山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

かしらの露をふるふあかむま

2008-01-26 06:57:24 | 文化・芸術
Db070509rehea133

Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

-温故一葉- 外磯定光君へ

 寒中お見舞い。
お年賀拝受。遅ればせながら、貴家ご一同、さぞ宜しき新年を迎えられたこととお慶び申し上げます。
私儀、甚だ勝手ながら本年よりハガキでの年詞の挨拶を止めましたので、悪しからずご容赦願います。

こうして年に一度とはいえ、届いた年詞の数々から貴方の名前を拝見するたび、私の脳裏に浮かぶのは、現在の-近頃ではいつお眼にかかったのだったか、亡母の法事の際であったか-貴方の面差しや姿形から、それこそ一気に50年ほどもタイムスリップして、あれは貴方が8歳か9歳頃だったか、遠路はるばる長崎から叔父さん叔母さんに連れられて、九条の私ら一家の許へと初めてのお目見得となった、その数日の間過ごした折の、同じ年頃の子ども同士とはいえ、私らの常識をはるかに超えたハチャメチャぶり、茶目っ気たっぷりのおどけた像で、それがまざまざと甦ってきては、ついニヤリと笑ってしまうのです。

その何日かの滞在のあいだに、お互いの家族打ち揃って枚方パークへ遊びに行った時に撮った一枚の集合写真が、ずっと私の手許にもありますが、この日も貴方は他を圧してハチャメチャぶりを発揮していたのですが、そういった諸々の像がいつしか圧縮されて私の内に貯め込まれたのも、その一枚の写真ゆえで、偶々これを眼にすることのあるたび反復強化され、この脳裏に焼き付けられてきたのでしょう。

これは長じての後知恵ですが、子のできぬ叔父・叔母夫婦に貰い子されたのが貴方だったとかで、あの心優しい叔父・叔母のことゆえ、その慈しみよう、可愛がりようも並大抵のものではあるまい。下にも置かぬ大切ぶりも、心遣いが過ぎればほんの薄皮一枚気を置いたものとなってしまうこともあろうか。実の親以上の大事にすればこその細やかな気配りが、子どもの頃の一時期とはいえ、あの気散じな、過剰なほどの茶目っ気を育てたか、と考えてみたりしたものでした。

戊子の年もすでに大寒、このところその名に恥じずこの冬一番の寒気とか、ご家族ともども呉々もご自愛下さい。
いつまでも和やかにお健やかに。
  08 戊子 大寒

相手は3歳下の従弟。私の父には兄弟とていなかったから遠縁はともかくいわゆる親戚の類はみな母方に繋がる。
業が漁師とかで当時は遠く長崎に住んでいた叔父・叔母夫婦が定光君を伴い揃って我が家を訪れたのは、私が小5、彼が小2となるその春休みではなかったか。

今のご時世なら、幼い子どもの達者なエンターテイメントぶりも縦横無尽のハチャメチャぶりもまったく珍しくはないが、50年も遡れば稀なることで、彼のその道化ぶりは、大袈裟にいえばちょっとしたカルチャーショックものであった。とにかくこの家族が滞在した数日間の我が家は、賑やかこのうえなく笑いの絶える間もないほどに明るかった。

そんな強烈な印象を残して風のように去っていった彼と、再び会ったのはもうずいぶん年月を経てからの筈だが、これがどうにも思い出せないのである。彼に会えば決まって私はあの時の像へと還っていくので、その折々の印象を作らないのかもしれない。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-04

  有明の主水に酒屋つくらせて 
   かしらの露をふるふあかむま   重五

次男曰く、
「前句、恋とも恋ならずとも片付けがたき句ある時は、必ず、恋の句を付けて前句ともに恋になすべし」-三冊子-という芭蕉の言葉がある。
作法は恋句にかぎらぬ。前(第三)は「とばしる」を時分-有明-に見定めた、もともと雑の作りだが、月とも月でないとも読める詞を含んでほかに季語を持たぬ句を承ければ、継句は秋季以外にない。

当然、付を得て季-秋-と月の座が定まることは予め荷兮自身の計算の内にもあるが、表六句の月の定座は五句目である。解釈も期待もなしに勝手に月を引き上げているわけではない。「とばしる山茶花」と結べば、寒造りも近いと悟らせ、「露」と結べば、新走り-今年酒-の仕込と読み取らせる。
荷兮句は、亭主介添えの重責を果たしながら同時に、次座を抱え込んで運びの一転をはかる狙いの作りだ。

