あまねのにっきずぶろぐ

1981年生
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

わたしたちの後悔

2018-09-05 04:10:13 | 人類の苦痛の根源

 

 

 

 

良いですねえ。前回のIDで投稿しても何故かさっぱり反映されなくなったので、別IDで、第二号を作って早速ヤフコメ欄にコメントしたものです。

良いなあ。実に良い。アイコンと名前がキマッてるよね。

また言うことが決まってるなあ。

俺しかいないからねえ。(多分)こんな人にとって鬱陶しいことをいちいち人のヤフコメのコメントの返信欄に書き続ける人間は。

ははは。大量にコメントを削除されるわけだあ。(一生懸命人類を救う為に書き込んでたのに)

死ねえ。Yahoo!

なんてね、冗談を言っちゃうくらい、今日(日が変わり昨日)の台風、げっつく怖かったっすよ。

約30分以上震度4ほどの揺れで此処マンション五階(最上階)がずっと揺れ続けてね。

窓ガラス割れそうで停電も起きて。幸い今回に至っては、ベランダの赤紫色のプラスチック(ポリカーボネートか?)の屋根が割れたくらいの被害で無事でした。

 

 

自然災害と気候変動は、これからますます破滅的になって行きます。

それは人類が、己れの欲を貪る為、他者の苦痛に無関心で来たことの報いです。

人類の因果によって、報われている結果です。

明日は我が身ですよ。

あなたもわたしも、明日も生きている保障がどこにもありません。

どのようにして今日を生きますか。

わたしは遣りたいことしか遣っていないので、人生に関して悔いを持つとしたら、飼っているうさぎのみちたに関してだけです。

自分にしか護れない存在だからです。

そんな存在があなたにも居ますか?

自分自身、そしてこの世界に生きる誰か。たった一人でも、護りたい存在が在るならば。

どうぞわたしの言葉に耳を傾けてください。

 

 

 

わかりやすく言うと、自分の行いはすべて、自分に返ってくる世界で在るということです。

今日、明日、明後日、人間の欲によって、死(安楽死ではない)が待ち構えている存在がどれほどいるのか、では数えてみましょう。

 

 

 

 

 

計算していただけているサイトを見つけましたので、どうぞ御覧になってください。


 

家畜の牛・豚・鶏は1日に何匹と殺(屠畜)されているのか?




このサイト様の計算してくださった日本の一日のと殺(屠畜)数から、わたしは一分間のと殺(屠畜)数を計算してみました。

しかし家畜は日本で24時間と殺(屠畜)され続けているのではなく、主に9時から5時頃までの勤務時間の間でと殺(屠畜)されていると考えられます。(英国では20年前は朝4時半から昼の2時までなどの勤務時間であったようです。)

日本でと殺(屠畜)されている時間帯は何時から何時頃までなのか?

加古川食肉センターへと殺(屠畜)場見学へ行ってきた in 兵庫県

実際にと殺(屠畜)場見学をされに行かれた方によりますと、大体朝の8時半頃から午前10時頃であるようです。

 

(日本の屠畜場法においては、生後1年以上の牛若しくは馬又は1日に10頭を超える獣畜をと殺(屠畜)し、又は解体する規模を有する屠畜場を一般屠畜場、それ以外の屠畜場を簡易屠畜場として区別している。

と畜場は、全国に195か所(うち、一般と畜場は183か所、簡易と畜場は12か所)ある(平成29年4月現在)。)






これだけの工程があるんですね。こんなに後に仕事があるので午前中早い時間帯にと殺(屠畜)はされているわけですが、この画像観てもわかる通り、「と畜(屠畜)銃撃による」の次の工程に「放血(動物の体から血液を抜くこと)喉部切開」が来ます。

放血は勿論生きている間(心臓が動いている間)にされます。


 

と殺(屠畜)は、前頭部への打撃、あるいは電撃や二酸化炭素によって昏倒させたあと、大動脈を切開し放血殺する方法で行われる。 

昏倒させてから放血殺する方法が採用されるのは、安楽殺という動物福祉の観点からでもあるが、速やかに死に至らしめられなかった場合、ストレスによる筋変性や放血不良によって肉質が悪くなったり、恐怖した家畜が暴れ自ら筋肉や骨を損傷したりするなど、枝肉の商品価値を損なわないためという側面が大きい。

