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子供の頃の思い出(その9)「小さな漁村と食事」

2013年05月17日 | 子供の頃の思い出

子供の頃の思い出(その9)「小さな漁村と食事」

「小さな漁村と食事」

病院で薬をもらう待ち時間に見た健康本で、味覚は幼少の頃に決ると読んだ記憶がある。

私にとっても「醤油に対する味覚」は、誰になんと言われようが幼年期に決まったといっても過言でない。

<イラストをクリックで拡大可>

 

 

 

私が生まれ育った故郷は、伊豆の半農半漁の70戸程の小さな村であった。

村の殆どの男達は、定置網でサラリーマン漁師として働き生計をたてていた。

勿論、私の父もその漁師の一人であった。

<イラストをクリックで拡大可>

 

 

 

また、村中の殆どの家庭は、天城山の溶岩が流出しできたリアス式海岸の山側に造成した段段畑で、成金豆(サヤエンドウ)を作り農協を通じて東京へ出荷し、生計の足しにしていた。

 私が中学一年生であった昭和35年頃までの冬の定置網には、寒ブリが大漁で村中が活気に満ちていた。その冬網は、沖合い1Km先に仕掛られた大規模な定置網に比べ夏網は、黒潮の流れが速いので沖合い5百m先に仕掛け、アジ、イサキや石鯛等をとる小規模な定置網であった。

<大人になって・定置網漁に行った時のモノクロ写真より>

写真をクリックで拡大可。

 

  

定置網は毎日、早朝と午後2時頃の2回引き上げていた。

昭和35年頃までの村のバス停は、リアス式海岸の山を切り開いた心臓破りの坂道を登りきった天を仰ぐような遠い所にあり、鉄道もなく孤島のような不便な村であった。

また、村には2軒の小さな雑貨店があり、そこで味噌や醤油等の日常品を買い生活をしていた。

 

不便で質素な時代であったが、新鮮な海山の食材に恵まれた自給自足に近い生活は、子供心に結構楽しく感じていた。

 

漁師(父)は、定置網の親方からオカズと称して毎日もらってくる捕りたての鮮魚を、

玄関先の太い針金に吊るすのが日課であった。私はピクピク動く鮮魚を見ながら、今日の魚種は何かなア…と見るのがとても楽しみであった。

 

  当時我家の365日朝昼晩三食のオカズには、必ず魚が入っていた。

村中の殆どの家庭も同じであったと想う、いやそうだったに違いない。

 

朝食には、ピクピクしているアジを左手で支え、右手で頭を折るようにして内臓を取り除いた一匹を味噌汁の出汁代わりに入れる。

同じように指先で内臓を取り除いた後に皮を剥ぎ取り三枚におろし、小アジの場合は骨付きのまま出刃で叩きくと「アジのタタキ」の出来上がり。

 

温かいご飯で「アジの味噌汁」、特に「アジのタタキ」を醤油におろしたての生姜を入れて食す旨さは最高であった!!!そして毎朝元気をつけてもらったような気がした。今でも忘れることができないオカズである。

 

更に、夏休みの時期には「マンボウ」が大漁にとれたので、毎日食べたマンボウの刺身も最高だった!!!

今では本当に幻の「マンボウ」に、そして夢のような話になってしまった。

 

当時、マンボウを市場へ持っていく文化はなかったので、捕れたものは全て漁師達のオカズになっていた。これも今では考えられないような話だ。

 

マンボウの切り身を指先で細く裂きながら大きなドンブリ一杯に盛りつけると出来あがり。

ちなみに、マンボウは白身であるが、多少ピンク色の身のほうが美味しい。

 

醤油におろしたての生姜を入れ、流すように食べる「マンボウソーメン」の旨さは日本一!!!

マンボウの肝をつけて食べた方が旨いという人もいるが、私は醤油が一番だった、我家は

全員「醤油」党であった。

 

子供時代の夏休みの話であるが、マンボウの外側の皮は分厚い脂肪で保護されている。

漁師達は、半畳程のマンボウの尻尾の一部に仕事用のナイフで穴を開け、そこに小さな漁港の船止め用のロープを結び付け泳がせていた。

 

つまり、マンボウが少ない時期の生きた保存用のオカズを確保しておく為の漁師達の工夫だったのだ。

 

私は小学1年生の頃の夏休みのある日、ロープにつながれて泳いでるマンボウを水中メガネで見た時の感激は、今でも忘れることの出来ない想い出となっている。

 

