あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

天理教教典  裁定文と目次

2021年12月17日 11時35分00秒 | 天理教教典

天理教教典(立教165年;2002年2月26日79版発行本に基づく)

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 本書は おふでさき みかぐらうた及びおさしづに基づき 天理教教会本部に於て編述したもので 天理教教規の定めるところにより これを天理教教典として裁定する
 昭和二十四年十月二十六日
    真柱 中山正善

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目次
 前編
第一章 おやさま……三
第二章 たすけ一条の道……一五
第三章 元の理……二五
第四章 天理王命……三六
第五章 ひながた……四五

 後編
第六章 てびき……五七
第七章 かしもの・かりもの……六四
第八章 道すがら……七四
第九章 よふぼく……八四
第十章 陽気ぐらし……九二

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立教112年(1949年)10月26日
  初版発行
立教129年(1966年)10月26日
  31版改訂発行
立教132年(1969年)10月26日
  36新漢字版発行
立教147年(1984年)3月26日
  60改訂版印刷
立教165年(2002年)2月26日
  79版発行
編纂者
  奈良県天理市三島町271番地 天理教教会本部
発行所
  奈良県天理市三島町271番地 天理教道友社
印刷所
  奈良県天理市稲葉町80番地 天理時報社

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天理教教典 第10章 陽気ぐらし

2021年12月17日 11時32分31秒 | 天理教教典

裁定文・目次

第十章 陽気ぐらし

 たすけの道にいそしむ日々は、晴れやかな喜びに包まれ、湧き上る楽しさに満たされる。それは、常に、温かい親神の懐に抱かれ、人をたすけて我が身たすかる安らぎの中に身を置くからである。これが、陽気ぐらしの境地である。
 親神は、陽気ぐらしを見て、共に楽しみたいとの思わくから、人間を創められた。されば、その思召を実現するのが、人生の意義であり、人類究極の目的である。

  いつまでしん/\したとても
  やうきづくめであるほどに          五下り目 5

 明るく勇んだ心、それは陽気な心である。この陽気な心で日々を送るところに、真の幸福があり、生き甲斐がある。いか程長く道をたどつても、心が勇まずに、いずんでいては、親神の心にかなわぬ。親神の守護のままに、日々、喜びと楽しみの中に生活すのが、人の世のこの上ない味である。閉された心の窓を開き、遍き親神の光を身に受ける時、自ら暗い迷いの雲は晴れて、明るい喜びの中に立つ。陽気ぐらしとは楽しみづくめの生活である。
 陽気ぐらしは、他の人々と共に喜び、共に楽しむところに現れる。皆皆心勇めば、どんな理も見え、どんな花もさく。

  皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。  (明治三〇・一二・一一)

 人は、ややもすれば、我が身勝手の心から、共に和して行くことを忘れがちである。ここには、心澄みきる陽気ぐらしはなく、心を曇らす暗い歩みがあるばかりである。

  勝手というものは、めん/\にとつてはよいものなれど、皆の中にとつては治まる理にならん。   (明治三三・一一・二〇)

 一つに心合せるのは、一つの道の理に心を合せることで、この理を忘れる時は、銘々勝手の心に流れてしまう。
 一手一つの心に、自由の守護が頂ける。いかに多くのものが相集つても、一手一つの理を欠くならば、親神に受け取つて頂けない。人皆、相互に一つの道の理に心を合せ、互立て合い扶け合うてこそ、陽気に勇んで生活して行ける。真の陽気ぐらしは、ここに全うされる。

  心を合わせ頼もしい道を作りてくれ。あれでこそ真の道であると、世界に映さにゃならん。   (明治三五・九・六)

 親神にもたれ、教祖を慕い、教の理を省みつつ、互に心を合せ扶け合うて、陽気に生活すならば、ここに、たのもしい道が現れて、その喜びは世界にひろまつて行く。親神は、これを望ませられる。

  せかいぢうみな一れつハすみきりて
  よふきづくめにくらす事なら          七 109
  月日にもたしか心がいさむなら
  にんけんなるもみなをなし事          七 110
  このよふのせかいの心いさむなら
  月日にんけんをなじ事やで           七 111

 親神の守護を身に受けつつ、人々相扶け合うて、明るく浄く、勇んで生を楽しむ境涯に生きる。それは、親神の思召のまにまに、いそしむ日日であり、正しくきりなしぶしんである。そして、この明るい心に、自ら豊かな恵が与えられて、心は更に勇み立つ。子供の成人を待ちかねられる親神は、この陽気ぐらしを見て、共に喜び共に勇まれる。
 人々は、この親心にもたれつつ、世界中皆一れつは隔てない親神の子、兄弟姉妹という理を心に治めて、高きものも低きものも、遠きものも近きものも、相互に扶け合い、常にたゆまず、ひながたの道をたどり、陽気に勇んで、心のきりなしぶしんにいそしむならば、やがては、全人類の心も入れ替り、世は自と立て替つてくる。
 かくて、世界一れつの心が澄みきる時、たすけ一条の思召が成就して、親神の守護は余りなく垂れ、ここに、人の世は、未だかつてない至福を受ける。これぞ、楽しみづくめの世界、神人和楽の陽気づくめの世界であり、真正の平和世界である。
 思えば、人類社会は、久しく文化の進展を遂げながらも、徒らに迷いを重ね、行方も知らぬ闇路にさすらいつつ、今日にいたつた。それは、互に争を事とし、争を経ることによつて、己のよき生命を楽しめるものと、思いあやまつて来たからである。しかも他面、人は平けく安らかな生活をのみ求め望んで止まない。これは、限りない矛盾撞著である。この矛盾を解き、撞著を治めるのが、たすけ一条のこの道である。これこそ、人類に真の心の支えを与え、光ある行手を教える唯一の道である。
 世界は、平和を求めて止まない。しかし、真の平和世界は、ただ人間相互が争わぬだけで、全うされるものではない。よしや、それは争のない姿であつても、光溢れる平和の訪れではない。真の平和世界は、親神の理によつてのみ築かれる。この親神の道が、人々の胸に正しく治められ、すべてが、己が利欲を忘れ、温かい親神の守護の下、互扶けの真実の働きにつとめ合い、親神の待ち望まれる陽気づくめの世界になる時、この世ながらの限りない生気溢れる楽土が全うされる。

 惟うに、親神が、教祖を月日のやしろとして現れ出でられるや、人間の陽気ぐらしを見て、共に楽しもうとの、人間世界創造の思召を告げ、専らたすけ一条の道を宣べて、たすけづとめを教え、又、いき・てをどりのさづけによつて、一れつたすけを急き込まれた。このたすけの理を明かそうと、元の理を説き、所定の人と所と時の立て合いによつて、この教を始めた所以を諭し、ここに、親神を天理王命とたたえて、祈念することを教えられた。
 かくて、教祖が、教を宣べ、身を以てこれを証し、ひながたを示されたのも、親神の深い思わくによるものであつて、正に、教祖ひながたは、道の生命である。
 人は、先ず、身上や事情にてびきを頂き、親神を知る。そして更に、身上は、これ皆、親神のかしものなることを納得し、守護のあるところを悟り、ほこりを払い、心のふしんにつとめる。かくして進む成人の道すがらには、雨の日も風の日もある。しかも、その中に、日々たんのうの心を治め、又、ひのきしんに勇む。そして、治められた誠真実は、自ら他に及び、一人の道は多くの人々の道となる。即ち、道の子はよふぼくを志し、さづけの理を頂いて、たすけ一条にいそしみ、天の理を取り次ぎ、道の先達となる。ここに、不思議なたすけの実が次々とあらわれ、魂は続々と更生されて行く。
 かくて、我も人も共に和し、一手一つの心に、楽しみづくめの陽気ぐらしの世界が守護頂ける。それは、親神の望まれる真の平和世界であり、これぞ、この道の目標である。道の子は、存命のまま導かれる教祖に抱かれ、ひたすら、世界人類の平和と幸福を祈念しつつ、たすけの道に弥進む。

