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山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

旅人は鴉に啼かれ

2010-03-26 23:56:15 | 文化・芸術
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-四方のたより- Unit U Performance

明日、明後日と、應典院で、小嶺由貴が踊る。
ここ数年、彼女はカルメンへの思い入れが強いらしい。
タイトルも、Liberte selon CarmenⅡ、としている。
デカルコ・マリィが共演、
演奏には大竹徹と田中康之の両氏と、この人は存じないが、Fluteの津上信子。

Komine100327

-表象の森- 筆蝕曼荼羅-明代の書、徐渭

石川九楊編「書の宇宙-№17-文人という夢・明代諸家」二玄社刊より

徐渭「美人解詞」
徐渭の美人解詞は、展度、捩度など、対象に対するあらゆる攻略法が寄せ集められた筆触曼荼羅、書史上の奇書である。

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鑼皷聲頻。街坊眼漫。不知怎上高騎。/生来少骨多(飛)筋。軟斗騰飜。依稀畧借鞭和/轡。做時鶻打雪天風。依猶燕掠桃花地。下地。不亂些/兒珠翠。湛描能舞軍装伎。多少柳外妖嬌。樓/中埃指。顛倒金釵墜。無端歸路又逢/誰。斜易繋馬陪佗酔。  青藤道士。

<中埃>の<中>の右上から左下へ向かう筆触、<埃>の最終筆の右上から左下へ向かう、筆毫の表裏状態に頓着しない筆触に見られるように、裏技も使うといった体。最終部<馬陪佗酔>は、筆毫が捩れたままでも強引に書き進んでいる。
捩れもあれば捻りもあり、正攻もあれば、横ざまに斬り込むことも、反攻もある。呼気で対することもあれば、吸気で返す力を使うということもあるといった趣き、無法の書の極致である。

徐渭「行書七絶詩」
美人解詞と比較してみると、筆触上の多彩、多様な面白さは少ない。それでも、書き始めの<一>から書き終わりの<仙>まで、ほとんど対象に対して筆毫が正対することがなく、いつも斜めの角度で対しているという書きぶりである。

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一篙春水半渓烟。抱月/懐中枕斗眠。説/與傍人揮不識。英雄/回首即神仙。 天池。

<水>の最終画、<月><枕><眠>の細い斜筆や縦の筆、<英>などに、斜めの角度で切り込む姿が覗見される。それは、いわゆる側筆というようなものではなく、対象-社会-に対して斜めの角度で対する姿の露岩なのだ。
明代になると対象-社会-も明瞭な姿を現わし、また、作者の側もこれに対する明瞭な角度-スタイル-を持つようになったことの現れである。

―山頭火の一句― 行乞記再び -14-
1月5日、晴、行程9里、赤間町、小倉屋。

歩いた、歩いて、歩いて、とうとうここまで来た、無論行乞なんかしない、こんなにお天気がよくて、そして親しい人々と別れて来て、どうして行乞なんか出来るものか、少しセンチになる、水をのんでも涙ぐましいやうな気持ちになつた。

※表題句は、12月31日付記載の句。


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ラヂオでつながつて故郷の唄

2010-03-25 23:34:22 | 文化・芸術
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-表象の森- 筆蝕曼荼羅-明代の書

石川九楊編「書の宇宙-№17-文人という夢・明代諸家」二玄社刊より

東アジアでは、画は書に含まれる、書の一変種である。書の表現の要である筆蝕は、画の筆蝕へと枝分かれし、書を書くように、画を描くことが始まつた。その筆蝕の分化を通じて、書の筆蝕もまた幅を広げ、「アタリ」や「コシ」の行儀良さを超える直接的、比喩的にいえば絵画的筆触をも大幅に含み込むことになり、書はずいぶんと画と化した。同時に、書から生まれた画の方は、いつまでも書との臍帯を絶つことができずに、文人画、水墨画という、西欧のようには対象を描かず、色彩もさしたる意味をもたず、西欧画の観点からいえば絵画とはとうてい考えられないような特異な絵画とその歴史を生むことになったのである。

