トラの水風呂

 7月に生まれたキリンの赤ちゃんを子供に見せてやろうと、久しぶりに動物園へ行った。
ここしばらく、空気が秋めいて涼しかったから、きょうも大丈夫だろうと思って行ったら、予想が外れて蒸し暑かった。
 でも、行ったかいあって、キリンの赤ちゃんは可愛らしかった。赤ちゃんといっても、もう背の高さが180センチくらいあるようだけれど、お母さんキリンとお父さんキリンのあいだの地面に座り込んだ様子が、頼りなくてあどけなかった。
 一通り見てまわってトラの檻へ行ったら、アムールトラのビクトルが、小さなプールに浸かっていたから、ちょっと驚いた。おもちゃにしている、丸いオレンジ色の浮きも一緒にプールに入れているから可愛かった。アムールトラはシベリアあたりの寒いところに住んでいるトラだから、水風呂にでも入らないと日本の夏の暑さは凌げないのだろうけれど、同じ猫科であるうちの猫たちを思い浮かべると、水の中で涼んでいる猫というのは、何となくおかしな感じがする。
 暑くて、たくさん歩いて疲れたけれど、出かける前の蒸し蒸ししただるさは抜けたので、かえってせいせいした。
コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )

雪の日の動物園

 週末の暖かさから一転して、きょうは雪が降っていたけれど、また動物園へトラを描きに行った。
 きょうもグラウンドがビクトル、裏の寝室がアオイちゃんの配置で、小雪が舞う中、ビクトルはこのあいだの暖かかった日と同じ調子で、丸太のテラスの上ですやすや眠っていたから、密集した毛皮で別段寒いとも思っていないのだろう。
 トラの檻の横にはジャガーがいて、こちらはもともとの生息地が中央アメリカから南アメリカ北部、標高1200メートル以下の森なので、今日の天気は少し寒かったかもしれない。猫みたいに、丸くなって眠っていた。
 余談だけれど、もちろん、ホッキョクグマにとってはきょうくらいがちょうどいい。気持ちよさそうに長々と伸びて眠っているのをみると、毎年日本の夏を過ごさなければならないのが、本当に気の毒だと思う。
 寝室のアオイちゃんは、きょうはご飯をもらったあとらしくて、食べ残したチキンが丸ごと一羽、床の上に転がっていた。寝室は、十段くらいの階段がついているだけの小さなコンクリートの部屋で、グラウンドに比べて見栄えはしないけれど、トラと見学者との距離は、こちらの方が近い。アオイちゃんが二重になった鉄格子のそばまで来てくれたから、その澄みきった目の光までよく見えた。
 アオイちゃんとビクトルを比べると、やっぱり女の子だからか、アオイちゃんの方が顔が穏やかで可愛らしい。毛並みも艶やかだし、目がとてもきれいである。いまは4歳で、2年前、2歳の頃に人間でいうと中学生くらいだという話を飼育員の人に教えてもらったから、今がもっとも華やいだ時期だろうか。
 グラウンドに戻って昼寝から覚めたビクトルをしばらく眺めて、もう一度裏へまわってみると、アオイちゃんは、寝室の奥の、部屋とグラウンドを隔てる柵の前に座っていた。よく見ると、いつのまにかビクトルも柵のすぐ向こう側に来て座っている。
 トラ舎のうしろに見えるクジャク苑では、三羽の雄のインドクジャクが緑色に光る尾羽を一斉に広げて、少し時期が早いようだけれど、求愛活動しているようである。
 アムールトラも恋の季節なのだろうか。この京都の動物園でトラの赤ちゃんが誕生したら、素敵なことだ。
 雪がひどくなってきて、膝は震えるし、鉛筆を持つ手も感覚が薄くなってきたから、少しは暖かいだろうと思われる爬虫類館の中へ入った。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ビクトルとアオイちゃん

