あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

今日の「おふでさき」から「世界一列」と「一列」

2021年09月05日 20時46分25秒 | 思った事

朝づとめの時に、毎日「おふでさき」を拝読している。

昨日、このブログを書きかけていたのだが、どうも言葉が出てこないので、昨日はやめた。そして支部の連絡報を作っていたが、なかなか進まない。

 

今朝起きて、お供え物をしている時に、教祖は反対する人と議論をする事は無かった。と思った。そして「誠真実」という言葉が思い浮かんだ。

 

教祖は、話を聞きに来る人には懇ろにお話下された。しかし反対する人には、ただ「そうかえ」とか、ひどい時には「火水風とも退くと知れ」という事を言われたと聞いている。

説き伏せるという事はなさらなかったように思うのである。

それはなぜだろうかと思った時、先ほどの「誠真実」の言葉に結びついたのである。

 

人というものは、言われたら腹の立つものである。

間違ったことを指摘されて、素直に認められる人はまずいない。

反対に、腹の立った腹いせに、悪さを仕掛けてくる。

つまり、「はらだち」「うらみ」のほこりが立つのである。

「八つのほこり」が腹に治まり、自覚をしている人は、一時はその心になっても、素直に反省して、そのようにはならない。

しかし、そうではない人は、そのようにならない。

 

そうした時に、ほこりを立てずにすむ方法はというと、「そうかえ」とか「火水風」というすぐには分からない不思議な言葉での対応かも知れない。

人間というものは、自分で自覚するしか、変わりようがないのである。

人に変えてもらう事は出来ない。

人の言葉や指摘は、あくまでもきっかけである。

そのきっかけがどれだけ些細なものか、強烈なものかはその時に寄るだろう。

教祖の言葉は、そうした自覚を促す言葉のようにも思える。

 

そして、その教祖の言葉を聞いて、それぞれがどう思い、それによってどのような変化があったかは、逸話編などに様々現わされている。

前置きが長くなってしまった。。。

 

ここまで深く思ってはいなかったが、「誠真実」の態度を心に思いながらおつとめをして、「おふでさき」を拝読した。

12号85から110であった。

けふまでわ一日なりとひをのばし
とのよな事もしかゑいれども (12-85)

このたびハもふひがつまりきるからハ
どふむしかゑる事ハでけんで (12-86)

註釈 85-86
 今日までは、たとえ一日でも日を延ばして、出来るだけ控えて来たが、もうこの度は、日が迫り切って来たから、どうしても控える事は出来ぬ。

なんどきにとのよな事をきいたとて
これハ月日のざねんりいふく (12-87)

註釈 87
 いつ何時どのような変わった事を聞いても、それは、親神の積もり重なった思いが、激しい急き込みとして一時に表へ現れて来たのである。

月日にわどのよなものもわが子なり
かわいばかりでみてハいれども (12-88)

いまゝでハせかいぢううハ一れつに
めゑ/\しやんをしてわいれども (12-89)

なさけないとのよにしやんしたとても
人をたすける心ないので (12-90)

これからハ月日たのみや一れつわ
心しいかりいれかゑてくれ (12-91)

註釈なし

この心どふゆう事であるならば
せかいたすける一ちよばかりを (12-92)

註釈 92
 どういう心に入れ替えるのであるかと言えば、世界を救ける一条の心になってもらいたい。

このさきハせかいぢううハ一れつに
よろづたがいにたすけするなら (12-93)

月日にもその心をばうけとりて
どんなたすけもするとをもゑよ (12-94)

註釈 93―94
 今後、世界中の人間が一列に互い立て合い扶け合いをするならば、親神も、その誠心を受け取って、どのようなたすけも皆引き受けてする程に。

このたすけどふゆう事にをもうかな
ほふそせんよにたしかうけやう (12-95)

またゝすけりうけ一れつどこまでも
いつもほふさくをしゑたいから (12-96)

註釈 95-96
 このよろづたすけというのは、どういう事かと言うと、先ずほふそをせぬように確かに請け合う。更に又、世界中の農作物が何処如何なる所に於ても、常に豊作であるように教えたい。

