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雀庵の「常在戦場/83 中国は毛が創って習壊す」

2021-09-13 07:27:21 | 日記
雀庵の「常在戦場/83 中国は毛が創って習壊す」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/367(2021/9/13/月】事実を元に面白おかしく解釈する「アンサイクロペディア」によると、毛沢東の業績は・・・


<歴史に残る毛の偉業は、何と言っても「文化大革命」である。これにより、中華ソビエト共和国は古代文明の黄金時代どころか原始時代にまでタイムスリップし、お陰で地球環境破壊が大幅に食い止められたのである。また、狡(こす)い知恵の働くインテリ共を皆殺しにしたことで、学力・教育の格差を減らすことにも大いに貢献した他、プロレタリアート達の溜飲だけを大いに下げたことも特筆に値する。スターリンと共に、毛は地球環境破壊防止・人類粛清による地球浄化作戦に貢献した>


ハッハッハ、そういう解釈もあり得るなあと笑うのが筋だが、言論・表現の自由のない中共では笑う門には不幸来たる、刑務所行きになる。自由民主の国に生まれてホント、良かった。アナーキストの竹中労(ルポライター、評論家)は毛沢東・中共を罵倒して止まないが、詩人としての毛は好きだったようである。竹中によれば、


<1927年、蒋介石が(反共)クーデターを起こした際、毛沢東の故郷、韶山(しょうざん)では親類縁者が後難を恐れて(毛の)学生時代のノートを焼却した。だが、ある人がひそかに2冊を保存し、革命後に世に出ることになったという>


それが史実かどうかは確認しようがないが多分、権力に擦り寄る連中が忖度して「そういうことにしておこう」となったのだろう。そのノートにあったとされる「毛沢東詩 沁園春(しんえんしゅん、沁はサンズイに心)長沙1925年」にはこうある。


独立寒秋 湘江北去 橘子洲頭 看 万山紅遍 層林盡染 漫江碧透 百舟争流
鷹撃長空 魚翔浅底 万類霜天競自由 悵寥廓 問 蒼茫大地 誰主沈浮 
携来百侶曾遊 憶往昔 争栄歳月稠
恰 同学少年 風華正茂 書生意気 揮斥方遒 指点江山 激揚文字 糞土當年万戸侯
曽記否 到 中流撃水 浪遏飛舟
・・・・・・・
独り寒秋に立てば湘江は北へ去る 橘子洲頭 看よ万山の紅きこと遍く 層林 盡く染まるを 漫江碧く透み 百舟流れに争ふ…(途中は略、後半は竹中労の現代語訳)…


青春の日々、私は百侶(多くの友)と手を携へこの地に来て遊んだ。往きし昔から今日までを思えばまことに困苦絶望、苦難の歳月であった。
恰(時も良し!)、同学の友達は皆、風華(器量才能)正に盛んだった。我ら書生の意気は揮斥(ほしいまま)であり、何事もなし得るのだという強い確信に燃えていた。


指点江山(天下をあげつらい)激揚文字(文章を論じ)、万戸侯(権力者)どもを糞土(くそみそ)に罵ったことだった。友よ、覚えているか、この河の中流に舟を止め、昔の志士に倣って櫂で水を撃ち、革命を誓ったことを!
・・・・・・・・
ああ、青春は麗し、か。漢詩学者・碇(いかり)豊長氏の注釈によると「1925年:農民運動や国民革命の動きで、社会が騒然となっていた時代。毛沢東は辛棄疾の『昭君怨』(長記粛湘秋晩、歌舞橘洲人散…)の影響を受けたか。長沙:湖南省の省都。毛沢東は青年時代をここの湖南第一師範で過ごした。そこで勉学に勤しみ、社会への目を開いた」。


