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山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉

2008-01-20 19:40:47 | 文化・芸術
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Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

-表象の森- 連句の世界

塚本邦雄による、曰く「白雉・朱鳥より安土・桃山にいたる千年の歌から選りすぐった」とされる「清唱千首」-冨山房百科文庫-から、毎回2首を採りだし邦雄の解説とともに書き留めてきたのも500回を数え、前夜でようやく終えたことになる。
つづいてなにを採り上げるべきかと、いくつか思いめぐらせてみたが、わが四方館の身体表現、その即興のPerformanceを「連句的宇宙」などと事大に形容して憚らぬ厚顔の輩なれば、やはりここは一番、蕉風連句の世界にしくはないと思い定めた。
その昔折々に読んだ安東次男氏の「芭蕉連句評釈」-講談社学術文庫刊の上下本-をテキストに引いてゆくことになるが、この詳細な解釈・評言から要の部分を点描するのは、なかなかに骨も折れようし、浅学のわが身には荷が重すぎること必定、とんだ見当違いを犯すこと度々になるやもしれず、なにかと失笑やら叱責を買うことになろうが、そこは誰のためのものでもない、なによりこの痴れ者が手習いの忘備録、ここは恥も外聞もなく開き直ってはじめるより外はない。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-01
この歌仙は、貞享元(1684)年10・11月、「野ざらし紀行」中の芭蕉を迎えて名古屋で興行された「冬の日-尾張五歌仙」所収の最初の巻である。
この時、芭蕉41歳。他の連衆は、野水(ヤスイ)27歳、荷兮(カケイ)37歳、重五(ジュウゴ)31歳(?)、杜国(トコク)28.9歳(?)。

  狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉   芭蕉

前書に「笠は長途の雨にほころび、帋子(紙子)はとまりとまりのあらしにもめたり。侘つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂歌の才子、此国にたどりし事を不図おもひ出て、申し侍る」と。

次男曰く、藤原定家が建仁元(1201)年)千五百番歌合に出詠の恋歌
「消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの杜の下露」
まず初句切れに詠み起こし、秋に飽き、木枯しに焦がらし、杜には守を掛けて、こがらしの杜は駿河の国と歌枕に聞かされているが、凋落の杜を守る下露のような自分には、それどころではないと、云回しの曲を尽くしている。
歌枕に面影をとどめて跡絶えた、由緒ある恋の詞を芭蕉が、知らなかったなどということはありえない。再興してみたい、とも俳諧師なら当然思うはずだ。
「こがらしの、身は竹斎に似たる哉」、「こがらしの身は、竹斎に似たる哉」、両方に読ませるところが俳句という形式の面白さで、前なら「こがらしや身は竹斎に似たる哉」と言っても同じだが、後の方は自ずと二義にわたる。それを利用して、恋ならぬ、句の道に痩せると知らせたければ、「狂句こがらしの身は」としか云い様があるまい。
さらには、仮名草子「竹斎」の諸板に見える
「無用にも思ひしものを薮医師(クスシ)花咲く木々を枯らす竹斎」という戯れ歌。
芭蕉は、この戯れ歌を目当てとしたか、なれば「むかし狂歌の才子、国にたどりし事を不図おもひ出て、申し侍る」と、ことわったうえで句を以て名告りとしたのであろう。
そこに気がつけば、私も竹斎同様にあたら花のある木々(あなたがた)を枯らしかねない、という虚実含みを利かせた謙退の挨拶も自ずと読み取れるはずだ、と。


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明日よりは志賀の花園まれにだに‥‥

2008-01-19 15:02:18 | 文化・芸術
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Information「Arti Buyoh Festival 2008」

-温故一葉- 鳥越修二君へ

 寒中お見舞。
年賀拝受。私儀、甚だ勝手ながら本年よりハガキでの年詞の挨拶を止めたので、悪しからずご容赦。
斯様に年詞ばかりの往返となってもう20年ほども経つのだろうか。
そういえば、夜分だったと記憶するけれど、一度きり西大寺のお宅にお邪魔したことがあったが、あれはいつ頃のことだったのだろう? なんでそういうことになったか経緯もなにも、車を走らせ何故か菖蒲池の側を通って行ったかと思うが、想い出そうにもそれ以上のことは少しも浮かんでこない。あの時、もうお子さんが生まれていたのだっけ、ひょっとするとそれで行ったのだったか?
そうそう、君の父上が亡くなられた折、弔問に宇治の萬福寺近くに伺ったこともあったが、あとさきでいえば、さてどちらが先だったのか?
それ以後、萬福寺へはたしか二度訪ねたことがある。中国風だという些か世俗臭のする滋味あふれた十八羅漢像が印象深く、一度は年の瀬も近かった頃なのだろう、その羅漢たちがプリントされた暦を買って帰ったのを覚えている。

