ふくちゃんアヒル

前回の記事に書いたように、六甲山へ行ってきたのですが、
そこの「動物ふれあい広場」的なところに
こんな柄のアヒルがいました。



なんだか、ふくちゃんに似てませんか?

柄はもちろんのこと、くりっとしたつぶらな目も
わたしにはふくちゃんそっくりに見えて、
こんなに親近感の持てるアヒルに出会ったのは初めてです・・・






(イラストは、「店に行ったらなんか自分によく似た格好のヤツがいた」の図です。)
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カラスの子

 午前中、散歩がてら買い物に出かけた。晴れてはいるけれど、五月にしては風の冷たい日で、日向を選んで歩いた。普段あまり通ったことのない学校の前の道を歩いていくと、校門の前の喫茶店のご主人が、店の外に立って、どこか少し遠くを眺めているようであった。私が通り過ぎようとすると、「もし」と声を掛けてきた。
「もしよかったら、べつの道を通った方がいいですよ。カラスのひなが巣から落ちてね、あそこに親がとまってるんだけど、興奮しているから、小さいお子さんは突付かれるかもしれない。もし急いでなかったらね」
 主人の言うとおり、50メートルくらい先の電柱の上にカラスが一羽とまっていた。下のほうに首を向けている。カラスの見ている先に、ひながいるのかもしれない。どこにいるのかしらと目を凝らした
「ここからひなは見えないんですけどね」
「可哀相ですね」
「もう大人と同じくらいの大きさなんだけどね、まだ飛べないんです」
 主人にお礼を言って、回れ右をした。引き返すとき、反対側からきた自転車のおばさんが、まだ親鳥はいるの、と喫茶店のご主人に聞いていた。この近所でちょっとした事件になっているのかもしれない。
 羽ばたく練習をしている途中だったそうだから、なんとか上手く飛んで、親の元に戻れたらいいなあと思う。
 子供の頃、裏庭の木の枝にキジバトが巣を掛けた。親鳥が羽毛を膨らませて卵を温めているのを遠くから見ていたのだが、ある日の朝、二羽孵ったひなのうちの一羽が、巣から落ちてしまっているのを見つけた。
 どこか怪我をしていたかもしれない。紙の箱に入れて家の中に持って上がった。
 鳥が紙の上を歩くとき、指の先の爪がこすれて、乾いたような独特の音がする。ひなが箱の中であっちへ行ったりこっちへ行ったりするたびに、壊れそうなひなの体の重みが、箱をもつ手に感じられた。
 鳩のひなは、羽の色も地味だし、鋭い目をしてあまり可愛いものではないけれど、野鳥のひなというそれだけで魅力的だった。幼い鳥らしく、ふわふわの羽毛をしていた。
 育ててみたくてたまらなかったけれど、みんなで相談して、やっぱり親鳥に任せるのが一番いいだろうという結論になって、裏の木の巣の中に返した。
 その日の夕方に、ひなはまた巣から落ちて、今度は打ち所が悪かったのか、死んでしまった。
 巣に返したことを後悔しながら、庭の片隅に、幼くして死んでしまった鳩の子のための墓を掘った。
 そんなことを思い出した。
 買い物を済ませて、帰り道、カラスはどうなったかしらと少し離れた四辻からそちらのほうを伺ってみたけれど、よくわからなかった。喫茶店のご主人の姿はもう見えなかったから、問題は解決したのかもしれないとも思うけれど、ただ時間がお昼前になったから、店の方が忙しくなって中に入っただけなのかもしれなかった。
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ナゾのガーガー

  しばらく前から、お向かいの家の裏のほうで、何かがガーガー鳴く声が聞こえていた。
 カラスが鳴くのよりももう少し間が抜けた感じで、鼻が詰まったような声である。それも一羽ではなくて、複数の鳴き合う声が、一日のうちに何度も聞こえてきた。
 お向かいの裏には割りと背の高い木が何本も植わっていて葉っぱが青々としているから、そのどこかにカラスが巣を作って、子ガラスが鳴いているのだろうと思ったが、幾日も幾日もガーガー鳴く声を聞いているうちに、カラスでもないように思われて、ご近所でアヒルでも飼いはじめた家があるのかしらとも思いだした。
 それがこの前の日曜日に、いつものガーガーが自分の家の屋根の上から聞こえてきた。アヒルではないらしい。姿を見ようと窓から顔を出して見たけれど見えない。そのうちガーガーが遠くなっていった。
 そのあとも2、3日のあいだはまだ聞こえていたけれど、そのうち、もうどこからもガーガーは聞こえなくなって、もとの静けさに戻った。
 このあいだの日曜日が、カラスの巣立ちの日だったのかもしれない。
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お猫さまも紙がお好き?