祝允明「杜甫秋興詩」

明代に、書の表現領域は大幅に拡張された。筆を開ききった展度の筆触、筆毫の捩れをものともしない捻度の筆触、開いた筆を強引に回転する筆触、ねじこみ、こすりつけるような筆触、力を内に貯めた厳しい筆触、ピシッと打ち込まれる点、なめらかな筆触の舞い‥。

祝允明の杜甫秋興詩は、速度、深度、角度、さらには展度や捩度-Twist-、捻度-Drive-など、筆触のあらゆる可能性が解放されている。戦後前衛書道並の表現といっても言い過ぎではなく、伸び、縮み、右に倒れ、左に倒れる構成展開の妙味、等々‥。

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昆明池水漢時功。武帝族旗在眼中。/織女機絲虚夜月。石鯨鱗甲動/秋風。波漂菰米沈雲黒。露冷蓮房/墜粉紅。關塞極天唯鳥道。江湖満地/一漁翁。 枝山。

<米>の第1、第2画などは、起筆や点を打つときのピシッという音が聞こえ、筆毫の開く様子が見えるようであり、<鳥>や<湖><翁>などでは、無理に筆毫を捩り回転させる。<月>の、打ち込んで擦過するような書きぶりは、この時代になって初めて表現されるようになった、絵画的筆触である。ほとんど行間が見えず、行が明瞭に立ち上がらないが、これも絵画的構成の書への侵入である。

―山頭火の一句― 行乞記再び -13-
1月4日、晴、行程わづかに1里、金田、橋元屋

朝酒に酔つぱらつて、いちにち土手草に寝そべつてゐた、風があたたかくて、気がのびのびとした。
夜もぐつすり寝た。
此宿の食事はボクチンにはめづらしいものだつた。

※表題句は、前日記載のもう一つの句。


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ボタ山の間から昇る日だ

2010-03-24 23:32:17 | 文化・芸術
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-温故一葉- 何人かの友人へ

同封チラシは、小生デザインのものです。
私が斯様な企画に若干の関わりがあるというのも些か意外なことでしょうが、ご案内言上致します。

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松浦ゆみは、往年のオールデイーズポツプス出身の歌手で、歌唱力には定評のあるところ。
彼女は以前より市内港区に在住していることもあり、私が‘88年より‘00年までの12年、港区選出の市会議員奥野正美君-若かりし頃の演劇仲間-の事務所活動に携わるようになってから、いろんなイベント絡みで関わり合うようになったもの。今では結構長い付合いとなりました。
下積みの長かった苦労人も、桂三枝の作詞「もう一度」の曲を得てメジャーデビューとなったのがちょうど10年前、この年のデビュー公演から以後、この手の世界とは門外漢の私ながら、ディナーショーなどさまざまに、企画制作や演出面をサポートしてきたといった間柄です。

この2月、彼女は積年の持病であった心臓の手術をしました。このまま放置すれば、「数年で死は免れ得まい」との医師の宣告を受けての、往きて戻りえぬかも知れぬ、覚悟の手術だったようです。
この企画、その手術前からすでに立ち上がっていたものですから、きっと彼女は、無事生還しなければまさに死人に口無し、「ご免なさい、みなさんサヨナラ」の心境だったのでしょう。
先日、久しぶりに会った彼女は、「歩くとまだ胸の傷に響くの」と言いつつも、開き直ったような一皮剥けた明るい表情を見せていたのが強く印象に残ったものです。

もう日時も迫っておりますが、偶さか時間も合って金銭にも余裕あって、ひとつ参じてやろう観てやろうかと思し召しの節は、私方までご連絡を。
  2010年3月.春分玄鳥至    林田鉄 拝