このみちをはやくしこもとをもゑども
一れつ心わかりないので (12-97)

註釈 97
 このよろづたすけの道を早く教えようと思っているが、一列の人間の心が澄み切らないから、教える事が出来ぬ。

せかいぢうどこにへだてわないほどに
一れつしやんしてくれるよふ (12-98)

註釈 98
 世界中の人間は皆、親神の可愛いい子供であるから、少しも別け隔てなく皆一様に救けたいのが親心の真実である。一列の人間は、ここをよく思案して、親神の真意を悟ってもらいたい。

しんぢつに心にさだめみなついて
神のゆう事そむきなければ (12-99)

それよりも月日の心しいかりと
うけとりしだいたすけせきこむ (12-100)

註釈 99-100
 人々の心が皆、真実の心に定まって、親神の言う事に背かないようになったならば、親神の方では、確かに人々の誠真実の心を受け取って、受け取り次第早速たすけを急ぐ。

このたすけ一寸の事やとをもうなよ
これわにほんの一のこふきや (12-101)

註釈 101
 このたすけは一寸した理の軽いたすけではない。このたすけは、この度元のぢばに現わすにほん一のたすけ一条の手本雛形であって、これによって末代までも世界一列の人間が救けられるのである。

註 第5号31註参照。

これさいかはやくしいかりみせたなら
とのよな高いところなるとも (12-102)

註釈 102
 これさえ早く確かに見せたならば、どのような高い所へも道がついて行く。

こればかりにんけんハさでないからに
月日ぢうよふそむきでけまい (12-103)

註釈 103
 これこそは、人間業ではなく、親神の働きであるから、何人もこれにそむく事は出来まい。

したるならいかほと高いところても
まねハてけまいしやんしてみよ (12-104)

註釈 104
 従って又、親神の自由の働きは、どのように高い所の者でも、そのまねは出来まい。よく思案してみよ。

月日よりやますしなすによわらんの
はやくしよこふだそとをもへど (12-105)

一れつハみなうたごふてたれにても
せかいなみやとをもているので (12-106)

註釈 105-106
 親神は、病まず死なず弱らずに陽気ぐらしの出来るよう、その証拠を早く出したいと思っているが、皆の者は疑うて、世間普通の人の言葉のように思っているから、出す訳にはいかない。

このところにんけん心さらになし
月日のをもう事ばかりやで (12-107)

註釈 107
 このぢばで教祖の諭している事は、人間心は少しも混っていない。親神の心ばかりを言うているのである。

その事をたれてもしらぬ事やから
わかりないのが神のさんねん (12-108)

註釈なし

この心どふぞしんちつ一れつの
心すまするもよふないかよ (12-109)

註釈 109
 この親神の真意を了解させて、何とかして、一列の心を澄ます段取りは出来ないものか。

心さいはやくハかりた事ならば
そのまゝすぐにしよこだすのに (12-110)

註釈 110
 一列の心さえ早く澄み切って来たならば、直ぐにもよろづたすけの証拠を出そうものを。

 

というものである。

読んでいた時は、今この時にとても重要な気がして、今日のブログには久々にこの「おふでさき」を書こうと思ったのである。

そして、上記の通り、註釈を調べて入力をした。

これを読んで皆さまはどのように思われるであろうか。

私はまず、一番最初のお歌、

けふまでわ一日なりとひをのばし
とのよな事もしかゑいれども (12-85)

このたびハもふひがつまりきるからハ
どふむしかゑる事ハでけんで (12-86)

註釈 85-86
 今日までは、たとえ一日でも日を延ばして、出来るだけ控えて来たが、もうこの度は、日が迫り切って来たから、どうしても控える事は出来ぬ。

これが気になった。

私たちは、いつまでも時が同じように続くと思っている。

しかし、このお歌からすると、そうではない事が分かる。

つまり、

定まった日があり、その日までに行わねばならない事が定まっているのである。

そして、定まった日はあるけれども、親神様はそれを延ばすことが出来るという事である。

ところが、それでもそれ以上延ばすことが出来ない状態になっている事も記されているのである。

そして次のお歌で、

なんどきにとのよな事をきいたとて
これハ月日のざねんりいふく (12-87)