 小学生のときに家で飼っていたセキセイインコは、よく紙をかじった。机の上に置いておいたメモ書きの紙とか、チラシとか、段ボール箱のへりとか、そのあたりにある紙は、ことごとくかじられて縁がぎざぎざになっていた。大人しいと思ったら、熱心に作業に取り掛かっていて、インコの周りにはかじり取られた小さな紙くずがいっぱい積もる。それが、何かに驚いて鳥が飛び立った拍子に、翼が起こした風でばらばらに散らかってしまうのだった。
 そういった紙切れは、もうほとんどが捨てられて残っていないのだけど、たまに、納屋から出してきた昔の本のページの端っこや(読みかけて開けたまま机の上に置いておいたりすると、やられるのである)、古い楽譜の帯がぎざぎざになっていたりするのを見つけると、その鳥のいろいろなことが思い出されて懐かしくなる。もう20年以上も前に死んだ鳥のくちばしのあとがいまもこうやって残っている。
 友達が飼っているオカメインコも紙をかじるそうで、ああいうくちばしの曲がったインコやオウムの種類は、紙をかじるのが好きであるらしい。えさになる実のたねを入れた紙箱の口をわざと小さくして、鳥が自分で紙をかじって開けて、中の種を食べられるようにしたおやつ兼おもちゃという商品まである。
 ふくちゃんは猫なのに、ときどき紙をかじる。机の上に置いておいた読み掛けのねこ新聞は端っこが破れてしまったし、手に持っていたトランプの札にじゃれつくから、スペードのエースには小さな穴が開いてしまった。
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お猫サマからカモメのみなさんへおすそ分け

 師走だというのにとても暖かな日和だったので、ユリカモメのえさを持って鴨川へ行った。
 水辺は風が冷たいかと思ったけれど、枯れた芝生の上には暖かな陽光が降り注いで、風もなく、ゆっくりと散歩を楽しむ人たちの姿があった。
 カモメたちが群れを作って羽を休めているあたりの川岸に立って、鞄の中からパンの入った袋を取り出すと、カモメたちはもうすぐにそれと察して一斉に川面を離れて飛んできた。ぎゃーぎゃー鳴いて頭の上を旋回するカモメの、水かきがついた足の先から細かい水滴が落ちてきた。
 パンを千切って高く放り投げると、ちょうど旋回してきたカモメがうまく空中でキャッチする。パンをもらえたカモメももらえなかったカモメも、長い時間空の一点でホバーリングするのは苦手だから、また次のパンを狙って一周まわってくる。でもそのうちぐるぐる飛ぶのに疲れたのか、みんな川岸に降り立って、ハトみたいに地面にパンを投げてよこせとねだり出した。実際ハトも数羽一緒に混ざっている。
 持ってきたパンの耳はなくなってしまったので、次にキャットフードを取り出した。カモメはもともと魚や小動物を食べる肉食性の鳥なので、キャットフードも食べるだろうと思って試しに持ってきたのだが、予想通り、好評であった。鴨川のユリカモメは、人からパンやお菓子をもらうことが多いだろうが、あんまりパンばっかりじゃ偏食にないかしらと思う。その点、キャットフードの成分はカモメの本来の食べ物に近いし、食塩や添加物も抑えられている。
 年末年始は寒くなるようだけれど、少し寒気が緩んだら、またキャットフードを持って川へいこうと思う。
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12月の庭

