あまねのにっきずぶろぐ

1981年生
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

映画「リップヴァンウィンクルの花嫁」この世界に満ちているもの。

2018-08-26 08:21:30 | 映画

昨日と今日、岩井俊二監督の2016年公開の作品「リップヴァンウィンクルの花嫁」を観た。

 

 

 

 

 

実はNetflixで偶然見掛けたトップ画像にウェディングドレス姿のCoccoが映ってて、(なんかこの映画前から気になってたかという記憶と共に)ただそれだけで気になってなんとなく軽い気持ちで『リップヴァンウィンクルの花嫁 serial edition <全6話>』というのを観始めて、

映画なのかドラマなのかもわからず、監督も何も知らずに観ていた。

 

 

 

 

それで観てるうちにのめり込んで行って、途中から、あれ、これ誰が作ってんだと気になって調べたら岩井俊二監督の作品だった。

で、一話40分のものを全6話いっぺんに観た後に、劇場版が実は最初に公開されたものであることを知ってショックを受け、同時にその内容が少し違うという話に胸がときめいて、そのあとにAmazonのPrime Videoで劇場版を同じ部分を飛ばし飛ばしで最後まで観た。(いつのまにか夜が明けていて逆光の朝日のなかで)

それで観た後、今日(今日って、あれ?うわっ、もう朝の7時半やん…俺一体何時からこれ書いてるんだって、午前4時過ぎからか…ってことは昨日やん。昼から寝ると時差ボケするな。)の昼過ぎまで眠れなかった。

そこから起きて、今度もう一度、劇場版を最初から最後まで観た。

飛ばして見逃していた重要な部分もあって、三度楽しめたのだった。

劇場版はかなりカットされているので、できれば両方を観ることをお薦め致します。

岩井俊二監督の作品はこれまで95年の「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」、96年の「PiCNiC」同じく96年公開の「スワロウテイル」、そしてわたしの好きな映画のベスト10に入る大切な映画である2001年の「リリイ・シュシュのすべて」を最後に何故か、観れておりませんでした。

好きな監督でありながらここまで観れてないことが残念ですが、映像を観る気力のないほど疲弊している日がほとんどなので、わたしはわたしを責めることはやめようと想います。

映画の内容はあえて言わないでおこうと想います。何も知らないで観たほうがきっと面白いと想ったからです。

とにかく時を忘れて観ていました。もっともっと長い作品であってほしいと感じるほど終わるのが切ない映画でした。

 

ほとんど映画の感想でないのですが、ちょっとわたしとCoccoとの縁の話をしたいと想います。

Coccoはわたしが19歳のとき、2000年の確か3rdアルバム「ラプンツェル」を発売した辺りのときに突然好きになったアーティストです。

よく彼女の音楽がFM802で流れていて、当時からMステに出ていたと想います。

1stの「ブーゲンビリア」と、2ndの「クムイウタ」も買って、よく一緒に歌っていました。

残酷なのに対比する光の強い彼女の歌に激しく魅せられて行きました。

それでどんどんCoccoの音楽が好きになって、彼女の存在感の凄さやインタビュー記事などを読んではそのつど感動したり衝撃を喰らって崇拝に近い想いも湧き出してきた頃、2001年の4月20日の夜に、Mステの出演を最後に活動休止することを知り、その夜のMステが生放送されるテレビの前に齧りついて観たのですが(あの夜、父が居間のほうのテレビで違うものを観ていたので、自分一人だけで寝室にあった古いテレビで観ました。)、彼女の最後の生出演の白いドレスを着て「焼け野が原」を泣きながら歌って、歌い終わったあと泣きながら微笑んで走り去ってゆく姿に、わたしは号泣しながら崩れ落ちたことを今でも憶えています。(またね、その最後の歌詞の部分が「もう歩けないよ」だったんですよ…)

 

 

焼け野が原

 

(ありました…その時の映像です。

最後の「もう歩けないよ」と歌ったところで涙が溢れました。その時の感覚が甦って、すごくドキドキしています。)

 

 

当時、わたしはまだ二十歳の誕生日を迎えていない19歳の初夏でした。最愛の父を亡くす二年半ほど前です。

「焼け野が原」すごく好きな曲でした。

Coccoが去って行ったその夜、ずっとずっと泣いていたと想います。

もう彼女は戻ってこないって気がしたんですよね。

彼女がずっと精神的にすごく不安定で痩せた細い両腕には痛々しい自傷の(切り傷より火傷のような)痕があったことを知っていました。

わたしもちょうどその時期、父に対する依存から毎日が本当に苦しくて、でも自傷することもできなくて、慰みに寝る前に自分の手の甲にペンで「死ね」って書いて寝たりしていました。

