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子供の頃の思い出(その4)「生まれて初めて見たバナナ・ワニ園」

2011年06月05日 | 子供の頃の思い出

子供の頃の思い出(その4)「生まれて初めて見たバナナワニ

 私が生まれて初めて見た「バナナワニ」は、開園前(試行運用中)の伊豆熱川温泉「熱川バナナワニ園」でした

 当園の開園は、1958年(昭和33年)9月20日。                                           丁度このとき私は、小学校5年生でした。

①開園前(試行運用中)の伊豆熱川温泉「熱川バナナワニ園(小学校4年生頃)の話

 週末になると「東海バス」に乗り、バナナワニ園の近くに住んでいた「お爺ちゃん」の家に遊びに行っていました

お爺ちゃんは、夏みかん畑の作業小屋に出没する「大きな野ねずみ」に悩まされていました

 ←熱川バナナワニ園・開園前当時の思い

お爺ちゃんは、「ねずみ獲り(バンナ)」にサツマ芋をつるし、本当によく太った大きな「野ねずみ」をたくさん捕獲していました

園長さんと知り合いのお爺ちゃんは、週末私の来るのを待っていたとばかり、バンナにかかった大きな「野ねずみ」をもって、バナナワニ園(温室)に連れていってくれました

温室に入ると金網で仕切られた温水プールの中に「世界のワニ」君達がいました。そして、生まれて初めて見るワニ興奮しました

中でも、「ナイルワニ」はカッコよかった。お爺ちゃんは、バンナの口を開くと「野ねずみ」は、温水の中へドブン・・・

温水の表面で眠るように不動の状態から、野ねずみが金網をよじ登り逃げる寸前にスルスルーと移動し、一口でパクリ!「キュキュッ~」

私は片目に手を当て、指のすき間からその瞬間を見ていました。これが生まれて初めて見た生きたワニ」でした

その他、生まれたての小さな「ワニ」が多くいたのを覚えています(その子供ワニさんの子孫が、今日の「熱川バナナワニ園」で見れるかと思うと嬉しくなります

そして更に温室を、奥に進むと葉っぱの大きな木がありました

その上のほうの枝に、緑色した大きな実がなっていまし。これが生まれて初めて見た「バナナの果実」でした

お爺ちゃんは、頂いた「青いバナナ」を、自宅(風呂)に引き込んでいる源泉の温度を利用し、蒸した「黄色いバナナ」を私にくれました                                                                      初めて食べる本物の「バナナの味」は、今でも忘れることはありません

②温泉を利用した多種類の「世界のワニ」飼育法等の研究に大変苦労していた初代園長さんがいましたネ

その園長さんの研究(努力)と苦労があって、今日の「熱川バナナワニ園」があるとのだと、私は思います

私が子供の頃に見た本園は、その後(昭和45年頃)、分園が開園され、大人になってからも見に行ってきました。天晴れさんでした

更に、最近はワニ園の全体を覆う屋根ができ、ワニ君達を下から横から観察できるようになったと聞いています???本当かナァ・・・。

(昨年2010年6月・北海道の旭山動物園の空飛ぶペンギンを見てきましたが、そんな感じかな?)

また、見にいきたいですネ(そして、気分は天晴れになりたいですネ)

アッ!そうそう、熱帯植物が大好きな方にもお薦めの園ですネェ

今年の夏休みは、海水浴の合間に是非、観察しに行ってみてはいかがでしょうか。

以上。

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子供の頃の思い出(その3)「どんど焼き」

2011年06月04日 | 子供の頃の思い出

子供の頃の思い出(その3)「どんど焼き

 子供の頃、生まれ育った故郷で・成人式の朝方に燃やした

どんど焼き」を思い出しながら描いてみました

小学6年生までの男子は、お正月の松飾やシメナワ等を燃やす為、民家からの運びだしから全ての作業を「どんど焼き」に組み立てました>

組み立てまでの全ての作業は、子供達にとって大変厳しいものがありました

それでも、当時は伝統(風習)を引き継がなければなりませんでした。

しかし、大掛かりの組み立てまでの作業に参加する子供達が年々・少なくなりました。

そして、子供達のみによる大掛かりな組み立てまでの「どんど焼き」は私が小学6年生(1959年・昭和34年)の時を最後にとりやめになりました>

それ以降は、小規模な「どんど焼き」になりました

今は、どうなっているのかな?