-表象の森- 一休宗純の書
石川九楊編「書の宇宙-№16-知識の書・鎌倉仏教者」二玄社刊より

一休宗純「霊山徹翁和尚、示栄衒徒法語」

この書は、一休宗純が宗峰妙超の弟子・徹翁義亨の戒語を記し、後に「工夫‥」以下の詩-偈頌-を付したもの。
狂雲子とは一休自らが名告つた号だが、まさしく<狂>の名にふさわしい書である。
楷・行・草、単体・連綿、直・曲、大・小、疎・密、肥・痩、潤・渇、筆毫の開・閉、さまざまな要素がこきまぜられた筆触曼荼羅の趣き。

起筆を明らかにしない草率な書きぶりには、中峰明本、宗峰妙超とのつながりが感じられ、かすれの多用は、張即之、蘭渓道隆の匂いがある。近世日本の禅僧の、文字の骨格に頓着しない「書ならざる書」といってもいい無法の書-墨跡-のはしりではあるが、諧謔があり、余裕があり、その気宇は壮大である。
使用印の輪郭が格別に太く、元代の九畳篆風である。

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凡参禅学道之輩。須日用清浄。不可日用不浄。所謂日用清浄者。究明一則因縁。到無理會/田地。晝夜工夫不怠。時々裁断根源。佛魔難窺處。分明坐断。往々埋名蔵迹。山林樹下。擧/楊一則因縁。時無雑純一矣。謂之日用清浄人也。然而稱吾善知識。撃杖拂。集衆説法。魔魅/人家男女。心好名利。招學者於室中。道悟玄旨。使參者。相似模様。閑言語。使教/者。片个情也。這般輩也。寔日用不浄者也。以佛法爲度世之謀。是世上榮衒之徒也。凡有身/無不着。有口無不食。若知此理。豈衒於世哉。豈諛於官家哉。如是之徒。三生六十劫。/入餓鬼。入畜生。可無出期。或生人間。受癩病之苦。不聞佛法名字。可懼々々。/右霊山徹翁和尚。示榮衒徒法語。一休子宗順謹題。后云工夫不是涅槃堂。名利/耀前心念忙。信道人間食籍定。羊糜一椀橘皮湯。

一休宗純「初祖号」

近世に入ると、茶席に禅僧のいわゆる一行書を掛ける習慣が日本に定着するが、その走りともいうべき書。
字画のはっきりしない荒々しいかすれから、竹筆-竹を割き、叩き、繊維状にした筆毫の筆-を用いて書いたものと思われる。

この書の最大の見所は<達>。<達>の前半部は、おそらく逆字-裏字-で書かれている。ここに一休の逆転の意志を読取ることは許されよう。書き慣れない書法のため、意識的に書かざるを得ず、速度は落ち、墨がくっきりと濃く付着している。<辶>部の最終筆が揺れながら、しかも筆毫を開いたまま右上に押し上げ放たれている筆触は、狂雲子の名通りの、ま狂中の狂。右上から右下へ向けてすばりと斬り込み、筆毫を開ききったままはらう<堤>の最終画も無法。

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初祖菩提達磨大師

―山頭火の一句― 行乞記再び -12-
1月3日、晴曇さだめなし、緑平居。

終日閑談、酒あり句あり、ラヂオもありて申分なし。
香春岳は見飽かぬ山だ、特殊なものを持つてゐる、山容にも山色にも、また仏説にも。

※表題句の外、1句を記す


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風にめさめて水をさがす

2010-03-23 23:33:18 | 文化・芸術
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-表象の森- 親鸞の書

石川九楊編「書の宇宙-№16-知識の書・鎌倉仏教者」二玄社刊より

親鸞の正像末和讃は、整った文字でも、また端正に書かれた文字でもないが、細身の書線と字姿の陰に勁-つよ-い言葉の存在感があり、目の覚めるような鮮やかさがある。
横画や右ハライにいくぶん和様の匂いがあるが、反りと撓みをもつ強靱な横画、切り込むがごとき鋭い左ハライ、また大きくふりまわす左ハライの筆触は、厳しく勁い。

細いことは弱いことに結びつきやすいものだが、ここでは逆に、細いけれども勁いという、逆転が生じている。それは、筆尖と紙-対象-との接触点-面-とは別に、作者でも対象でもなく、その両者を生む筆毫の「当たり」が存在するからである。その当たりは、作者と対象の間に挟入された「言葉」の比喩。たしかな言葉が、書に姿を変えて表現されている、と。

