ラース・フォン・トリアー監督、ビョーク主演の最高傑作である「ダンサー・イン・ザ・ダーク」をまた観ました。
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観たのは三度目だと思う。
自分にとって最愛の今は亡き父と一緒に観た映画なのもあり、特別な映画なので一人きりで大晦日の夜に観ました。
一度目に2003年ころに観たときは観たあともう苦しくて苦しくて一ヶ月ほど引きずって想いだすたんびに泣いていました。
でも何年と時間を置いて二度目、三度目と観てみると、だんだんと受け入れやすくなってきていると感じた。
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今回感じたことは、セルマが息子と二人で話すとき変に緊張して接している、気を使いすぎている様子に気づき、セルマは息子に対して深い自責の想いを持っていたのではないかと感じた。
そこには父親のいない不憫さも関係しているだろうし、セルマ自体があまり人と接することが得意な人間ではないことや、息子から愚鈍である母親と思われているだろうことをセルマ自身が感じていることや、家が貧しいことなどの理由から、セルマは自分は息子を幸せにはきっとできないのだと常に自分を責めつづけて生きていたのかもしれないと感じた。
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そしてそのうちに失明することを知っているセルマはこの先、これ以上の迷惑を息子にかけることに絶望的な気持ちでいたのではないだろうか。
心のどこかで、自分はいなくなってしまったほうが息子は幸福なのではないかと考えていた可能性がある。
でもそれは、はっきりとしたものではなくて、漠然としたなかにあった気持ちだろう。
できればセルマはそれでも愛する息子と一緒に生きたかったが、いざ判決を受けて、耐え切れないほどの恐怖のなかで息子の本当の幸福に繋がる道がどこにあって、それは自分が戻る道なのか、それとも戻らない道なのかを何度も模索して、最後の結論として、セルマは自分自身に科したように思わずにはいられない。
セルマは自信を持って息子と愛し合えていることを感じられていた親ではない。だからこの話を普通の親子の話として観ると不自然さを人は感じるだろう。
セルマは障害を持つことをわかって産んだ息子を幸福にできないことにずっと苦しんできた母親であったからこそ、あの展開はセルマ自身が望んだ展開でもあったのだと感じられる。
それを独りよがりの愛であると感じる人は多いかもしれない。
でも自分はそうは思わない。
実際、何が息子の幸福であるかなど、誰もわからない以上。
自分も一度目、二度目と観てもそこまで考えられなかった。
だからどうかこの映画を一度観ただけで判断はせずに何年と経った後に何度も人に観てもらいたい。
この映画にある悲しみはとても深い悲しみです。
それはこの映画を撮ったラース・フォン・トリアー監督自身がほんとうに深い悲しみを知っている人だからだと思います。
深い悲しみとは、私はこの世界でもっとも意味の深いものであると感じています。
そしてそれを感じられること、共感することや同情心、それは慈悲であるし、ものすごい価値で、人を最も喜ばせることのできることだと思っています。
だからこの映画のようなほんとうに深い悲しみの入っている映画こそ私は人々に観てもらいたい。
ほんとうに悲しい人間の生きざまこそ、観てほしい。
それはいつか必ずあなたの深い喜びに繋がるはずだからです。
この映画のレビューで「不幸」とか、「無力」という言葉をよく見かけましたが、この映画は「New World(新しい世界)」という曲で幕が閉じられます。
私は22歳のときで親の二人目も喪って親なし子になったのですが、私は親が生きていたなら生きられなかった世界に生きていると深く実感できます。
それはとてつもない悲しみと孤独の世界です。
でもけっして不幸だと感じたことは一度もありません。
むしろこの苦しみがなければ、感じられることはきっとなかったと思える深い喜びを感じられているのだと、そう信じることができてきています。
セルマがあの最期を遂げなければ、始まることがなかったNew World(新しい世界)。
それはセルマの新しい世界だけでなく、もちろん息子にとっての新しい世界の幕開けを意味しています。
新たに始まる世界は、不幸な世界ではけっしてないと私は思います。
わたしも親を喪ったときは、絶望的なあまり、本気で後を追って死のうと思い立ちました。
当時は光がどこにも見えず、世界は闇でした。
13年経っても私が父の死を悲しみつづけていることに、人々は私を今でも不幸と感じるかもしれません。
でもわたしは不幸ではないのです。