 私達が作った最後の大掛かりな「どんど焼き」の「組み立てまでの手順」と「燃やした」模様を、イラストに描いてみました

.「どんど焼き」(1月15日・火祭り行事)の組み立て(作成)手順・イラスト

 ←上図①~⑥(下記1.~6.)の手順で組み立てました

1.浜磯の小石を手で掘る(伊豆東海岸の故郷)⇒直径(約4m)・円形

2.民家の軒先に出された「門松」「お飾り・しめなわ」等を1.まで運ぶ

3.竹やぶから「もうそう竹」を1本切り出し1.まで運ぶ

4.男竹を約100~200本切り出し1.まで運ぶ

5.パチパチの木(正式名=トベラ?)の枝を切り出し1.まで運ぶ

6.組立作業どんど焼き完成(天晴れさんでした

どんど焼き」を燃やした時のイメージ(イラスト)

 

 ←1959年・昭和34年1月15日朝方の様子

・地元の消防団も「放水用意」で待機(火の用心)。

・村人(参加者)は、長い竹竿の先に細い針金をつける。

 その針金に切り餅を巻き・吊るし焼きする。自宅に持ち帰り無病息災を願いました。

以上。

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子供の頃の思い出(その2)「ねこさい(定置網)」

2011年05月29日 | 子供の頃の思い出

子供の頃の思い出(その2)「ねこさい(定置網)」

子供の頃の思い出(その1)「サイの神と大漁祈願」の続きです。

 小学生(6年)までの男の子達は、「サイの神(道祖神)」(石像物)の頭を、「青竹」で叩きながら、「ねこさい(定置網)に、寒ブリが大漁にとれるように祈る」話をしました

 伊豆半島でも、昭和20年代後半から30年代中頃までは、天然の寒ブリが「ねこさい」に大漁にとれました。

漁師(若い衆)達は、大きな寒ブリ(10Kg前後)の尾びれを片手でつかみ、木船の中に投げ込む姿は、頼もしかったですネェ

そのときの様子をイラストに描いて見ました

  若い漁師達の寒ブリのツカミとり絵

                                                                 また、発動機(赤玉ポンポン)船には、大きなタモ(網)で一度に多くの寒ブリを積み込みました。

大漁の時には、次から次に寒ブリが「ねこさいに」に入り、朝から深夜までとることもありました(数千尾)

(1万尾近くの時もあった記憶があります

最近昔の写真を整理していたら

昭和30年代後半、地元の「ねこさい(定置網)」に大漁に「寒ブリ」がとれた時、漁船に乗船させてもらい撮影した「モノクロ・ベタ焼き」が出てきました。(はじめて写真機を買った嬉しさで、記念にしようと撮りに行った記憶がよみがえりました)(トッシー撮影