  このみちハどふゆう事にをもうかな
  このよをさめるしんぢつのみち         六  4

 

裁定文・目次

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天理教教典 第9章 ようぼく

2021年12月17日 11時28分41秒 | 天理教教典

裁定文・目次

第九章 よふぼく

 たすけて頂いた喜びは、自ら外に向つて、人だすけの行為となり、ここに、人は、親神の望まれる陽気ぐらしへの普請の用材となる。これを よふぼくと仰せられる。
 親神は、一れつたすけの切なる思わくから、多くのよふぼくを引き寄せようと急き込まれる。

  一寸はなし神の心のせきこみハ
  よふぼくよせるもよふばかりを         三 128
  よふぼくも一寸の事でハないほどに
  をふくよふきがほしい事から          三 130
  この人をどふゆう事でまつならば
  一れつわがこたすけたいから         一三 85

 よふぼくには、男女の別もなく、貴賤の差もない。その用向には、時と所にしたがい相違があろうとも、心一つの理によつて、ひとしく、親神のよふぼくたるに変りはない。

  この木いもめまつをまつわゆハんでな
  いかなる木いも月日をもわく          七 21

 思えば、親神の類ない陽気普請に、よふぼくとして引き寄せられるのは、実に、道の子の幸である。しかし、心が直くなくては、折角引き寄せられても、役に立たぬから、親神は、時に応じ事に当つて、種々様々とていれをされる。これをしつかり心に治めさえすれば、身上のさわりも事情のもつれも、ただ道の花として喜びの中に受け取れる。

  にち/\によふほくにてわていりする
  どこがあしきとさらにをもうな         三 131

 かくて、引き寄せられて親里に帰り、別席順序を運ぶ。だんだんの席を重ね、話の理によつてほこりを払い、行を正すうちに、心は澄んで、たすかりたいとの願は、たすかつて貰いたいとの念となる。そこに、さづけの理が授けられて、心は生れかわる。さづけの理は、よふぼくたる銘々の心に授けられる天の与えである。このさづけの理が心に治つて、 初めて、こうのうを見せて頂ける。

  精神の理によつて働かそう。精神一つの理によつて、一人万人に向かう。神は心に乗りて働く。心さえしつかりすれば、神が自由自在に心に乗りて働く程に。    (明治三一・一〇・二)

と示されている。即ち、さづけの理を授けられたものは、日々常々の心遣いが大切である。さづけの理を頂いたその日の心を、生涯の心として通つてこそ、親神は、いつも変らぬ鮮かな守護を下さる。

  たん/\とよふぼくにてハこのよふを
  はしめたをやがみな入こむで         一五 60
  このよふをはじめたをやか入こめば
  どんな事をばするやしれんで         一五 61

 およそ、よふぼくの使命は、たすけ一条にある。それは、自らはげんで、天の理をよく心に治め、身をもつて教の実を示しつつ、一言の話を取り次ぐにをいがけに始まる。そして、更に進んでは、なんでもたすかつて貰いたいとの一念から、真心こめてさづけを取り次がせて頂くところに、珍しいたすけの実が現れる。  
 それは、見えた形の巧拙によるのではない。ただ、たすかつて貰いたいとの切なる願に基いて、真実を尽して取り次ぐから、親神は、その心をそのまま受け取つて、珍しい守護を見せられる。即ち、己が力によるのではなく、親神が、よふぼくに入り込んで、働かれるからである。
 かくて、よふぼくは、さづけを取り次いで、病む人々にたすかつて貰うのであつて、自分がたすけの主ではなく、どこまでも、親神のよふぼくに外ならぬ。されば、よふぼくたるものは、日々、ひたすら己が心を治めて、曇りない天の理を映すことが肝腎である。銘々が常に、教祖のひながたをたどり、俗にいて俗に墮せず、進んで土地ところの手本雛型となつてこそ、真にその使命が全うされる。
 身上を病んで苦しむ者に、さづけを取り次ぎ、せんすべない事情に悩む者に、教の理を取り次ぐのが、よふぼくの進む道である。それは単に、あの痛み、この憂いを除くだけではなく、寧ろ、かかる苦しみを見せて頂いている、その人の心を、しんからたすけさせて貰うのである。
 人は本来、己が力で生きているのではない。しかも、己が力で生きていると思い誤り易いのが人の常で、そこには、涯しない心の闇路があるばかりである。たすけとは、かかる人々に、親神の思召を取り次いで、その守護のまにまに、暗黒の境涯から光明の世界へと導くことである。
 まことに、この道は、心だすけの道である。心がたすかれば、身上や事情の苦しみ悩みは、自らいやされ、解決される。それは、親神の思召にそのまま添いきるからである。

  心さい月日しんぢつうけとれば
  どんなたすけもみなうけやうで         八 45

 よふぼくは、仮令、年限の理に浅い深いの相違があろうとも、教祖ひながたの道を慕い、ひたむきなたすけ一条の心から、あらゆる困難を乗り越え、温かい真心で、一すじにたすけの道に進むなら、何人でも、親神の守護を鮮かに頂くことが出来る。

  しんぢつにたすけ一ぢよの心なら
  なにゆハいでもしかとうけとる         三 38
  わかるよふむねのうちよりしやんせよ
  人たすけたらわがみたすかる          三 47

 ひたすら、世の人の上に親神の守護を願いつつ、我が身を忘れて行ううちに、親神に守られ、その胸に抱かれて、自身もいつしか心は成人して、明るく陽気に救われて行く。
 よふぼくとしての丹精の效があらわれ、道を求めるものが、次第に相寄り相集つて、教会名称の理が許される。それは、なんでもという精神の理に許されるもので、よふぼくの役目は、ここに一段と光を添える。
 教会は、神一条の理を伝える所であり、たすけ一条の取り次ぎ場所である。その名称の理を、真によく発揚するには、ここに寄りつどうものが、ぢばの理に添い、会長を心として、心を一つに結び合うのが肝腎である。かくて、教会生活は、国々所々における人々の和楽を深め、互に扶け合いつつ、心の成人を遂げる陽気ぐらしの雛型となる。
 されば、会長の使命は、常に元を忘れずに、自ら進んで深く教の理を究め、心を治めて、道の先達となり、誠真実をもつて、人々を教え導くにある。かくて、その徳に薫化された人々の心は、自と成人し、共に和し共に結んで、教の実は挙げられて行く。

  しんぢつにたすけ一ぢよてあるからに
  なにもこわみハさらにないぞや         三 77

 