切開後、両後肢の飛節に通した鉄棒をフックで吊り上げ、失血させながら施設の天井に取り付けたレールに沿って各作業配置を順に廻り、解体されていく(オンライン方式)。



昏倒(スタンニング、額にスタンニングボルトで銃撃し失神させます。

スタンニングボルトは火薬や圧縮空気によりボルトが数センチ飛び出す構造になっています。
弾丸が飛び出して脳を破壊するようなことはありません。)させた後にすぐ放血され、そして素早く、牛や豚は逆さまに吊り上げられます。

そして次にはすぐに解体の工程です。

映像で何度も観ていますが吊り上げられても瞬きをして鳴き声を上げながら彼らは解体の工程へと回されていきます。

例えそのような様子が見られなくても、そこに意識が在るのかどうかは人間にはわからないことです。

昏倒、放血、その後の順序は「前処理1」面皮剥、前肢切断、食道結紮(食道けっさつ、食道を気管と切り離し、結さつリングに食道を通し、胃の噴門部で結さつします。

これにより、胃内容物の漏れ出しによる枝肉の汚染を防止します。)

ゴムが飛び出る棒を首の中などに突っ込み、食道と直腸(肛門)部分を結さつする。







昏倒、放血、その後すぐに面皮剥(頭部の皮を剥ぐ)、前肢切断という工程が待っています。

そしてその後に漸く、「頭部切断」が来ます。ここでやっと確実に死ぬことはできるわけです。

(切断部分周辺の外皮を剥皮したのち、頚椎部分をナイフで切り離します。
頭部はと畜検査員によりリンパ腺などに病変がないか確認をします。
延髄は取り出され、BSE検査が行われます。)



 

 

 

前置き長くなりましたが、ではこれから一分間に、彼ら(家畜たち)は日本国内で一体どれほどの数が殺されているのか、計算してみます。一日のと殺(屠畜)される時間、8時半から10時までの時間帯(1.5時間)で、一分間(一日は1,440分)の割合の換算でしてみます。

(一日のと殺(屠畜)量は先ほどのサイト様から転載させて頂きました。)




牛さんの1日のと殺(屠畜)量

 

 

 

 

 

1年間にと殺(屠畜)される頭数:約116万頭

1日にと殺(屠畜)される頭数:116万頭÷365日=約3,200頭


牛さんは日本で一日に約3,200頭と殺(屠畜)されています。

一分間に、約2,2頭

日本だけで、60秒間で、2頭以上の牛さんのと殺(屠畜)がされていることになります。




では、次は豚さんの一日のと殺(屠畜)量。

 

岐阜市の畜産センターの仔豚たち

 

1年間にと殺(屠畜)される頭数:約1653万頭

 1日にと殺(屠畜)される頭数:1653万頭÷365日=約45,000頭


一分間に、約31,3頭。

60秒間に、約31頭以上の豚さんがと殺(屠畜)されています。

 

一日に、何分間、何秒間、家畜の苦痛を想像することがありますか?




次は鶏さんの一日のと殺(屠畜)量。

 

家畜である鶏(現代の日本のブロイラー養鶏場)


 

1年間にと殺(屠畜)される頭数:約6.4億羽

 1日にと殺(屠畜)される頭数:6.4億頭÷365日=約175万羽

1分間に約1,215,3羽。

1秒間に、約20羽以上もの鶏さんが食肉用としてと殺(屠畜)されています。



 



平成28年度の牛肉輸入量、米国産冷蔵品が大幅増

平成28年度の輸入量は、冷蔵品が23万9522トン(前年度比15.7%増)、冷凍品が28万5516トン(同2.2%増)と、いずれも前年度を上回り、全体で52万5694トン(同7.9%増)と3年ぶりに増加に転じた。

 



 輸入肉牛の平均の体重650kgとして、そこから取れる肉は約45%、約290kgの肉として計算してみます。

1トンが1000kgですから、1000kg÷290kg=3,5頭×52万5694トン=183万9929頭…?