さて私はといえば、奧野正美が大阪市議に初当選したのが87年、この時は君も影で動いて票を集めたと言っていたね。その翌年、私は彼の事務所に身を預けるように転身した。四方館という名を外さなかったものの、裸同然のゼロスタート、生き直しのようなものだった。以後丸12年を事務所で過ごして、独りで小さなofficeを構えたのが00年、それも2年前に畳んで、今は自宅で隠居同然といえば聞こえはいいが、日々読書三昧やら幼な児相手に細々と暮らす身だ。
そうだ、君も知らないままで吃驚させてしまったらまことに恐縮だが、私の現在の同居人たちは、27歳下の妻と、この春小学校へあがる6歳の娘との3人家族だ。健康診断や人間ドックなどさらさら縁もなく、昨年2月に左肩鎖脱臼で3日ほど入院したのが病院暮らしの初体験で、呼吸器臓器など異状の心配は露ほどもないような私だから、おそらくこの先、この形で10年、15年を生きるだろう。まだまだ残された時間はかなりあるようだから、いつかどこかで、懐かしく相見える機会も訪れようか。

君に向かってこうして綴りながらも、その傍らどうしても脳裏に浮かんで消え去らぬもの、それは馬原雅和の面影であり、東京での、その事故死の通夜の光景だ。
あの夜、遠く宮崎から駆けつけた彼の父親と弟さんから「生前はお世話に、云々」と丁重な挨拶を受け、ただ黙するのみだった私‥‥、なんという皮肉、なんという悪戯。
  08 戊子 1.18   林田鉄 拝

私は1974(S49)年の春から1981(S56)年の7年の間、関西芸術アカデミーの演劇研究所・昼間部に、週1回2時間・1カ年の身体表現の講座を担当していた。昼間部研究生でいえば4期生から10期生までにあたるはずだが、鳥越修二君はその6期生だった。馬原雅和君は4期生、私がアカデミーで指導した初めての生徒だ。
両君とも1カ年の研究生を了えて、それぞれ劇団に入団していたのだが、私との繋がりもまた保っていた。78年の「走れメロス」の準備に入った頃(77年)は、彼らは相前後してともにアカデミーを辞し、私方の研究生となっていた。
馬原君が演劇への新しい夢を追って東京へと、私の元を離れていったのは80年春だったが、その翌々年の春先か初夏の頃だったか、ある劇団に所属しながらアルバイトに明け暮れていた彼は、深夜というより明け方近か、首都高速上での工事車両の架台上で作業中、暴走した居眠り運転のトラックが激突、彼の身体は宙に舞って高架から地上へと落下、墜落死した。即死あるいはそれに近いものであったろう。
宮崎県の高鍋町出身だった彼は、180㎝を優に越える長身だが、木訥・篤実を絵に描いたような人柄で、地味ながら周囲から信頼の集まるタイプだった。惜しまれる無念の死であった。
鳥越君は京都宇治の人、隠元を祖師とする黄檗山萬福寺を中心にして煎茶の家元各流派が組織されているようだが、そのなかの一派をなす家元の家に生まれたと聞くも、彼自身は一時期レーサーに憧れたようないわゆる現代っ子で、モダンな一面と義理堅く古風な気質を併せもった青年であった。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-110>
 明日よりは志賀の花園まれにだに誰かは問はむ春のふるさと  藤原良経

新古今集、春下、百首奉りし時。
邦雄曰く、新古今集春の巻軸歌は正治2(1200)年後鳥羽院初度百首・春二十首のこれも掉尾の一首。微妙な呼吸の二句切れ、朗々と、しかも悲しみを帯びた疑問形四句切れ、体言止め、古今の名作と聞こえ、その閑雅な惜春の調べは現代人の琴線にも触れよう。志賀の花園は天智帝の故京で桜の名所として聞こえていた。明日とはすなわち夏、四月朔日を意味する、と。