裁定文・目次

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天理教教典 第8章 道すがら

2021年12月17日 11時25分10秒 | 天理教教典

裁定文・目次

第八章 道すがら

 親神のてびきによつて信仰に入り、教の理を聴きわけて、かしものの理もよく胸に治り、心のほこりも次第にぬぐわれ、いんねんの悟りもついたなら、ものの観方が変つてくる。
 見えるまま、聞えるままの世界に変りはなくとも、心に映る世界が変り、今まで苦しみの世と思われたのが、ひとえに、楽しみの世と悟られて来る。己が心が明るければ、世上も明るいのであつて、まことに、「こゝろすみきれごくらくや」と教えられている所以である。
 しかるに、人の心は常に変りやすい。朝の心は必ずしも夕の心ではない。とかく、身近に起る事柄に心を動かされて、朝に明るい心も、夕には暗くなりがちである。一度は、教に感激して信仰に志しても、やがて喜び勇めなくなることもあれば、折角、たすけて頂いても、又も、身上のさわりや事情のもつれで、心が動揺する時もある。この中にあつて、常に己が心を省みて、いかなることも親神の思わくと悟り、心を倒さずに、喜び勇んで明るく生活すのが、道の子の歩みである。この心の治め方をたんのうと教えられる。
 親神の胸に抱かれ、ひたむきに信仰に進むものは、我が身にふりかかるいかなる悩みや苦しみにも、溺れてしまうことなく、むしろ素直に成つて来る理を見つめて通るから、悩みや苦しみも、かえつて喜びに転じてくる。かくて、真にたんのうの心が治れば、前生のいんねんは納消される。これを、「たんのうは前生いんねんのさんげ」と諭される。
 たんのうは、単なるあきらめでもなければ、又、辛抱でもない。日々、いかなる事が起ろうとも、その中に親心を悟つて、益々心をひきしめつつ喜び勇むことである。かくて、身上のさわりも事情のもつれも、己が心の糧となり、これが節となつて、信仰は一段と進む。これを、「節から芽が出る」と諭される。
 日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる。

  なんでもこれからひとすぢに
  かみにもたれてゆきまする           三下り目 7
  やむほどつらいことハない
  わしもこれからひのきしん           三下り目 8

 身上の患いをたすけて頂いた時、親神の守護が切実に身にしみる。病んだ日のことを思いかえし、健かな今日の日を思えば、心は言い知れぬ喜びに躍る。身上壮健に働ける幸福を、しみじみと悟れば、ひたすら親神にもたれて、思召のままにひのきしんに勇み立つ。

  よくをわすれてひのきしん
  これがだいゝちこえとなる          一一下り目 4

 ひのきしんに勇む心には、欲はない。この求めるところなく、ただ黙黙と骨身惜しまず尽す行為こそ、やがて、銘々の生活に美わしい実を結ぶ肥となる。

  みれバせかいがだん/\と
  もつこになうてひのきしん          一一下り目 3
  なにかめづらしつちもちや
  これがきしんとなるならバ          一一下り目 7

 少しでも普請の役に立ちたいと、もつこを担うて、日々、土持のきしんをする。心は益々明るく勇み立つて、それが何よりのひのきしんになる。これは誰にも出来るが、実地に身に行うて、初めて、その言い知れぬ味がわかる。
 ひのきしんは、信仰に燃える喜びの現れで、その姿は、千種万態である。必ずしも、土持だけに限らない。欲を忘れて、信仰のままに、喜び勇んで事に当るならば、それは悉くひのきしんである。
 ひのきしんは、一時の行為ではなく、日常の絶えざる喜びの行為である。しかも、その喜びは、自分一人に止るのではなく、他の人々をも感化し、心あるものは、次々と相携えて、その喜びを共にするようになる。

  ふうふそろうてひのきしん
  これがだいゝちものだねや          一一下り目 2

 親神は、「ふうふそろうてひのきしん」と教えられる。夫を化し、妻を導いて、夫婦共々に心を揃え、日々ひのきしんに勇むところ、一入そのむつまじさが溢れ出て、一家に春の明るさと和ぎが漂う。これを、「だいゝちものだねや」と仰せられる。
 一家の陽気は隣人に及び、多くの人々は、われもわれもと相競うて、ひのきしんにはげみ、世界には、一手一つの陽気が漲つてくる。かくて、親神の望まれる陽気ぐらしの世が現れる。

  いつ/\までもつちもちや
  まだあるならバわしもゆこ          一一下り目 5

 たんのうの心が治り、ひのきしんに身が勇んで、欲を忘れる時、ここに、親神の思召にかなう誠真実があらわれる。その日々の姿には、何の裏表もなく、清らかさと明るさが溢れてくる。そして、親神の思召をそのままに読みとり、さながらに身に行えるようになる。
 かかる誠真実に徹するのが、心の成人を遂げた所以であつて、親神は、それを待ちわびておられる。

  いまゝでハせかいぢううハ一れつに
  めゑ/\しやんをしてわいれども       一二 89
  なさけないとのよにしやんしたとても
  人をたすける心ないので           一二 90
  これからハ月日たのみや一れつわ
  心しいかりいれかゑてくれ          一二 91
  この心どふゆう事であるならば
  せかいたすける一ちよばかりを        一二 92

 この篤い親心に、そのまま添いたいと念ずるにつけ、人の難儀を見ては、じつとしておられず、人の苦しみをながめては、看過すことが出来なくなる。自分に出来ることなら、何事でも喜んで行い、なんでも、たすかつて貰いたいとの言行となる。そして、多くの人々に導きの手を与えるにをいがけとなり、人だすけとなる。それは、己の利害に偏らず、一れつ兄弟姉妹の真実に目覚め、互立て合い扶け合いの念から、人の苦しみを我が苦しみとなし、我が身を忘れて、人に尽すひたぶるの行為となつてあらわれる。

  このさきハせかいぢううハ一れつに
  よろづたがいにたすけするなら        一二 93
  月日にもその心をばうけとりて
  どんなたすけもするとをもゑよ        一二 94

 かくて、教祖のひながたにならい、たすけにはげむ。口と心と行とは常に一致して、うまずたゆまず、理をみつめて進む。その日々は、人の眼から見れば、一寸には弱いもののようにも思われる。しかし、これこそ、親神の心に通う誠真実であるから、真にそのまま受け取つて頂くことが出来るので、ながい眼で見れば、これほど堅く強いものはない。

  誠程強いものはない、誠は天の理である。誠であれば、それ世界成程と言う。     (明治二一・六・二)

 誠真実は、親神の思召に添い、天の理にかなう心であるから、親神は、この誠真実をすぐと受け取つて、いかなるたすけもひき受けられる。

  しんちつに心にまことあるならば
  どんなたすけもちがう事なし         一三 71

  誠一つの理は天の理、天の理なれば直ぐと受け取る、直ぐと返えすが 一つの理。 (明治二三・四・一七)

 自分の心に誠真実の理が治れば、心ない人の口説に煩わされることなく、常に変らぬ喜びと力に溢れて、明るく陽気に進むことが出来る。そこに正しく、一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分むつまじいという一つの理が治り、他をも自ら化し、一波は万波を呼んで、更に多くの人々の心の躍動を呼び起す。

  だん/\になにかの事もみへてくる
  いかなるみちもみなたのしめよ         四 22

 

裁定文・目次

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天理教教典 第7章 かしもの・かりもの

2021年12月17日 11時21分16秒 | 天理教教典

裁定文・目次

第七章 かしもの・かりもの

  たいないゑやどしこむのも月日なり
  むまれだすのも月日せわどり          六 131

 人体のこの精巧な構造、微妙な機能は、両親の工夫で造られたものでもなければ、銘々の力で動かせるものでもない。すべては、親神の妙なる思わくにより、又、その守護による。

  にんけんハみな/\神のかしものや
  なんとをもふてつこているやら         三 41
  にんけんハみな/\神のかしものや
  神のぢうよふこれをしらんか          三 126

 この世に生れさせて頂き、日々結構に生活しているのも、天地抱き合せの、親神の温かい懐で、絶えず育まれているからである。即ち、銘々が、日々何の不自由もなく、身上をつかわせて頂けるのも、親神が、温み・水気をはじめ、総てに亙つて、篤い守護を下さればこそで、いかに己が力や智慧を頼んでいても、一旦、身上のさわりとなれば、発熱に苦しみ、悪寒に悩み、又、畳一枚が己が住む世界となつて、手足一つさえ自由かなわぬようにもなる。ここをよく思案すれば、身上は親神のかしものである、という理が、自と胸に治る。

