ねこ絵描き岡田千夏のねこまんが、ねこイラスト、時々エッセイ
猫と千夏とエトセトラ
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猫はおととの夢を見るか?
2007年01月31日 / 猫
息子が起きかけてぐずっているのかしらと思って見ると、息子の寝顔は平穏そのもの。声の主は、ソファの上の毛布の下で眠っているみゆちゃんであった。
みゆちゃんはよく寝言を言う。「ウーン」とか「ウウー」とか、何の夢を見ているのだろう。
猫が夢を見るか否かは、猫に聞いてみないとわからない。でも私は、犬も猫も夢を見ると思う。
以前飼っていた犬は、時々、眠りながらぴくぴく足をけいれんさせることがあって、きっと原っぱで走り回っている夢を見ているんだろうねと、みんなで言っていた。いたずら好きな父が、寝ている犬の瞼をそっとめくってみると、眼球はぐるぐると動いている。人間が夢を見るのと同じ、REM(Rapid Eye Movement)睡眠の状態なのだ。
デビンちゃんは、ご飯を食べたあと居眠りしながら、口をもぐもぐ、舌をぺちゃぺちゃさせている。お腹がいっぱいで、夢の中でもご飯を食べているのだろう。そんなデビンちゃんを見ると、無邪気というか、あどけなさの極みのようで、思わずにっこりしてしまう。
みゆちゃんの寝言は、どんな夢を見ているのかちょっとわからない。怒ったように唸っているときにはきっと悪夢なんだろうと思って、余計なお世話かもしれないが、ゆすって起こしてあげる。たいていなかなか起きないが、みゆちゃん、みゆちゃんと呼びかけながらからだをゆすると、ようやく首をはっと起こして、寝ぼけ眼で辺りを見回し、なんだ、夢か…という顔をする(と解釈している)。
猫が夢を見ている証拠はないけれど、家の猫が何の夢を見ているのかいろいろ空想してみるのは、楽しくていい。
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消防隊の出初式
前の日に式場となる岡崎公園を通ったら、観覧席を作ったり、紅白の幔幕が張られたりと、大掛かりな準備である。たかが式典に税金をつぎ込んでと思ったが、出初式にはむろん消防車もたくさんくるのだろう、それならば明日は息子に消防車を見せに来ようと思い、路傍で立ち話をしていた消防士に、消防車は何時頃出るのですかと聞いてみた。消防士は10時頃に来られたらいいでしょうと教えてくれた。
当日、消防車に間に合うよう家を出る予定であったのに、その日に限って息子が二度寝をしてしまった。式典は12時までである。息子が起きるのを待って、急いで式場へ向かうと、ちょうどまさに、クライマックスの消防訓練が始まるところであった。
道路に並んだ消防車をのんきに見て歩いていたら、消防士が小走りにやって来て、今から訓練でここは水がかかるから、早く屋根の下へ入れと言う。慌てて避難した。
すぐに、公園内に集結していた何台もの消防車が、ウーウー、カンカン、サイレンを鳴らして行進し始めた。なかなか圧巻である。頭上には轟音を響かせながらヘリコプターも4機ほど飛んでいる。ヘリコプターは恐ろしく燃費が悪く、大量の燃料を食うのだと聞いたことがある。この燃料も税金、ここまでやる必要があるのかしらと考えているあいだに、整列するはしご車のはしごがどんどんのびていって最高点に達し、私たちが避難している建物に向かって、一斉放水がなされた。全員が見つめる中、やがて水は止まり、号令がかけられて、式典は終わった。面白かった。
式が終わったあとも、公園内に止められた消防車や救急車に乗せてもらったり、地震車で阪神・淡路大震災と同じ震度を体験させてもらったり、さらに息子には消防隊のぬり絵をもらったりと、税金云々と言いながらも、じゅうぶん楽しんで帰った。来年もまた来よう。
