夏川草介(著) 小学館(発行)
藤崎千佳は、東京にある国立東々大学の学生である。所属は文学部で、専攻は民俗学。指導教官である古屋神寺郎は、足が悪いことをものともせず日本国中にフィールドワークへ出かける、偏屈で優秀な民俗学者だ。古屋は北から南へ練り歩くフィールドワークを通して、“現代日本人の失ったもの”を藤崎に問いかけてゆく。学問と旅をめぐる、不思議な冒険が、始まる。
“藤崎、旅の準備をしたまえ” (あらすじ紹介より)
“藤崎、旅の準備をしたまえ” (あらすじ紹介より)
第一話 寄り道【主な舞台 青森県弘前市、嶽温泉、岩木山】
第二話 七色【主な舞台 京都府京都市(岩倉、鞍馬)、叡山電車】
第三話 始まりの木【主な舞台 長野県松本市、伊那谷】
第四話 同行二人【主な舞台 高知県宿毛市】
第五話 灯火【主な舞台 東京都文京区】
第二話 七色【主な舞台 京都府京都市(岩倉、鞍馬)、叡山電車】
第三話 始まりの木【主な舞台 長野県松本市、伊那谷】
第四話 同行二人【主な舞台 高知県宿毛市】
第五話 灯火【主な舞台 東京都文京区】
古屋助教授は40代半ばかと思われますが、その行動や言動は十数歳上の印象を与えます。彼の毒舌を意に介さず、ただその人柄と学識に惹かれて慕う千佳が何だか微笑ましい。彼女の大雑把で明るい性格は、古屋の亡き妻と似たところがあるように思えます。
本屋で目にした「遠野物語」の特集記事から衝動的に柳田国男のそれを手に取った千佳は、進学した東東大の文学部で「遠野物語」の講座に興味を惹かれて民俗学の門を叩きます。
丁度今年、柳田国男の「遠野物語」を読みましたが、単なる物語ではなく歴とした民俗学術書と気付いて文体と解説に怖気を振るって飛ばし読みで終わった身には、千佳のようにその奥深さに惹かれることもありませんでした。この本で柳田国男という民俗学者の崇高な理念や生き方を知ったのは何だか不思議な巡り会わせです。
古屋の語る、日本と他国の宗教観の違いはなるほどと思わせます。
日本人は山や森や川、岩や木といった「そこにある自然」を敬い寄り添いながら生きてきた民族であり、八百万の神の御神体は自然に存在しています。
しかし、現代では科学や統計学、医学の発展に伴い、それら目に見えないもの、説明できないものの存在は無と見做され軽視され忘れ去られようとしています。
古屋はそんな日本人の行く末を危惧し、無闇と前に進むことに警鐘を鳴らし、ここに至った道を丹念に調べ、どこへ道を繋げていくのかを考えるのが民俗学の仕事でもあると言います。千佳の質問には「就職の役には立たないが、人生の岐路に立ったとき判断の材料を提供してくれるのが民俗学という学問だ。」 と答えます。「これからは民俗学の出番だ。」 といった彼の言葉を千佳は受け継ぐのです。
千佳は曇りのない目で物事を見て感じることのできる女性です。古屋とのフィールドワークの先々で不思議な出来事に遭遇するのも、彼女の感受性の豊かさの現れなのかも。
古屋の飛行機とエスカレーター嫌いは、妻との旅先で遭遇した事故が理由でした。荷物持ちで同行する千佳は第一話でそれを知ることになります。
第二話では岩倉で出会った青年との不思議な邂逅が登場します。叡山電車の車内から見た紅葉のトンネルの描写は鮮やかな色彩が目に浮かぶようでまさに幽玄の境地になります。
第三話では、古屋と彼の亡き妻との思い出の木が登場。その威風堂々とした大木を前に彼の民俗学への想いが語られます。
第四話では院生の仁先輩のフィールドワークの地で起こった出来事が描かれます。
修行僧の声と姿に導かれた千佳が、倒れていたお遍路の男性を助けることになるのですが、同行していた古屋には僧の声も姿も聞こえず見えずだったのです。(ちなみにお遍路笠に書かれている「同行二人」とは、お遍路はたとえ一人旅でも、お大師様が寄り添ってくれる二人旅という意味なんだそう。)
古屋の毒舌を始終浴びている千佳ですが、彼女には自然の中に存在する神を感じ取る才能があるようです。
第五話で大学近くの寺の住職と古屋の関係が登場します。住職の「大切なのは理屈じゃない。大事なことをしっかり感じ取る心 で、その心の在り方を、仏教じゃ観音様って言うのだよ。 」との言葉が胸に響きます。寺の樹齢600年の桜の老木が、住職の命の際に見せた満開の花の描写にも心打たれました。
古屋の毒舌は的を得ているだけに敵を作ってしまいます。時には無謀な振る舞いで暴力を受けたりも。千佳はそんな古屋に対しても物おじせずに真っ直ぐ向き合い、直球で受け答えしています。そんな彼女を古屋も気に入っている様子が随所にうかがわれるのが何だか愉快です。
五話を通じて登場するのは樹齢を経た木々や雄大な山の姿です。五話で登場する桜の老木が道路拡張のために伐採の運命にあるというのはまさに現代の自然への敬意を忘れた日本を象徴しているように思えました。
これまで筆者の医療ものしか読んで来なかった身には、宗教観にも通じる民俗学をテーマにした本書はとても珍しく感じましたが、根柢にある思いは共通しているのかもしれません。