-四方のたより- 無為なるを知る‥か
昨日の午後、KAORUKOを連れて生國魂神社の坂下、應典院に出かけた。無論、小嶺由貴の公演、そのゲネプロを観るためである。着いたのは2時過ぎ、かなりの樹齢とみられる一本の桜木は、もう三分咲きほどにもみえた。
二階のホールではすでにキッカケ合せがはじまっていた。舞台奥には、3尺幅ほどの布かと見紛う-実際、最初はそう思ったのだが-紙が、少し間隔を空けて5本、天井から降りている。これがスクリーンとなって、静止画像が映し出されるのだが、画像自身もまた転換も、さほど煩くもなく抑制されているのが、心象風景づくりの補助として活きていたのではないか。
バックに画像スクリーンというプランが、衣装の色の選定に影響したか、D.マリィも小嶺も、基調はBrown、それもかなり濃色、これが悩ましかった。というのも、スクリーン画像を除けば、背景色はどこまでも黒基調、その空間比は黒基調のほうがずっと大きい、そこへ踊りの衣装は両者とも濃いBrownなのだから、これは計算ミスではなかったか。
作品構成は、時間にして50分ほどか、小嶺の頭の中で考えられ、計算された構成はごくシンプルなもので、D.マリィ、小嶺、そしてD.マリィと短いSceneで積み上げる前半が、Imageの筋売りの役割を果たしたうえで、後半の長いSoloパート-もちろん小嶺の踊り-へと凝縮、昇華させようというものだが、ここではからずも露呈してしまったのは、小嶺自身が、四方館から離れざるを得なかったこの1年半近い歳月を、いかに日常的に、踊ることそれ自体から遠ざかってきたか、ということだ。
彼女自身、怠りなくトレーニングはつづけてきたにちがいない、それは彼女の気性からしても充分察しのつくところだし、彼女なりに思料しうる身体的な技法の錬磨も重ねてきたにはちがいない。そうにちがいないが、自身が踊ることそのもの、つねに、現に踊る、その心機を鍛えこむこと、その現場性をいかように保証しつづけるかを、どうやら彼女は自ら課してはこなかったようである。
昨晩と今日、ささやかなりとはいえ自身の進退を賭した筈の、さりながらまた無為ともいうしかないような孤独な闘いの、2回のステージを終えて、いま、彼女にいかなる想念が去来しているか‥。高価な授業料とはいえ、その無為なるを思い知ったとすれば、それはそれで一功あり、といえようけれど‥。
-表象の森- 筆蝕曼荼羅-明末連綿草、その2
石川九楊編「書の宇宙-№18-それぞれの亡国・明末清初」二玄社刊より
王鐸「臨徐嶠之帖」
作為的で多彩な書きぶりをみせる、書線の肥痩落差が極端な徐嶠之の臨書。
王鐸の書は基本的に垂直方向から筆圧が加わるため、均一な書線の表現が多くなる。<都>にみられる作為的な倒字なども、他の明末連綿草には見られない、作意に満ちた表現が誕生している。
春首餘寒。闍棃安穏動止。弟子虚乏。謬承榮寄。/蒙恩奬擢授名。一歳三遷。既近都邑。彌深/悉竊。戰懼之情。弟子徐嶠之。 王鐸為/晧老先生詞壇
王鐸「臨二王帖」
一筆書きのごとき王鐸の臨二王帖は、草書体で書かれた正真正銘の明末連綿草。
南宋代の遊糸書や明代の連綿草と決定的に異なるのは、先行の書が書字の臨場と速度の必然によって一筆書き化しているのに対して、本作では、脈絡-連綿や筆脈-と字画を等質に描き出そうとする意志が成立し、筆路そのものが書であるという構造に至っている点である。
そのため、連綿と字画の区別がなくなり、筆路に場面転換が挿入され、迷路のごとき作為的な筆路や連綿が挟み込まれている。
豹奴此月唯省一書。亦不足慰懐邪。吾唯辨ヾ。知復/日也。知彼人巳還。吾此猶往就。其野近當往就/之耳。家月末當至上虞。亦倶去。 癸未六月極熱臨。/驚壇詞丈。
・一筆書き-書き出しは8字、次いで1字、さらに5字という具合に、基本的に文の切れ目まで連綿連続している。
・字画と筆脈の区別が無くなる-<匈奴>の間、<省一>の間、<知彼>の間の連綿が、自覚的に書かれることによって棒状の姿を晒し、字画と筆脈の区別を喪失している。
・場面転換-字画と筆脈とが区別を喪失したこともあって、<野>では終盤で墨継ぎし、作為的な場面転換が出現している。<往就>部で<往>の連綿を長く伸長させた後、新たに墨をつけなおしているにもかかわらず、この連綿に連続するかのごとく<就>字を書き出す。
・迷路のごとき筆路-<豹奴此><慰懐><野>などは、これほどまで連綿しなくともと思えるほどの、迷路のごとき筆路で書かれている。
・筆毫の表裏の無法化-字画と脈絡の等質化によって、筆毫の表裏を無視して均一な太さの書線を用いる無法の書法が、<還>字に見られる。
・垂直筆-紙-対象-に対して垂直に筆圧が加わる垂直筆主体で書かれていることが、<豹><一><猶>などの均一な太さの書線からわかる。
・大回りする筆蝕-豹奴此><吾此猶>などにみられるように、書字の速度の必然からではない、作為的な大回りの筆路が覗える。
―山頭火の一句― 行乞記再び -16-
1月7日、時雨、休養、潜龍窟に蛇が泊つたのだ。
雨は降るし、足は痛いし-どうも-脚気らしい-、勧められるままに休養する、遊んでゐて、食べさせていただいて、しかも酒まで飲んでは、ほんたうに勿躰ないことだ。
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