 動物園へトラを描きに行った。祝日だった前日のサル温泉とはずいぶん様子が違って、平日の午前中だからあまり人は多くない。
 トラは、アムールトラが二頭いる。雌のアオイちゃんと雄のビクトルで、二頭はお見合い中なのだけれど、ゆっくり慣らしていく過程で、まだ南側のグラウンドと北側の寝室に分かれて住んでいる。部屋はときどき入れ替えて、このあいだはグラウンドの方にアオイちゃんがいたけれど、きょういるのはビクトルだ。
 この日も暖かくて、南側のグラウンドには日がいっぱいに差し、ビクトルは丸太で作られたテラスの上で気持ちよさそうに眠っている。
 ものすごく大きなトラだけれど、横になった感じとか、目をつぶったまま両手のひらを口元に持っていってぺろぺろ舐めたところなんかが、猫の仕草にそっくりである。
 ぽかぽかしたビクトルをしばらく眺めたあと、一方、北側の寝室にいるアオイちゃんはどうしているのかしらと思って裏へまわってみた。
 こちらは完全に日が当たらなくて、ひんやりしている。こんなにいいお天気の日にグラウンドに出られないなんて、ビクトルはのびのび日向ぼっこをしているというのに、アオイちゃんは可哀相だと思ったけれど、よく見ると、お昼寝中のアオイちゃんのうしろ姿は、大して可哀相なふうにも見えない。寒そうに丸まっているのではなくて、壁のほうにからだを向けて長々と寝そべっている。思うに、うちの猫が夏の暑い日、廊下の床の上で壁に向って仰向け気味に寝ている姿によく似ている。
 それで気がついたのだけれど、アムールトラは、ロシアのタイガの森などもともと寒い地域に住む動物だから、日の当たらない北側の寝室くらいがちょうどいいのかもしれない。グラウンドからビクトルの咆える声が聞こえてきて、アオイちゃんは大きな猫の手みたいな前足をうーんと上に伸ばし、うるさいなあというように手のひらで顔を覆った。
 もう一度表にまわってグラウンドのビクトルの様子を見に行ったら、もうビクトルは起きていて、暑そうに口を開けて息をしていた。白い湯気が、もわもわと牙のあいだから立ち昇っていた。
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )

サル温泉

 動物園で「サル温泉」というイベントがあるので見に行った。
 サル温泉は、2007年に市内の中学生が動物園の活性化を願って発案したのがはじまりで、今回で5回目であるらしい。「温泉」という名前がついているけれど、実際に温泉から出たお湯ではなくて、ごみ焼却で出た熱を有効利用して沸かしたものを、タンクローリーで運んできている。
 暖かい日で、園内には人がいっぱい、それが、午後2時の給湯開始時間を待って、サル島に集まってきた。
 サル島は、円形に深く掘り下げられた真ん中にサル山というのかコンクリートや鉄棒でできた階段やジャングルジムなどが組み合わされた塔が立つ展示施設で、見学者はその周りから中にいるサルを見下ろす(塔の上のほうにいるサルに関しては、同じ目の高さか、あるいは見学者の方が下である)。
 10分前にはすでにすごい人だかりで、かろうじてプールの反対側のあたりに人垣のすきまを見つけて入り込んだが、真ん中のサル山にさえぎられてプールの様子は見えない。サル島の対岸にはものすごい数の人間が並んでいる。これだけの人間どもに周囲を取り囲まれて、サルたちはとてもいい気はしないだろうと思った。
 給湯がはじまったが、見えるのはホースから出るお湯の流れと白い湯気ばかりである。あわてて見なくても、2時間くらいはサルがお湯に浸かる姿が見られるというので、いったんサル島を離れて、しばらくして人がだいぶ引けてから様子を見に戻った。
 サル島のプールには夏には水が張られていて、プールの上の縄ばしごから水に飛び込んだり、水中を上手に泳ぎまわるサルの様子を見たことがあるが、この日のサル温泉でも、子ザルが犬かきならぬ猿かきで泳いだり、頭のてっぺんまで全部水に潜って泳いだりする姿が見られた。
 お湯につかったり泳いだりするのは新しい環境に順応しやすい若いサルばかりで、大人のサルは、水際で手足を浸す程度であるらしい。サルでも人間でも、年を取るにつれ新しいことに挑戦したくなくなるのは同じようである。
 せっかく温泉で暖まっても、お湯から出たあとが吹きさらしではよけいに寒いのではないかしらと思ったが、心配ご無用、ぶるっとからだをひと振るいすればそれでほとんど乾いてしまうので、湯冷めはしないそうである。

