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子供の頃の思い出(その6)「村の小学校(分校)」

2011年06月18日 | 子供の頃の思い出

子供の頃の思い出(その6)「村の小学校(分校)と、そっくりの(岬の分教場)」

 伊豆東海岸にある60戸程の小さな漁村で、昭和28年~30年(幼稚園、1年、2年)頃・3年間を地元の分校に通いました。

すぐ向かいにある美しい海岸線が見える村の高台にある神社・横の分校は、小さな職員室と「1教室」のみで造られていました。

一つの教室に「の字のように並べられた机。

海側から幼稚園、一年、二年生と三列に座り、全員でも約20名だった。

そして、潮騒を聞きながら一緒に同時進行の形での授業でした。

 授業のスタートは、美人でスタイルが抜群な「Y先生」が子供達の方を向いて出席をとることからでした。

丁度、映画二十四の瞳」で大石先生子供達の方を向いて出席をとるシーンと同様であった。

今でも鮮明に覚えていることがあります。

課外授業として目の前にある海岸での磯遊びだ

大潮の時期、岩間の小さな穴へ恐ろ恐ろ小さな手をいれる、すると突起物の感触が

「先生、Y先生、アッタ・アッタヨ~」と生徒達の明るい叫び声

そう、「サザエ」のつかみ獲りができたのです

天晴れさんでした

今では、本当に夢のような話ですネ

<数年前・観光ツアーで小豆島岬の分教場」へも行ってきました>

昭和3年頃の「大石先生と生徒達」を想像し、イラストに描いてみました

  観光時の「現地見学時・想像画」

映画「二十四の瞳」を観て、自分の育った海の近くにある分校(小学校)とよく似た「岬の分教場」。

一度行ってみたいと思っていた昔のまんまの「岬の分教場」は、私の通った分校と実によく似ていたことを、この目で確認できました感動しました

本当に来てよかったと涙がでました

天晴れさんでした

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子供の頃の思い出(その5)「イカダ作りと夏休み(海水浴・遊び)」

2011年06月11日 | 子供の頃の思い出

子供の頃の思い出(その5)「イカダ作りと夏休み(海水浴・遊び)」

小学3年から6年生(昭和31年~34年)頃の夏休み                       
  
子供達の知恵とアイデアは、素晴らしいものがあった

小学3年から6年生(昭和31年~34年)頃は、
「ボート」も簡単に手に入るような時代ではなかった
もちろん「ボート」は、今日のプラスチック製のものでなく木製であった。

お値段も高く、とても手が出ない。

こんなお粗末な時代でも、子供達(男子)は夏休みをいかに楽しく遊ぼうかと……

先輩達から引き引継がれた伝統的な海水浴(遊び)があった。

私の故郷は、東伊豆海岸の半農半漁で生計をたてていた村でした。

農業はリアス式海岸の急斜面にある畑に、冬場でも温暖な気候を利用し、成金豆(サヤエンドウ)を栽培し農協に出荷していました。

「サヤエンドウ」は、伊豆熱川の地元の方が研究(品種改良)し、

伊豆一帯では温室を利用しない畑で、冬場でも育つようになったと聞いていました。
そして当時、このサヤエンドウは、本当に高価でした
畑をたくさん持っていた家は、成金さんになったということから「成金豆」といわれていました。

住民の殆んどの大人(男性)は、定置網で働くサラリーマン漁師でした。

今日では、定置網に用いる浮子にガラス玉を使うのが常識であるが、
昔は“もうそう竹”を針金で束ねたものを浮子にして、これに網を掛けていた。
竹の場合は、消耗が激しいので年に一度は、新しい竹と交換する必要がありました。
これに目をつけた子供達は、
古い竹を網主さんからもらい受けました
なにに使うか、想像できますか?

イカダ」を作るのでした                                                       その当時の様子をイラストに描いてみました

 ←子供の頃の夏休み(海水浴・遊び)様子

長さ約5メートル、太さ直径10センチぐらいの素性のよいもうそう竹(浮き)を網主さんからもらいました。

その竹を約十本ぐらいまとめ、
4ヵ所ほど針金で締めつけるだけで、
立派なイカダ」ができあがりました。

大人に「ドラム缶」を小さく切断してもらい、「丸い囲炉裏」の完成。
「イカダ」が立派な「ボート」になったところで、その「イカダ」に「丸い囲炉裏」を載せ(炭火も用意)すると用意万全
なんにもお金をかけずに、立派なボート(イカダ)が用意できたのです

子供5人ほどを乗せた「イカダ」は、キラキラと輝く夏の海(岸辺)に出港。

イカダ」に乗った子供たちは、水中メガネをつけ一斉に海中にドブン・・・
「サザエ」や「アワビ」を獲りました。また、「モリ」でカサゴもつきました。

そして、「イカダ」の上で食べた味は、今でも忘れません・・・天晴れでした

今日では、漁業組合が貝類の潜り禁止令で獲ってはいけません(注意しましょう)!!