 昭和30年代後半の地元定置網・寒ブリ

  懐かしい漁師サン達です

以上。

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子供の頃の思い出(その1)サイの神と大漁祈願

2011年05月29日 | 子供の頃の思い出

子供の頃の思い出(その1)サイの神と大漁祈願

昨日、居酒屋にて「ブリの刺身」をつまみに日本酒を飲んだ。脂がのっていて本当に美味かった。

ふと、昭和30年代(前半)の子供の頃(東伊豆海岸の小さな漁村)を想いだした。

大人は、ねこさい定置網で生計をたてていた。当然「ねこさい」が大漁になることを祈るのは自然のことである。

村の中心にある神社の下にある畑に行く為の小さな道脇に、「サイの神(道祖神)」(石像物)が祀ってあました。

寒ブリ漁獲のシーズン(11月~1月頃になると、小学6年生までの男の子のみは、この「サイの神」の頭を青竹で力強く叩いたものでした強く叩くほど大漁になるという

その様子を思い出しながらイラストに描いてみました

  ←石像「サイの神」(道祖神)に大漁を祈る

子供達は叩きながら、「ねこさいに寒ブリが大漁に獲れるように・・・」と大きな声をハリアゲて祈リました

翌日、「ねこさい」に寒ブリが大漁に入ると、村中はお祭り騒ぎになったものでした

漁船に「大漁旗」が掲げられると、陸で見ている村人は、何本掲げられるかドキドキしました

大漁旗1本は、寒ブリが1,000尾(本)入ったの目印でした

当然、子供達には「寒ブリ」をもらう権利があり、それを市場で売ってもらう。その金額を積み立て、春先には観光バスを貸切り、村中「子供会」で日帰りの遠足に行くのが恒例の行事でした

 最近時々、居酒屋等の席で、昭和30年代前・太平洋沿岸(半房総半島、相模湾、伊豆半島(東海岸)や、紀州)でも、10kg前後の「寒ブリ」が定置網に大漁にとれたことを話しても、あまり信じてもらえません

 確かになんとなく、天然物は富山県(日本海)方面の寒ブリを想像するようですね・・・・。

子供の頃の思い出(その2)では、テーマ「ねこさい(定置網)」を描いてみましょう(お楽しみに)

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梅雨入りと「モリアオガエル」産卵の思い出

2011年05月28日 | 子供の頃の思い出

梅雨入りモリアオガエル産卵の思い出

 5月27日「関東甲信地方も梅雨入りした」と発表された。どうやら昭和26年の統計開始以降2番目に早い梅雨入りらしい

この梅雨時になると、毎年思い出すことがある。「伊豆・天城のモリアオガエル」だ。昭和35年(1960年)(幼少)の頃、伊豆東海岸に住んでいた私は、父親と一緒に自宅(敷地)の端に穴を掘り、セメントを貼り「丸い小さな池」を作ったのです。父は漁師はベテランだったが、大工仕事は????

でも立派な小池らしきものができ、子供の私は大喜び

ある日・池の上の方から「カエル」の泣き声がケロケロ」と・・・

真上の大きな「トヨの木(正式な名前は?)の枝・葉に「モリアオガエルの白色(少し黄色目)の卵塊」がついていたのです

オス・メス協働作業(産卵)中だったのです

この「モリアオガエル」はナント、天城に生息する天然記念物で、ビックリしました

真上の枝・葉の卵塊からオタマジャクシがポトット池上に落下する姿は神秘的・幻想的でした(幼少の頃のいい思い出/今から50年前頃の思い出です)。その様子をイラストに描いてみました

Photo

  ←昭和35年頃の自宅の庭端に作った小池

2008年7月20日に伊豆天城(東伊豆町)の「シラヌタの池」と「シラヌタの大杉」を散策し観賞してきました

神秘的なシラヌタ(不知沼)の池は、6月から7月末頃にかけて「卵」を見ることができると聴いていたので、友人達と散策してきました

モリアオガエル」の卵塊が木についているところを見ることができました(オタマジャクシが池面に落ちる光景に遭遇することはできませんでした・残念写真にパチリ(クリックで拡大可)

Dsc02297 ←シラヌタの池(全景)と右枝葉に卵塊が

Dsc02302 ←天城のモリアオガエルの卵塊・2008.07.20

2006年11月3日には、このシラヌタの池から近くにある、「シラヌタの大杉」「森の巨人たち100選」を観賞してきました。推定樹齢1,000年以上だそうです

昭和56年3月「東伊豆町文化財・」指定」樹高45m、枝廻12m(とにかく・大きいね

Dsc01191 シラヌタの大杉 2006.11.03

以上

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