重五の句は雑を秋に奪った二句一意で、朝露にぬれて人も馬もきびきびと働く、というほかには特に云うべきこともなさそうに見え、従来の評釈はいずれも、其の場を付けた遣句(ヤリク)と見ているが、そうではない。前句を「まず一献」の云回しと考えれば、解釈は全く別になる。「かしらの露をふるふあかむま」とは馬も甘露-新走り-の香に酔う、ということだろう。

酒を「赤馬」と呼ぶ隠語は、貞享頃まだ無かったと思う。句は、杜氏の名をまず有明月の実に執り成して秋露を付け、次いで「露」を甘露の虚に執り成して、白も色に出るさまに作り進めている。したがって「あかむま」は、云うなれば「露」の陰-含-を暗示する表現である。景に即せば、新酒一駄-二樽-を背に負い、陶然と首振り歩む詩神の姿でも思い描けばよく、実用馬の骨格などここになぞる必要はない、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

轍ふかく山の中から売りに出る

2008-01-24 14:57:31 | 文化・芸術
Db070509rehea191

Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

  轍ふかく山の中から売りに出る

山頭火、昭和9(1934)年2月初旬の句。
故郷近く小郡に結んだ其中庵の暮しも2度目の新春を迎えてまもなくだ。
庵の近くを歩いた際に見かけたか、雪も積っていよう山深い里から重い籠を背負って、なにを売りに来たのであろうか。自身乞い歩く身であれば、声をかけ品定めをするはずもない。遠目にやり過ごしつつふと口をついたか。
2月4日の日記に
「村から村へ、家から家へ、一握の米をいたゞき、
 いたゞくほどに、鉢の子はいつぱいになった」
と記し、また翌5日には、
「米桶に米があり、炭籠に炭があるということは、どんなに有難いことであるか、
 米のない日、炭のない日を体験しない人には、とうてい解るまい。」
「徹夜読書、教へられる事が多かった」
とも書きつけている。

-温故一葉- 大深忠延さんへ

 寒中お見舞い申し上げます。
お年賀拝受。私儀、甚だ勝手ながら本年よりハガキでの年詞の挨拶を止めましたので、悪しからずご容赦願います。
大寒の列島は低気圧の発達で北日本一帯大荒れになる模様とか、大阪市内では今年もまだ雪を見ませんが、このところの冷え込みは、夏場生まれの所為でしょうか、恥ずかしながら私などには些か身に堪えます。

平成の代もはや20年。昭和天皇が薨去し、当時の小渕官房長官が「平成」と書かれた紙を持って新元号を発表した記者会見に、「バブル景気」というまことにおぞましい言葉が生まれてまだまもなくの波乱含みの世相を背景にしながら、「平らか成る」などといかにも日和見めいた言辞を弄するセンスに強い違和を感じ、この元号にずっと馴染めぬまま年月ばかりが過ぎていきます。

実際のところ、私の感覚において、昭和と西暦はいつでも直感的に代置可能で、折々の出来事もその年号とともに記憶のアルバムに鮮明に残っているというのに、平成になってからは西暦とどうにも相生悪く添いきれぬまま、はて木津信の破綻から何年経ったか、あれは平成なら何年、西暦なら?と混濁ばかりが先立ち、挙げ句は資料などを引っ張り出さねばならない始末です。
そんな訳でこれを認めつつも、「金融神話が崩壊した日」を書棚からわざわざ引っ張り出してきましたよ、お笑い草ですね。

龍谷大学の「正木文庫」にずっと関わってこられ、正木ひろし研究もライフワークのひとつとか。
映画「真昼の暗黒」となった八海事件は冤罪事件としてよく知られるところですが、事件そのものは昭和26(1951)年1月、二度の最高裁差し戻しを経て、判決の確定を見たのが昭和43(68)年、今井正監督が映画化したのが昭和31(56)年でしたか。

もう昔も昔、古い話になりますが、この大阪で「八海事件」を採り上げ、「狐狩り」という創作劇に仕立てて上演したグループ(劇団)がありました。大阪はもう今はない大手前会館と京都は岡崎の京都会館第2ホールと、2回だけの公演でしたが、実は私もこれに参加していたのです。今から45年前の昭和38(63)年のことでした。私は高校を出たばかりの大学1年、まだ19歳になったばかりでしたが、所謂学内ばかりの発表形態ではなく、私にとっては一応本格的な舞台づくりの最初の一歩、それがこの作品だったのです。