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 五濁悪世ノ衆生ノ
 選釋本願信ズレバ
 不可稍不可説不可思議ノ
 功徳ハ信者ノミニミテリ

13shinran

 像末法五濁ノヨトナリテ
 釋迦ノ遺教カクレシム
 弥陀ノ悲願ハヒロマリテ
 念佛往生トケヤスケレ


―山頭火の一句― 行乞記再び -11-
1月2日、時雨、行程6里、糸田、緑平居。

今日は逢へる-このよろこびが私の身心を軽くする、天道町-おもしろい地名だ-を行乞し、飯塚を横ぎり、鳥尾峠を越えて、3時にはもう、冬木の坂の上の玄関に草鞋をぬいだ。

この地方は旧暦で正月をする、ところどころに注連が張つてあつて国旗がひらひらするぐらゐ、しかし緑平居における私はすつかりお正月気分だ。

自戒三則-
一、腹を立てないこと
二、嘘をいはないこと
三、物を無駄にしないこと-酒を粗末にするなかれ!-

今日は、午前は冬、午後は春だつた。

※表題句は、日記途中に記す


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水音の、新年が来た

2010-03-22 23:55:57 | 文化・芸術
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-日々余話- Soulful Days-32- 略式起訴!

とうとう、というより、やっと、というべきだ。
20日夕刻、我々が刑事告訴してきた事故相手方T.Kに対しての処分通知書が、大阪地検より郵送されてきた。
内容のほどは、この手の官庁文書のこととて簡潔このうえない。

「処分通知書」と標題した上部に小さく、様式第96号、括弧して、刑訴第260条、規程第58条、とある。
刑事訴訟法第260条の条文は「検察官は、告訴、告発又は請求のあつた事件について、公訴を提起し、又はこれを提起しない処分をしたときは、速やかにその旨を告訴人、告発人又は請求人に 通知しなければならない。公訴を取り消し、又は事件を他の検察庁の検察官に送致したときも、同様である。」と、また規程とは、法務省訓令として「事件事務規程」なるものがあり、その第58条は「検察官が刑訴第260条の規定により処分の通知をする場合には,処分通知書(様式第96号)による。」とあるのみ。

書面には、大阪区検察庁担当検察官の記名押印があり、さらに「貴殿から平成21年2月10日付けで告訴のあった次の被疑事件は、下記のとおり処分したので通知します。」とあり、つづいて「記」以下、

1 被疑者 ○○○○
2 罪 名 自動車運転過失致死傷
3 事件番号 平成22年検 第######号
4 処分年月日 平成22年3月19日
5 処分区分 起訴

と箇条書きされているばかり。
起訴とはいうものの略式起訴である、決して納得のいく結果ではない、むしろ敗北感に近いものがある、
とはいえ、事故より1年と6ヶ月、やっと大きな関門を抜けたことにはちがいない。


―山頭火の一句―
行乞記再び -10-
昭和7年1月1日、時雨、宿はおなじく豆田の後藤といふ家で。

何としづかな、あまりにしづかな元旦だつたらう、それでも一杯ひつかけてお雑煮も食べた。
申の歳、熊本の事を思ひだす、木の葉猿。
宿の子供にお年玉を少しばかりやつた、そして鯉を一尾家の人々におごつた。
嚢中自無銭、五輪銅貨があるばかり。

酒壺洞文庫から借りてきた京洛小品を読む、井師のー面がよく出てゐる、井師に親しく面したやうな気持がした。
飲んで寝て食べて、読んで考へて、そして何もならない新年だつたが、それでよろしい。

私が欣求してやまないのは、悠々として迫らない心である、渾然として自他を絶した場である、その根源は信念であり、その表現が句である。歩いて、歩いてむ、むそこまで歩かなければならないのである。

※表題句は、この日の日記冒頭に掲げられている


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