私たちは、地球に生きている。
この生きているという言葉は、体があってこそ言える言葉である。
魂だけ、心だけでは生きているとは言えない。
魂・心と体があって初めて生きていると言える。
そしてこの体があるから、物を食べなければならない。
いや、物を食べる喜びが味わえるのである。
そして、手足が自由に使えるから、物を作ったり、物で遊んだりできるのである。
さらには、口があり、言葉が話せるから、お互いのコミュニケーションが取れる。
そして、物に触れる事で、感触を楽しむことが出来、目で見る事で色や形を楽しむことが出来る。
これが3次元の世界である。
この体を使う事で、様々な心が動く。
そして、互いの動きからさらに心が動くのである。
それぞれの心に、使える体を親神様が貸し与えて下さっているから、心が動いて、様々な感情を味わい楽しむことが出来るのである。
ところが、この体を自分の思うがままに使えるのと同じように、周囲の者も同じように使おうとしてきた。
その為に、権力争いが起きて、大なり小なりその繰り返しを今日までしてきたのである。
多くは、武力によるものであったが、近年では武力ではなく、情報によって人心を操るものまで行われるようになったのである。
この情報によって人を操る事は、この事が多くの人々に知れ渡ったら、それは力を失うのである。
この情報開示が今、盛んに行われてきている。
そしてこの事によって、一人ひとりが自分で考える力を養わなければならなくなった。
これまでは、物や体を充実させることによって幸福を得ようとしたが、これからはそれぞれの心、意識、考え方によって幸福を探さねばならなくなったのである。
このお道は、「八つのほこり・誠真実」によって、心の使い方を教えられている。
これからは、これが実践される事になるのである。
おさづけによって、おつとめによって、はたまた御供さんによって、身上事情が助かるのも、誠真実を親神様が受け取ってくださればこそである。
そのために、心のほこりを日々払うようにとも教えられているのである。
物や金があれば幸せになると思って、これまで文明が発達して、そうではない事が多くの人々には分かっているのである。
しかし、その先、どうしたら良いかが世界中では分からないのである。
物を得る事、自分が好きな事が出来る事の限界が感じられて、自分が神になったように思い違えて、新型コロナのようなものを作りだし、人々を騙して、世界を作り替えようとした計画も、それがどれだけ身勝手なものであるか知っている人々によって破綻しようとしている。
さて、これら世界の事から、お道でのひながたを見た時に、私にはかんろだい建立、かぐらづとめ完成が思い浮かぶ。
なぜか、人々の心を建て替えるために、かんろだいを建てて、そこでのつとめによって授けられる甘露によって、陽気ぐらしをさせたいというのが、親神様の最初の計画であった。
しかし、つとめをするために必要なつとめ人衆が揃わなかった。
せっかく、人間宿仕込みのいんねんある魂を生まれさせて、つとめ人衆に育てようとしたのだが、そのようにならなかった。
そして、かんろだい没収を一つの節として、計画を、人間の心を澄ませてから、かんろだいを建てて、勤めをする事に変更したのである。
さらには、教祖が現身を隠される直前、親神様と人間との問答によって、応法の道を歩むこととなったのである。
これは、「人間は法律には叶いません」という、真柱様からの言葉によって、法律に合わす道へと変えられたと私は思っている。
神一条の道と、応法の道、この二つの道を私たちは歩んでいるのである。
今現在の世界の事から、どれだけ自分たちに都合の良い法律を作ろうとしているか、良く分かるだろう。
しかし、いくら法律ができたとしても、人心の誠真実の心の前には、その法律は意味をなさなくなるのである。
これも良く分かると思う。
「さあさあ 月日ありてこの世界あり、世界ありてそれぞれあり、それぞれありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで。」
これが今証明されていると私は思っている。
心定めて、誠真実をつくす中に、不思議な親神様のお働きが見せられてきているのである。
どんな薬があっても、体内で親神様の御守護がなければ、効能は無いのである。
反対にどんな毒薬を飲んでも、親神様の御守護があれば、大難は小難に小難は無難にとなるのである。
この御守護を頂く元は、誠真実であり、それは我が身どうなってもという心にあるのである。
「欲を忘れてひのきしん」である。
「神の前には欲はない」である。
医学の世界のウソが暴かれ、政治のウソが暴かれた現在、次は宗教のウソが暴かれるであろう。
宗教と信心・信仰の違いなど、神と人間を考え直すきっかけがあるように思う。
すべては、人間の心の、魂の成人のために、見たくないと思うような事も起きてくるのである。
それを逃げてはならない。
見せられる事も、いんねんがあるからこそである。
いんねんを切り替えるための、強い心を培う時でもあろう。
祖神様・教祖、本当に大難は小難・小難は無難にとお守り下さりありがとうございました。
どうぞこれからもよろしくお願い申し上げます。