と、正木ひろしの名に誘われて、とんでもない昔の私事を記してしまいましたが、ご容赦下さい。
お礼が末尾になってしまいましたが、お仕事柄なにかと忙殺の日々でありましょうほどに、昨年の会にもわざわざお運びいただき、ありがとうございました。
またお逢いできる日もありましょう、益々のご活躍を念じつつ。
  08 戊子 大寒  -林田鉄 拝

書信の相手、大深忠延さんはベテランの弁護士、私よりは何歳か年長の筈。
バブル崩壊のあと金融機関の破綻が吹き荒れた90年代、阪神・淡路大震災の傷跡なお生々しく残る平成7(95)年8月末、木津信用組合と兵庫銀行が相次いで破綻、定期預金と見紛う抵当証券被害が白日のものとなって騒動となった。その「木津信抵当証券被害者の会」弁護団の団長を務めた人。

この事件が結ぶ縁で、1400名近くの被害者原告団でよく動いた人々と、30数名を擁した弁護団の人々と、平成9(97)年の大阪高裁による和解調停の第一次解決を経て、平成14(02)年の最終解決をみるまで、一連の活動を通して親しく交わらせていただいたことは、私自身がにひとしく浮世離れの生涯ともいうべき身上であってみれば、まるで正反の、俗といえばこれほど俗な、泥にまみれた社会闘争ともいうべき世界に自身投入した数年間の体験として、まことに愉しく意義深いものがあった。

おかげで、人との交わりを大切にし、どこまでも義理堅い大深さんは、私がご案内する舞台に、なにかと都合をつけてわざわざ観に来てくださること幾たび、私にとっては望外の有難き人なのだ。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

有明の主水に酒屋つくらせて

2008-01-23 14:56:15 | 文化・芸術
Db070510051

Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-03

   たそやとばしるかさの山茶花
  有明の主水に酒屋つくらせて    荷兮

次男曰く
起承転結は造化の理である。その「転」にあたる「第三の句」を「長(タケ)高く」作れと。また、発句が客で脇が亭主の位なら、第三は相伴の位だ。相伴には客側もあれば亭主側もある。礼法の基本は一客一亭ではなく、相伴を加えた三人と考えるべきだ。この興業の連客はいずれも尾張衆で、その内の次客は、一統の指導者であり最年長者でもある荷兮であった。

「有明」は月のとばしり-残-である。月齢に思い付いたところが着眼の妙。繊月といえども宵の月はとばしりではない。

「酒屋」-酒蔵-もとばしる。熟成したもろみ麻袋に盛り、槽のなかに積み並べて圧搾すると、槽中はむろんのこと、桶口からもさかんに迸る。

尾張二代藩主光友候は、奈良より杜氏を招き醸造せしめしより、元禄頃には城下の酒屋軒を並べ隆盛を誇っていた。客と亭主の改まった挨拶を「まず一献」と執り成せば、これは亭主側相伴の即妙な取持ちになるが、たねが、自慢の地酒であれば猶面白い。「酒屋つくらせて」の狙いは、どうやらそこにありそうだ。

「主水」については古来いろいろと解釈が分かれるところ。
抑も尾張名古屋城の造営に際し、小堀遠州と組んで本丸御殿を作った中井大和守正清は、家康が京で召し抱えた法隆寺棟梁であるが、その子孫は代々幕府の京御大工頭となり、当代は中井正知従五位下主水正であった。この正知は法隆寺の元禄修理を手がけた人物であり、またさまざまな禁中作事を城の修理も手がけており、名古屋へ下ることもあったろう。

どうやら荷兮は、名古屋城を造った宮大工の末が杜氏になれば、その名は中井主水ではなく「有明」-とばしり-の主水になる、と云いたいらしい。直接には亭主野水の譬えだが、名古屋の町づくりが京文化の写しだった歴史的事実に照らせば、二人主水は、さすがに俳諧師らしいうまい目付だとわかる。

客が「こがらし」を云回しにつかって、都の狂歌師にひとふし持たせた風狂を以て名告れば、相伴は「有明」を云回しにつかって、京大工頭の名にひとふし持たせた杜氏の噂を以て亭主を引き立てる。モデルも、片や草子の人物なら片や実在の人物、どちらも名古屋にゆかりがあるというところがみそである。

