ここからは、名古屋で入信した信者の話である。そして、次節でまず組が結成されて、その後支教会設立の話となる。
明治22年に7戸の講社が出来ている。これは橋本伊平先生が明治23年1月15日に山名へ入り込んでいるので、山名へ入り込む前の数となる。
そして明治23年は214戸の講社加入ということで、すごい事である。
主な信者を番号を振って列記してあるが、1の坂入泰次郎とは、伊平先生の役者の師匠である。
2の柴田久兵衛は、70才の高齢である。今ならばまだまだ若い感じがするが、当時は相当の高齢である。それが不思議な御守護を頂き、布教師がつとめる上の後ろ盾になったわけである。
また、柴田久兵衛の関係者には赤線を引いておいた。
青線は、熱田分教会の会長をつとめた人である。
後で、話題にしたいので覚えておいて頂きたいのが、8番の市村末彦の年齢が21才という事で、この名簿の明治23年に入信した中では最年少である。
そして、小牧大教会の初代となるのだが、入信のきっかけは、石崎金太郎の妻から橋本伊平先生を紹介されて、御守護を頂いたことである。そして、その市村末彦がにおいがけしたのが、24番白木嘉一となる。
34番杉山芝三郎の後に、「中島郡一宮町に移住、布教す。」と書いてあるが、この人が元で一宮分教会が出来る。しかし、初代会長はこの人ではなく、13番の近藤初太郎である。この近藤初太郎は、後に熱田分教会の会長となる。この事についても後ほど、教会設立のところでふれる事となる。
43番の鶴田嘉七は、幅下、武儀、菅原を設立する元となった人であり、その家系は山名部属の山東分教会になっている。またこの人は、名古屋の人であるが、四国巡礼に行った際に、兵神の人からにおいがかかり、愛知からにおいがけに出た人である。
このように、各地で次々と不思議なおたすけが現れて、信者が出来て行くのである。
8番の市村末彦の部分の詳しい事は、後ほど小牧大教会のところで出て来る。
43番の鶴田嘉七については、断食により出直すこととなり、この時におさしづを伺っている。この件についても、後に述べたいと思う。
ここに列記された、信者の内、現在家系が残っているのは、数件である。
また、この後、教会事情が起こってくるが、これらの人々の名前が出て来るので、注意をして頂きたい。
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