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ニシキヘビのタマコ
ビルマニシキヘビは、いつ見ても横腹をガラスに押しつけ、眠っているのかじっと微動だにしないので、私は珍しく思い、急いで見に行った。
浅く水の張ったプールの上で、確かにニシキヘビはこちらに首を突きつけ、舌をちろちろやっている。
名前はタマコ。週に一度ウサギを食べて、月に一度うんちをする。
ヘビといえば、このあいだ、子供番組の人形劇にツチノコの話が出てきて、懐かしく思ったところである。幻のヘビと言われるツチノコは、ヘビだけれど胴体はずんぐり、ジャンプ力がすごいとか、動きが早いとかいう特徴がある。子供の頃に持っていた、いるかいないかわからないような生き物ばかりを集めた図鑑に載っていて、ネッシーとかイッシーとか雪男とかにくらべると、まだいそうな部類であった。その頃はテレビでもツチノコを見たとか何とか、ときどきやっていたように思うが、今ではさっぱり聞かない。
その図鑑を見た父が、前に山を歩いていたとき、突然横から飛び出してきてくるぶしあたりにぶつかり、またすごい速さで茂みの中に消えていった生き物があって、なんだかよくわからなかったのだけれど、あれはもしかしたらツチノコだったのかな、などと言っていた。
人形劇に出てきたツチノコの正体は、大根を丸呑みしたヘビであった。父の足首にぶつかったのも、何かを呑んだばかりのへびだったかもしれない。
動物園の爬虫類館では、ヘビの飼育室の前に、「さわって確かめてみよう」と、ヘビたちが脱ぎ捨てた抜け殻が箱に入れられている。おじいちゃんと一緒にいた女の子が、恐る恐るながら、箱の中の抜け殻に手を伸ばそうとしたとき、「そんなもの触ったら、絶対抱っこしないからね!」とおばあちゃんがぴしゃりと言った。
手を引っ込めてしまった女の子を見て、彼女の可能性がひとつ失われてしまったようで、私は残念に思った。
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イルカショーのイルカたち
今年のお正月は鳥羽の方へ行って、水族館でイルカショーやアシカショーを見た。こういうショーを見るたびに思うことは、そこで飼われているイルカやアシカたちが、幸せだろうかということである。映画「グラン・ブルー」では、主人公がショーのイルカを夜中海に連れ出して、自由に泳がせてやるという場面があった。野生動物は野生の状態が一番いいのだという人は多いと思う。しかし野生はとても厳しい。釣り針のかかった魚を知らずに飲み込んでしまうことだってあるだろう。
かつてはショーの動物たちが劣悪な環境で飼育され酷使されて問題になったということもあったように思うが、遅れがちな日本の動物愛護もようやく広まってきたのか、最近そういう話題は聞かない。自由奔放に生きることはできないけれど、えさの心配もなく、健康も管理され、もしかすると遊び好きのイルカたちはショーを楽しんでいるかもしれない。
ネパールのある寺院では、諸々の事情で保護した何頭ものトラを、野性に返すことなく寺院で世話している。野生にこだわる必要はない、トラたちが幸せならそれでよいのだと、寺院の僧侶に迷いはない。
野生で生きるか、人の手の中で生きるか。そのどちらが幸せかは、動物に直接聞いてみることができない以上、知るすべはない。だけどそれぞれに良し悪しがあって、はっきり野性がいいのだとかそうではないとか、断定することはできないだろう。
猫を室内で飼うか外飼いにするかという選択も同じだ。我が家では室内で飼うことを選択した以上、その範囲内でみゆちゃんが最大限幸せな「猫生」を送れるよう心を尽くすばかりである。
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現代猫の心の病?