作の手順は、発句・脇の仕様から時分を按じて、「とばしる-有明」を見出したか、それとももてなしの趣向として酒に思いつき、「とばしる-酒造」を取り出したか、どちらが先とも云えぬが、これは一途に合うはずだ、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

いちりん挿の椿いちりん

2008-01-22 16:06:23 | 文化・芸術
Db070509t012

Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」


-表象の森-
 一輪挿しの椿

ひさしぶりに山頭火の句を表題に掲げた。
<連句の世界->を掲載しないときには、山頭火に返り咲いて貰おうという次第だ。
句集「其中一人」に所収されている昭和8年の句。
念願の庵を得てめでたく「其中庵」の庵主となった日が前年の9月20日。
その日、山頭火は「この事実は大満州国承認よりも私には重大事実である」と書きつけた。
同じく12月3日には50歳の誕生日を迎えている。
そして新しい年を迎えて、ひとり静かな喜びにひたる。
1月6日「まづしくともすなほに、さみしくともあたゝかに。」
「自分に媚びない、だから他人にも媚びない。」
「気取るな、威張るな、角張るな、逆上せるな。」
などと記したうえで、3つの句を添えている。
  枯枝の空ふかい夕月があった
  凩の火の番の唄
  雨のお正月の小鳥がやってきて啼く

表題の句「いちりん挿の椿いちりん」は、この後まもなく詠まれたか。
句自体なんということもない月次な句だが、6畳ばかりの座敷に小さな床の間らしきところ、ぽつんと一輪挿しに椿一輪、自身の姿そのものであろうが、やっと得た、ほのかなやすらぎがある。陽光に照り映えた、命の輝きがある。

―今月の購入本-

・広河隆一編集「DAYS JAPAN –忘れられた世界-2008/01」ディズジャパン
特集の忘れられた世界とは、ソマリア、パレスチナ、そしてビルマである。また「薬害肝炎の源流」として731部隊ついても触れている。ほかに「動物の治癒力」の特集、etc.。
・ゲーテ「自然と象徴-自然科学論集」冨山房百科文庫 -中古書
「熟視は観察へ、観察は思考へ、思考は統合へ」、ニュートン以降の自然科学が、自然を眼には見えない領域へ、抽象の世界へと追いやろうとしていたとき、ゲーテは敢えてその敷居の手前に踏みとどまろうとした。彼にとって、直観によって認識された自然像は抽象的な数式ではなく、可視的にして具体的な「すがた」あるいは「かたち」だったからである。形態学と色彩論を軸にゲーテの自然科学論文を、文芸・書簡・対話録をも抜粋しながら、系統立てて編纂・訳出した書。
・ロバート.P.クリース「世界でもっとも美しい10の科学実験」日経BP社
美しい科学実験とは? 著者は「深さ-基本的であること、経済性-効率的であること、そして決定的であること」の3つをその条件として挙げる。帯のcopyには、ガリレオの斜面/斜塔、ニュートンのプリズム、フーコーの振り子など、科学実験の美しさを「展覧会の絵」のように鑑賞する、とある。
・スラヴォイ・ジジェク「否定的なもののもとへの滞留」ちくま学芸文庫 -中古書
スロヴェニア生れの哲学・精神分析学者であるジジェクは、ナショナリズムの暴走や民族紛争が多発する今日のポストモダン的状況のなか、ラカンの精神分析理論を駆使し、映画やオペラを援用しつつ、カントからヘーゲルまでドイツ観念論に対峙することで、主体の「空疎」を生き抜く道筋を提示する。90年代、「批評空間」に連載された前半部4章に後半部2章を加え、99年太田出版から刊行されたものの文庫版(06年)。
・傳田光洋「第三の脳」朝日出版社
消化器官の腸神経系を「第二の脳」としたマイケル・ガーションに倣って、著者は皮膚もまた「情報を認識し処理する能力において神経系、消化器系に勝るとも劣らぬ潜在能力を有しており、皮膚を第三の脳と位置づけることで、新しい生命観が生まれる」と宣言する。著者は資生堂ライフサイエンス研究センター主任研究員。
・新井孝重「黒田悪党たちの中世史」NHKブックス
伊賀の国名張の黒田荘は、もとをただせば奈良東大寺の荘園であった。長年にわたる東大寺との確執・軋轢から惣国として強固な水平型の結集を果たしていった黒田悪党衆だが、封建的タテ型原理で天下統一をめざす信長の前に敗れ去っていく。
・松本徹「小栗往還記」文藝春秋
著者は説経「小栗判官」を、歴史的仮名遣を用いて、しかも総ルビ付で、現代版の物語として復刻した。中世語り物の世界にいきいきと脈搏つ肉声の響きを甦らせたかったのであろう。
・邦正美「ベルリン戦争」朝日選書 -中古書
日本教育舞踊の創始者である著者は、1936年から45年までドイツに留学、ベルリンに滞在した。ドイツ表現主義の舞踊理論を、ルドルフ・ラバンやメリー・ヴィグマンに師事。ドイツ敗戦間際の5月9日、遠くシベリア鉄道に乗って日本へと帰国するべく、モスクワへ辿り着くまで、10年にわたるベルリン生活の、いわゆるエッセイ風滞在記。
・角田房子「責任-ラバウルの将軍今村均」新潮文庫 -中古書
戦犯として9年の服役を終えた後も、ラバウルの軍司令官今村均には「終戦」はなかった。釈放後もなお14年を生きた彼は、自宅庭先の三畳の小屋に自らを幽閉して戦没者を弔い、困窮している遺族や辛くも生還した部下たちへの行脚の旅が続けられた。
・他に、ARTISTS JAPAN 48-前田青邨/49-浦上玉堂/50-歌川国芳/-渡辺崋山