註釈 87
 いつ何時どのような変わった事を聞いても、それは、親神の積もり重なった思いが、激しい急き込みとして一時に表へ現れて来たのである。

と言われている。

以前から、「これまで隠されていた悪事が出てきている」とこのブログにも書いて来た。

こうした事も親神様のお働きで、今がその時だと思えるのである。

この悪事という事は、どういうものか、

註釈の無い次のお歌である。

月日にわどのよなものもわが子なり
かわいばかりでみてハいれども (12-88)

いまゝでハせかいぢううハ一れつに
めゑ/\しやんをしてわいれども (12-89)

なさけないとのよにしやんしたとても
人をたすける心ないので (12-90)

これからハ月日たのみや一れつわ
心しいかりいれかゑてくれ (12-91)

月日とは、親神様の事である。親神様からすれば、どの様な者も我が子である。といわれる。

このどの様な者とは、良い心の者もそうでない者もすべてという意味であり、その人間を可愛いと思って見ていたけれども、、、、と言われて、

そして、今までは世界中の人間は皆同様に、それぞれに思案をしているけれども。と言われる。

ところが、その人間の思案について、情けない、どのように思案をしたとしても、その思案には人を助ける心が入っていない。人を助ける心で思案をしていない。と言われている。

だから、これからは、親神様からすれば、「頼むから『一列の者』は心をしっかりと入れ替えて欲しい」と言われているのである。

つまり、「人を助ける心で物事を思案してほしい」という事だと思う。

これについては次のお歌で、

この心どふゆう事であるならば
せかいたすける一ちよばかりを (12-92)

註釈 92
 どういう心に入れ替えるのであるかと言えば、世界を救ける一条の心になってもらいたい。

とあり、「世界を助ける一すじ心」という事が分かる。

(これを朝に読んだ時には、「一列の者」について、私はすべての人々と思っていた。)

そして次に、

このさきハせかいぢううハ一れつに
よろづたがいにたすけするなら (12-93)

月日にもその心をばうけとりて
どんなたすけもするとをもゑよ (12-94)

註釈 93―94
 今後、世界中の人間が一列に互い立て合い扶け合いをするならば、親神も、その誠心を受け取って、どのようなたすけも皆引き受けてする程に。

と、「世界中の人間が、一列に(同じように)互い立てあいをにするならば、」と、親神様は不思議な助けを請け合っておられて、次にその助けの内容について、

このたすけどふゆう事にをもうかな
ほふそせんよにたしかうけやう (12-95)

またゝすけりうけ一れつどこまでも
いつもほふさくをしゑたいから (12-96)

註釈 95-96
 このよろづたすけというのは、どういう事かと言うと、先ずほふそをせぬように確かに請け合う。更に又、世界中の農作物が何処如何なる所に於ても、常に豊作であるように教えたい。

流行していた「ほうそ」をしないように守護をして、そして「常に農作物が豊作になるように教えを広めたい。」と言われる。

しかし、次のお歌で

このみちをはやくしこもとをもゑども
一れつ心わかりないので (12-97)

註釈 97
 このよろづたすけの道を早く教えようと思っているが、一列の人間の心が澄み切らないから、教える事が出来ぬ。

「このみち」とは、「よろづたすけの道」と註釈では書かれているが、私は「よろづたすけを頂くための筋道」と思っている。それを「早く仕込みたい」と親神様は思っておられる。注釈では「早く教えよう」とすごく柔らかく言われいるが、仕込むという言葉は、もっと強い思いがあると思われる。学校で勉強を教えるのは、聞く気がない者にでも教えるという事になるだろう。聞いていなくても話をすれば教えた事になる。しかし、仕込むというとそうではない。

仕込まれたという人々は、とても辛いけれども頑張って身につけたという意味合いを持って話すと思った時、ただ単に記憶するという事ではなく、体で実践できるようにする、体現できるようにする。と思えるのである。