  めへ/\のみのうちよりのかりものを
  しらずにいてハなにもわからん         三 137

 銘々の身上は、親神からのかりものであるから、親神の思召に隨うて、つかわせて頂くのが肝腎である。この理をわきまえず、我が身思案を先に立てて、勝手にこれをつかおうとするから、守護をうける理を曇らして、やがては、われと我が身に苦悩を招くようになる。これを、

  人間というは、身の内神のかしもの・かりもの、心一つ我が理。     (明治二二・六・一)

と教えられている。

  人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る。どんな理も受け取る中に、自由自在という理を聞き分け。    (明治二二・二・一四)

  自由自在は、何処にあると思うな。めん/\の心、常々に誠あるのが、 自由自在という。       (明治二一・一二・七)

 即ち、身の内の自由がかなうのも、難儀不自由をかこつのも、銘々の心遣い一つによつて定まる。それを、心一つが我の理と教えられる。
 しかるに、人は、容易にこの理が治らないままに、あさはかな人間心から、何事も自分の勝手になるものと思い、とかく、己一人の苦楽や利害にとらわれて、一れつの和楽を望まれる親心に、もとる心を遣いがちである。親神は、かかる心遣いを、埃にたとえて、戒められている。
 元来、埃は、吹けば飛ぶほど些細なものである。早めに掃除さえすれば、たやすく綺麗に払えるが、ともすれば積りやすくて、油断をすれば、いつしか、うずだかく積りかさなり、遂には、掃いても拭いても、取り除きにくくなるものである。

  よろづよにせかいのところみハたせど
  あしきのものハさらにないぞや         一 52
  一れつにあしきとゆうてないけれど
  一寸のほこりがついたゆへなり         一 53

 心遣いも、銘々に、我の理として許されてはいるが、親神の心に添わぬ時は、埃のように積りかさなり、知らず識らずのうちに、心は曇つて、本来の明るさを失い、遂には手もつけられぬようになる。かかる心遣いをほこりと教えられ、一人のほこりは、累を他に及ぼして、世の中の平和を紊すことにもなるから、常によく反省して、絶えずほこりを払うようにと諭されている。
 このほこりの心遣いを反省するよすがとしては、をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまんの八種を挙げ、又、「うそとついしよこれきらい」と戒められている。
 親神は、これらの心遣いをあわれと思召され、身上や事情の上に、しるしを見せて、心のほこりを払う節となし、人々を陽気ぐらしへと導かれる。

  せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ
  神がほふけやしかとみでいよ          三 52
  めへ/\にハがみしやんハいらんもの
  神がそれ/\みわけするぞや          五  4
  めへ/\の心みのうちどのよふな
  事でもしかとみなあらわすで         一二 171
  これみたらどんなものでもしんぢつに
  むねのそふちがひとりてけるで        一二 172

 即ち、いかなる身上のさわりも事情のもつれも、親神がほおきとなつて、銘々の胸を掃除される篤い親心のあらわれと悟り、すべて、現れて来る理、成つて来る理をよく思案するならば、自と、心のほこりを払うようになる。かくして、ほこりさえ綺麗に掃除するならば、あとは珍しいたすけに浴して、身上は、病まず弱らず、常に元気に、守護頂ける。

  ほこりさいすきやかはろた事ならば
  あとハめづらしたすけするぞや         三 98

 しかるに、人は、心の成人の未熟さから、多くは定命までに身上を返すようになる。身上を返すことを、出直と仰せられる。それは、古い着物を脱いで、新しい着物と着かえるようなもので、次には、又、我の理と教えられる心一つに、新しい身上を借りて、この世に帰つて来る。

  きゝたくバたつねくるならゆてきかそ
  よろづいさいのもとのいんねん         一  6

 人間には、陽気ぐらしをさせたいという親神の思いが込められている。これが、人間の元のいんねんである。
 しかるに、人間は、心一つは我の理と許されて生活すうちに、善き種子もまけば、悪しき種子もまいて来た。善き事をすれば善き理が添うて現れ、悪しき事をすれば悪しき理が添うて現れる。
  世界にもどんないんねんもある。善きいんねんもあれば、悪いいんねんもある。   (明治二八・七・二二)

 およそ、いかなる種子も、まいてすぐ芽生えるものではない。いんねんも、一代の通り来りの理を見せられることもあれば、過去幾代の心の理を見せられることもある。己一代の通り来りによるいんねんならば、静かに思い返せば、思案もつく。前生いんねんは、先ず自分の過去を眺め、更には先祖を振り返り、心にあたるところを尋ねて行くならば、自分のいんねんを悟ることが出来る。これがいんねんの自覚である。
 親神が、種々といんねんを見せられるのは、それによつて人々の心を入れ替えさせ、或は勇ませて、陽気ぐらしをさせたい、との篤い親心からであつて、好ましからぬいんねんを見せられる場合でさえ、決して、苦しめよう困らせようとの思召からではない。いかなる中も、善きに導かれる親心にもたれ、心を治めて通るならば、すべては、陽気ぐらしの元のいんねんに復元されて、限りない親神の恵は身に遍く、心は益々明るく勇んで来る。
 人の幸福は、その境遇に在るのではなく、人生の苦楽は、外見によつて定るのではない。すべては、銘々の心の持ち方によつて決まる。心の持ち方を正して、日々喜び勇んで生活すのが、信心の道である。
 即ち、身上かしもの・かりものの理をよく思案し、心一つが我の理であることを自覚して、日々常々、胸のほこりの掃除を怠らず、いかなる場合にも、教祖ひながたを慕い、すべて親神にもたれて、人をたすける心で通るのが、道の子の心がけである。そこには、自他の心を曇らす何物もなく、ただ、親神の思召のままに生活させて頂き、連れ通り頂いている喜びがあるばかりである。

  このよふハ一れつハみな月日なり
  にんけんハみな月日かしもの          六 120

 

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天理教教典 第6章 てびき

2021年12月17日 11時19分25秒 | 天理教教典

裁定文・目次

第六章 てびき

 人は皆、苦しみを厭い、楽しみを求め、悩みを避け、喜びを望む。親神が、陽気ぐらしをさせたいとの思召で、人間世界を造られたからである。
 しかるに、世には、病苦にさいなまれ、災厄におそわれ、家庭の不和をかこち、逆境にもだえるなど、その身の不幸をなげいている人が多い。それは、親神を知らず、その深い親心を知らないからである。
 親神は、一れつ人間の親におわす。しかるに、人は、この真実を知らず、従つて、互にひとしく親神を親と仰ぐ兄弟姉妹であることも知らずに、銘々が勝手に生きているように思いあやまり、われさえよくばの我が身思案や、気ままな行をして、他の人々の心を傷つけ曇らし、世の親和を害ない紊しているばかりでなく、それがために、己れ自らの心をも傷つけ曇らせていることを気附かずにいる。

  月日にハたん/\みへるみちすぢに
  こわきあふなきみちがあるので         七  7
  月日よりそのみちはやくしらそふと
  をもてしんバいしているとこそ         七  8

 親神は、知らず識らずのうちに危い道にさまよいゆく子供たちを、いじらしと思召され、これに、真実の親を教え、陽気ぐらしの思召を伝えて、人間思案の心得違いを改めさせようと、身上や事情の上に、しるしを見せられる。

  なにゝてもやまいいたみハさらになし
  神のせきこみてびきなるそや          二  7
  せかいぢうとこがあしきやいたみしよ
  神のみちをせてびきしらすに          二 22