-図書館からの借本-

・T.シュベンク「カオスの自然学」工作舎
西ドイツの黒い森地方のヘリシュードで流体の研究をする著者は、ルドルフ・シュタイナーの研究者としても知られる。水をひとつの生命体としてとらえることによって、水の未知の性質を把握する一方で、流体の研究を通じて現代文明の歪みを指摘する。
・斉藤文一「アインシュタインと銀河鉄道の夜」新潮選書
ほぼ同時代人であった宮沢賢治とアインシュタイン、この二人の生きざまや自然観の接点を語りながら、古典物理学・相対性理論・一般相対性理論のエッセンスを解説。アインシュタインの神と賢治の法華経を通しての宇宙観の対比など。
・有吉玉青「恋するフェルメール」白水社
著者は有吉佐和子の娘でエッセイスト。フェルメール作といわれている作品は現在、世界に37点。神話が神話をよび、伝説が伝説をつくる。フェルメール・フリークたちは、全点制覇を夢見て世界の所蔵美術館に出かけて行く。
・アートライブラリー「フェルメール」西村書店
17世紀のオランダ絵画を代表するフェルメール。その代表作から貴重な作品までカラー50点を含む多数の図版を掲載・解説してくれる。
・遠藤元男「日本職人史Ⅰ-職人の誕生」雄山閣
日本の古代・中世における職人世界の図説集、452の図版を網羅して解説している。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

たそやとばしるかさの山茶花

2008-01-21 17:57:26 | 文化・芸術
Db070509t064_2

Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

-温故一葉- 内海辰郷君へ

寒中お見舞い。
さすがに大寒、このところ冷え込み厳しく、山里近くの箕面はちらほらと雪も舞ったのではありませんか。
年詞に代わるFPレター拝読、充実のご活躍と見受けられ、誠に慶賀の至りです。
2年、3年と短いあいだに、FPとしての活躍の場をずいぶんと多彩に拡げられているご様子を見るにつけ、さすがと感じ入っております。
それにしても好事魔多し、災厄・不幸はいつ襲いかかるとも凡俗には計り知れず、まこと一寸先は闇ですね。先の便りでは、厚い信頼を寄せてこられた支援の同志が急逝された由にて、衝撃とともにさぞ悲歎に暮れられたことでしょう。私にとっても一夜かぎりの御縁になってしまったこと、惜しまれてなりません。心よりお悔み申し上げます。