ところが、そのように思っても、一列の人々の心は分からないので、出来ない。と言われている。

そして次に、もう一度「一列」が出てくる。

せかいぢうどこにへだてわないほどに
一れつしやんしてくれるよふ (12-98)

註釈 98
 世界中の人間は皆、親神の可愛いい子供であるから、少しも別け隔てなく皆一様に救けたいのが親心の真実である。一列の人間は、ここをよく思案して、親神の真意を悟ってもらいたい。

ここで「世界中の人間」と「一列と言われる人間」がはっきりと違う事が言われており、これまで私自身が「一列」について、「世界中の人間と思っていた事が違っていた」と確信したのである。

そうなってくると、この「親神の真意を悟らねばならない、一列と言われる人々」が誰かという事が問題となってくると思う。

そして次に、

しんぢつに心にさだめみなついて
神のゆう事そむきなければ (12-99)

それよりも月日の心しいかりと
うけとりしだいたすけせきこむ (12-100)

註釈 99-100
 人々の心が皆、真実の心に定まって、親神の言う事に背かないようになったならば、親神の方では、確かに人々の誠真実の心を受け取って、受け取り次第早速たすけを急ぐ。

となってくる。ここでは、主語となる言葉がない。そこで註釈では、人々となっている。

そして註釈に沿って少し見方を代えると、どのような人であるか分からないが、真実の心に定まった人があり、その人が親神様のいう事に背かなければという、二つの条件をクリアした人が出来たのち、親神はしっかりとその人の心を受け取り、その後にたすけを急ぐ。と言われているように思える。

ところが、ここで一つ疑問がある。

それは、二代真柱様がまとめられた「神・月日・親」と親神様の呼称が変わってくる事象に照らすと、ここでは、「神のゆう事」ではなく「月日ゆう事」と記されても良いと思う。しかし、そうではなく「神」と記されている事に疑問が湧き、何か特別な意味があるのではと思うのである。

そして、

このたすけ一寸の事やとをもうなよ
これわにほんの一のこふきや (12-101)

註釈 101
 このたすけは一寸した理の軽いたすけではない。このたすけは、この度元のぢばに現わすにほん一のたすけ一条の手本雛形であって、これによって末代までも世界一列の人間が救けられるのである。

註 第5号31註参照。

と言われているが、この註釈を読んでもあまりにも纏まりすぎて、反対に分かり難いので、ここまでの流れから、私なりの解釈をしてみたい。

このたすけとは、一列の者に「ほうそ」をしない。そして豊作になる方法を仕込んで、その一列の者の心が定まり、その真の心が親神様の思いに背かなくなったら、すぐさまにそうした身上や事情の時に現されるたすけである。しかしそれは簡単な軽いものではなく、そしてこれは、にほん(親神を信じる者)の一番の「こうき」である。この「こうき」は神様が世界助けを進めるための大切なもの、証拠となるものである。(う~~ん。難しい~~)

そして次にこの「こうき」について、

これさいかはやくしいかりみせたなら
とのよな高いところなるとも (12-102)

註釈 102
 これさえ早く確かに見せたならば、どのような高い所へも道がついて行く。

と言われて、

こればかりにんけんハさでないからに
月日ぢうよふそむきでけまい (12-103)

註釈 103
 これこそは、人間業ではなく、親神の働きであるから、何人もこれにそむく事は出来まい。

この「こうき」として表された不思議は、人間業ではなく親神様の働きであり、親神様の働きに背く事は出来ないと言われている。

この、人間業とは思えない「おたすけ」によって、この天理教は広く広まり、世界各地に教会が作られたのであり、その元は、その助け人の誠真実とも言えよう。

そしてさらに、

したるならいかほと高いところても
まねハてけまいしやんしてみよ (12-104)

註釈 104
 従って又、親神の自由の働きは、どのように高い所の者でも、そのまねは出来まい。よく思案してみよ。

と言われる。ここで、「まねはでけまい」と言われているが、「一列の者に仕込んだ方法」を、見よう見まねで真似をして見ても御守護が現れない。そしてそれがまた、親神の働きの証拠となると思える。