でも、ひとつの線が切れたんですよね。Coccoのあの夜の最後の姿を観て。

Coccoを知りたい…!!と激しく願ったのです。同じ行為をすれば、知ることが出来るんじゃないかと想いました。

それで気付くと泣きながらわたしはカッターを手に、初めて左腕の内側の柔らかい皮膚の部分に傷をつけていました。

最初はほんの小さな血玉がぽつぽつと傷の間に浮かぶほどしか切れませんでしたが、貧血を起こして倒れそうになるほどショックを受けた感覚もよく想いだせます。

自分の手で自分の身体をカッターで切ってしまったということが、本当に神に背く神に絶対に赦されないようなものすごい重い罪のように感じました。

でも段々と、日に日に傷は深くなって行きました。(それでも深い人に比べたら全然浅いほうだと想いますが)

父に隠れて、父のいる居間の隣の寝室で剃刀で切ったときは思いのほか深く切れてまたショックを受けたりしていました。

当時はいつも、Coccoのように髪を伸ばしたドレス姿の自分が、ビルの屋上から青空を仰ぐように後ろ向けに飛び降りて死ぬというイメージばかりしていて、父の運転する車の助手席から高いビルを見つけては、その屋上ばかりぼんやりうっとりと眺めているほど精神状態が危ない時期でした。

(そういえば2002年か2003年頃、Coccoの「遺書」という好きな曲を姉と初めて行ったカラオケで歌ったときに100点を初めて取ったんですよ。半分泣きそうになりながら歌ってて、姉にすごい感動したと褒められてとても嬉しかったです。まだ父が元気だった時だったのですが、わたしの欝症状は悪化するばかりでそれを心配した姉がわたしを預かっていたときだったと想います。それでまた実家に帰ったときにその時に100点を取ったことを父にも話すと父もすごいと言ってくれて、父にも聴かせたかったです…でもまさか彼女の影響でわたしが腕に傷をつけ始めたなんて二人とも知らなかったんですよね…)

当時の自傷行為がどれくらい続いたかはっきりと憶えていませんが、一端は父にその傷を見られるのが絶対に嫌で、一度見られてしまったと感じてから怖くなって、やめることができました。(中毒だと感じるほどの期間は続いていたので2003年の夏頃だったかもしれません)

でも父の死んだ後に男性と付き合っていた頃にまた始まって(主に相手に見せ付ける為に切っていました)、最後に切ったのは確か30歳になるちょっと前くらいだったと想います。(切るときはお酒を飲んでるときも多くて記憶にないだけかもしれませんが…)

Coccoのせいで自傷行為が始まったと言っているのではないのですが、実際Coccoの存在がいなければ自傷癖がついたかどうかは自分でも分からないです。

ただそれだけわたしとCoccoとの縁は深いものであることは確かです。

まあ、そういうわけで、かなり前置きが長くなりましたが…そういう過去があって、この映画を観たのでね、なんかね…本当に感動したんですよ。

Coccoはその後活動を再開したのですが、その後以前のように追い駆けられなかったのは、やはり以前とは作品も雰囲気も変化したCoccoに、なんだか置いて行かれてしまったような気持ちをずっと抱えてきたからだと想います。

でもそれでも気になってたまにインタビューの載った雑誌を買ったりしていましたね。

Coccoはママになって息子をがんばって育ててるけど、自分は未だ独り身だし、悲しいかな妬みや嫉妬の感情が湧いて来てしまうことが苦しかったです。

それでも彼女が元気で活動しているだけで嬉しかった。

複雑な感情のなかにも、彼女のことを知りたいという気持ちが今でもあったのでこの映画も観たのだと想います。

当時のわたしが、もしこんな映画観せられていたら、どれほど違う意味で相手役の黒木華に嫉妬したか(笑)

(はっきり言えるのはわたしの感情は恋愛的な感情ではまったくなかったということです。この映画の二人も、きっとそうであると感じています。)

今はわたしは37歳になって、この映画を38歳か39歳の頃に演じた彼女の姿を、すごく良い距離で観ることができたと想います。

あの頃から17年近く経っていますが、やっぱりCoccoは変わってない。と、そうこの映画を観て感じました。

一番に素晴らしい彼女の部分は、何にも変わってないんだと。

自分はそういえば、常に目が覚めている間は自分と自分以外のすべての人間から死ねって言われ続けているような感覚でずっとずっと生きてきたのですが、いつの頃からだろう?気付けばそういう感覚になる日が、段々と減って来ているように感じます。