上記にある辛棄疾(1140―1207)は南宋の官僚文人、詞人。女真族の「金」の占領下に育ち、成人して武装蜂起に参加し、渡江して南宋に仕えた。


<辛棄疾は江西の地方法務長官、湖北、湖南、江西、浙東などの軍政長官を歴任、精強な軍隊(湖南飛虎軍)を創設するなど、積極的に活躍して名声があった。一貫して対「金」強硬策を主張し、朱熹(朱子)、陸游などと共鳴して親交を結んだが、政府中央で消極策が主流を占めたため、晩年は鉛山(江西省)に隠居した。


歌辞文芸「詞」の作家としても有名であり、600余首という宋代でもっとも多い作品を残している。慷慨憂憤の作が多く、北宋の蘇軾(東坡)と並べて蘇辛豪放派などと呼ばれるが、叙情的な傑作も少なくない>(日本大百科全書)


辛棄疾は文武の人、満洲基盤の女真族「金」王朝に反旗を翻した・・・つまり漢族の毛沢東など若者にとって辛棄疾は異民族支配と戦った大英雄、大詩人、日本なら楠木正成、西郷隆盛、吉田松陰のように尊敬されていたのだろう。


毛は1893年生まれだから、上記の詩を書いた1925年は32歳、西洋列強、特に“蛮族”でありながら清と露の2大帝国に戦勝した日本に蚕食されるのは耐え難く、1917年のロシア革命を見て「ブルジョワ民主主義革命ではなく共産主義革命こそが漢族を救う」と信じたのも自然の流れだったか。


毛は1925年に党内の路線を巡る争いから革命に幻滅を感じて韶山の故郷に戻っていた時期である。いわゆる「消耗」したのだが、「自宅にいる間の1925年に上海と広州で発生した暴動を聞いたことで毛の関心は蘇った」(WIKI)。ヨッシャーッ!という気分になって上記の詩を書いたようである。この「ヨッシャーッ!」を真似た習近平が、まるでヒトラー・ナチスの如く今、世界を危険にさらしている。


毛沢東の詩をもっと読みたいと思ってAmazonを検索したら「毛沢東詩選」(北京外交出版社 1979/1/1)があり、レビューにはこうあった。


<そもそも毛沢東は湖南省の故郷で小学校教師をしていた。当時の若き毛沢東にとって、歴史の研究が最も重要関心事であり、中国史に関しては右に出る者はいない程に良く精通していた。


教師としてささやかな給金を得て、後は歴史の勉強を思いっきり出来れば良かったと毛沢東は後に語っているようだ。また、優れた漢詩を模倣したりみずから豪放磊落な筆致で実に素晴らしい詩文を書くことでも有名だった。


わたしは時として思うのだが、毛沢東は革命家になどなるべきではなく、立派な文学者としても成功を収めたのではなかろうか? まことに才能豊かな若者だった事は確かであろう。なぜ彼は革命家になったのか?


「多分、自分も君たちと同じような平均的な民主主義者だったと思う。自分でも時々不思議に思うのだが、まさか自分が革命戦争に参加する事になるとは思っていなかった。人間の運命というものは、自分でもいかんともし難い側面があるのでしょうね」


アメリカ人ジャーナリスト、エドガー・スノウに、後に共産主義者になった理由をそのように説明している。人間とは案外、そんなものかも知れない>


毛には「人たらしの才」があったのではないか。学問に通じていたし、愛嬌もある、弁舌も上手い、「嫌な奴」なのだが憎めないし、末端のゴロツキ出身の兵士も毛の言うことには従う・・・カリスマ性とか天賦の才と言うのだろうか。


中共紅軍の立役者、朱徳を描いた「偉大なる道」で知られるアグネス・スメドレー(1892年2月 - 1950年5月)は毛沢東と同世代、生粋の共産主義者、ソ連の工作員である。「スメドレーは上海ではソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲと親密に親交し(ゾルゲの子分である)朝日新聞記者・尾崎秀実はスメドレーの著作「女一人大地を行く」の日本語翻訳もしていた」(WIKI)。