 行く春のなごりを鳥の今しはと侘びつつ鳴くや夕暮の声  邦輔親王

邦輔親王集、三月盡夕。
邦雄曰く、、惜春譜の主題を鳥に絞った異色の作。鶯と余花・残春の拝郷は珍しいが、春鳥の、それも「夕暮の声」に象徴したところがゆかしい。三月盡を「今しは」と感じるのは、鳥ならぬ作者自身、縷々として句切れのない調べも、歌の心を盡して妙。同題に「慕ひても甲斐あらじかし春は今夕べの鐘の外に盡きぬる」があり、これもまた「鳥」に劣らぬ秀作、と。


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たちどまれ野辺の霞に言問はむ‥

2008-01-18 15:14:43 | 文化・芸術
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Information「Arti Buyoh Festival 2008」

-温故一葉- 時夫兄へ

 寒中お見舞。
「美ら海」公演、盛況裡に無事終えられたことと推察、お疲れさまです。
師走の会合では相も変わらず同胞寄れば乱調を呈する倣い未だ修まらず、またしても不興を買ったようで恐縮の至り、一言陳謝申し上げます。

近親にあってその愛憎はとかく自制効かず赤裸々に表れやすいものとの分別はあっても、ほぼ年に一度きりの寄合に、滅多に顔を合わせぬ者同士が会えばかならず一波乱あるは、四十、五十と齢を重ね、四角の角もほどよく取れて、他人様からはようよう円くなったものと評されるというのに、これも他人様と違ってなに憚りない骨肉ゆえと思うけれど、すでに赤子に還って三つ四つと歳を重ね、おのが人生もそろそろ黄昏時なのだから、いかなる場合においても互いに他者としてきちんと必要な距離を置けるようにありたいものです。

さてここからが本題ですが、近頃読んだ本で「砕かれた神-ある復員兵の手記」(岩波現代文庫@1100)というのがあります。砕かれた<神>とはもちろん昭和天皇のこと。著者の渡辺清は、静岡県富士山麓の農家に生まれた次男坊で、高等小学校を卒えてすぐ志願して海軍の少年兵となり、昭和19年10月のレイテ沖海戦で沈没した戦艦武蔵の砲兵だったが、奇跡的に生還した人。終戦を迎えて復員後の虚脱感のなかで、生家へ身を寄せた昭和20年9月から再起をかけて故郷を立つ21年4月までを、嘗ては限りない信仰と敬愛を捧げ、生きた偶像であった天皇の、戦中-戦後における<神から人へ>の変貌を正視しつつ、その像の瓦解と幻滅、そして怒りと否定へと、自身の天皇観の劇的な変化を、田舎暮らしの生活感あふれる細部とともに、日記の体で綴っているもの。厳密にいえば、本書初版は昭和52(77)年だから戦後30余年を経ており、部分的には後書きともいえる文章整理がされていると見られるのだが、それはたいした瑕疵にはなりますまい。素直に読んでなかなか感動ものです。

再起後の彼は働きながら進学、後年、作家・野間宏を囲み、雑誌「思想の科学」の研究員を経て、「わだつみのこえ」-日本戦没学生記念会-の事務局として活動、本書の他に「海の城」「戦艦武蔵の最期」「私の天皇観」の著書があるようです。余談ながらジョン・ダワーの大著「敗北を抱きしめて」(上下)のなかで、著者と「砕かれた神」について20数頁にわたって触れられています。

こういったものが劇化されるのを私などは望むのだけれど、さて其方の眼鏡に適うかどうかはなんとも図りかねますが、一度読んでみてはとお奨めします。
  08 戊子 1.17   林田鉄 拝

時夫は一卵性双生児の兄、一家の三、四男として、ともに生れともに育った。
高校卒業まで常に一緒で、クラブまで同じで、まさにシャム兄弟同然だったが、大学で関学・同志社と分かれた。
物心ついた頃から濃厚な親和力に包まれていた二人が、果敢な青春期を異なる道へと歩みはじめた時、反感情が渦巻き、激しく牙を剥きあった。この間の事情をあきらかに書き留めるには相当な労苦を要するので、いまはこれ以上触れない。
間遠になってから40年余となるが、たがいに大阪を離れることはなく、現在もともに市内に住んでいるのだが、相見える機会といえば、冠婚葬祭の類かどうにも避けられぬお家の事情といったところで、年に一度か二度きり。
年詞のやりとりもないから、書面をもって音信するなどもちろん初めてのことだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-109>
 たちどまれ野辺の霞に言問はむおのれは知るや春のゆくすゑ  鴨長明