ところが、次では、

月日よりやますしなすによわらんの
はやくしよこふだそとをもへど (12-105)

一れつハみなうたごふてたれにても
せかいなみやとをもているので (12-106)

註釈 105-106
 親神は、病まず死なず弱らずに陽気ぐらしの出来るよう、その証拠を早く出したいと思っているが、皆の者は疑うて、世間普通の人の言葉のように思っているから、出す訳にはいかない。

ここでも「一列」が出てくる。そしてその「一列」が、疑って教祖の言葉を、世間の言葉のように思っているから、そのように出来ないと言われている。そしてその後は、教祖を疑わないようにと

このところにんけん心さらになし
月日のをもう事ばかりやで (12-107)

註釈 107
 このぢばで教祖の諭している事は、人間心は少しも混っていない。親神の心ばかりを言うているのである。

と言われて、

その事をたれてもしらぬ事やから
わかりないのが神のさんねん (12-108)

この事をだれでも知らない事だから、といっても、人々が理解しないのが神のざんねんである。と言われている。

ここでも「神」が出てくる。

そして次は、「一列」について

この心どふぞしんちつ一れつの
心すまするもよふないかよ (12-109)

註釈 109
 この親神の真意を了解させて、何とかして、一列の心を澄ます段取りは出来ないものか。

と、親神の思いは、どうか「一列」と言われる人々の、心を澄ます方法は無いものだろうか。と言われているように思われる。

そしてさらに、

心さいはやくハかりた事ならば
そのまゝすぐにしよこだすのに (12-110)

註釈 110
 一列の心さえ早く澄み切って来たならば、直ぐにもよろづたすけの証拠を出そうものを。

と言われて、念を押されているように思われる。

 

このお歌の一番初めに、親神様のざんねん立腹が現れる時を予言されたお歌があり、その後に、おたすけによる証拠を見せたい親神様のお歌を思う時、医者も見放す身上が次々とあらわれ、不作となる時にほど、親神様の御守護を頂く時だと思われるのである。

そして、そのためには「一列」と言われる人々の心定め、世界助けへの誠真実が必要だと言われているように思う。

そしてこの「一列」は私も含めて、親神様の教えを聞き、親神様を信じる人々ではないだろうか。

教祖のお姿は今はもうない。

しかし、存命で働いて下さっている。

このみちをはやくしこもとをもゑども
一れつ心わかりないので (12-97)

註釈 97
 このよろづたすけの道を早く教えようと思っているが、一列の人間の心が澄み切らないから、教える事が出来ぬ。

このよろづたすけの道を、現在の私たちは仕込まれているだろうか。

仕込まれていないならば、仕込んでもらわねばならないと思う。

これがなければ、不思議なお助けを頂く条件が満たされないのである。

反対に、現在、不思議なお助けを次々と見せられる人がある。

Facebookでもそうした方が投稿されている。

こうした方々は、そうした条件を満たしていると言えるだろう、であるならば、そうした方々に尋ねる事も一つではないだろうか。

未熟な私ではあるが、そうしたよろづたすけの道の条件を、先人先生方の手記などから思うには、人任せにしない事が一つの条件のように思う。

先人先生方は、自ら教祖の元へ足を運び、自らお話を聞き、自ら教祖の言われるように歩まれたのである。

そして「みかぐらうた」に、「むりにでようというでなし 心定めのつくまでは」と言われている。

心定めも一つの条件である。定まっていないならば、定まるように努める事、これが順序ではないかとも思う。

 

薬が手に入らなければ、医者の手余りと同じことである。

おたすけ頂く方法は、おつとめ、おさづけ、御供さんと教えて頂いている。

何よりも、「かしもの・かりもの」のお話しで、「人助けて我が身助かる」である。

互い立てあい助け合う心に切り替える事。その心定めが出来るかどうかにかかっていると思う。

 

今日は、婦人会で部内の奥さんが来てくれました。

元気でよかったです。

とても長くなりましたが、最後まで読んでくださった皆様、ありがとうございました。

分かり難い文章で申し訳ありません。

 

今日も一日ありがとうございました。

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