※イラストは本文とは無関係(ネコ温泉)です。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

マンドリルのマンマル君

 京都市動物園で、23日にマンドリルの赤ちゃんが生まれたというので、生後6日目の日に見に行った。生まれたのは、マンドリル夫婦の第三子となるオスの赤ちゃんである。
 息子の手を引き、入ってすぐのキリンから順に見てまわって、マンドリル舎にたどりつくと、お母さんマンドリルはガラス張りの飼育舎の一番奥で、こちらに背中を向けていた。横にはお父さんマンドリルが付き添っており、見えないけれど、お母さんの胸には赤ちゃんが抱かれているようである。飼育舎の周りを回って、いろいろ角度を変えて見ると、なんとなくお母さんの膝の上に赤ちゃんらしきものが見えて、お母さんは赤ちゃんの毛繕いをしているようであった。
 しばらく待ってもこっちへ来る様子はないので、先に息子の好きなゾウを見に行った。
 再びマンドリル舎へ戻ってみると、ちょうどお母さんが飼育舎の真ん中にある木の台の上に移動してくるところであった。つねに赤ちゃんを大事に胸に抱いているお母さんマンドリルの姿は、同じように赤ちゃんを抱く人間の母親の姿に重なって見えるけれど、人間の赤ちゃんが首も据わらず一人では何も出来ない無力な存在であるのに対し、マンドリルの赤ちゃんは、生まれながらにしてすでに強い腕力を持っている。その証拠に、お母さんマンドリルが両手足を使って移動する際には、落とされまいと、自力でしっかりと母親の胸にしがみついている。
 木の台の上でごろんと仰向けになった母親のお腹の上に、赤ちゃんが乗っている。やはりお父さんは見守るようにそばにいる。二頭いる上の子供のうち一頭も近くにやってきて、マンドリル家族水入らずの様子であった。
 新しく生まれた赤ちゃんは、みんなに親しまれるよう「マンマル(まん丸)君」と名づけられたそうである。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

鞍馬山のアシナシイモリ

 京都市内は、連日35度近くまで気温が上がる猛暑だけれど、さすがに鞍馬山のあたりは、葉の生い茂った木々のあいだを吹き抜ける風が、少しひんやりとしている。山門をくぐって、ケーブルカーに乗った。本当はつづら折の山道を自分の足で登ったほうがご利益があるらしいのだけれど、小さな子供を連れているから、ケーブルカーであっという間につづら折の上へ着いた。
 山の中を抜ける石畳の参道の側溝には、ムカデとか蛍光色の巨大ないもむしとか、よく虫が落っこちているので、また何かいないかと思って、注意して見ながら歩いていたら、アシナシイモリの体の一部が、なぜ一部なのかはわからないけれど、落ちているのを見つけた。その数メートル先には、完全な形の生きたアシナシイモリが、三つ折りくらいになって、腐葉土の崩れたがけの下に、落ち葉に身を隠すようにしてじっとしていた。ふだんは地中で暮らしているはずなのに、何かの拍子で出てきてしまったのだろう。
 アシナシイモリを見るのは、これが二度目である。れっきとした両生類で、イモリの仲間なのだけれど、見た目は、まるで巨大ミミズだ。つるつるした青みがかった体に、節の輪がきれいに並んで、一見、ホースか何か人工物のように見える。はじめてみたのは子供の頃で、実家の近くの砂防ダムの砂地の上に、体の一部だけがじっと弧を描くようにして出ていたから、何かチューブを構造に含んだゴミが、地中に埋もれているのかと思った。
 一緒にいた父に、これなんだろうと言って二人で首を傾げていたら、ダムの池で釣りをしていた少年が、「アシナシイモリだ」と言うやいなや、持っていたはさみでちょん切ってしまった。途端、切られたからだがくねくねと動き出し、私は飛び退った。
 動物については、図鑑などをよく見て詳しい方だと思っていたから、アシナシイモリという未知の奇妙な生き物の存在自体衝撃的だったし、少年の残酷な行為も衝撃的で、アシナシイモリは衝撃的な思い出として心に残り、以来、自分にとって特殊な生き物であると思っていた。
 それから二十数年が経って、鞍馬山で再び邂逅したアシナシイモリだけれど、長い月日が経った後では、あの思い出からは意外に乾いた自分がいて、ちょっと懐かしいと思ってしばらく眺めたけれど、とくにそれ以上の感想もなくて、杉木立の参道を先へ進んだ。


参考:アシナシイモリの画像
※ご注意!あんまり気分のいい画像ではありません。


追記:その後、よく調べてみると、アシナシイモリの生息域は熱帯地方で、日本にはいないということがわかった。私がアシナシイモリだと思っていた生き物は、シーボルトミミズという大型のミミズであったらしい。
訂正記事はこちら
コメント ( 12 ) | Trackback ( 0 )