2007年01月23日 / 猫
ちゃめはいつも父にべったりで、よく膝の上で丸くなるし、父のあとをついて回って、父が長めに外出するとまだかまだかと帰りを待ったりするほどである。それが、父が手を伸ばしてもこそこそと逃げて行ってしまう。
この行動のほかは、食事も排泄もとくに変わったことはなかった。結局、3、4日経つとけろりと治って、いつものおてんばちゃめに戻ったが、このちゃめの症状は人間のうつ病に似ていないかと父は言うのである。
不思議なのは、その症状が一週間ほどあとに父にうつったということだ。ちょうどそのとき父は泊りがけで登山に出かけていたのだが、理由なく気分が落ち込んで面白くなく、山の美しい景色を見ても少しも心を動かされなかったのだという。
もしや、猫にも人にも感染し、罹るとうつの症状が出る新種のウイルスか、などと言って皆で不思議がっていたのだが、そんなウイルスは眉唾物だとしても、そのおかげで、女性特有の落ち込んだ気分を父が理解できるようになったのは、母と私にとって予想外の収穫であった。
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納豆争奪戦
自分が食べるだけでなく、人が食べているのを見るのも好きである。仕事から帰ってきた夫が遅めの夕食で納豆を食べようとすると、膝によじ登ってまた納豆を指す。欲しいのかと思えばそうではなく、今度は夫に食べろ食べろと勧めているのである。お箸をぐるぐる回したり、納豆が数珠だまのように糸を引いて落ちていくのが面白いのかもしれない。
このように大好物であるから、先日の夕方、近所のスーパーへ納豆を買いに行くと、売り場がすっからかんである。「本日の納豆は売り切れました」と手書きの札が立ててあった。納豆が全部売れるなんて、こんなことってあるのかしらんと不思議に思って首をひねっていたが、あとで、納豆がどこかのテレビでとりあげられたためであるということを知った。
別の日にもう少し規模の大きいスーパーに行ってみると、一種類だけかろうじて残っていた。ここにも、「テレビで放映されたために、納豆の生産が追い着きません」というようなことが書かれていた。
へそ曲がりの私は躊躇した。みんなが買うから買っているように思われるのは嫌だ。私の買い物かごの中の納豆をちらと見た人やレジのおばさんに、ああ、この人も、テレビでやっていたから、なんて思われるのが嫌なのである。もっとも、周りの人は実際自分が思っているほど私に注意なんか払っちゃいないだろうから、そんなことを気にする必要はないのだろうけど。
二年前に妊娠していたときには、寒天ブームにぶち当たった。妊娠後期には便秘になりやすくなるので、食物繊維の豊富な寒天を作って食べようと店に買いに行ったところ、どこも品切れであった。ようやく入荷された粉寒天を、ブームに乗っていると思われたら嫌だなと思いながら、必要に駆られて仕方なく買った。
納豆も、息子が大好きであるから仕方なく買った。
テレビでは、毎日のようにあの食べ物がいいのだとか、これがいいのだとかやっている。要するに、いろんなものをまんべんなく食べればよいのだろう。
(もっとも、そのテレビで放映された納豆に関するデータは、どうやら捏造だったらしいけど。)
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初代猫タヌキの想い出(後篇)
2007年01月19日 / 猫
タヌキとゲリスンのじゃれあいは徐々に遊びではなくなっていった。体格もよく強いタヌキがいつもゲリスンを追いかけた。ゲリスンが家に帰ってこない日がだんだんと多くなっていった。そしてそのまま、ある時を境に二度と戻ってこなくなった。しばらくのあいだは近所の人がゲリスンを見かけたという話を聞いた。だがやがてそれもなくなって、ゲリスンの消息はわからなくなった。結局ゲリスンが家で過ごしたのは一年余りのあいだだけであった。
タヌキは毎日縄張りを見回りに行った。この近辺ではかなり幅を利かせているようであった。大通りを渡って、家からだいぶ離れた知り合いの家の雌猫と一緒にいるところを見たこともあった。子猫の頃は雪のように白く美しかった毛も、薄汚れたモップのようになっていた。
あるとき、庭に子猫を連れた三毛の雌猫がやって来た。子猫は茶トラと白黒が2匹ずつの計4匹。タヌキとも自然な様子で接しているところから、タヌキの子供たちであるのかもしれなかった。三毛の親子は一週間ほど家の庭で過ごしたあと、どこかへ行ってしまった。
タヌキが家の庭で生まれてから3年が過ぎた。タヌキは外泊することが多くなっていた。