むしろ、このかけがえのない悲しみがありつづけることでしか見えない光を感じて生きることができているのです。
この世界は、わたしにとって最愛の、父を悲しい最期で亡くさなければ始まらない世界でした。
私は母の記憶がなくて父子家庭で育ちました。
セルマの息子ジーンがこれからどのような人生を歩むか、途方もない悲しみの世界だと思います。
でもその人生が不幸か幸福かは、誰も決めつけることはできません。本人でさえもです。
何故なら、人生というもの自体が与えられたものでもあるからです。
自分が自分の人生を不幸と決めつけたところで、自分の人生そのものが、与えられている人生なのです。
では「不幸」か「幸福」かを決めるのは自分自身ではなく、その与えている存在です。
それは「もう一人の自分自身」と言えると思います。
セルマはその存在を感じとっていた人だったかもしれません。
だからあんなに苦しい中にも光を手放そうとはしなかった。
いや、苦しくてたまらないからこそ、光を手放すことはできるはずがなかったのです。
ほんとうに深い闇を生きるほど、大きな光が見えてくる。
セルマが見た光は、かならずや息子のところに届くとわたしは思います。
それは十年後かもしれないし、十五年後かもしれません。
三十年後にやっと届いたとしても、息子ジーンのそれまでの人生はその光に届くまでの必要なプロセスであり、その光は、セルマが生きて息子の傍で生きる光よりも大きな光かもしれないのです。
大きな光、セルマがあの選択をしなければ息子に与えることができなかった大きな喜びかもしれないわけです。
セルマはそれを信じることができた人だったからこそ、最後に「New World」という曲で映画は終わるのです。
だからセルマはほんとうにすごい「力」を持った人です。
どんなに苦しくても光を信じて死んでいくことができる力は、人を闇から救いだせる力です。
その力は息子を深い闇からかならず救いだせる光である。
だからこの映画がほんとうにたくさんの人を感動させるんだとわたしは思います。
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観たのは三度目だと思う。
自分にとって最愛の今は亡き父と一緒に観た映画なのもあり、特別な映画なので一人きりで大晦日の夜に観ました。
一度目に2003年ころに観たときは観たあともう苦しくて苦しくて一ヶ月ほど引きずって想いだすたんびに泣いていました。
でも何年と時間を置いて二度目、三度目と観てみると、だんだんと受け入れやすくなってきていると感じた。
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今回感じたことは、セルマが息子と二人で話すとき変に緊張して接している、気を使いすぎている様子に気づき、セルマは息子に対して深い自責の想いを持っていたのではないかと感じた。
そこには父親のいない不憫さも関係しているだろうし、セルマ自体があまり人と接することが得意な人間ではないことや、息子から愚鈍である母親と思われているだろうことをセルマ自身が感じていることや、家が貧しいことなどの理由から、セルマは自分は息子を幸せにはきっとできないのだと常に自分を責めつづけて生きていたのかもしれないと感じた。
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そしてそのうちに失明することを知っているセルマはこの先、これ以上の迷惑を息子にかけることに絶望的な気持ちでいたのではないだろうか。
心のどこかで、自分はいなくなってしまったほうが息子は幸福なのではないかと考えていた可能性がある。
でもそれは、はっきりとしたものではなくて、漠然としたなかにあった気持ちだろう。
できればセルマはそれでも愛する息子と一緒に生きたかったが、いざ判決を受けて、耐え切れないほどの恐怖のなかで息子の本当の幸福に繋がる道がどこにあって、それは自分が戻る道なのか、それとも戻らない道なのかを何度も模索して、最後の結論として、セルマは自分自身に科したように思わずにはいられない。
セルマは自信を持って息子と愛し合えていることを感じられていた親ではない。だからこの話を普通の親子の話として観ると不自然さを人は感じるだろう。
セルマは障害を持つことをわかって産んだ息子を幸福にできないことにずっと苦しんできた母親であったからこそ、あの展開はセルマ自身が望んだ展開でもあったのだと感じられる。
それを独りよがりの愛であると感じる人は多いかもしれない。
でも自分はそうは思わない。
実際、何が息子の幸福であるかなど、誰もわからない以上。
自分も一度目、二度目と観てもそこまで考えられなかった。
だからどうかこの映画を一度観ただけで判断はせずに何年と経った後に何度も人に観てもらいたい。