数学が全く苦手なので頭がこんがらってしまいます。

日本だけでも一年に116万頭殺していますから、それ以上の数であることは確かです。

 



追記:他の方に計算してもらいました。この計算の場合は牛の全体重は関係なくて、290kgは0,29トンなので

525694÷0.29≒1812738≒は小数第5位を四捨五入した「ほとんど等しい」という意味の記号)

で、答えは181万2738頭分の牛となりました。

自分の計算とあまり離れてなくて良かった…

というわけで、平成28年度の日本の牛の輸入量は約181万2738頭ということになります

181万2738頭÷365日=約4,966頭

1分間に約3頭以上の牛を、日本は輸入する為に間接的に殺しているということになります。

 


平成28年豚肉輸入量、前年比8.9%増

平成28年(1~12月)豚肉輸入量は、86万456トン(前年比8.9%増)と前年をかなりの程度上回った。このうち、冷凍品は、50万5177トン(同8.0%増)と前年をかなりの程度上回った。


 


歩留まり(1頭の豚からどのくらいの量の肉がとれる?)

肉豚はおおよそ体重が110~120 kgになった時点で出荷されますが、スーパー・マーケットなどの店頭で販売されているパック包装された豚肉(精肉)となるのは50kg弱で、出荷時の体重(生体)の4割強となります。



ということで一頭の豚から49kg取れる計算でしてみます。(計算の得意な方に計算して頂きました。)

 

年間1756万326頭

1日あたり
1756万326頭÷365日= 4万8,110頭

1時間あたり
4万8110頭÷24時間=2,004頭

1分あたり
2004頭÷60分=33頭

日本に輸入する為に、2秒に1頭の豚がと殺(屠畜)されている計算になります。


 


 

 

平成28年の鶏肉輸入量、前年に続き50万トン超え

輸入量、3年連続で増加

 

平成28年(1~12月)の鶏肉輸入量は、55万1181トン(前年比4.1%増)と前年をやや上回った。

25年12月のタイ産の輸入解禁以降、増加傾向で推移しており、牛肉・豚肉と比べて安価な鶏肉の底堅い需要や、輸入価格(CIF)が16カ月連続で前年を下回るなど輸入しやすい環境にあったこともあって、前年に続き50万トンを上回る輸入量となった。

 



 農林水産省の食料需給表によると、2016年度の日本人1人あたりの食肉消費量は31.6キロとなり過去最高を更新した。

2016年の日本の総人口は1億2,693万3千人。日本のベジタリアン人口は4,7%(596万9千人?)として、アレルギーで食べられない人も大雑把に引いて、肉食者を1億2千万人としましょう。

38kgくらいかな…一人当たりの食肉消費量。

丁度わたしの体重が37kgですから、その1kg足したくらいの肉の量を、肉食者は一年で食べ尽くしているということになります。


家畜の生産から食肉が出来るまで

私たちが食べている牛肉のうち、約60%はオーストラリアやアメリカから輸入されています。

残り約40%が国内生産で、そのうち、黒毛和種などの肉専用種が約45%、乳用種に由来するものが約55%を占めています。



何かが確実におかしいと感じませんか…?

牛肉だけでも1頭から取れる肉の量は少なくても200kgほどです。

でも日本人一人が一年に食べる肉の消費量は38kgほどです。つまり牛1頭分の肉すら食べ尽くせていないのです。

それなのに日本で60秒間に2頭以上の牛が殺され続けています。

どこかに大量に肉が消えていっているような感覚に陥りませんか?