 即ち、いかなる病気も、不時災難も、事情のもつれも、皆、銘々の反省を促される篤い親心のあらわれであり、真の陽気ぐらしへ導かれる慈愛のてびきに外ならぬ。
 しかるに、親神の深い心を知らぬ人々は、ただ眼前の苦しみや悩みに心を奪われて、ややもすれば、あさはかな人間思案から、人を怨み、天を呪い、世をはかなみ、或は理想を彼岸に求めたりする。

  にんけんもこ共かわいであろをがな
  それをふもをてしやんしてくれ        一四 34
  にち/\にをやのしやんとゆうものわ
  たすけるもよふばかりをもてる        一四 35
  一れつのこどもハかわいばかりなり
  とこにへたてわさらになけれど        一五 69
  しかときけ心ちがゑばせひがない
  そこでだん/\ていりするのや        一五 70

 親神は、これらの人々に、隔てない切々の親心を明かし、人間の我が子を慈しむ親心に照して、よく思案をするがよいと、いとも懇に教えられている。
 およそ、人の親にして、我が子を愛しないものはない。子の行末を思えばこそ、時には、やむなく厳しい意見もする。この切ない親心がわかれば、厳しいうちにも慈しみ深い親神の心尽しの程がくみとられて、有難さが身にしみる。
 ここに、かたくなな心は開かれ、親神の温かい光を浴びて、心はよみがえる。そして、ひたすら、篤い親心に添いきる心が定る。かくて、真実に心が定れば、親神は、すぐとその心を受け取り、どんな自由自在の理も見せられる。親神は、それを待ちわびておられる。

  しんぢつに心さだめてねがうなら
  ちうよぢざいにいまのまあにも         七 43
  いまゝでハとんな心でいたるとも
  いちやのまにも心いれかゑ          一七 14
  しんぢつに心すきやかいれかゑば
  それも月日がすぐにうけとる         一七 15

 しかし、人間心のはかなさは、折角、てびきを頂いて、心を定めても、時がたてば、一旦定めた心もいつのまにか動いて、形ばかりの信心におち、知らず識らずのうちに、又もや、親心に反する心を遣うたり、行をしたりして、しかも、気附かずにいる場合が多い。

  神の自由して見せても、その時だけは覚えて居る。なれど、一日経つ、 十日経つ、三十日経てば、ころつと忘れて了う。
         (明治三一・五・九)

と示されている所以である。故に、

  日が経てば、その場の心が弛んで来るから、何度の理に知らさにゃならん。
           (明治二三・七・七)

と仰せられ、ともすれば弛みがちな心をはげまして、なおも心の成人を促される上から、信心するうちにも、幾度となく、身上や事情の上に、しるしを見せ、心を入れ替える節を与えられる。この篤い親心を悟つて、益々心を引きしめて通つてこそ、生涯変らぬ陽気づくめの理を見せて頂ける。
 かくて、教の理が胸に治り、心が次第に成人するにつれて、大難は小難に、小難は無難に導かれる親心が、しみじみと感じられて、今まで喜べなかつたことも、心から喜べるようになり、今まで楽しめなかつたことも、心から楽しめるようになる。
 陽気づくめの境地への力強い足どりが、こうして進められてゆく。

  しやんして心さためてついてこい
  すゑハたのもしみちがあるぞや         五 24

 

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天理教教典 第5章 ひながた

2021年12月17日 10時48分55秒 | 天理教教典

裁定文・目次

第五章 ひながた

 教祖は、口や筆で親神の教を説き明かされると共に、身を以てこれを示された。この道すがらこそ、万人のひながたである。
 教祖は、寛政十年四月十八日、前川半七正信の長女として生れ、名をみきと申される。
 幼少の頃から、慈悲と同情の心に篤く、又、深く道を求め、世塵を脱けて、生涯を信仰に捧げたい、と熱願されたが、奇しきいんねんの理によつて、大和国山辺郡庄屋敷なる、中山氏という元のやしきに迎えられ、善兵衞の妻となられた。
 以来、益々信心の道に心を磨かれると共に、人の妻として、忠実やかに夫に従い、両親に仕え、家人をいたわり、篤く隣人に交り、又、家業に精を出された。かくて、慈悲と同情の天禀は、愈々深められ、高められて、よく怠者を感化し、盗人を教化されたばかりでなく、自分を無きものにしようとした者に対してすら、その罪を責めることなく、我が身の不徳のいたすところとして、自然のうちにこれを徳化せられた。又、 預つた乳児が病んだ時には、我が子、我が身の命を捧げ、真心をこめ、命乞をして、瀕死の児を救われた。
 天保九年十月二十六日、齢四十一歳を以て、月日のやしろと召されてからは、貧に落ち切れ、との思召のままに、貧しい者への施しにその家財を傾けて、赤貧のどん底へ落ち切る道を急がれた。
 この行は、家人や親戚知人に、理解され難く、厳しい忠告や激しい反対のうちに、十数年の歳月を重ねられた。かかるうちに、夫は出直し、一家は愈々どん底へと向つたが、この大節のさなかに、一身一家の都合を越えて、同年、末女こかんを大阪に遣し、天理王命の神名を流された。
 このように、常人の及ばぬ信念は、却つて人々の冷笑を呼び、離反を招いて、遂には、訪ねる者もなく、親子三人で食べるに米のない日々を過された。父なき後、一家の戸主となつた秀司は、青物や柴の商によつて、日々の生計をはかつた。しかも、教祖は、かかる中にも、人の難儀を見ては、やつと手にした米を、何の惜気もなく施された。
 或る年の秋祭の日に、村の娘たちが、今日を晴れと着飾つて、嬉々としているのに、娘盛のこかんは、晴着はおろか着更さえもなくて、半分壊れた土塀のかげから、道行く渡御を眺めていたこともある。又、夏になつても吊るに蚊帳なく、冬は冬とて吹きさらしのあばら屋に、あちらの枝を折りくべ、こちらの枯葉をかき寄せては、辛うじて暖をとり、点す油にこと欠く夜は、月の明りを頼りに、糸つむぎなどして過されたこともある。
 十年に亙る長い年月の間、かかる窮迫の中にも、教祖は、常に明るい希望と喜びとをもつて、陽気ぐらしへの道を説かれた。そして、時には、水と漬物ばかりで過されながら、「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんというて、苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」と、子達を励まされた。
 月日のやしろとなられてから、このようにして二十余年を過されたが、やがて、をびや許しによつて示された珍しいたすけが、道あけとなり、教祖を生神様として慕い寄る者が、近郷一帯にあらわれた。教祖は、これらの人々に、病の元は心からと教え、不思議なたすけを示されたことは数知れぬほどで、不治といわれた難病も、教祖の前には決して不治ではなかつた。盲人もその場で眼を開き、気の狂うた人も、すきやかに正気に復した。
 かくて、輝かしい道の黎明は訪れたが、それは又同時に、新な苦難への門出でもあつた。嫉妬、猜疑、無理解から起る弁難攻撃、或は又、白刃を抜いての乱暴狼藉などが、それであつた。かかる煩わしい生活に明け暮れされたが、教祖は、益々心勇み、陽気なかぐらづとめを教え、てをどりの手をつけられた。まことに、そこには、過去三十年に亙つてなめられた苦難の陰影はなく、又、白刃の下をくぐられた酷しい日々の片影さえも窺えない。ただ、一れつの子に、親神の胸のうちを知らせよう、との親心あるばかりである。
 更に、筆をとつて、たすけづとめのしんである人間宿し込みのぢばと、かんろだいの理を明かし、つとめの人衆について教え、なお、証拠まもりや、いき・てをどりのさづけを渡すなど、たすけ一条の道を示された。
 かかる中にも、厳寒酷暑を問わず、十数度に余る獄舎への御苦労が続いたが、聊かもこれを意にかけず、ひたすら、疑い深く理解の鈍い人心を教化しようと、日夜、手を尽し心を砕き、或は温かく或は鋭く、折にふれ、人に応じて導かれた。
 かように行き届いた導きによつて、教は、大和はもとより、五畿内から関東、東海に伸び、山陽、四国に及んだ。かくて、教祖を慕う白熱の信仰は、人々の足をぢばへぢばへと運ばせたが、なおも、教祖は、親神の思召のまにまに、終始、かぐらづとめを急き込まれた。
 しかし、迫害は歳を追うて激しさを加え、つとめすることは、直に、教祖の獄舎への御苦労となつたが、教祖は、何処においでになつても、平常と少しも変られないばかりか、これを、却つて、表に出るとか、働きに行くとか仰せられて、迎えの役人を、やさしく労われた。
 かかる態度によつて仕込みを受けた人々は、このひながたを慕うて、たすけ一条の上には、我が身どうなつてもと、勇み立つたが、高齢の教祖に、これ以上の御苦労をかけるには忍びなかつた。
 かくて過ぎゆくうちに、明治十九年陰暦十二月八日、教祖の身に異状がうかがわれた。この時、「これは世界の動くしるしや」と仰せになつたが、人々は、どうした親神の思召であろうかと、憂慮のうちに種々と協議を重ね、心の練合いに日を過した。そして、一同の協議に上つた問題で、思案に余る困難な事情を悉く披瀝して、十数度に亙り、繰り返し繰り返し、押しての願を以て理を伺つた。これに対して示された思召は、常に一貫して、たすけづとめの急き込みで、