 庭の百日紅の木がいつのまにかきれいに紅葉していると思ったら、そのあとに降った雨のせいか、あっというまにほとんどの葉っぱがもう落ちてしまった。したがっていま庭の地面は、赤や黄色や橙色の葉っぱが降り積もって、鮮やかである。あとあと掃除が大変だけれど、その赤や黄色の上に、みゆちゃんの白い背中やふくちゃんの黒い背中が行ったり来たり、立ち止まったりするのを見るのは可愛らしい。
 山茶花の木は、それより少し前に、この冬一番目の花がまず咲いて、そのあと、あちらこちらの枝の先にちらほらと咲き始めているが、土曜日の朝に、ふくちゃんが窓辺にお行儀よく座ってじっと外を見つめているから、何かいるのかしらと思って見ると、メジロが花の蜜を吸いにやって来ていた。
 春以降、ほとんど姿を見なかったけれど、寒くなって山茶花の花が咲いたから、またこうして戻ってきてくれたようである。数えると3羽いる。前の冬にはたいてい2羽のつがいで来ていたが、3羽というのは珍しい。互いに関係のない3羽なのか、あるいは、つがいと、親離れできていない子供なのだろうか。小さな軽いからだで花にぶら下がって、蜜を吸っては、またちょんちょんと枝を渡る。
 メジロと一緒に、シジュウカラも来ていた。白い頬っぺたに黒いネクタイを締めたような模様をつけて、小さな虫でも探しに来たのかもしれない。
 さらに午後には、鮮やかなオレンジ色のお腹をしたジョウビタキが飛んできた。
 小さな庭が、すっかり冬模様になったようである。
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町家のツバメ

 今の季節、京都の小路を歩くと、町家の軒下でツバメが巣作りしているのが見える。巣の中の雛たちが大きくなってくると、巣の下にたくさん糞が落ちるようなのだけれど、軒下に巣のある家では、ちょうど糞の落ちるあたりの地面に段ボール紙や新聞紙を敷くことで済ませていて、そこに、住んでいる人の寛容さが感じられるような気がする。
 お向かいの家にも、ツバメが巣を作っている。外からは少し見えにくくなった家の壁の雨の当たらないところに、家の人が板の台をつけてあげているのである。
 お向かいの壁にはもうひとつ板の台があって、そこにはかつて巣があったことがわかるような泥がところどころにこびりついている。何年も前は、毎年その場所で雛を育てていたのだが、ある年、巣がカラスに襲われたそうである。その後、五、六年の間、ツバメは戻ってこなかった。そこで、家の人が、カラスから見つかりにくい今の場所に、新たに巣の台を設けたのである。
 巣の中の雛を見たくて近寄ったら、一度親鳥が驚いて飛んでいってしまったので、怖がらせてはいけないと思って、なかなか近づくことが出来ない。親鳥がいないときにそっと覗いてみるのだけれど、そういうときには、雛はじっと隠れているのか、ちっとも見えないのである。親が餌の虫を捕らえて帰ってくると、急に騒がしいツバメ鳴き声が聞こえてくる。みゆちゃんは窓辺に座り、にゃわわあ、にゃわわあ、と鳥に呼びかけるように鳴く。
 それがいつのまにか、その雛の声も聞こえなくなってしまったから、もうすっかり巣立ってしまったのかもしれない。


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メジロの挨拶

 庭のほうから、きれいな鳥のさえずりが聞こえてきたので、小鳥を驚かさないようそうっと見に行ってみたが、ちょうど飛び立ったところで、木の梢を横切った鳥の影しか見えなかった。
 庭の木にみかんを置いておくのをやめてしばらく経った頃、庭に出たら、ちょうど頭の真上の木の枝に、メジロが止まっていた。あっと思って見上げると、メジロは枝の先から庭を囲っている塀の上へぱっと飛び移り、こちらへ向きを変えると、そこから、白い縁取りをしたひょうきんな目で、じっと私の顔を見下ろした。
 あまりこちらを見つめるので、何かを訴えているのではないかしらというような気になって、そうか、最近みかんがないけれど、もっと欲しいのだという意味かもしれないと愚考した。
 さっそくまたみかんを木に刺しておいたら、果たして、メジロがつがいでやってきた。やっぱりみかんが欲しかったのだと一人納得していたのだけれど、飛んできたのはその一度だけで、もう姿を現すことはなかった。自分が訴えたことを私が取り違えてしまったので、メジロが気を使って夫婦で一度だけ来てくれたのかも知れなかった。
 それ以来、もうメジロもヒヨドリも来ない。だれも食べてくれる鳥がいないから、かごの中に残った最後のひとつのみかんは、すっかり干からびてしまった。