食べ尽くせない大量の肉が、どこかに葬られているような感覚に陥ってなりません。


 



No.244 穀物を家畜でなく人間が直接食べれば,世界の人口扶養力が向上


 

●世界の食用作物の消費割合

 

食用作物41品目の収穫物として,世界全体で総計9.46×1015(9.46兆)カロリーが生産された。

この55%が人間の食用,36%が家畜飼料,9%がその他(工業利用やバイオ燃料)に利用された(表1)。

飼料に利用された熱量の89%がロスされ,畜産物に保持されたのは12%,つまり,4%(36×0.12=4.32%)が人間の食料に変換されただけであった。

換言すると,食用作物41品目中の熱量の59%(55%+4%)だけが,作物と畜産物として人間の食料として利用され,41%が非食用に利用されたりロスされたりしたことになる。


 


したがって,飼料や他用途に使用された食用作物を人間の直接消費用に振り向ければ,食料中のカロリー量が3.89×1015カロリー分増加し,5.57×1015から9.46×1015に,約70%増加する

1000兆(1000×1015)の食料カロリーは10億人の人間に,1日当たり2,700カロリーの食事を1年間(年間985,500カロリー)供給するのに十分である。

それゆえ,飼料や他の利用に使用されている作物カロリーを人間直接消費にシフトさせると,養える人口を約40億人増やせる可能性があると計算される。




西尾道徳先生の環境保全型農業レポートです。

アメリカのミネソタ大学の研究者たちの論文を翻訳されています。

難しいですが、是非目を通してみてください。


 



西尾道徳先生の経歴。

 東京都出身。昭和44年東北大学大学院農学研究科博士課程修了(土壌微生物学専攻)、同年農水省入省。

草地試験場環境部長、農業研究センター企画調整部長、農業環境技術研究所長、筑波大学農林工学系教授を歴任。

 

著書に『土壌微生物の基礎知識』『土壌微生物とどうつきあうか』『有機栽培の基礎知識』など。

ほかに『自然の中の人間シリーズ:微生物と人間』『土の絵本』『作物の生育と環境』『環境と農業』(いずれも農文協刊)など共著多数。

 



「食品ロス」年間約632万トン 、1人1日お茶碗約1杯分(約136g)の食べ物が捨てられている日本


日本国内における年間の食品廃棄量は、食料消費全体の3割にあたる約2,800万トン

このうち、売れ残りや期限を超えた食品、食べ残しなど、本来食べられたはずの、いわゆる「食品ロス」は約632万トンとされています。

これは、世界中で飢餓に苦しむ人々に向けた世界の食料援助量(平成26年で年間約320万トン)を大きく上回る量です。

また、日本人1人当たりに換算すると、"お茶碗約1杯分(約136g)の食べ物"が毎日捨てられている計算となります。



世界全体でロスされている食用作物は約41%。

日本の食品廃棄量は食料消費量全体の約3割。



昨夜の22時半からずっと書いてて、今は午前3時半前です。

非常に疲れました…(わたしは数字・数学が本当に苦手なのです)

昨夜もまた、仔豚の可愛い写真を見て、悲しくて泣きました。

うちのみちた(うさぎ)に見えてしまうのです。

まるで自分が、知らず知らずに何度とみちたを殺して食べてきたような想いで、毎日後悔し続けてもし切れるものではありません。

畜肉は2012年2月から食していませんが、彼らを殺してきたという罪悪感から少しでも離れられる日は来ないのです。


わたしは必ずすべての人に届くと信じています。

彼らの助けを求めるその声は、あなた自身の内なる声だからです。

痛みを分かり合える存在です。

わたしたちは彼らとその痛みを分かつことができます。


遺書

2018-09-04 11:55:30 | 随筆(小説)

素面とは、素面でないこととは、一体なんであるのか。
前回の記事でわたしの師匠の作家町田康が言った言葉を、また二度寝したあとに読み返して考えている。

中島らもも、わたしも鬱が酷いことが共通している。
中島らもがアルコール依存症になったのは一つに、まるで執筆ができなくなったことがあるのかもしれない。
わたしの場合はアルコールを入れれば、頭が回転する場合がよくあるが、すぐに虚脱するという特徴もある。
だが中島らもは酒に強かった為、酒を飲みながら何時間と執筆を続けることもできただろう。

