Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」
-温故一葉- 外磯定光君へ
寒中お見舞い。
お年賀拝受。遅ればせながら、貴家ご一同、さぞ宜しき新年を迎えられたこととお慶び申し上げます。
私儀、甚だ勝手ながら本年よりハガキでの年詞の挨拶を止めましたので、悪しからずご容赦願います。
こうして年に一度とはいえ、届いた年詞の数々から貴方の名前を拝見するたび、私の脳裏に浮かぶのは、現在の-近頃ではいつお眼にかかったのだったか、亡母の法事の際であったか-貴方の面差しや姿形から、それこそ一気に50年ほどもタイムスリップして、あれは貴方が8歳か9歳頃だったか、遠路はるばる長崎から叔父さん叔母さんに連れられて、九条の私ら一家の許へと初めてのお目見得となった、その数日の間過ごした折の、同じ年頃の子ども同士とはいえ、私らの常識をはるかに超えたハチャメチャぶり、茶目っ気たっぷりのおどけた像で、それがまざまざと甦ってきては、ついニヤリと笑ってしまうのです。
その何日かの滞在のあいだに、お互いの家族打ち揃って枚方パークへ遊びに行った時に撮った一枚の集合写真が、ずっと私の手許にもありますが、この日も貴方は他を圧してハチャメチャぶりを発揮していたのですが、そういった諸々の像がいつしか圧縮されて私の内に貯め込まれたのも、その一枚の写真ゆえで、偶々これを眼にすることのあるたび反復強化され、この脳裏に焼き付けられてきたのでしょう。
これは長じての後知恵ですが、子のできぬ叔父・叔母夫婦に貰い子されたのが貴方だったとかで、あの心優しい叔父・叔母のことゆえ、その慈しみよう、可愛がりようも並大抵のものではあるまい。下にも置かぬ大切ぶりも、心遣いが過ぎればほんの薄皮一枚気を置いたものとなってしまうこともあろうか。実の親以上の大事にすればこその細やかな気配りが、子どもの頃の一時期とはいえ、あの気散じな、過剰なほどの茶目っ気を育てたか、と考えてみたりしたものでした。
戊子の年もすでに大寒、このところその名に恥じずこの冬一番の寒気とか、ご家族ともども呉々もご自愛下さい。
いつまでも和やかにお健やかに。
08 戊子 大寒
相手は3歳下の従弟。私の父には兄弟とていなかったから遠縁はともかくいわゆる親戚の類はみな母方に繋がる。
業が漁師とかで当時は遠く長崎に住んでいた叔父・叔母夫婦が定光君を伴い揃って我が家を訪れたのは、私が小5、彼が小2となるその春休みではなかったか。
今のご時世なら、幼い子どもの達者なエンターテイメントぶりも縦横無尽のハチャメチャぶりもまったく珍しくはないが、50年も遡れば稀なることで、彼のその道化ぶりは、大袈裟にいえばちょっとしたカルチャーショックものであった。とにかくこの家族が滞在した数日間の我が家は、賑やかこのうえなく笑いの絶える間もないほどに明るかった。
そんな強烈な印象を残して風のように去っていった彼と、再び会ったのはもうずいぶん年月を経てからの筈だが、これがどうにも思い出せないのである。彼に会えば決まって私はあの時の像へと還っていくので、その折々の印象を作らないのかもしれない。
<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>
「狂句こがらしの巻」-04
有明の主水に酒屋つくらせて
かしらの露をふるふあかむま 重五
次男曰く、
「前句、恋とも恋ならずとも片付けがたき句ある時は、必ず、恋の句を付けて前句ともに恋になすべし」-三冊子-という芭蕉の言葉がある。
作法は恋句にかぎらぬ。前(第三)は「とばしる」を時分-有明-に見定めた、もともと雑の作りだが、月とも月でないとも読める詞を含んでほかに季語を持たぬ句を承ければ、継句は秋季以外にない。
当然、付を得て季-秋-と月の座が定まることは予め荷兮自身の計算の内にもあるが、表六句の月の定座は五句目である。解釈も期待もなしに勝手に月を引き上げているわけではない。「とばしる山茶花」と結べば、寒造りも近いと悟らせ、「露」と結べば、新走り-今年酒-の仕込と読み取らせる。
荷兮句は、亭主介添えの重責を果たしながら同時に、次座を抱え込んで運びの一転をはかる狙いの作りだ。
重五の句は雑を秋に奪った二句一意で、朝露にぬれて人も馬もきびきびと働く、というほかには特に云うべきこともなさそうに見え、従来の評釈はいずれも、其の場を付けた遣句(ヤリク)と見ているが、そうではない。前句を「まず一献」の云回しと考えれば、解釈は全く別になる。「かしらの露をふるふあかむま」とは馬も甘露-新走り-の香に酔う、ということだろう。
酒を「赤馬」と呼ぶ隠語は、貞享頃まだ無かったと思う。句は、杜氏の名をまず有明月の実に執り成して秋露を付け、次いで「露」を甘露の虚に執り成して、白も色に出るさまに作り進めている。したがって「あかむま」は、云うなれば「露」の陰-含-を暗示する表現である。景に即せば、新酒一駄-二樽-を背に負い、陶然と首振り歩む詩神の姿でも思い描けばよく、実用馬の骨格などここになぞる必要はない、と。
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