鴨長明集、春、三月盡をよめる。
邦雄曰く、命令形初句切れ、願望形三句切れ、疑問形四句切れ、名詞止めという、小刻みな例外的な構成で、しかも霞を擬人化しての設問、好き嫌いはあろうが、一応珍しい惜春歌として記憶に値しよう。晩夏にも「待てしばしまだ夏山の木の下に吹くべきものか秋の夕風」が見え、同趣の、抑揚の激しい歌である。いずれも勅撰集に不截。入選計25首、と。

 春のなごりながむる浦の夕凪に漕ぎ別れゆく舟もうらめし  京極為兼

風雅集、春下、暮春浦といふことを。
邦雄曰く、結句に情を盡したところが為兼の特色であり、好悪の分かれる点だ。初句六音のやや重い調べも、暮れゆく春の憂鬱を写していると考えよう。作者の歌には、表現をねんごろにする結果の字余りが、多々発見できる。風雅集は巻首に為兼の立春歌を据え、計52首を選入した。人となりは「快活英豪」であったと、二十一代集才子伝に記されている、と。


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根にかへるなごりを見せて木のもとに‥‥

2008-01-17 11:49:57 | 文化・芸術
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Information「Arti Buyoh Festival 2008」

-表象の森- 客観が動く

吉本隆明が「思想のアンソロジー」(P21)で「イエスの方舟」の千石イエスが使った表現として言挙げしている。
以下、吉本の解説に耳を傾ける。

「鮮やかに耳や眼にのこる独特な、水際だった言葉で、とてもいい言葉だと思う」

「意味は、<自分の魂の動き(心の動き、情念や理念状態)とは違った外側の条件が変わる>ということだと受けとれる」

「信仰は(主観)は無際限に自由で限界など一切ないけれど、客観的な情況の変わりように従って形は無際限に変わるものだという、千石イエスの宗教者としての真髄がこの独特の言い方のなかに籠められている気がする」

「わたしは比喩的にこの宗教者を、受け身でひらかれている点で、中世の親鸞ととてもよく似た宗教者だ思う」

「客観が動けば、信仰(主観)はそのままで変わらなくても、信仰(主観)の行為は変わりうる」

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-108>
 今日暮れぬ花の散りしもかくぞありしふたたび春はものを思ふよ  前斎宮河内

千載集、春下、堀河院の御時、百首の歌奉りける時、春の暮をよめる。
邦雄曰く、千載・春の巻軸歌に採られただけのことはある。選者俊成の目は各巻首・巻軸に、殊に鋭い。初句切れ・三句切れ・感嘆詞止めの構成は、惜春の情纏綿たる趣をよく伝えた。第三句の字余りで、たゆたひを感じさせるあたり、選者は目を細くしただろう。下句の身をかわしたような軽みも面白い。作者は斎宮俊子内親王家女房、勅撰入集は計6首、と。

 根にかへるなごりを見せて木のもとに花の香うすき春の暮れ方  後崇光院

沙玉和歌集、応永二十二年、三月盡五十首の中に、暮春。
邦雄曰く、和漢朗詠集の閏三月に藤滋藤作「花は根に帰らむことを悔ゆれども悔ゆるに益なし」云々の詩句あり。出典未詳の古語を源とするが、これの翻案和歌は甚だ多い。後崇光院は十分承知の上で、「花の香うすき」の第四句を創案、一首に不思議な翳りを与え、非凡な暮春の歌とした。散り積った花弁の柔らかな層まで顕つ、巧みな修辞である、と


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ながめやる外山の朝けこのままに‥‥

2008-01-16 14:17:50 | 文化・芸術
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Information「Arti Buyoh Festival 2008」

-温故一葉- 三好康夫さんへ

 寒中お見舞い申し上げます。
お年賀拝受。私儀、甚だ勝手ながら本年よりハガキでの年詞の挨拶を止めましたので、悪しからずご容赦願います。

昨夏は、神戸学院Green Festivalの「山頭火」に、明石の山手という遠方まで、わざわざお運びいただきありがとうございました。「山頭火」につきましては、たびたびのご愛顧ご贔屓に与り、まことに感謝に堪えません。
大文連のほうも、私とほぼ同年の高田昌君が会長にと、ぐんと若返った陣容となり、ながらく沈滞気味の関西文化に大いに刺激剤となるのを期待したいものですね。