キリンの赤ちゃん生まれる

先週、京都市動物園のアミメキリンが妊娠中で出産はもうすぐだと書いたけれど、7月28日夜、無事、オスの赤ちゃんが誕生した。
 母親の未来(みらい)は今回が初産。分娩開始から出産まで約2時間かかった。赤ちゃんは、生まれてから約40分後に立ち上がったという。
 生後4日目にあたる今日、動物園を訪ねてみた。
 赤ちゃんキリンはすでに1.8メートルの高さがあって、生後40分で立ち上がったくらいだから当たり前だけれど、首を高く伸ばしてしっかり歩いていた。ヒトや、肉食動物である猫の赤ちゃんなら、生まれてすぐは何もできなくたって親が守ってあげられるからかまわないけれど、草食動物は、自然界において常に敵に狙われている。生まれてすぐの赤ちゃんさえ、自らの身を守るために自力で立って、走って逃げなければならない。
 赤ちゃんキリンは母親の未来と一緒に、床にわらの敷き詰められた屋内の飼育施設の中で、寄り添ったり離れたり、親子の時間を過ごしていた。が、お父さんは隔離である。父親の清水(きよみず)は、外をぶらぶらして水を飲んだり、ときどき、柵をへだてた向こうの檻から顔を覗かせ、妻子の様子を見たりしていた。
 母親の未来は、右後ろ足の網目模様にハートの形があることから、カップルのあいだで「幸せを呼ぶキリン」と人気があるそうだが、新しく生まれた赤ちゃんにも、おなじ右後ろ足にハートの形が見つかった。数え切れないほどの模様の中から、偶然の一個を取り上げて、乗せるほうも乗せるほうなら、乗るほうも乗るほうだとひねた見方をしてしまうけれど、そういう模様の形が遺伝されるという事実は、猫の毛の色が親子でまったくばらばらだったりすることなどを考えると、なかなか興味深いと思う。
コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )

雨の象

 動物園へ行ったら、午後に向って晴れ間が広がっていくでしょうと言った気象予報士の言葉を裏切って、黒い雲が空を覆い始め、やがて雨雲の重みに耐えきれなくなった空から、ぽつりぽつりと雨が降り出した。
 しばらく屋根の下のベンチに座って様子を見ていたけれど止みそうになく、退屈した息子がゾウが見たいと言うので、ベンチを立って、ゾウの檻の前の、松の木の下に雨宿った。
 立派な松の木だけれど、針葉樹だから、細い葉のあいだから雨がぽつぽつと落ちてくる。見上げると、普段、雨模様の空が背景ではあまりよく見えない雨の粒が、茂った黒い枝の隙間から、小さなガラスのビーズみたいにつぎつぎと落ちてくるのがきれいだった。
 大きな黒いカラスが鳴きながらやってきて、先に雨宿りをしていたハトたちを蹴散らしていった。
 アジアゾウの美都は、運動場の砂地を、なにやら鼻で掘っていた。何をしているのだろうと思って見ていたら、突然、のっしのっしと小走りにこちらへ向ってきて、鼻をしならせ何かを投げつけた。たぶん投げたのは落ち葉か何か軽いもので、美都も本気で投げたようではなかったから、こちらまでは届かずに、ゾウと柵のあいだに横たわる堀の中へ落ちていったけれど、この攻撃的な仕草にいささか驚いた。横で赤ちゃんを抱いてゾウを見ていたお母さんも、何メートルか後ろへあとずさった。
 ゾウの柵には、「ゾウが鼻水や泥水を飛ばす事があります」という注意書きがされていて、以前にも、ゾウを見に来た4人組の高校生の男の子たちの中の一人が、どういうわけか美都の気に入らなかったらしく、鼻で彼に何かを投げつけているのを見たことがあった。別に高校生たちの態度に悪いところなどなかったのに、その子が近づくたびに、鼻を振り上げるのであった。
 今日の美都も、どこか虫の居所が悪かったのかもしれない。
 その後も松の木の下で見ていたら、たぶん美都のおもちゃなのだろう、鉄の鎖のついたタイヤを鼻で荒っぽく持ち上げて、地面に放り投げたりしていた。子供の投げ輪か何かのように、美都は軽々と鼻で扱っていたけれど、本当は重たいタイヤである。優しい目のゾウだけれど、怒るとやはり恐ろしいのだろうと思った。
 タイヤを投げつけた美都は、鼻を塀の向こうへ伸ばすような素振りをした。
 動物園は楽しいけれど、動物たちのそういう姿を見ると、気の毒になる。動物園で生まれた者ならまだ、檻の中の境遇をそれほど憂鬱に思うこともないかもしれないが、美都は、確かどこかのアジアの森からやって来たゾウである。来園して30年ほど経つ今でも、故郷を思い出すことがあるかもしれない。美都の長い鼻は、かなしい感じがした。
 ゾウを見てカバを見てホッキョクグマを見て、売店の屋根の下でソフトクリームを食べて、ようやく雨は上がり、午後からは予報どおり青空が広がった。
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )