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春のメジロ

 いよかんを袋で買ったら、五つ、六つ入っている中に、汁気がほとんどないかすかすした不良品が一個混じっていた。不味いのだが、鳥だったら食べるだろうと思って庭の木に刺しておいたところ、そういう代物は、やっぱり鳥でも不味いらしい。木の高いところの枝先に訪れたメジロは、頭をきゅっきゅっとひねって、そこにあるのが不味いいよかんだと確認すると、これじゃあ結構ですと言わんばかりに、さっと飛び立って行ってしまった。
 あるいは、もう春になって、ほかにも食べるものがたくさん出てきたから、庭のみかんを食べに来る必要がなくなったのかもしれない。メジロは花の蜜や果物などしか食べないのかと思っていたら、昆虫も食べるらしい。このあいだ、アマチュアの映像大賞か何かをもらった人の作品をニュースでやっていたけれど、メジロの子育てから巣立ちまでを記録したもので、巣の中で大きな口を開けて待つ雛鳥に、親のメジロがバッタのような緑色の虫を与えていた。
 そうかと思ったら、その後みずみずしいみかんを庭に出しておいたら、ヒヨドリもメジロも食べに来た。来てくれるのはうれしいけれど、やっぱり春日の庭でみかんをつついている姿は、どこかしら違和感がある。お山へ行って、昆虫や春の花の蜜を食べなくてもいいのかい、と心配になる。
 それでもやはり、一日に訪れる回数はだんだん少なくなっていて、今日はメジロもヒヨドリも一度も姿を見せなかった。今朝出したみかんが真新しいまま、明るい陽光の中でしんと木に刺さっているのを見るのは寂しいけれど、でもそれでいいのだと思う。今芽吹こうとしている木の葉がまた散っていくまで、しばしのお別れ、それまでにもときどき姿を見せてくれたら、なおうれしい。


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ヒヨドリとメジロ

 メジロのために庭の木に刺しているみかんにヒヨドリが気づいて、食べに来るようになった。
 ちきちきと可愛らしいさえずりをするメジロとは違って、ヒヨドリはけたたましいきんきんした声で、全身を振り絞るような鳴き方をしながら飛んで来る。メジロが小さなくちばしで少しずつついばんで食べていたみかんを荒っぽく突っついて、中身をごっそり持っていってしまう。
 自分より体の大きなヒヨドリはメジロにとって至極迷惑な相手なのだろうけれど、私はメジロを可愛く思う一方で、ヒヨドリのことも好きである。子供の頃、家のベランダによくヒヨドリが飛んできたから、「ヒヨちゃん、ヒヨちゃん」と呼んでパンをやり、親しんでいた。
 ベランダに来ていたヒヨドリのうち、とくに馴れていたのがいて、頭の羽がぼさぼさしていたから「ボサ」と呼んでいたのだけれど、そのうちパンを私の手からじかに食べるようになった。手のひらの上にパンをのせて腕をいっぱいに伸ばすとボサが飛んできて、手のひらからパンをついばんでいく。
 やがてボサは細君を連れてきて、ベランダのすぐ横にひょろりと生えた杉の木の上に巣を作った。手を伸ばせば届くようなところだったから、ボサが寄せてくれた信頼の厚さに感動した。
 貴重な体験だったはずだが、雛がどのようの育って巣立っていったか、あまりよく覚えていない。覚えているのは、親鳥が雛のために捕らえてきたバッタか何かの虫の、きらきらするような鮮やかな緑色と、それから、まだ卵の時分だったと思うけれど、私が学校に行っているあいだに、杉の木の幹を一匹のシマヘビがするすると登ってきて、卵をひとつ呑んでしまったということである。ヘビが相手では親鳥もなすすべがない。けたたましく鳴きながら巣の周りを哀れに飛び回っていたそうだ。卵を呑んだシマヘビは、父が捕まえて裏の山に放逐したと言った。憎らしくてしょうがないが、ヘビにも生活があるから仕方がない。
 時がたって、もう死んでしまったのか、ボサは来なくなった。庭に植木屋が入ったときに、使われなくなった巣を取って貰った。枯れ草を上手に編んで作ってあって、雛が育つ巣の真ん中は、麦藁帽子をひっくり返したような、きれいな丸い形になっていた。その巣は、今も実家のどこかに仕舞ってあると思う。
 ボサの思い出があるからヒヨドリは好きなのだけれど、このあいだ、先に来ていたメジロを追い払って、隣家の庭の木まで執拗に追いかけていったのには閉口した。もっとも、うちに来るヒヨドリはまだまだ警戒心が強くて、人影を見ればすぐに逃げてしまうから、そのあとあまり人を怖がらないメジロがすぐさまやってきて、慌てるようにみかんをついばんでいる。


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