良い作品を書くために、敢えて酒を飲んでいたなら、余計に悲しいことだ。
一端酒を入れて書いてみたら吃驚するほど良いものが書けたなら、良いものが書けなくなって、酒を入れて書くという習慣をつけてしまうというのもあるだろう。
意識して遣っているかもわからない。
詩人のアルチュール・ランボオも中原中也も、酒を入れて執筆していたものがあることはわかっている。
それも彼らにも鬱症状があったからだと考えている。
鬱症状とは、頭のなか全体が、灰色になって何一つ、考えることができなくなる症状である。
執筆は例え自動書記という記述法であっても、脳の正常な回転というものが必要であるようで、鬱状態に陥っているときには何も降りてこない。
言葉がなんにも降りてきてくれないのである。
しかし酒を入れると、これが不思議と脳が回転し始め、ものを考える、言葉が次々に降りてくるということができる場合が多いのである。
作家に、酒を手放せない人間がどれくらいいるだろう。
そう言えば或る画家は、絵を描くときにダークチョコレートを食べると気分が乗ってくるというようなことを言っていた。
あれもチョコレートにあるカフェインなどの力によって脳が覚醒されるからだろう。(カフェインにより脳や脊髄などの中枢神経系が刺激される。)
チョコレートを食べながら絵を描くことは、素面で描いているということになるのであろうか。
アルコールやカフェインやドラッグ(向精神薬も含む)を入れて、どこまで脳内細胞が変化するのかは、人それぞれである。(こんなことを言っていると本当にキリがない。向精神薬は麻薬と同じ中枢神経に作用する物であると言われているし、例えばわたしの摂っているアシュワガンダやセントジョーンズワートなどのハーブは向精神薬並みに効く人もいる。では、これを摂っているとき素面と言えるのかということになってくる。)
無論、それを入れたら誰もが覚醒して良いものが生まれてくるというわけではない。
現にわたしはこれ迄、アルコールを入れて書いたものは幾つもあるが、アルコールを入れないで書いた作品の方が遥かに多いのはアルコールによる執筆を冷静に後で読んで、気に入るものがあまりなかったからというのもあるかも知れない。