ヤモリの子の負傷(後篇)

 ただし、完全に回復するまでは自分でえさをとれないかもしれないし、その場合には、危害を加えたみゆちゃんの保護者責任として、しばらくヤモリの面倒を見てやらねばなるまい。
 とりあえず、物置の棚にヤモリを置いて、足の傷に化膿止めの薬を塗り、しばらく様子を見ることにして、保護しなければならなくなったときのために、ヤモリの飼育方法をネットで検索した。
 ヤモリは、隠れる場所さえ確保してやれば、普通のプラスチックの飼育ケースで飼えるそうだが、一番の難点は、生きたえさしか食べないことである。運悪く、翌日から旅行へいくことになっていたので、保護しなければならなくなった場合には、実家に預かってもらおうかしらと思ったけれど、さすがに、ハエを生け捕りにして与えてくれとまでは頼めない。ペットショップで売っているミールワームという生餌でもよいそうなので、それを買ってこようかなどと考えながら、ときどきヤモリの様子を見にいくと、最初はまったく動けなかったのが、見に行くたびに少しずつ移動しているようになって、これなら大丈夫かもしれないと思ったら、しまいに元気を取り戻したのかどこかへ行ってしまった。
 ヤモリの子が助かってなによりであるし、みゆちゃんの保護者としては、大事にならなくて、ほっと胸をなでおろす気持ちである。くわえて、ハエを捕まえたりミールワームなるものを買いに行くはめにならずにすんでよかったと、安堵している。


※ヤモリの飼い方を参照したページはこちらです。面白いので、興味のある方はどうぞ。
コメント ( 5 ) | Trackback ( 0 )

ヤモリの子の負傷(前篇)

 庭から戻ってきたみゆちゃんが、台所の隅で、なにかをくちゃくちゃと噛んでいる。その口から、人の小指よりもまだ小さい、黒っぽい細長いものが床の上にぽとりと落ちた。
 非常に嫌な予感がしたけれど、そのまま放っておく訳にもいかないので、覚悟を決めて見に行くと、ミミズでもナメクジでもなく、それはヤモリの子供であった。
 仰向けにぱったりとひっくり返って動かないので、手遅れであったか、可哀相にと思いながら、まだ遊びたそうなみゆちゃんを取り押さえつつよく見ると、喉のところがひくひくと上下に動いていて、息があった。尻尾はすでになくなっていて、左の太ももに深い傷を負っている。手のひらにのせると、不思議な金色の目でどこか一点を見つめ、じっと動かないので、今は生きているものの、もうだめかもしれなかった。
 庭に降りて、みゆちゃんの手の届かない木の枝にのせておこうかと思ったら、木の上には蟻がうようよいるので断念し、蟻のいない、塀の上に置いておいた。
 しばらくして庭を見ると、ヤモリの子を置いた塀の下あたりにみゆちゃんが前こごみになって、何かをじっと見つめている。大変だと思ってあわてて見に行くと、地面の上に落ちたヤモリに蟻がたかり、哀れなヤモリは自由のきかない身体を一生懸命よじって抵抗している。ヤモリを拾って蟻どもを払い、最後までしつこく胸の皮に食いついていた一匹も弾き飛ばして、やれやれと思ったら、まだ顔の辺りに蟻が一匹くっついている。まだいたかと思って払おうとすると、そうではなくて、逆にヤモリが蟻をくわえ込んでいるのであった。
 自らの身体をかじりに来た蟻を捕らえて食べるという、ヤモリの根性というか、逆境での強さを目の当たりにして、この子は元気になるかもしれないという希望がわいた。(つづく)
コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