[十五年前 ニューヨーク ミヒの家]
「おとーさーん、お帰りなさーい。」
三歳位のかわいらしい男の子が私に向かって駆けてきた。
〈ああ、この子がミヒさんの子供だな。〉
「お父さん、やっと帰ってきてくれたんだね。僕ずーっと待ってたんだよ。」
男の子はニコニコと笑って、息を切らしながらそう言った。
「僕の名前は?」
「ジュンサン…。どうして名前を聞くの?
…おじさんは…、お父さんじゃないの?」
ジュンサンは悲しそうな顔をした。
「ごめんよ。おじさんはお母さんの友達なんだ。お母さんはいる?」
「お母さんは今お出かけしていていません。
でも本当にお父さんじゃないの?
いつもお母さんが見せてくれる写真にとっても似てるのに…。」
「ねえ、ジュンサン君。君もピアノが弾けるのかな?」
「うん、お母さんに教えていただいたから弾けるよ。僕とっても上手なんだよ。」
「そうか、じゃあ、お母さんがお帰りになるまでジュンサン君のピアノを聞かせてもらってもいいかな?」
「うん、いいよ。」
私はジュンサンを抱き上げると一緒に家の中へ入っていった。
[一時間後]
「お母さん、お帰りなさい。
お客様がいらっしゃってますよ。お母さんのお友達で、お父さんによく似たおじさま。」
「お友達?」
「ミヒさん、お帰りなさい。
お手伝いさんに無理を言ってあげてもらいました。留守中にお邪魔して申し訳ありません。」
「あなたでしたか。お出でにならないでくださいと申し上げましたのに…。
ジュンサン、向こうへ行ってアンジュマにおやつをいただきなさい。
おかあさんはおじさまとお話があるの。」
「はい。あのね、お母さん、僕おじさんとお友達になったの。
おじさんにピアノを弾いてあげたの。とっても上手だって褒められたよ。
それからいっぱい遊んでもらったの。
おじさん、また遊びに来てね。」
「そう、遊んでいただいたの。よかったわね、ジュンサン。」
「かわいいお子さんですね。」
「…ペクさんにお聞きになったでしょう?あの子に父親はいません。
どういう意味かお分かりになりますよね。
ジュンサンには父親は仕事でずっと海外にいて帰ってこないと話してあります。
…そういうわけですから、私達親子のことはどうか放っておいてください。」
「そんなことを気にする必要はありません。
私の父も庶子なんですよ。だから父はアメリカに来た。
私とて故国(くに)にいては肩身の狭い思いをしなければならないかもしれないが、ここは自由の国です。
私はジュンサン君がとても気に入りました。
今日はこれで失礼しますが、またお邪魔させてくださいね。
お願いしますよ。ジュンサン君とも約束したのですから。」
「……」
[その一週間前]
私とミヒは友人宅で開かれたパーティーで出会った。
彼女の美貌と、その細い指先から奏でられる哀愁を帯びたピアノの音色に私は魅せられた。
「彼女は?」
「ああ、カン・ミヒって言うんだ。美人だろう?
もう四・五年前になるかな。
ドイツ留学中に国際コンクールに入賞して、結構注目を集めた人なんだ。そのままヨーロッパを中心に活動するのかと思われたんだが、いったん帰国してその後病気をしたらしくってしばらく活動してなかったんだ。
最近活動を再開して、これからの注目株だよ。僕も応援しているんだ。」
「紹介してくれないか?応援しているってことは知り合いなんだろ?」
「彼女、独身だけど子供がいるんだ。わけありらしい。
僕も詳しくは知らないけれど。」友人は声を潜(ひそ)めて話した。
「構わないから紹介してくれよ。」
ミヒの演奏が終わった。
「ミヒさん、こちら僕の友人でセウングループのイ理事。将来の社長候補ですよ。
あなたに目を着けたらしくって、さっきから紹介しろってうるさいんですよ。(笑)」
「まあ、相変わらずペクさんたら冗談ばっかりおっしゃって。」
ミヒは艶然(えんぜん)と微笑んだが、少々迷惑そうな顔をした。
「本当ですよ、ミヒさん。初めまして。
素晴らしい演奏でした。
ぜひまた、お近くでお聞きしたいものです。今度お宅にお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「困りますわ。
まだ修行中の身ですし、こちらはほんの仮住まいで、お客様をお招きするような家ではございませんから…。」
[十五年後]
「ジュンサン君…」
ベッドに座る彼の姿に私は言葉を失った。
十二年ぶりに会った彼は十八歳の逞しい青年に成長していた。
しかし、あの幼い頃、初めて出会った頃のきらきらと輝いていた瞳の色は失われていた。
彼の目には何も映っていないかのようだった。
「意識が戻ってからというもの、ずっとあんなふうなの。
毎日ぼうっと窓の外を眺めたりするだけで、…記憶が戻らないだけじゃなくて、生きる気力を失ってしまったようなの。
記憶が戻らないのも、あの子自身が思い出すのを拒んでいるとしか思えないわ。
もう体は元に戻っているのに…、あの子にとっては辛いだけの記憶なのよ。
父親がいないだけでも辛くて寂しかっただろうに、私は自分の辛さに耐えるのが精一杯であの子の気持ちを思(おも)い遣(や)ってあげることができなかった。
ごめんなさい、ジュンサン。
あの時…、ジュンサンが六歳の時、韓国に帰らなければ、あなたの言葉を振り切って行かなければこんなことにはならなかったかもしれないのに…。」
「ミヒさん、私が父親になろう。
今からでも遅くはない、結婚しよう。
君がまだヒョンスさんという人のことを忘れられないのは分かっている。
それでもいい。
私の為じゃない、ジュンサン君のために…。」
こうして私とミヒは結婚した。
アン医師や弁護士とも相談し、記憶を失ったままのジュンサンには新しい記憶を植え込む『治療』を施し、戸籍を整理して私の実子とすることにした。
「ミヒ、この子には炯(ミニョン・明るく輝く美しい石)という名をつけよう。
ミニョン、お前は私の子として生まれ変わるのだ。
新しい人生を生きるのだよ。早く元気になっておくれ。」
いまだ催眠治療から目覚めていないジュンサンに私は語りかけた。
〈ああ、もうジュンサンも私も苦しまなくて済む。これでやっと楽になれる。
ジュンサン、もう苦しまなくていいのよ。安らかに眠って。
今度目覚めるときはミニョンとして、幸せなイ・ミニョンとして目覚めるのよ…。〉
ミヒは心から安らぎを覚えていた。