そんなある日、タヌキが二匹のサバ猫を家に連れてきたのである。二匹は生後1年足らずでともにそっくりであったから、おそらく兄妹だったのだろう。タヌキとの関係はわからない。タヌキの子供であったのかもしれない。
その二匹を家に置いて、タヌキは姿を消した。どういうつもりで二匹の猫を連れてきたのか。タヌキがふたたび家に帰ってくることはなかった。
タヌキは自由に生きた。その生き方を、タヌキ自身がどう思っていたかはわからないが、猫に関する知識もだいぶ増えた今、タヌキのことを振り返ると、完全室内飼いという選択肢を知っていればと思う。少なくとも、弱々しかったあのゲリスンは、家の中で守ってやるべきだったと思うのである。
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初代猫タヌキの想い出(中篇)
2007年01月18日 / 猫
活発なタヌキにくらべてゲリスンはいつもうずくまるようにじっとしていて、しけた猫だと思っていたら、可愛そうに、それはおなかの虫のせいであったようだった。ある日便の中に虫が見えたので虫下しを飲ませてみると、元気になった。こういうことを含め何から何まで、私たちは猫について初心者であった。
タヌキは賢い猫であった。もうずいぶん前のことであるから、どんなふうに賢かったのかだいぶ忘れてしまったけれど、みんなでいつもタヌキは賢いと言っていた。反対に、虫下しを飲んで元気にはなったが、ゲリスンはどこか要領が悪くて、野良として生きていくには少しハンデがあるように思われた。
当時家にいたシェットランドシープドッグと仲良くできるのか心配であったが、杞憂であった。温和な性格の犬でタヌキもよく馴れ、一緒にベッドで眠ったり、犬のからだに頭をこすりつけて甘えるほどであった。
この犬の真似をして、タヌキはひとつ芸当を身につけた。食べ物を空中でキャッチすることである。シェットランドシープドッグはとても食いしん坊で、人間の食事の際にはいつもテーブルの横でおすそわけを待っていた。つぶらな黒い瞳でじっと見つめられては、とても無視するわけにはいかない。おかずの一部を少しとって鼻先に落としてやると、ぱくっと受けて丸呑みにする。それをタヌキは横で見ていた。同じように鼻の上から食べ物を落とすと、上手に口でキャッチした。ゲリスンも真似をしようと勢い込んで飛びつくのだが、こちらはうまくタイミングが合わず、いつも食べ物を鼻ではじいてどこかへ飛ばしてしまうのだった。犬と一緒に暮らした猫はタヌキとゲリスンだけである。それ以降の猫たちで、食べ物を空中キャッチする猫はいまだにいない。(つづく)
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初代猫タヌキの想い出(前篇)
2007年01月17日 / 猫
タヌキの母猫が庭の離れの縁の下でお産をしたことが、タヌキと出会うきっかけであった。もともとうちは完全に犬派で、現に雄のシェットランドシープドッグを飼っていた。動物好きではあったのだけれど、猫と親しくする機会がなかったのである。道端で出会う野良猫は、呼んでみてもたいていが逃げてしまうので、猫なんて愛想の悪い、可愛げのない動物なのだと思っていた。
だからタヌキ一家が縁の下を出て庭でうろうろ遊び始めたとき、どう対処すべきかが問題となった。特に私はちょうどセキセイインコを飼い始めたところであったので、猫に出入りを許すことに反対した。
が、庭を跳ね回っているのは可愛い盛り、ふわふわの子猫である。父がまずその虜となった。ほかの者もまたたく間に猫に傾倒していき、子猫に食べ物をあげるようになった。割れてしまった生卵を指につけて差し出すと、おいしそうに目を細めてぺろぺろと舐めた。ざらざらした舌の感触がくすぐったかった。
母猫はごちゃごちゃといろんな毛色の混じったサビ猫なのに、生まれた3匹の兄弟は、シャム柄が二匹と黒が一匹であった。いったいどんな父親なのだろうとみんな興味を持ったが、結局その雄猫が誰なのかはわからずじまいであった。
私たちが子猫にえさをあげるのを見定めたのか、母猫は姿を消した。しばらくして、三兄弟のうちの黒猫もいなくなった。その頃存命だった祖母が、近所で黒い子猫を抱いている女の子を見たと言った。首に赤いリボンをつけてもらっていたとも言った。早々と誰かにもらわれたのかもしれなかった。
二匹のシャム柄の子猫が家に残った。(つづく)
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