特徴として、アルコールを入れると少し語りが臭く(気障に)なりやすい。というのがあるときがあって、自分はそれを気に入らない。
でも同時に、より、切実になる。というのもあるような気がしている。ここではないだろうか。執筆に最も必要であるものとは、切実さである。
どんなにユーモアなものを書いたとしても、切実さに書けていたなら、面白くなくなる。
切実さを感じられないユーモアなど、落語や漫才でもなんでも面白くないのである。
わたしの魂の同志だと感じる男性から、わたしの書いたものを読んで「嗚呼、切実だな。」と感じたことを言ってもらえたとき、本当に嬉しかった。
彼も小説を書いていて、彼の存在、感性がこの世界に今も在ることを奇蹟のように感じている。
そしてもう一人の、わたしの魂の同志だと感じる男性の小説を去年の年明け頃に初めて読んだとき、わたしは同じく非常に切実さを感じて、彼の存在を心から歓喜したことを憶えている。
わたしは彼らが、素面で書いていようが、アルコールやドラッグを入れて書いていようが、全く関係はない。
その作品がわたしを感動させるなら、彼らの感性に嘘偽りは微塵もないと感じる。
彼らは確かに今、その時にしか書けないものを、書くべきものだけを書いた。
それがアルコールやドラッグの御陰で、その影響によって漸く書けたのだとは想えないのである。
それに彼らが生きてこれてるのも、もしかしたらアルコールやドラッグがあったからかも知れない。
本当に苦しいときに、生きることを支えてくれたのは、アルコールやドラッグを摂取しながらでも執筆を続けてきたことかもしれない。
素面でなければ良いものは書けないと想ったなら、素面の状態での作品をしか認めないというのなら、それは自分の中だけで想っていたら良い。
でもそれを、この世界のすべてに当て嵌めることはどういうことかというと、もし自分の絶賛した作品が、実はアルコールやドラッグを入れながら創ったものだと知ったとき、どうするのか。
ビル・エヴァンスはアルコールやドラッグを入れながらピアノを演奏してはいなかったのか。
もう一度言うがわたしはアルコールを入れながら書いた作品は素面で書いた作品に比べてとても少ない。
そしてその両方に、自分で想う面白さには差があり、アルコールを入れないで書いたものの方が面白いと明確に感じたこともなければ、アルコールを入れて書いたもののほうが良いと明確に感じたものもこれまでない。
つまり作品の良し悪しは、そんなもので明確に変化を帯び、表れるものではないということだ。
確かに酒を入れると明らかに素面では書きそうにないことを書いたと感じることもある。
それは潜在し続けてきたものがふいに物凄い強力に迸るように出てくるからではないか。
覚醒状態とは良くも悪くも自分には無いものが表れるというものではない。
自分の中に在るものしか、表現することはできない。
表現とは、自分を越えることであると同時に、越えた自分を表現することだ。
自分を越えた自分が自分の中に存在しているからこそそれを表現することができる。
鬱症状とは脳細胞、脳内物質が正常な状態にはない脳の病気でもある。
それを正常にしようとするドラッグがあり、アルコールがある。
わたしはドラッグはもう何一つ、何のドラッグをも摂取していない。
もともと向精神薬も何年と続けてきたことはない。
しかしアルコールは違う。
いつからかはわからないが、もう何年か、毎晩のように飲んでしまっている。
アルコールを入れて書けるときと書けないときとでは、書けないときが遥かに多い。
わたしはだからアルコールによって書けたということをそこまで信じていない。
でもアルコールを入れると執筆できるというときも確かにあった。
素面のときに読み返しても、これは酒の為せる技かも知れないと感じる面白いものが書けたと感じる作品もある。
アルコールもドラッグも、言わば脳内物質を不自然に放出させる作用を起こすものだ。
ドーパミンなどと言われる脳内物質を、ドバドバと一気に放出させてしまう。
だから勢いよく乱射したあとのすぐに弾切れとなった機関銃のように、弾を無くしたあとは何をするすべも持たない。
では瞑想なんかもあれはドーパミンなどをドバドバ放出させるものだが、あのような状態で書いた作品は素面で書いたとは言えないのだろうか。
瞑想とは、心を限り無く無に近付けることである。
好きな音楽をなんにも考えずに無心に聴き入ることがあるだろう。
あれもまさに一種の瞑想状態にある。
あの時、脳内には快楽物質がドバドバ出てきている。
だからすごく心地が良いのである。
時も忘れて集中するとき、それはすべて脳内物質を変化させている。
執筆しているときもそうである。
一心に集中せねばものを書くことはできない。
自分は苦しい作品が好きなので、書いているときは苦しいときが多い。
でもそんなときも、脳内では快楽物質がすごく出ているのである。
快楽物質とは聞えがあまり良くないが、言い換えれば幸福物質である。
心を満たすものである。
苦しく、深刻なものほど深く集中せねば何時間と書き連ねることはできない。
自分は苦しければ苦しいものを書いている時ほど、実は脳内では幸福に満たされているという矛盾が生じている。
しかしわたし自身は苦しんでいる。
人はあまりに苦しくて限界になるなら、逃げたくなり、自分を護るために実際にそこから逃げる。
アルコールやドラッグもその一つの手段である。
そうしなければ人間の生命は脅かされてしまう。
生きてゆくために書くが、生きるために書くが、時に、自分の書いたものが苦しすぎて死にかけそうになる。
死ぬために書くのではないので一端逃げる必要がある。
避難所で、俺は幸福ではない。
火の燃え盛る家から、俺は逃げてきた。
冷水を被り、心の傷を癒そうとした。
しかし此処はどうだ。なんという寒々しい場所であろう。
何にもないではないか。
食べ物はある。着るものはある。屋根と壁と床もある。ベッドがあり、シャワーがある。水道を捻れば、飲める水が出る。二分チンするだけで喰える白米がある。三分水に浸けるだけで喰える増える海藻ちゃんがある。冷暖房完備。オートロック付き。さっきこれを書いているときに、クロネコヤマトのおっちゃんがピンポオンと鳴らしたので、心此処に非ず(執筆に集中していた為)でインターホンに出たので、ロック解除ボタンを押さずにインターホンを切り、もっかいインオゥンと鳴って出たら「鍵開けてください」とおっちゃんの寂しそうな声が聴こえてすいませんすいません(半笑い)でロックを解除してあげたのだった。家にいるだけで、あらゆるものを宅配してくれる。なんという住みやすい、暮らしやすい暮らしだろう。ははは。とか言って阿呆んだら。今日中に死ぬ可能性だってあるってことを忘れたらもう何にも書けない。今日死ぬつもりで、俺はブログをずっと遣ってきた。詰まり、このブログのすべてが、実は俺の遺書である。俺は遺書を、此処以外に書かない。俺の作品こそが、一番の遺書である。でも悲しいかな、俺のブログを読みに来る殆どの人は、多分俺の作品を真剣に読まずに帰る。(このブログで「物語」や「随筆」、「詩」のカテゴリーをクリックする人はほとんどいない。)申し訳無いが、当分(できれば一年以上)このブログのコメント欄は閉鎖致します。それは俺が、生きてゆく為にです。どうか残念に想わないでください。そうしなければ生きていけないこの俺が一番に、残念に想っているこれからずっと続く孤独と孤立の苦しみなのです。俺はこうしてますます、これから奈落に向かって、孤立して行きますから。どうか見護っていてください。天の父と、天の母よ。必ずや、何れ程に虚しく惨めであろうと、わたしはわたしにしか歩めない人生を歩み、全うし、そして死にますから。誰かと同じ道など、絶対に歩みませんから。だから、安心していてください。わたしは世界一愚かで虚しく惨めな一番に主から離れて迷える子羊の如くの人生を歩んで死ぬることが本望であり本願であり、宿願だと、わかってしまった人間なのです。わたしは本当に独りです。誰と話しても、わたしは独りです。わたしと結ばれる人間は、この世には存在しません。それをわたしはわかっているのです。わたしは父が生きていたときまで、この世で独りではなかった。でも父が死んだときから、わたしは独りになった。死ぬまで独りでいたい。誰一人、父と母以上に愛することはできない。もしその日が遣ってくるなら、その日わたしは消えてしまった。わたしは何処を探してもいない。わたしは何処にも存在しない。誰一人、わたしを知る者はいない。何一つ、この世界にはない。何も、存在しない。すべてがすべてを、忘れてしまったからだ。すべてが眠り続ける。永久に。永遠に。安らかに。