また、夏には何時もソーダガツオやハガツオ(地元ではホーサンといっていた)の刺身を、醤油と生姜で食べていた。

特につきたての柔らかい餅を食べるようなハガツオの食感と醤油の旨さも忘れられない。

 自家製天日干しである塩味の干物も好物であるが、さらに旨いのは「アジ」や「サバ」のみりん干しが大好きだった、甘い醤油の香りと味付けは、大人になった今では酒のつまみに何時も食べている、醤油万歳である。

 

「アジ」や「イサキ」は、醤油と中白の砂糖にお酒を加えての煮付けのオカズも大好物であった。

大人になった私は、お酒を飲みながら御汁粉をオカズにするほどの両党であるが、父はお酒はいっさいやらずに甘党のみであった。

 

我家は子供の頃常に、御汁粉、餡子入り蒸かし餅や、ボタモチ(おはぎ)を食べていた、甘いものを食べていれば家族が円満なような家であった。

 

母の命日に実家を尋ねた時を想いだした。

満90歳で亡くなった父が「餡子入り饅頭」をペロット5個程食べたのにはビックリ、更に醤油をたっぷり付けての「お刺身」も…。そうか、長生きの秘訣は、お砂糖とアミノ酸豊富な醤油を食うことかと、私は思った。

 

子供(小学生)の頃、学校から帰ると何時も家から裸足で行ける程の所に位置する磯で「カサゴの穴釣り」をして育った。

<穴釣りは、こんな感じ。大人になってもやってます>

イラストをクリックで拡大可

 

磯カサゴは定置網には余り捕れないので、私の仕事のような気がしていた。釣りに行く都度、数匹ものいい形のカサゴを釣っていた。両親に誉められるととても嬉しかった。

 

釣った魚の煮付け味は、何時も私の当番だった。醤油、中白砂糖にお酒を少し、それに海草を主食としているので匂いをとる為にスライスした生姜を少々入れて煮込めばOK。

 

子供心にカサゴ本来の味を消さないように、入れる醤油と砂糖の量には気をつけていた。大人になった今でも煮物類の味付けは、誰にも負けないような気がする…。

 

冬網の定置網には、10Kg前後の寒ブリが大漁だった。

私の子供の頃の記憶では、寒ブリの定義は、11月~2月頃までに捕れる10Kg前後のものであったかと思う。

 

ある日、テレビで「日本海の寒ブリ漁の特集」が放映されていたのを視ていたところ、聞き間違いかもしれないが、寒ブリとは5Kg以上の型といっていた…。私は子供の頃と比較すると少し軽すぎるような気がした。

寒ブリが、一網に数千匹程の大漁な時は、何時も親方から漁師4人当たりに一匹をオカズにもらうことが出来た。

その時の本当の寒ブリの刺身を、醤油にワサビを付けて食べた時の脂肪のシコシコ感と甘味がのった旨さは、大人になった今でも本当に忘れられない。

 以前、12月末・お正月用に、友人が故郷「壱岐」から寒プルを送ってきたので調理して・・・と言われ、三枚におろし刺身を作ってやったことがある。

体重計で測定したところ約6.3Kgあった。私は、少し別けてもらった。

 

脂肪がのった甘い身に、はじける醤油、すった本ワサビを少々付けて家族で食べた、美味い!子供の頃食べた旨さを思い出しながらお酒を飲んだ。

そして、楽しいお正月を楽しくすごくことができました。

 

以上

 

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子供の頃の思い出(その8)「なぶら」

2012年06月05日 | 子供の頃の思い出

子供の頃の思い出(その8)

寒ブリと&イワシ・なぶら

今日の「YOMIURI ONLINE」

(2012.6.5/13時21分)のニュースを見た

千葉県いすみ市大原漁港で(平成24年6月4日)に、

大漁の”カタクチイワシ”が打ち上げられた!

とのこと・・・

そのタイトル

イワシ100トン、漁港に打ち上げられる

を見て、昭和30年はじめの

子供の)頃を想い出した

伊豆東海岸の小さな漁村に育った

昭和30年初め(小学生)の頃、

海岸の砂場の上にある小さな原ッ場で、

ソフトボールをして楽しんでいた・ほのぼのとした時代(冬場)のお話です

イラストに描いてみました

約1Km沖に仕掛けた「定置網(ねこさい)」の沖合いに

大きな”なぶら

(イワシを追った寒ブリの大群・約1万尾もの??)が、

イワシを追って水平線上に、

磯浜から見ると、

約30Cm盛り上がった「なぶら」に

村中が興奮したのです!

