運命を切り替える上に、たんのうを教えられている。
このたんのう。。。これは我慢ではない。
成ってくることは、すべてこれまでの生まれ変わり出変わりの中での、蒔いたタネが芽生えて来たものである。
だから、その芽生えたものをどのようにするのか、その心の持ち方、考え方の一つである。
運命は変えられないと、昔はよく占いなどでも言われて来たと思うが、最近は心持ち方や行いで変わると言われるようにもなってきている。
人間というものは、自分が可愛いのである。
これは当然である。
また物を見て、欲しいと思うのも当然である。
そうした中に、自分の思い通りにならない時に、ならない原因を他人・周囲に探して、それを恨んだり攻撃する。
そして、それをするために、ウソをついたりするのである。
ウソをつかれたり攻撃をされたら、されたものは良くは思わない。
先の、自分の思い通りにはならない事、これを他人にさせる事になるのである。
ちょっと表現が難しいが、
例えば、自分のウソがばれないように、そのウソを知っている人を、殺めたとすると、その殺められた人の心には恨みが残るだろう。
また、その殺められた人だけではなく、その周囲の人々にも、恨みなどが残り、それが元となって、仕返しをする事になるだろう。
負の連鎖が連綿と続く事となり、一つの負が周囲に波及して、多くの負となる。
これを止めるためには、された方があきらめるしかない。
として、起こって来た事には、ぜったい的なカルマがあり、それは避けられないものである。
だから、少しでも良い事をしよう。
地獄に落ちないように人に対して悪い事をしないようにしよう。
などというのが、天理教以前に教えられて来たものである。
実際に教祖のお話には、天理教以前の宗教や悟り諭の道は、悪い気持ちを和らげるために教えたとある。
これによって、多くの人々が助かり、その宗教や教えは栄えても来た。
ところが、それでは不自由分である事から、人間を創った元の話。
人間を創るために集めた神の話などを「元の理」として教えて、すべては、それぞれの心に貸し与えたものという話を説き、ほこりの譬えで心の扱い方を教えられた。
ところが、天理教が始まって190年弱、自分自身の心に悩む人が増えて、ようやく心について考えられるように、多くの人々が感じるようになって来た。
天理教が始まった頃は、心を思う人はなかなかおらず、自分の困った事を解決してくれる事、こればかりを人々は望んでいたのである。
例えば、
天理教が大きくなる、天理教の信者が増える。そのために悩み苦しむ。
そして、そのようにならない事を、周囲の性にして、嘆くなど、
これも、姿かたちに囚われて、自分の思い通りにならずにいる姿でもある。
私自身、このブログにも、さまざまな不足をしてきたことを書いているが、そうした不足は、良かれと思いする中に思ってしまう不足であり、これでは本来の親神様の望みではないと、教会事情に携わって思えた事であり、
現在は、親神様の導かれるままにと思えるようになった。
今月2日に、教会のポーチの電気を付け替える中、急に大教会へ行く用事が出来て、午後から大教会へ出かけようとする。その少しの間に、ある大教会の会長さんが、創立130周年を終えられた記念品を持ってわざわざ来て下さったのである。
その時に、会長になって30年となるが、数年前にようやくたんのうについて得心がいって、ここ数年はずっと、たんのうの話ばかりしている。聞いても聞いてくれなくても、それで結構と思って話をしてきた。
と、たんのうについて話しをして下さったのである。
帰られてから、記念祭のリーフレットを見たら、たんのうが成人目標になっていた。
私も全く同感である。
私が今こうして、情報を発信しているのも、同じ気持ちである。
聞いて下さっても聞いて下さらなくても、親神様はおられて、今もなお導いて下さっている。
また、教祖が自ら通り、教え導かれた事を、多くの人々に知ってもらいたい。
と思いながら書いて来た。
そして、今、新型コロナはじめ、さまざまな世界の事情から、
自ら考えて、自らの心で教えを歩んでもらいたい。
と思うようになった。
その自ら考える手助けをさせて頂ければ、それがありがたいとも思えるようになった。
自分の思い通りにはならないものである。
また思い通りになっても、人からは妬みや恨みを受けるのである。
そうした時に、真実込めて、低い心で対処していく。
これがたんのうにつながると思ったのである。
我慢ではない。
理の当然として受け止めて、冷静に対処する中に、
自分のいんねん、性分ならば、こんな小難に、無難には事にはならないだろう。
と思えて、親神様の不思議がこれまた感じられるのである。
その大教会長さんの話を聞いて、
3代真柱様が「たんのうは出来なくても、我慢でとおる」という事を話された事を思い出し、
また、「たんのうできなくても我慢しな」と夫婦の中を治めておられた方の話を思い出した。
今は、そうした時代から50年以上も経つのである。
我慢という言葉なしに、たんのうについて話が出来る事をとても嬉しく思ったのでもあった。
今の時代を、世界では混とんとした時代と表現をされるが、
親神様は、すでにそれは宣言されているのである。
泥海こうきを読めば良く分かる。
神仏を心の支えとして、歩んできた者たちが、自らの心で自由に考えるためには、自分の中にある混とんを整理しなければならないのである。
自分の心の中に、善悪があるのだが、それが自分でも見分けがつかなかっただけである。
それはダメです。と言われても、そんなことを言っても、と自分勝手をしてきた。
それはダメだという、理由も考えずに、自分の浅はかな物差しで通って来た。
それにより、様々な困難に向かっているのである。
天の理の物差しからすれば、別段に混とんとはしていない。
なるべくしてなっているのである。
自分の浅はかな物差しを作り変える時でもあろう。
「たんのうはつなぐ理、不足は切る理」正しくである。
今の世界の状況、情報を理解できても、神の世界・生かされている世界を理解できないと、たんのうには繋がらないだろうが、それも一つである。
さまざまな人間があり、さまざまないんねんで関わっているのである。
ともかく、天の理を知る事。
これがたんのうにはとても大切だと思う。
世界が陽気ぐらしへとなりますように。。。