……しかし、僕らの子供の頃は、夢があったなァと感じますねェ

以上。

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子供の頃の思い出(その4)「生まれて初めて見たバナナ・ワニ園」

2011年06月05日 | 子供の頃の思い出

子供の頃の思い出(その4)「生まれて初めて見たバナナワニ

 私が生まれて初めて見た「バナナワニ」は、開園前(試行運用中)の伊豆熱川温泉「熱川バナナワニ園」でした

 当園の開園は、1958年(昭和33年)9月20日。                                           丁度このとき私は、小学校5年生でした。

①開園前(試行運用中)の伊豆熱川温泉「熱川バナナワニ園(小学校4年生頃)の話

 週末になると「東海バス」に乗り、バナナワニ園の近くに住んでいた「お爺ちゃん」の家に遊びに行っていました

お爺ちゃんは、夏みかん畑の作業小屋に出没する「大きな野ねずみ」に悩まされていました

 ←熱川バナナワニ園・開園前当時の思い

お爺ちゃんは、「ねずみ獲り(バンナ)」にサツマ芋をつるし、本当によく太った大きな「野ねずみ」をたくさん捕獲していました

園長さんと知り合いのお爺ちゃんは、週末私の来るのを待っていたとばかり、バンナにかかった大きな「野ねずみ」をもって、バナナワニ園(温室)に連れていってくれました

温室に入ると金網で仕切られた温水プールの中に「世界のワニ」君達がいました。そして、生まれて初めて見るワニ興奮しました

中でも、「ナイルワニ」はカッコよかった。お爺ちゃんは、バンナの口を開くと「野ねずみ」は、温水の中へドブン・・・

温水の表面で眠るように不動の状態から、野ねずみが金網をよじ登り逃げる寸前にスルスルーと移動し、一口でパクリ!「キュキュッ~」

私は片目に手を当て、指のすき間からその瞬間を見ていました。これが生まれて初めて見た生きたワニ」でした

その他、生まれたての小さな「ワニ」が多くいたのを覚えています(その子供ワニさんの子孫が、今日の「熱川バナナワニ園」で見れるかと思うと嬉しくなります

そして更に温室を、奥に進むと葉っぱの大きな木がありました

その上のほうの枝に、緑色した大きな実がなっていまし。これが生まれて初めて見た「バナナの果実」でした

お爺ちゃんは、頂いた「青いバナナ」を、自宅(風呂)に引き込んでいる源泉の温度を利用し、蒸した「黄色いバナナ」を私にくれました                                                                      初めて食べる本物の「バナナの味」は、今でも忘れることはありません

②温泉を利用した多種類の「世界のワニ」飼育法等の研究に大変苦労していた初代園長さんがいましたネ

その園長さんの研究(努力)と苦労があって、今日の「熱川バナナワニ園」があるとのだと、私は思います

私が子供の頃に見た本園は、その後(昭和45年頃)、分園が開園され、大人になってからも見に行ってきました。天晴れさんでした

更に、最近はワニ園の全体を覆う屋根ができ、ワニ君達を下から横から観察できるようになったと聞いています???本当かナァ・・・。

(昨年2010年6月・北海道の旭山動物園の空飛ぶペンギンを見てきましたが、そんな感じかな?)

また、見にいきたいですネ(そして、気分は天晴れになりたいですネ)

アッ!そうそう、熱帯植物が大好きな方にもお薦めの園ですネェ

今年の夏休みは、海水浴の合間に是非、観察しに行ってみてはいかがでしょうか。

以上。

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子供の頃の思い出(その3)「どんど焼き」

2011年06月04日 | 子供の頃の思い出

子供の頃の思い出(その3)「どんど焼き

 子供の頃、生まれ育った故郷で・成人式の朝方に燃やした

どんど焼き」を思い出しながら描いてみました

小学6年生までの男子は、お正月の松飾やシメナワ等を燃やす為、民家からの運びだしから全ての作業を「どんど焼き」に組み立てました>

組み立てまでの全ての作業は、子供達にとって大変厳しいものがありました

それでも、当時は伝統(風習)を引き継がなければなりませんでした。

しかし、大掛かりの組み立てまでの作業に参加する子供達が年々・少なくなりました。

そして、子供達のみによる大掛かりな組み立てまでの「どんど焼き」は私が小学6年生(1959年・昭和34年)の時を最後にとりやめになりました>

それ以降は、小規模な「どんど焼き」になりました

今は、どうなっているのかな?

 私達が作った最後の大掛かりな「どんど焼き」の「組み立てまでの手順」と「燃やした」模様を、イラストに描いてみました

.「どんど焼き」(1月15日・火祭り行事)の組み立て(作成)手順・イラスト

 ←上図①~⑥(下記1.~6.)の手順で組み立てました

1.浜磯の小石を手で掘る(伊豆東海岸の故郷)⇒直径(約4m)・円形

2.民家の軒先に出された「門松」「お飾り・しめなわ」等を1.まで運ぶ

3.竹やぶから「もうそう竹」を1本切り出し1.まで運ぶ

4.男竹を約100~200本切り出し1.まで運ぶ

5.パチパチの木(正式名=トベラ?)の枝を切り出し1.まで運ぶ

6.組立作業どんど焼き完成(天晴れさんでした

どんど焼き」を燃やした時のイメージ(イラスト)

 

 ←1959年・昭和34年1月15日朝方の様子

・地元の消防団も「放水用意」で待機(火の用心)。

・村人(参加者)は、長い竹竿の先に細い針金をつける。

 その針金に切り餅を巻き・吊るし焼きする。自宅に持ち帰り無病息災を願いました。

以上。

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