なぶら」が、イワシを追った大群の

寒ブリ」が海上に盛り上がって、

肉眼でもハッキリ見えました・・・」(皆・興奮!)

仕掛けた「定置網」に入れば、

何万尾もの寒ブリが、

掛かれば大漁

ところが、ドッコイ、そうはいかない・・・

なぶら」は、定置網の沖をサヨウナラー!

残念無念

しかし、

大群の”イワシ”君達は、パニックで

海岸めがけて突進

海岸(磯浜)一帯に、”イワシ”が打ち上げられ、

白い泡だらけになったのです

砂浜上の小さな原ッ場で、

ソフトボールをしていた

子供達は、皆磯浜に直行・・・。

そして、村中の人達もネェ

子供達は、帽子で打ち上げられた

イワシ”をすくい放題(気分は、天晴れ

本当に楽しかったですネェ、今では夢のようなお話

以上。

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子供の頃の思い出(その7)「ヤンモ(やまもも)採り」

2011年07月02日 | 子供の頃の思い出

子供の頃の思い出(その7)「ヤンモやまもも)採り」

今日(6月30日)、茨城県古河市の「古河駅・東口」バス乗り場の木の下を見ると、子供の頃・食べた「ヤンモ」の実が落ちていた(これは、確かにヤンモの実だ!)

木の上を見ると、懐かしい紫色の小粒な「ヤンモ」の実がついていました

 昭和30年代前半頃まで、未開発で自然が沢山あった子供の時代(今日の「赤沢温泉郷や浮山温泉郷」)の地域(村)では、6月を迎えるまで、楽しみにしていた「ヤンモ」採りの解禁日が待ちどおしかった。

 「ヤンモ」の大木に昇り、解禁日前に準備としては、大きな竹籠の上(周辺)に約4箇所の紐を取り付け、その先を一本の紐にくくりつけると、「ヤンモ採り」の道具(入れ物)出来上がり・・・

 解禁日には家族全員で山に入り、子供達は「ヤンモ」採り用・自家製の「竹籠」を持ち大木に登る。

子供の頃の「ヤンモ」採りをイラストに描いてみました                                               

Photo_2 

   ヤンモ解禁日の様子「上(私)と下(母)」

黒赤色の大玉(良質・高級品)の枝を折り、竹籠の上周辺(角)に、叩きつけながら果実を竹籠の中に落とす

果実が「竹籠」満杯になると、竹籠に取り付けた紐(縄)を少しずつユルメて、地上に降ろすの繰り返しでした

地上では、待っていたとばかり「お母ちゃん」が竹籠を受け取るのが役目でした

群生(自生)しているヤンモ林内では、アチコチから「ヤンモの木は、裂けやすい!折れやすい!気をつけろよ~」が響き渡っていました。

懐かしい思い出になっています天晴れさんでした

 