竹中労はスメドレーの「中国の歌ごえ」からこう引用している。
<ある時、毛沢東は私(スメドレー)に、今までに男の人を愛したことがあるか? なぜ愛したのか? あなたにとって愛とは何だったのか?と尋ねた。また、ある時、古代中国の詩を口ずさみ、彼自身の作詞も口ずさんでいた。彼の詩とは、毛沢東の妻であるというだけで殺された一番最初の夫人(楊開慧)の思い出をうたったものであった。


私が毛沢東という人間のうちに強く感じた暗い性質は、精神的な孤独だと分かった。人々は毛沢東を愛したが、彼自身は己の中に閉じ籠り、孤立するのに慣れている様子だった。彼のユーモアは、魂の孤独の深い淵から噴出してくるように冷笑的で、恐ろしい響きを持っていた。毛沢東の心の中には一つの扉があって、それは誰に向かっても開くことがないのではないか、という印象を私は受けた>


竹中によると、殺された一番最初の夫人、楊開慧(ようかいけい)について、毛沢東は「誇り高く敵の拷問に屈しなかった」と詩にも書いているという。楊開慧の喪失は毛沢東にとって人生観を変えるほどのショックだったろう。「毛沢東の夫人履歴考」というサイトにはこうあった。


<毛は献身的な楊開慧と1921年に結婚、3人の男児を儲けている。長男・毛岸英(毛遠仁)、次男・毛岸青(毛遠義)、三男・毛岸立(毛遠智)。


1927年の大革命(3月の南京事件=蒋介石の失脚をねらう共産党の組織的な排外暴動)の失敗後、毛沢東一家は逃れて長沙に帰ったが、彼が秋収蜂起(9月の湖南省や江西省での武装蜂起)の準備をしている間、妻は子供を連れて長沙板倉の実家に戻った。これが二人の永別となった。


1930年8月、紅軍が長沙を撤退すると湖南省清郷(郷土粛清の意)司令、何鍵は楊開慧逮捕に壱千元の懸賞金をつけたからである。彼女は1930年10月に8歳の長男・毛岸英とともに逮捕され、毛沢東との絶縁声明を強要されたが、きっぱり拒否して11月4日に銃殺された。享年29歳の若さであった。毛沢東は誇り高き妻を失った。


毛沢東にとって彼女は、革命の同志であるとともに理想の妻であった。1957年5月「我は誇り高き楊開慧を失い、君は柳直荀を失う」で始まる詞「蝶恋花」をつくり、楊開慧の親友であった李淑一に与えた。


晩年には、生活秘書の張玉鳳や孟錦雲に楊開慧と同じ髪型をさせて楊開慧を偲んでいたという>


毛は死ぬまで非業の死をとげた最愛の妻、楊開慧を悼んでいた! 毛は皇帝になっても、心の隅にはぽっかりと穴が開いたままだったろう。革命にのめり込まなければ学者として静かに暮らし、楊開慧を失うこともなかったろうという慙愧の念があったのではないか。


一将功なりて万骨枯る、毛沢東は建国前の戦争と建国後の大躍進政策、文化大革命の失政で1億人以上を犠牲にしたろう。楊開慧の処刑を聞いた毛は「彼女の死は百身を持ったとしても贖えぬ」と嘆息したというが、毛にとっては1億人より楊開慧一人の死の方が重かったわけだ。


「愛するものの命は地球より重い」・・・愛していない1億が自分の悪政で死んでも頓着しない、「国民の半分が核戦争で死んでもまだ3億人がいる、大体我が国は人口が多過ぎる」と言っていた毛沢東にとってそれは当然のことか。狂気がなければ大事業はならないのだろう、やはり毛沢東は凄い、類いまれな、不世出の政治家だったことは間違いない。1976年9月9日、北京中南海の自宅にて没、享年82。


毛創り トウが伸ばして 習壊す 世界喜び 人民飢える・・・
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
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