でも人から少しでも責められたとき、すぐにその感覚は戻ってくるんですけどね。

彼女は、実は子供のとき親から虐待を受けてたんです。わたしの記憶が間違っていなければ、確か彼女自身がインタビューで答えていたことです。子供のころよく親に庭にあったがじゅまるの樹に縛り付けられたりしていたと。

あとはこんな彼女の台詞もありました。

「インターネットがこの世にあると想うだけで死にたくなる」

それはインターネットの世界が、人の外では隠している汚い部分、卑しい部分、悪意が露わとなっている世界だからです。

例えばわたしがずっとずっと苦しんで生きて来た原因は、一つにこの世界に性の乱れがあるからです。

誰の悪意もないところにも、誰かの苦しみがあるというのはそうです。

でもみんながみんな、「もっと自分の身体を大切にしろ。」「性的なものとは、夫婦間だけに与えられる神聖な喜びなのだよ。絶対に後悔するから、やめておきなさい。」などと言える社会なら、性風俗業界で身体を売って生きる女性もいないのです。(性風俗界で働いた女性は後に後悔して自殺する人が結構います。)

現に本人は良くとも、我が子がそんなところで働いたら、それは親の苦しみになります。

わたしなら、死にたくなると想います。

わたし自身が、本当に後悔しています。働いていたわけじゃありませんが、わたしも散々、最愛の父を喪ったあと自棄になってしてきましたから。

ずっと幼い頃から聖書を学び(母は忠実なクリスチャンでした。聖書では夫婦以外の間で性的な関わりを持つことを不義の交わりである姦淫という重い罪として定めています)、処女のままで絶対に結婚するんだと誓ってきたわたしにとって、婚前交渉(結婚前のすべての性的な行為)は、全部が全部、最悪な、最も苦しい自傷行為だったのです。

それでついこないだ、いつまでもこんなことを続けていたくないと強く感じて、自分に誓いました。もう絶対に、結婚前に、誰とも性的な関わりは持たないと。

話を戻しますが…例え悪意じゃなかったとしても、男性が女性を性の捌け口としなかったなら、女性が深く傷つき続けて生きていくことも減ると想います。

「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」と言ったのはイエスですが、実際にそうして性行為をし続けると人間が生きる上で大切な精力というものがどんどん奪われてゆきますし、夫婦間以外の交渉は性病や堕胎という人がものすごく苦しんで死んだり、殺されていかねばならないこの世の最も苦しいことに繋がります。

この世界は、どちらかというと悪意(利己的な欲望)に満ちています。

わたしはわかっているのです。

彼女は人の何倍も、この世界に、傷つき続けて生きてきた人だということを。

この映画の彼女の演じる真白の大事な台詞は、彼女がライヴのMCで観客の前で言った台詞を使っているそうです。

岩井俊二監督が表現したかったのは、Coccoなのではないかと。

だからそれを知ってからもう一度観て、余計にわたしは感動しました。

あんな台詞(最後の台詞)を、本当に幸せに生きてきた人は言えません。

何故なら、本当に幸せに生きてきた人は、そこにあるとんでもない喜びに、気付けないからです。

自傷行為を続けてきたわたしならわかります。

自分を痛めつけてほっとするのは、愛する人に愛されない自分のことが、憎くて溜まらないからです。

苦しんで苦しんで、どこにも出口がなくて、そうやって苦しみつづける先にだけ、本当の愛に気づくことができるのだと、わたしは確信しています。

 

 

 

 

 

 

 

 追伸:出演者、みな役にはまっていてとても良かった。

Coccoの相手役、七海役が、黒木華で本当に良かった。大分前に観た「グーグーだって猫である」に出てたみたいやけど、全く憶えてない。彼女はあまりに透明で、そんな彼女でないと、この役は駄目やったと想う。

そういえばわたしは子供のころよく友達の後を着いてばかりいて、一人では何も行動できないような子だったので「金魚の糞」と男子共に馬鹿にされるほど主体性のない人間でした。今でもその部分はあまり変わってないと想います。そういう部分が七海とよく似てる気がしました。

 

 

そして安室役を演じた綾野剛、わたしはこれまで何故か彼がどうしても気に入らなかった。(わたしの好きなトダエリを振りやがった憎き男という理由もあるか)っつっても彼の演技を観たのがこれまで「ヘルタースケルター」だけやった。ようやく、わたしは彼の演技と、雰囲気、存在感の素晴らしさを感じることが出来た。

彼はわたしの師匠、町田康原作の「パンク侍、斬られて候」の主演である。観ないうちから絶対キャラ合って無いんじゃないかと想って大いに不満だったけれど、これ観る前に彼を好きになれて真に嬉しい。

映画館なんて一人で行ったことないのだが、来月がんばって独りで観に行こうかな。まだ遣ってるやろか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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