろう。
ともかく、たいていの主人公はこうしたわけのわからない修行をさせられているうちに、不意に自分の力を解き放てるようになっているのだ。こういう師匠はたいがい小柄で非力(そう)な老人である。そうして、日本ではごくありふれたこうした発想は、西洋の小説ではまずお目にかからない。映画《スター・ウォーズ》がこういう場面を取り入れたのも、一種のエキゾチズムの効果をねらったにちがいない。
この奇妙な修行は、一見、非合理的な感じもするのだが、それを「神秘的」「非合理的」ととらえてしまうのは、わたしたちの側にそれを言葉で言い表す概念的枠組みがないからではないのだろうか。
ただ、ここで思うのは、「力を入れる」にしても「力を抜く」にしても、ともに比喩表現である。どこかから「力」を持ってきて、たとえば腕にそれを注入するわけではない。そうではなくて、自分の意識を腕に集中させることに過ぎない(「意識」も「集中」ももちろんその言葉に対応する実体があるわけではない、メタファーとしての表現なのだが、「人間の概念体系は大部分が本質的にメタファーによってなり立っている」(ジョージ・レイコフ『レトリックと人生』)のだから、メタファーによらない表現などと言い出すと、もう文章など書けなくなってしまうので、ここではそういうふうに書いておく)。
1.足し算か引き算か ―『名人伝』に見る教育 その3
この「引き算」のトレーニングを描いた小説や映画はないかな、と考えて思いだしたのが、映画《スターウォーズ エピソード5/帝国の逆襲》で、ヨーダがルーク・スカイウォーカーにフォース(理力)を解き放つことを教える場面である。フォースというと何だんねん、という感じなのだが、要はジェダイの騎士が使うことができる超能力のようなものだ。
ジェダイの血を引くルークは、すでにフォースを自らの内に備えている。ただ、その使い方がわからない。その力を引き出し、さらには自分の思うままにコントロールできるようにならなければならない。そのためにヨーダの下で修行するのである。
映画では、ルークは自分が乗ってきた小型宇宙船を「フォースの力で」宙に浮かせる訓練をする。小石ならば宙に浮かすこともできる。ならば、宇宙船が浮かせられないはずがない。宇宙船は「重いから」というのは固定観念じゃ、といった類のことをジェダイ・マスターのヨーダは言うのである。つまり、ルークがこれまで人間(?)として生きるなかで、意識的無意識的に身についた常識や固定観念を取り除くことが修行の第一歩なのである。映画ではルークは逆立ちしていたが、それはおそらく常識や固定観念が教える身体の意識を切り離すには、日常では決して取ることのない姿勢が必要だったのだろう。
このジェダイマスターのヨーダ、なんとなく名前といい雰囲気といい物言いといい、中国の仙人っぽい。これだけの貧弱な例で言ってしまうにはムリがあるがそれでも言ってしまえば、「引き算」のトレーニングには東洋的なイメージがあるように思える。
よく昔の剣豪小説にあるのが、剣の修行をしに師匠のもとに出かけたが、薪割りや掃除や水くみばかりさせられていて、いっこうに剣を教えてくれない、というパターンである。業を煮やした主人公が師匠に剣で切りつけると、師匠はふりむきもせず、木のナベブタでそれをばしっと受け止める、というのを、わたしはいったいどこで読んだのだろう。
ともかく、たいていの主人公はこうしたわけのわからない修行をさせられているうちに、不意に自分の力を解き放てるようになっているのだ。こういう師匠はたいがい小柄で非力(そう)な老人である。そうして、日本ではごくありふれたこうした発想は、西洋の小説ではまずお目にかからない。映画《スター・ウォーズ》がこういう場面を取り入れたのも、一種のエキゾチズムの効果をねらったにちがいない。
この奇妙な修行は、一見、非合理的な感じもするのだが、それを「神秘的」「非合理的」ととらえてしまうのは、わたしたちの側にそれを言葉で言い表す概念的枠組みがないからではないのだろうか。
ただ、ここで思うのは、「力を入れる」にしても「力を抜く」にしても、ともに比喩表現である。どこかから「力」を持ってきて、たとえば腕にそれを注入するわけではない。そうではなくて、自分の意識を腕に集中させることに過ぎない(「意識」も「集中」ももちろんその言葉に対応する実体があるわけではない、メタファーとしての表現なのだが、「人間の概念体系は大部分が本質的にメタファーによってなり立っている」(ジョージ・レイコフ『レトリックと人生』)のだから、メタファーによらない表現などと言い出すと、もう文章など書けなくなってしまうので、ここではそういうふうに書いておく)。