さて、「2月頃に結論を出します」と付記されておられましたが、なかなか難しい選択なのでしょうね。
阿波踊りなら「踊る阿呆に、見る阿呆」で、「同じ阿呆なら、踊らにゃ損々」ですし、吾々のような板の上にのるをもっぱらとする浮かれ者、制外の者ならば、選択の余地もないわけですが、正俗にあって事理をわきまえ誠実に生きんと欲せば、どこまでも冷徹に、客観の動きを見きわめることに尽きるのでしょう。
あくまで初心たる首長の座か、議員としての返り咲きか、あるいはいっさい動かぬか、二者択一ではなく三択問題かと思われますが、還暦を過ぎて残された人生の、おそらくは最後の大事というべき選択であってみれば、どこまでも虚心坦懐、平常心にて決せられることを。

合縁奇縁、奇妙といえば些か奇妙な糸に結ばれたご縁、いずれの選択にせよ、このたびばかりは、お役に立つならいくらでもする所存です。
では、いずれまた。
  08. 戊子 大寒     林田鉄 拝

内海君は2歳下、彼とは切れ切れながらの縁とはいえ奇妙なほどにつながりがある。
同じ九条界隈に育っているが、小学校区は異なり、中学・高校を同じくしたけれど、学校生活では特別の縁はなかった。私の生家からごく近所に叔父の家があり、そこには従弟妹らが4人居たのだが、2歳下の従弟が彼と中学時代親しくしていたと見えて、長じてその従弟の結婚式の司会役を務めたのが彼だった。顔は見知っていた彼の、そんな思わぬ場所への登場に、「おうおう、そうだったのか」と思ったのが初め。

さらに、私が家業から離れ、一人で自営をしていた頃のある日、軽トラックで狭い路地裏にある下請の溶接所に行った際、不覚にも近所の小学生の子どもと接触事故を起こしかけた。幸いにも直かに当りこそしなかったものの、ビックリした子どもははずみで転んで、泣き出してしまった。此方も慌てて子どもの怪我の様子をよく調べたうえで、そのお子さんの家を訪ねたら、なんとその親御さんが彼だった。

さらにもうひとつ、こんどは奧野正美を介して縁があった。奧野が大阪市議になった時、彼はすでに箕面市議となっていた。彼は2歳下の妹と二人兄妹だったが、その妹御が奧野と高校の同窓で、どうやら二人はほのかな淡い想いを抱いた者同士だったと見えて、そんな縁から選挙の応援やらと時に行き来が生じるようになった。

そして昨年の統一地方選挙、西区で立った谷口豊子の選挙では、彼も私も別々の筋から頼まれたのだが、結局ともに支える羽目になり、2.3週間という短い期間ながら、私は参謀役、彼はいわば切り込み隊長よろしく熱戦した。

彼は4年前、5期務めた議員職を退き、同じ箕面の市長選に挑んだのだが、惜しくも一敗地にまみれ、野に下っている。再び市長選に名告りを挙げるか否か、改選は8月、どうやら選択を決すべき時期は差し迫っている。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-02

  狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉
   たそやとばしるかさの山茶花     野水

次男曰く、野水は名古屋の町方に侘茶をひろめた先覚者で、後に惣町代を退隠しては転幽と号し、もっぱら茶の湯を友とし、俳諧の方は元禄6年頃を境に次第に遠ざかったとみえる。

「とばしる」は「迸る」だが、季語「こがらし」の扱いと云い訪客の体と云い、乾き切ったさまに発句が作られているから、水を向ける工夫をしたらしい。事実、当日は時雨とか雪催しの空だったのかもしれぬ。

「山茶花」は「俳諧初学抄」-寛永18(1641)年刊-以下に初冬として挙げられ、連歌書にはまだ名が出てこない。当時、まだ一般には物珍しかったはず。

客発句・亭主脇、同季に作る、という約束は連句の基本を挨拶と見る現れだが、初冬の風が花木を枯らすことになるかもしれぬ、と告げられれば、受けて、四文字で取り出せる花木はあいにくと山茶花ぐらいしかない。寒椿、早梅、蝋梅などは晩冬である。

はからずも新旧の季語を取り合わせて挨拶の趣向につかえた点が妙である。竹斎と違ってあなたは名手だし、吾々は若い花木だから、枯らされる心配はない、と読めばこれはわかる。「とばしる」に初々しさも現れる。

当時まだ珍しい山茶花は、堀沿いか路地口にでも植えてあったか、たぶんこれは実景だろう。

時に芭蕉41歳、野水27歳、同座の連衆もなおまだ若く、旅人の笠に「とばしる山茶花」は、そのまま名古屋町衆の心意気、かれらの若き日の姿だったと読んでよい、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。