茨城県・古河駅東口バス乗り場・ヤマモモの木と果実

写真をクリックで拡大可

Dscf0059

古河駅東口バス停のヤンモの木

Dscf0058

↑2011年6月30日 AM9:08撮影

補足

伊豆東部火山群(主に伊雄山、大室山等)の火山活動により、溶岩が海岸まで流れてできた「リアス式海岸」。

約十数Kmにおよぶ断崖絶壁の景勝地があります。

その地域は、昭和30年代後半から温泉付き別荘地に造成(開発)され今日に至っています。

中でも、「浮山温泉郷、伊豆高原(城ヶ崎海岸)、赤沢温泉郷」は有名です。

やまもも」を、この伊豆高原エリアでは「ヤンモ」と云ってます。

また、「やまも」という地区もあります

雄と雌の「ヤンモ」の樹木が群生(自生)し、黒赤色に甘酸っぱい大玉の実をつける地域は、この温泉郷一帯に自生しています。

日本の関東以南の低地や山地に自生しているとのこと。

子供の頃に聞いていた話として、こんなに沢山「ヤマモモ」が群生(自生)している地域は、伊豆東海岸の他に、「四国地方」と聞いていました・・・。

以上。

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子供の頃の思い出(その6)「村の小学校(分校)」

2011年06月18日 | 子供の頃の思い出

子供の頃の思い出(その6)「村の小学校(分校)と、そっくりの(岬の分教場)」

 伊豆東海岸にある60戸程の小さな漁村で、昭和28年~30年(幼稚園、1年、2年)頃・3年間を地元の分校に通いました。

すぐ向かいにある美しい海岸線が見える村の高台にある神社・横の分校は、小さな職員室と「1教室」のみで造られていました。

一つの教室に「の字のように並べられた机。

海側から幼稚園、一年、二年生と三列に座り、全員でも約20名だった。

そして、潮騒を聞きながら一緒に同時進行の形での授業でした。

 授業のスタートは、美人でスタイルが抜群な「Y先生」が子供達の方を向いて出席をとることからでした。

丁度、映画二十四の瞳」で大石先生子供達の方を向いて出席をとるシーンと同様であった。

今でも鮮明に覚えていることがあります。

課外授業として目の前にある海岸での磯遊びだ

大潮の時期、岩間の小さな穴へ恐ろ恐ろ小さな手をいれる、すると突起物の感触が

「先生、Y先生、アッタ・アッタヨ~」と生徒達の明るい叫び声

そう、「サザエ」のつかみ獲りができたのです

天晴れさんでした

今では、本当に夢のような話ですネ

<数年前・観光ツアーで小豆島岬の分教場」へも行ってきました>

昭和3年頃の「大石先生と生徒達」を想像し、イラストに描いてみました

  観光時の「現地見学時・想像画」

映画「二十四の瞳」を観て、自分の育った海の近くにある分校(小学校)とよく似た「岬の分教場」。

一度行ってみたいと思っていた昔のまんまの「岬の分教場」は、私の通った分校と実によく似ていたことを、この目で確認できました感動しました

本当に来てよかったと涙がでました

天晴れさんでした

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子供の頃の思い出(その5)「イカダ作りと夏休み(海水浴・遊び)」

2011年06月11日 | 子供の頃の思い出

子供の頃の思い出(その5)「イカダ作りと夏休み(海水浴・遊び)」

小学3年から6年生(昭和31年~34年)頃の夏休み                       
  
子供達の知恵とアイデアは、素晴らしいものがあった

小学3年から6年生(昭和31年~34年)頃は、
「ボート」も簡単に手に入るような時代ではなかった
もちろん「ボート」は、今日のプラスチック製のものでなく木製であった。

お値段も高く、とても手が出ない。

こんなお粗末な時代でも、子供達(男子)は夏休みをいかに楽しく遊ぼうかと……

先輩達から引き引継がれた伝統的な海水浴(遊び)があった。

私の故郷は、東伊豆海岸の半農半漁で生計をたてていた村でした。

農業はリアス式海岸の急斜面にある畑に、冬場でも温暖な気候を利用し、成金豆(サヤエンドウ)を栽培し農協に出荷していました。

「サヤエンドウ」は、伊豆熱川の地元の方が研究(品種改良)し、

伊豆一帯では温室を利用しない畑で、冬場でも育つようになったと聞いていました。
そして当時、このサヤエンドウは、本当に高価でした
畑をたくさん持っていた家は、成金さんになったということから「成金豆」といわれていました。

住民の殆んどの大人(男性)は、定置網で働くサラリーマン漁師でした。

今日では、定置網に用いる浮子にガラス玉を使うのが常識であるが、
昔は“もうそう竹”を針金で束ねたものを浮子にして、これに網を掛けていた。
竹の場合は、消耗が激しいので年に一度は、新しい竹と交換する必要がありました。
これに目をつけた子供達は、
古い竹を網主さんからもらい受けました
なにに使うか、想像できますか?

イカダ」を作るのでした                                                       その当時の様子をイラストに描いてみました

 ←子供の頃の夏休み(海水浴・遊び)様子

長さ約5メートル、太さ直径10センチぐらいの素性のよいもうそう竹(浮き)を網主さんからもらいました。

その竹を約十本ぐらいまとめ、
4ヵ所ほど針金で締めつけるだけで、
立派なイカダ」ができあがりました。

大人に「ドラム缶」を小さく切断してもらい、「丸い囲炉裏」の完成。
「イカダ」が立派な「ボート」になったところで、その「イカダ」に「丸い囲炉裏」を載せ(炭火も用意)すると用意万全
なんにもお金をかけずに、立派なボート(イカダ)が用意できたのです

子供5人ほどを乗せた「イカダ」は、キラキラと輝く夏の海(岸辺)に出港。

イカダ」に乗った子供たちは、水中メガネをつけ一斉に海中にドブン・・・
「サザエ」や「アワビ」を獲りました。また、「モリ」でカサゴもつきました。

そして、「イカダ」の上で食べた味は、今でも忘れません・・・天晴れでした

今日では、漁業組合が貝類の潜り禁止令で獲ってはいけません(注意しましょう)!!

……しかし、僕らの子供の頃は、夢があったなァと感じますねェ

以上。

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