この映画にある悲しみはとても深い悲しみです。
それはこの映画を撮ったラース・フォン・トリアー監督自身がほんとうに深い悲しみを知っている人だからだと思います。
深い悲しみとは、私はこの世界でもっとも意味の深いものであると感じています。
そしてそれを感じられること、共感することや同情心、それは慈悲であるし、ものすごい価値で、人を最も喜ばせることのできることだと思っています。
だからこの映画のようなほんとうに深い悲しみの入っている映画こそ私は人々に観てもらいたい。
ほんとうに悲しい人間の生きざまこそ、観てほしい。
それはいつか必ずあなたの深い喜びに繋がるはずだからです。
この映画のレビューで「不幸」とか、「無力」という言葉をよく見かけましたが、この映画は「New World(新しい世界)」という曲で幕が閉じられます。
私は22歳のときで親の二人目も喪って親なし子になったのですが、私は親が生きていたなら生きられなかった世界に生きていると深く実感できます。
それはとてつもない悲しみと孤独の世界です。
でもけっして不幸だと感じたことは一度もありません。
むしろこの苦しみがなければ、感じられることはきっとなかったと思える深い喜びを感じられているのだと、そう信じることができてきています。
セルマがあの最期を遂げなければ、始まることがなかったNew World(新しい世界)。
それはセルマの新しい世界だけでなく、もちろん息子にとっての新しい世界の幕開けを意味しています。
新たに始まる世界は、不幸な世界ではけっしてないと私は思います。
わたしも親を喪ったときは、絶望的なあまり、本気で後を追って死のうと思い立ちました。
当時は光がどこにも見えず、世界は闇でした。
13年経っても私が父の死を悲しみつづけていることに、人々は私を今でも不幸と感じるかもしれません。
でもわたしは不幸ではないのです。
むしろ、このかけがえのない悲しみがありつづけることでしか見えない光を感じて生きることができているのです。
この世界は、わたしにとって最愛の、父を悲しい最期で亡くさなければ始まらない世界でした。
私は母の記憶がなくて父子家庭で育ちました。
セルマの息子ジーンがこれからどのような人生を歩むか、途方もない悲しみの世界だと思います。
でもその人生が不幸か幸福かは、誰も決めつけることはできません。本人でさえもです。
何故なら、人生というもの自体が与えられたものでもあるからです。
自分が自分の人生を不幸と決めつけたところで、自分の人生そのものが、与えられている人生なのです。
では「不幸」か「幸福」かを決めるのは自分自身ではなく、その与えている存在です。
それは「もう一人の自分自身」と言えると思います。
セルマはその存在を感じとっていた人だったかもしれません。
だからあんなに苦しい中にも光を手放そうとはしなかった。
いや、苦しくてたまらないからこそ、光を手放すことはできるはずがなかったのです。
ほんとうに深い闇を生きるほど、大きな光が見えてくる。
セルマが見た光は、かならずや息子のところに届くとわたしは思います。
それは十年後かもしれないし、十五年後かもしれません。
三十年後にやっと届いたとしても、息子ジーンのそれまでの人生はその光に届くまでの必要なプロセスであり、その光は、セルマが生きて息子の傍で生きる光よりも大きな光かもしれないのです。
大きな光、セルマがあの選択をしなければ息子に与えることができなかった大きな喜びかもしれないわけです。
セルマはそれを信じることができた人だったからこそ、最後に「New World」という曲で映画は終わるのです。
だからセルマはほんとうにすごい「力」を持った人です。
どんなに苦しくても光を信じて死んでいくことができる力は、人を闇から救いだせる力です。
その力は息子を深い闇からかならず救いだせる光である。
だからこの映画がほんとうにたくさんの人を感動させるんだとわたしは思います。
この映画のサントラ「セルマソングス」のI've Seen It Allという曲でトムがビョークとデュエットしていますね。
トムという存在はどこか中性的な存在に思うのですが、この曲ではビョーク演じるセルマという女性に向かって「きみの髪で遊ぶ孫の姿を見たくはないかい?」という女性を誘うような男の歌詞を歌いあげています。
そこが大変魅力的で大好きな曲です。
「シャイン」というピアニストの映画はわたしも好きな映画です。
ラフマニノフも聴いてみたいと思いながらまだちゃんと聴けてませんでした。近々じっくりと聴いてみたいと思います。
是非「ダンサー・イン・ザ・ダーク」ご覧になってください。
早速拝聴しました!ビョークは私と同年で親しみが持てます(笑)海外の映画は良く知らないのですがラフマニノフの楽曲が出てくるシャインは何度か観ました。このビョークさんの映画是非みてみようと思いました。