  さあ今と言う、今と言うたら今、抜き差しならぬで。承知か。

と、厳しい言葉で、のつぴきならぬ重大時機の迫つている事を暗示された。そして又、

  心定めの人衆定め。事情無ければ心が定まらん。胸次第心次第。

と、己が身上を台として、一同の決心を促し、

  さあ/\実があれば実があるで。実と言えば知ろまい。真実というは火、水、風。
  さあ/\実を買うのやで。価を以て実を買うのやで。

とて、胸のおき処を諭された。
 かくも明確に思召を承りながら、直につとめにとりかかれなかつたのは、徹し切れない人間心のはかなさとはいえ、教祖の身にふりかかる御苦労を、気遣うたからである。
 その年も暮れ、明けて明治二十年陰暦正月二十五日にいたつて、気分甚く勝れられず、どうしたことかと思召を伺えば、

  さあ/\すっきりろくぢに踏み均らすで。さあ/\扉を開いて/\、 一列ろくぢ。さあろくぢに踏み出す。さあ/\扉を開いて地を均らそうか、扉を閉まりて地を均らそうか/\。

との仰せであつた。真意を解しかねた一同が、扉を開く方が陽気でよかろうとの思いから、扉を開いてろくぢにならし下されたいと申上げると、

  一列に扉を開く/\/\/\。ころりと変わるで。

と仰せられた。
 明くれば二十六日、教を開かれた元一日の縁の日であり、しかも、つとめを急き込まれることが、極めて急であるので、今は、最早や躊躇している場合でないと、一同深く心に決して、万一に備える準備を整え、常になく鳴物までもいれて、つとめにかかつた。
 教祖は、休息所にやすまれながら、この陽気なかぐらづとめの音を聞かれ、いとも満足げに見うけられたが、北枕で西向のまま、静かに眠りにはいられた。齢、正に九十歳。
 教祖は、現身の寿命を二十五年縮めて、姿をかくされたが、魂は永久に元のやしきに留り、存命のまま、一れつ子供の成人を守護されている。

  にんけんをはじめたをやがも一にん
  どこにあるならたつねいてみよ         八 75

 

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天理教教典 第4章 天理王命

2021年12月17日 10時41分24秒 | 天理教教典

裁定文・目次

第四章 天理王命  

 親神を、天理王命とたたえて祈念し奉る。
 紋型ないところから、人間世界を造り、永遠にかわることなく、万物に生命を授け、その時と所とを与えられる元の神・実の神にています。
  このよふのにんけんはじめもとの神
  たれもしりたるものハあるまい       三 15
  どろうみのなかよりしゆごふをしへかけ
  それがたん/\さかんなるぞや       三 16
 親神は、人間世界の根本にていまし、この世を創められたばかりでなく、この世の有りとあらゆるもの、悉く、その守護によらぬものとてはない。しかも、その自由の守護の程は、眼に、身に、心に、ありありと、 感じることが出来る。まことに、元の神・実の神にています。
 即ち、天では月日と現れ、さやけくも温かい光をもつて、余すくまなく、一れつにこの世を照らされる。
  このよふのぢいと天とハぢつのをや
  それよりでけたにんけんである       一〇 54
 人は、天地の間に生を享け、至妙な自然の調和の中に生存している。遍く月日の光を身に頂いているように、隔てなく天地の恵に浴している。天地は月日の理で、人は、天地抱き合せの、親神の懐に抱かれて、限りない慈しみのまにまに生活している。
  このよふのしんぢつのをや月日なり
  なにかよろづのしゆこするぞや       六 102
 親神は、元初りに当り、親しく、道具、雛型に入り込み、十全の守護をもつて、この世人間を造り、恆にかわることなく、身の内一切を貸して、その自由を守護し、又、生活の資料として、立毛をはじめとし、万一切を恵まれている。
 その守護の理は、これに、神名を配して、説きわけられている。

  くにとこたちのみこと 人間身の内の眼うるおい、世界では水の守護の理。
  をもたりのみこと 人間身の内のぬくみ、世界では火の守護の理。
  くにさづちのみこと 人間身の内の女一の道具、皮つなぎ、世界では万つなぎの守護の理。
 月よみのみこと 人間身の内の男一の道具、骨つっぱり、世界では万つっぱりの守護の理。
 くもよみのみこと 人間身の内の飲み食い出入り、世界では水気上げ下げの守護の理。
 かしこねのみこと 人間身の内の息吹き分け、世界では風の守護の理。
 たいしよく天のみこと 出産の時、親と子の胎縁を切り、出直の時、息を引きとる世話、世界では切ること一切の守護の理。
 をふとのべのみこと 出産の時、親の胎内から子を引き出す世話、 世界では引き出し一切の守護の理。
 いざなぎのみこと 男雛型・種の理。
 いざなみのみこと 女雛型・苗代の理。

