-表象の森- 日本語とはどういう言語か -04-
「第1章-日本語とはどういう言語か」
・すべての言-はなしことば-は、抱合語的、孤立語的、膠着語的、屈折語的である
音声中心主義を内省することに欠けた言語学者ソシユールは「一般言語学講義」の中で、「言語と書は二つの分明な記号体系である。後者の唯一の存在理由は、前者を表記することだ。言語学の対象は、書かれた語と話された語との結合である、とは定義されない。後者のみでその対象をなすのである」と語つているが、時日はまったくその逆であつて、言語とは言-はなしことば-と文-かきことば-の有機的統一体であり、文-かきことば-誕生以来は、文-かきことば-言-はなしことば-を規定し、領導すると定義づけられるのである。
無文字時代の言語は、抱合語的でも孤立語的でも膠着語的でも屈折語的でもある言語であったと考えられる。ところが、文字を有し、文を有する段階に至った時に、それぞれが整合性を求めて、一定の構造へと収斂するのである。したがって、孤立語や膠着語や屈折語という言語形態は、文字化後に生じることとなる。
あえて言えば、抱合語的、孤立語的、膠着語的、屈折語的要素を含むとしか言いようのない力動的、展開的、流動的な言-はなしことば-に形を与え、具象化し、内省化するもの、それはむろん言葉とのつながりを持ちながらも、その外部に生まれる文字であり、文である。文字通り文法とは文が生まれたあとに生じ、固定されるものであって、無文字時代の言-はなしことば-の文法などというものは、あるとしても、その後に生まれた文法とは相当に異なった、声の強弱、高低、身ぶり手ぶり以前の舞踊や音楽-前舞踊や前音楽-の総合体として存在しているのである。
言葉は、言-はなしことば-と文-かきことば-からなる統合体であり、言法と文法とは、別のものとして峻別が必要であるにもかかわらず、声中心主義の西欧やその影響下の言語学者たちは、この言法と文法を曖昧にしたまま、言語や文法を語っている。しかも、言法といえども、言-はなしことば-内在する法則ではなく、文と化してのち、内省された、つまり文-かきことば-を通して照らし返され明るみに出された法則であり、もはやそれは無文字時代の言-はなしことば-とは違った、文との相互浸透、相互干渉されるに至った言-はなしことば-の法則に他ならないのである。このように言-はなしことば-の分類としての抱合語、孤立語、膠着語、屈折語という分類はさしたる本質的な意味を持たないが、いったんここに文=文字の問題を加味すると、きわめて有効な分類法と化すことになる。それどころか、この分類以外に有効な文法はないといってもいいほどである。
孤立語を、表音の水準から見ていくのでは、何も明らかにならない。孤立語と指摘していい言語はほぼ中国語に限られる。中国語とは、漢字という旺盛な造語力をもつ-偏と旁等の部首の組み合わせと連語=熟語でどんどん増殖していく-文字言語である漢語に吸収されて作られ、固定された言語であると定義づけられる。無文字の大陸地方のさまざまな諸語がもともと単音孤立語的であったと言うよりも、漢字=漢語=漢詩=漢文の孤立語性によって、大陸諸語がもともと有していたと推定される抱合語的、膠着語的、さらには屈折語的性格が吸収されて新たに生まれたのである。
大陸では、漢字・漢語に裏打ちされた文-かきことば-の強さ-水圧-が、いわば言-はなしことば-の抱合的、膠着的、屈折的性格を奪い去り、孤立語へと吸収されたものであり、中国語とは、単音節孤立語である漢語によって吸収され、統合された言語を指し、いわば断固たる「政治語」とでもいうべきものになったのである。
この孤立語・中国語の周辺にあるのが膠着語であり、朝鮮語、日本語、蒙古語、さらにはトルコ語などの膠着語が孤立語の周囲を取り巻く。
大陸中央部で漢字語に吸収され孤立語と化した、その高度な政治語の水圧は、周辺地域に流れ出し、周囲の小さな諸語の存在を圧殺する。周辺地域の為政者は、この中華体制に入り込み、中国語、漢文、漢詩を公用語とする。しかし、周縁部は、大陸内諸語のように、圧倒的な漢字語力に完膚なきまでに圧殺あるいは吸収されたわけではないから、この中国語に対する異和が生じ、そこに異和を挟み込む。この異和こそが漢語語彙の間に挟み込まれる助詞や接辞による膠着構造である。ここで接辞たる助詞が、中国語の断言性への異和の表出語として、採用あるいは新造される。このように、膠着語とは大陸的政治への異和を含み込んだ、孤立語=漢語の植民地言語である。
このように考察してくれば、屈折語の意味も明らかとなろう。屈折語とはアルファベット言語の別名である。アルファベットはむろん文字であるが、漢字のような表意、表語文字とは異なり、無文字時代に鍛えられた発音を写し取るようにして生まれた言語であり、それゆえ屈折が残り、また文字化後には、系統だって記述され、文法を整備するようになるのである。
したがって、抱合語、孤立語、膠着語、屈折語の分類は次のように整理することができる。
1. 文-かきことば-=書き留めたとされる言-はなしことば-が、語から成立し、文=語の構造と見なされる抱合語
2. 文が語の集合と見なされ、文=語+語の構造の孤立語
3. 文中の語が、詞と辞に分類される、文=詞+辞の構造の膠着語
4. 詞は変化を伴う。ゆえに、文は、接頭的変化詞・接尾的変化詞と接頭的変化辞・接尾的変化辞との合体と認識される屈折語。換言すれば、文=変化詞+変化辞の構造の屈折語
例文で示せば、以下のような記述法=書法上の違いにすぎぬということになる。
「あめがはげしくふるよ」-抱合語
「あめ○はげし○ふる○」-○部は発声で補う- -孤立語
「あめ が はげし く ふる よ」-膠着語
「あめが はげしく ふるよ」-屈折語
すなわち、語が文と明確に分けられないとすれば抱合語と分類され、日本語でいう助詞が声調に溶けてしまい、文字として記されなければ孤立語であり、また助詞が詞と分別できると捉えれば膠着語で、詞と分けられないと捉えれば屈折語と見なされる、ということ以上ではない。
―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-38-
2月3日、曇、よく眠られた朝の快さ。
生きるも死ぬるも仏の心、ゆくもかへるも仏の心。
不思議な暖かさである、「寒の春」といふ造語が必要だ、気味の悪い暖かさでもある。
馬酔木居を訪ねてビールの御馳走になる、私は至るところで、そしてあらゆる人から恵まれてゐる、それがうれしくもあればさびしくもある。
子供はお宝、オタカラオタカラというてあやしてゐる。
※表題句の外、3句を記す
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