敢えて高田君としたのは、昔は彼とも縁の深い一時期もあった所為なのですが、70年代、彼が関芸を退き、舞台監督として自立をはじめた頃でしょうか、照明の新田君の強い薦めもあって、私方の舞踊や演劇公演で舞監として支えて貰っていたのです。高田・新田両君という、私にすれば最良の舞監・照明コンビがStuffとして、この時期よくその才を発揮し、支えてくれたからこそ、78(S53)年の「走れメロス」へと結実し得たのだという想いは、昔も今も変わりません。

さらに遠く十年ばかり遡って66(S41)年の春、「港文化の夕べ」なる、いまでいう港区民ホールで行われた地域文化の小さな催しが、大先達の貴方と私の出会いでありました。私たちは、当時大阪税関であった労働争議を描いた創作劇に関係者より依頼を受け、演出及び協力出演をしたのでしたが、この終演後に貴方からさりげなくいただいた一言が、弱冠21歳の私にとっては忘れ得ぬ宝となって、いまなお鮮やかに胸中深く抱かれております。
後にめぐりめぐって、大文連事務局の西美恵子女史の夫君が、当時の税関労組の闘士であり、この創作劇の出演者でもあったという、そんな不思議な縁の糸に繋がっていたとは、さすがに驚き入ってしまいましたが‥‥。

翌67(S42)年の春、遅まきながら私は、関芸演劇研究所に第11期生として入所します。当時の指導責任者は道井直次さんでしたが、12月になって前期卆公のレパ選の際、私が推した作品で一悶着あって、私は研究所を退いたのでした。この時、問題の収拾に指導力を発揮されたのが小松徹さんで、これまた十年を経て、その小松さんと「走れメロス」で協働することになるのでした。
まこと人と人との綴れ模様、不可解ともまた隠れたる糸ともみえ、おもしろ可笑しきものですね。

なにはともあれ、朝夕の冷え込みも厳しくなり、ご高齢の御身、呉々もお気をつけてお過ごし下さいますように。  
  08戊子 1.16  林田鉄 拝

三好康夫さんはもう90歳にも届かれよう高齢の大先達。
関西芸術座の創立メンバーであり、劇団にあって主に制作や経営の人。私が初めてお逢いした67(S42)年当時は代表者であったはずだ。
関芸は創立時から演出家であり俳優でもあった岩田直二氏が代表を務めたが、中ソ論争の激化のなか、63(S38)年に志賀義雄らが日本共産党に除名されるが、こういった路線対立の紛争が劇団にも影を落としたのであろう、岩田直二が代表を退き、中間派の三好さんが推されてなったのであろう。
60年代から70年代、政治と文化のあいだは党派性をめぐる相剋にたえず揺れ動いた時代でもあった。その激しい波のなかで、やがて三好さんも代表の座を辞し、関芸を去っていく。
その三好さんが中心になって、大阪府内を拠点に活動する芸術・文化団体の相互交流のため、大文連(大阪文化団体連合会)を全国に先駆けて結成するのが、いまから30年前の78(S53)年である。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-107>
 つれなくて残るならひを暮れてゆく春に教へよ有明の月  二条為世

新後撰集、春下。
邦雄曰く、命令形四句切れの擬人法、技巧を盡した第一・二句あたりが、二条家流の特色でもあろう。鎌倉時代後期の歌風は、新古今調に今一つの新生面を拓くことに懸命な様が見られる。この歌は後宇多院在位時代に、「暮春暁月」の題で歌を召された時のもの。「て」が重なるところが煩わしいが、口籠りがちに歌い継いでゆく呼吸も感じられて捨てがたい、と。

 ながめやる外山の朝けこのままに霞めや明日も春を残して  藤原為子

玉葉集、春下、暮春朝といふことを人々によませさせ給ふけるに。
邦雄曰く、作者の玉葉集入選56首、春は6首を占め、いずれも心に残る調べだが、春下巻末に近い、「外山の朝け」は一入に余情豊かである。「このままに霞めや」の、願望をこめた命令句が、上・下句に跨るあたりも格別の面白さで、結句の「春を残して」なる準秀句が一際冴える。調べの美しさは、春の巻軸歌、為兼の三月盡を歌った作を凌ぐ感あり、と。


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