 即ち、親神天理王命の、この十全の守護によつて、人間をはじめとし、万物は、皆、その生成を遂げている。
  たん/\となに事にてもこのよふわ
  神のからだやしやんしてみよ          三 40・ 135
 この世は、親神の身体であつて、世界は、その隅々にいたるまで、親神の恵に充ちている。そして、その恵は、或は、これを火・水・風に現して、目のあたりに示し、又、眼にこそ見えぬが、厳然たる天理として、この世を守護されている。即ち、有りとあらゆるものの生命の源であり、一切現象の元である。
 実に、この世は、理ぜめの世界であつて、一分のすきもなく、いささかの遺漏もない。天地自然の間に行われる法則といわず、人間社会における秩序といわず、悉く、奇しくも妙なる親神の守護ならぬはない。
  このせかい一れつみゑる月日なら
  とこの事でもしらぬ事なし         八 51
  月日よりみなそれ/\とみさだめて
  善とあくとをみハけするぞや        八 52
 親神は、人の心はもとより、総てを見ぬき見透し、善悪共に見分けて、思召のままに守護されている。
  にんけんのわが子をもうもをなぢ事
  こわきあふなきみちをあんぢる       七  9
  それしらすみな一れハめへ/\に
  みなうゝかりとくらしいるなり       七 10
  このせかいなにかよろづを一れつに
  月日しはいをするとをもゑよ        七 11
 しかも、親神は、どこまでも、一れつ子供を愛撫される親にています。しかるに、この親心を悟らず、天地を無視し、己が力を過信して、我ままな心を遣い、得手勝手な行をしているのは、万一切を支配し、総てを見ぬき見透されている親神の眼から見れば、あたかも独り歩きする幼児のようで、これほど危いことはない。
  どのよふなくどきはなしをするのもな
  たすけたいとの一ぢよばかりで        七 26
  一れつのむねのうちよりしんぢつに
  はやくわかりた事であるなら         七 27
  それからハ月日よろづのしはいする
  なにかよろづのたすけするぞや        七 28
 親神は、これをあわれと思召し、種々言葉を尽して、一れつたすけの限りない親心を明かし、よろづいさいの真実を教えて、自由自在の珍しい守護を見せられる。
  月日にハせかいぢううハみなわが子
  かハいいゝばいこれが一ちよ        一七 16
 親神は、人間の実の親にています。親神は、ただ一すじに、一れつの子供に陽気ぐらしをさせたいと望ませられ、教祖をやしろとして表に現れ、元初りのいんねんあるぢばにおいて、たすけ一条の道を啓かれた。
 ぢばは、天理王命の神名を授けられたところ、その理を以て、教祖は、存命のまま、永久にここに留り、一れつを守護されている。
  どのよふなたすけするのもしんちつの
  をやがいるからみなひきうける        七 101
 実に、天理王命、教祖、ぢばは、その理一つであつて、陽気ぐらしへのたすけ一条の道は、この理をうけて、初めて成就される。
  あしきをはらうてたすけたまへ
  てんりわうのみこと

裁定文・目次

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天理教教典 第3章 元の理

2021年12月17日 10時33分31秒 | 天理教教典

裁定文・目次

第三章 元の理

 親神は、陽気ぐらしを急き込まれる上から、教祖をやしろとして、この世の表に現れた、奇しきいんねんと、よふきづとめの理を、人々によく了解させようとて、元初りの真実を明かされた。

 この世の元初りは、どろ海であつた。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。
 そこで、どろ海中を見澄されると、沢山のどぢよの中に、うをとが混つている。夫婦の雛型にしようと、先ずこれを引き寄せ、その一すじ心なるを見澄ました上、最初に産みおろす子数の年限が経つたなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた。
 続いて、乾の方からしやちを、巽の方からかめを呼び寄せ、これ又、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試し、その性を見定めて、これ等を男一の道具、及び、骨つっぱりの道具、又、女一の道具、及び、皮つなぎの道具とし、夫々をうをとに仕込み、男、女の雛型と定められた。いざなぎのみこと いざなみのみこととは、この男雛型・種、女雛型・苗代の理に授けられた神名であり、月よみのみこと くにさづちのみこととは、夫々、この道具の理に授けられた神名である。
 更に、東の方からうなぎを、坤の方からかれいを、西の方からくろぐつなを、艮の方からふぐを、次々と引き寄せ、これにも又、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試された。そして夫々、飲み食い出入り、息吹き分け、引き出し、切る道具と定め、その理に、くもよみのみこと かしこねのみこと をふとのべのみこと たいしよく天のみこととの神名を授けられた。
 かくて、雛型と道具が定り、いよいよここに、人間を創造されることとなつた。そこで先ず、親神は、どろ海中のどぢよを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされた。そして、月様は、いざなぎのみことの体内に、日様は、いざなみのみことの体内に入り込んで、人間創造の守護を教え、三日三夜の間に、九億九万九千九百九十九人の子数を、いざなみのみことの胎内に宿し込まれた。それから、いざなみのみことは、その場所に三年三月留り、やがて、七十五日かかつて、子数のすべてを産みおろされた。
 最初に産みおろされたものは、一様に五分であつたが、五分五分と成人して、九十九年経つて三寸になつた時、皆出直してしまい、父親なるいざなぎのみことも、身を隠された。しかし、一度教えられた守護により、いざなみのみことは、更に元の子数を宿し込み、十月経つて、これを産みおろされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて三寸五分まで成人して、皆出直した。そこで又、三度目の宿し込みをなされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて四寸まで成人した。その時、母親なるいざなみのみことは、「これまでに成人すれば、いずれ五尺の人間になるであろう」と仰せられ、につこり笑うて身を隠された。そして、子等も、その後を慕うて残らず出直してしもうた。
 その後、人間は、虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、又もや皆出直し、最後に、めざるが一匹だけ残つた。この胎に、男五人女五人の十人ずつの人間が宿り、五分から生れ、五分五分と成人して八寸になつた時、親神の守護によつて、どろ海の中に高低が出来かけ、一尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も、漸く区別出来るように、かたまりかけてきた。そして、人間は、一尺八寸から三尺になるまでは、一胎に男一人女一人の二人ずつ生れ、三尺に成人した時、ものを言い始め、一胎に一人ずつ生れるようになつた。次いで、五尺になつた時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになつた。
 この間、九億九万年は水中の住居、六千年は智慧の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みと仰せられる。

    月日よりたん/\心つくしきり
    そのゆへなるのにんけんである     六 88

 

  このよふのしんぢつの神月日なり
  あとなるわみなどふくなるそや       六 50
  にんけんをはぢめよふとてたん/\と
  よせてつこふたこれに神なを        六 51

 この世の元の神・実の神は、月日親神であつて、月様を、くにとこたちのみこと 日様を、をもたりのみことと称える。あとなるは皆、雛型であり、道具である。更に申せば、親神は、深い思召の上から、その十全の守護を解りやすく詳しく示し、その夫々に神名をつけられたのである。

  しかときけこのもとなるとゆうのハな
  くにとこたちにをもたりさまや      一六 12

 思えば、親神は、この世人間を造られたばかりでなく、長の歳月、限りない親心をもつて、その成人を守護し、時に応じて旬々の仕込みをなされた。人類の成人とその文化の発達とは、悉く親神の篤い守護による。

  月日にわせかいぢううをみハたせど
  もとはじまりをしりたものなし      一三 30
  このもとをどふぞせかいへをしえたさ
  そこで月日があらわれてゞた       一三 31

 親神は、この真実を明かし、一れつ人間に陽気ぐらしへの道を教えようとて、教祖をやしろとして表に現れられた。即ち、最初産みおろしの子数の年限が経つた暁は、元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようとの、元初りの約束に基く。

  にんけんをはじめだしたるやしきなり
  そのいんねんであまくたりたで       四 55
  このよふをはぢめだしたるやしきなり
  にんけんはじめもとのをやなり       六 55
  月日よりそれをみすましあまくだり
  なにかよろづをしらしたいから       六 56

 親神は、この約束により、人間創造の母胎としての魂のいんねんある教祖を、予めこの世に現し、宿し込みのいんねんある元のやしきに引き寄せて、天保九年十月二十六日、年限の到来と共に、月日のやしろに貰い受けられた。この人と所と時とに関するいんねんを、教祖魂のいんねんやしきのいんねん旬刻限の理という。

  この月日もとなるぢばや元なるの
  いんねんあるでちうよぢさいを       八 47
  このはなしなんでこのよにくどいなら
  たすけ一ぢようけやうのもと        八 48

 かくて、親神は、教祖の口を通して、親しく、よろづいさいの真実を明かされた。それは、長年の間、一れつ人間の成人に応じて、修理肥として旬々に仕込まれた教の点睛である。即ち、ここにいよいよ、親神直直のだめの教が垂示された。けだし、十のものなら九つまで教え、なお、明かされなかつた最後の一点、元の親を知らして、人類に、親神の子供たるの自覚を与え、一れつ兄弟姉妹としての親和を促し、親子団欒の陽気ぐらしの世と立て替えようとの思召からである。これを、