安かれ。





我が生涯の師匠の言葉 作家町田康による中島らもの小説の書評

2018-09-04 01:12:18 | 

『バンド・オブ・ザ・ナイト』(講談社) - 著者:中島 らも(1/2) - 町田 康による解説 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS







師匠の言葉は、或る意味、凄まじく絶望的であり、逃げ道を喪うほどに苦しい。

でも、それは時間が経つと、『どんな苦しみも、苦悩も、糧にして小説を書け』と言われているように感じたのだった。

昨夜は、これを読んだあと苦しくてならなくて、咽び泣いた。しかし一寝入りして、目が覚めて師匠の言葉を脳内で反芻していると師匠の言葉に何より有り難みを感じたのは、師匠の愛がとてつもなく深いからだと感じた。

わたしのBibleである『告白』を2010年に初めて読んだあとの、あの衝撃と、あの後の数日間の苦しい葛藤と同時に在った感動に、似たものを覚える。

師匠の言葉は、何より重い。
どん底に堕とされる。
存在を、脅かすものが在る。
人間が生きてゆく希望を、底から、浚いとるものがある。
だから危険な作家である。世界一。
人間の、本当の本質が書かれている。
そして後には、何より人間を救う作家だ。

師匠の言葉は、わたしを何より深い底に突き落とし、わたしを何よりも救う。

この奇蹟をわたしも行いたくて作家として生きてゆくことをあの日決意したのだとわたしは今頃こうして、漸くそれを言葉にしている。

ただただ、師匠への感謝を此処に述べ、すべてとの繋がりを通してわたしはわたしにしか書けない小説を書いて死ぬるのを心から求む。





『[人はつまづいても、倒れることはない。主がその手を支えてくださるから]』 (詩篇三七・二三ー二四)