  このよふを初た神の事ならば
  せかい一れつみなわがこなり        四 62
  せかいぢう神のたあにハみなわがこ
  一れつハみなをやとをもゑよ        四 79
  せかいぢういちれつわみなきよたいや
  たにんというわさらにないぞや      一三 43

と教え、更に又、

  月日にわにんけんはじめかけたのわ
  よふきゆさんがみたいゆへから      一四 25
  せかいにハこのしんぢつをしらんから
  みなどこまでもいつむはかりで      一四 26
  このさきハせかへぢううハどこまでも
  よふきづくめにみなしてかゝる      一〇 103

と仰せられている。陽気ぐらしこそ、人間生活の目標であり、理想である。これを実現しようと、よふきづとめを教えて、たすけ一条の道をつけられた。よふきづとめの理は、実に、この元初りの真実による。

  ちよとはなしかみのいふこときいてくれ
  あしきのことはいはんでな
  このよのぢいとてんとをかたどりて
  ふうふをこしらへきたるでな
  これハこのよのはじめだし

裁定文・目次

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天理教教典 第2章 たすけ一条の道

2021年12月17日 10時31分27秒 | 天理教教典

裁定文・目次

第二章 たすけ一条の道

  月日にハせかいぢうゝハみなわが子
  たすけたいとの心ばかりで           八  4

 親神は、一れつの人間に、陽気ぐらしをさせたいとの親心から、教祖をやしろとして表に現れ、よろづいさいの真実を明かして、珍しいたすけ一条の道を教えられた。

  つとめてもほかの事とわをもうなよ
  たすけたいのが一ちよばかりで        一六 65

 この親心から、よろづたすけの道として教えられたのが、つとめ一条である。

  このよふをはじめかけたもをなぢ事
  めづらし事をしてみせるでな          六  7

  このよふをはじめてからにないつとめ
  またはじめかけたしかをさめる         六  8

 このつとめは、親神が、紋型ないところから、人間世界を創めた元初りの珍しい働きを、この度は、たすけ一条の上に現そうとて、教えられたつとめである。即ち、これによつて、この世は、思召そのままの陽気な世界に立て替つてくる。

  つとめでもどふゆうつとめするならば
  かんろふだいのつとめいちゞよ        一〇 21


 このつとめは、かんろだいをしんとして行う。

  にんけんをはじめかけたるしよこふに
  かんろふたいをすゑてをくぞや        一七  9

 かんろだいとは、人間宿し込みの元なるぢばに、その証拠としてすえる台で、人間の創造と、その成人の理とを現して形造り、人間世界の本元と、その窮りない発展とを意味する。

  しんぢつのつとめの人ぢう十人の
  心を神がうけとりたなら            六 18

  それからハどのよな事もたん/\と
  神のをもわくみなときゝかす          六 19

  にち/\に神の心わせゑたとて
  人ぢう十人そろいなけねば           六 20

 このつとめは、又、かぐらづとめとも教えられ、親神の創造の理をかたどり、選ばれた十人のつとめ人衆が、夫々、面をつけ、歌に調子を合せて、奏でる九つの鳴物の調べに心を揃え、親神の守護の理を手振にあらわしてつとめる。実に、かぐらづとめは、人間創造の元を慕うて、その喜びを今に復えし、親神の豊かな恵をたたえ、心を一つに合せて、その守護を祈念するつとめである。

  みなそろてはやくつとめをするならバ
  そばがいさめバ神もいさむる          一 11

 つとめ人衆が、親神にもたれ、呼吸を合せてつとめる時、その心は、自と溶け合うて陽気になり、親神の心と一つとなる。この一手一つに勇む心を受け取つて、親神もまた勇まれ、神人和楽の陽気がここに漲る。

  またさきのよふきづとめをまちかねる
  なんの事ならかぐらつとめや          四 29

 かぐらづとめは、又、よふきづとめとも仰せられる。まことに、よふきづとめは、親神の思召さながらの陽気をたたえて、その成就を祈願するつとめである。

  どのよふなたすけするのもみなつとめ
  月日ゆうよにたしかするなら          七 83

  しんぢつの心あるなら月日にも
  しかとうけやいたすけするぞや         七 84

 つとめ人衆が、思召通りに陽気につとめる時、親神は、その真心を受け取つて、自由自在の守護を現される。

  このつとめせかいぢううのたすけみち
  をしでもものをゆハす事なり          四 91

  にち/\にはやくつとめをせきこめよ
  いかなるなんもみなのがれるで        一〇 19

  とのよふなむつかしくなるやまいでも
  つとめ一ぢよてみなたすかるで        一〇 20

 されば、よふきづとめは、又、たすけづとめとも教えられ、いかなる願もかなえられるつとめである。

  たすけでもあしきなをするまてやない
  めづらしたすけをもているから        一七 52

  このたすけどふゆう事にをもうかな
  やますしなすによハりなきよに        一七 53

 たすけづとめは、ただ、身上のさわりや、災難や、苦悩をたすけるつとめであるばかりでなく、進んでは、病まず、死なず、弱らない、珍しい守護をなされるつとめである。

  しんぢつの心しだいのこのたすけ
  やますしなずによハりなきよふ         三 99

  このたすけ百十五才ぢよみよと
  さだめつけたい神の一ぢよ           三 100

  そのゝちハやまずしなすによハらすに
  心したいにいつまでもいよ           四 37

  またさきハねんけんたちた事ならば
  としをよるめハさらにないぞや         四 38

 人々の心が澄みきつて、真実の心となつた暁には、たすけづとめによつて、甘露を授けられる。これを頂けば、人は、よく百十五歳の定命を保ち、なお、心次第によつては、いつまでも生きさせてやろうと教えられる。

  このつとめなにの事やとをもている
  せかいをさめてたすけばかりを         四 93

  はや/\と心そろをてしいかりと
  つとめするならせかいをさまる        一四 92

 このつとめは、人間個々の身上や事情に限らず、更に、豊かな稔りや平和の栄えなど、広く世界の上に、親神の恵を及ぼすつとめである。
 ここに、恵は遍く一れつに及び、人類は、ひとしく親神の子として、兄弟姉妹であることに目覚め、互に立て合い扶け合うて、世界は、一つ心の陽気ぐらしの世と立て替る。
 親神は、更に又、いき・てをどりのさづけによつて、身上たすけの道を教えられた。

  このさきハなんほむつかしやまいても
  いきとてをどりみなたすけるで        一二 50

  どのよふなむつかしくなるやまいでも
  これなをらんとゆうでないぞや        一二 51

 即ち、さづけは、親神が一名一人の心の真実を見定めて、たすけ一条のために渡される、こうのうの理である。人々が、授かつたその日の心を生涯の理に治めて、陽気普請のよふぼくとなり、天の理を取り次がせて頂くところ、親神は、願う心の誠真実を受け取り、自由自在の守護をもつて、いかなる難病をもたすけられる。さづけの理は、たすけ一条を誓う一日の日の真心に授けられる、生涯末代の宝であつて、この理をうけて、親神のよふぼくの馳せ巡るところ、広い世界に不思議なたすけは相ついで現れる。
 まことに、つとめとさづけとは、親神が、世界一れつに、陽気ぐらしをさせてやりたい、との切なる親心によつて教えられた、たすけ一条の道である。これによつて、病の根は切れ、あしきは祓われて、世界は陽気によみがえる。
 かくて、世界人類は、親神の篤き守護をたたえて、心ますます勇み、親神は、又、これを受けて、恵は、いよいよ深く、ここに、神人は共に和楽して、陽気溢れる世界が、この地上に実現される。

  あしきをはらうてたすけせきこむ
  いちれつすましてかんろだい

 

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