多数の意見で押し通す危険性を指摘しています。
もっともです。
マスコミによる支配が横行している日本も指摘してほしいですね。
理想国家日本の条件 さんより転載です。
J・S・ミルの霊言 天才教育、自由、民主主義の未来
2014.10.20 Liverty Webより
http://the-liberty.com/article.php?item_id=8582
公開霊言抜粋レポート
J・S・ミル 新時代の教育論と自由論を語る
公開霊言「J・S・ミル「現代に天才教育は可能か」」
2014年6月28日収録
「霊言現象」とは、あの世の霊存在の言葉を語り下ろす現象のこと。これは高度な悟りを開いた者に特有のものであり、
「霊媒現象」(トランス状態になって意識を失い、霊が一方的にしゃべる現象)とは異なる。また、外国人の霊の霊言には、
霊言現象を行う者の言語中枢から、必要な言葉を選び出し、日本語で語ることも可能である。
日本では昔から諸外国と比べて識字率が高く、明治以降の義務教育の普及によって、国民の教育レベルは
さらに向上した。その意味では、日本での学校教育自体は成功していると言えるだろう。その一方、集団教育に
不向きな個性的な子供の教育、あるいは天才児教育に課題を抱えていることもしばしば指摘される。
この「天才教育」に縁が深いのが、19世紀のイギリスで活躍したジョン・スチュアート・ミルだ。父親のジェームズ・ミル
から幼少時より英才教育を受け、経済学、政治学、倫理学、論理学、科学哲学など、多くの分野で業績を残したイギリス
の思想家である。個人の自由の本質、国家が行使する権力の正当な範囲などを論じた『自由論』が古典的名著とされて
いるほか、『代議制統治論』『功利主義論』『経済学原理』『ミル自伝』といった著作も広く読まれている。
ミルは倫理思想としては「最大多数の最大幸福」というスローガンで有名な「功利主義」の流れを汲んでいる。
これは、功利(快楽や幸福)をもたらす行為や制度こそが道徳的に正しいと考える立場。これは、道徳や善悪を
幸福と峻別して考えるカント的な「義務論」「厳格主義」と鋭い対照をなす考え方だ。
しかし、ミルは「満足した豚よりも満足しない人間である方がよい。同じく、満足な愚者であるより不満足な
ソクラテスである方がよい」とも語り、単純な快楽主義には陥らず、質的に高い幸福を求めるべきだとした。
功利主義をより精神性の高いものに発展させたと言えるだろう。
幸福の科学の大川隆法総裁は、このJ・S・ミルを招霊し、天才教育のあり方について聞いた。霊言は、
教育論ばかりではなく、自由や民主主義のテーマにも触れられ、幅広い内容を含むものとなった。
早期の英才教育への懸念
ミルは父からの英才教育によって早くから才能を開花させた。3歳からギリシャ語を学び始め、子供時代の
うちにギリシャ語やラテン語の古典を難なく読めるようになっていた。数学、論理学、政治経済学、自然科学、
歴史など、20歳頃には大抵の学問を学び終えてしまっていたという。
自らが経験したような早期の英才教育について聞かれたミルの霊は、音楽やスポーツなど、確かに早い方が
有利になる分野はあると認めつつ、「必ずしも早熟であることが全てではない面がある」と指摘。
作曲家モーツァルトの例などを挙げながら、幼い頃に過剰な教育を行うと人格や生活への反動が生じやすく、
必ずしも本人の幸福にはつながらないことを強調した。
さらに具体的な注意点として、親のサポートがなくなった時や、成長するにつれ学業が周囲に追いつかれてくる
時の精神的なフォローも必要であることを示唆。実はミル自身、幼少時からの詰め込み教育の影響からか、
20歳を過ぎた頃に深刻な精神の危機を経験している。英才教育に対するこうした見解は、自らの体験から
得た教訓であるとも言えるだろう。
ミル自身は普通の学校には通わなかったが、知識の底上げをしている一般的な学校教育は成功していると語った。
日本のような集団教育についても、天才が育ちにくいというマイナス面はあるものの、少しずつ積み重ねながら
学力を上げていく方が幸福なところがあるとして一定の評価を与えた。
霊言の終盤には「長寿の時代には、長寿の時代の智慧があろうから、歳を取っても智慧が増えていくような
社会を建設していきなさい」と語り、若いうちに詰め込んで学び終えてしまうのではなく、年を重ねるにつれ何度も
学び直していくことの大切さを強調した。
霊言全体として、ミル自身の事例を一般化することへの一定の懸念を示す内容となった。
「多数の専制」を避けつつ、民主主義を守れ
ミルは功利主義者として「幸福」を重視したが、その幸福とは単なる快楽ではなく、天賦の能力の発揮や
道徳性の陶冶などを含む広い概念だった。その幸福を得るためには、自ら考え行動する「自由」が絶対に
必要となる。政府や法律、形骸化した宗教、社会の慣習が命じる通りに生きるだけでは、人間は成長できない
からだ。ミルは、他人に危害を加えない限り、人は自由に生きる権利があると唱えた(危害の原理)。
民主主義は、王や貴族といった少数の統治者による民衆支配を否定して自由を確保すると同時に、
自分たちの智慧と能力を発揮してゆく幸福を担保する制度でもある。ミルは生涯を通じて民主主義を支持し、
婦人を含めた参政権の拡大を主張し続けた。
しかし、ミルの思想の本領はむしろ、民主主義社会の弱点を見抜き、それが有効に機能するための条件を
探究したところにある。彼が最も警戒したのは、多数派が数の力で少数派をねじ伏せる「多数による専制」だ。
歴史を見ると、イエス・キリストやソクラテスなど、文明の基を創った偉人たちでも同時代の大衆によって
迫害された例は多い。
ミルは民主主義に参加する大衆に対しても、それにふさわしい教養や精神態度を要求している。
霊界に還った今でもその考えは変わっていないようだ。霊言では「多数の専制」をバッファローの大群に喩えるなど、
その危険性を指摘。「みんながいいと思って決めたことが、正義に適わないことが出てくることがある」「民の代表と
言えども、神のごとき目はないので、非効率な面はやっぱりある気はします」という言葉には、民主主義が間違った
方向へ向かうことに対する不安が滲む。
さらに、書籍、新聞、雑誌、ネットなど、質に関わらず誰でも情報発信ができる現代の言論状況はミルにとっては
不可解であるようだ。ミルの霊は民主主義の平等化の理想が先端化した結果、玉石混交の意見が同じように扱われ、
智慧ある者とない者とが区別できなくなっていると分析。この懸念は「愚者とソクラテス」の違いを強調したミルらしい。
それに加えて、ミルの霊は民主主義国家が必ずしも軍事的に優れているわけではないことをリアリスティックに指摘。
中国のような国からは日本などの民主主義国家が「腰抜けの集まり」に見えていると述べ、歴史上、専制国家と
民主主義国家の戦いで前者が勝つこともあったと注意を促した。
しかしながら、民主主義国家であれば、国民の教養と道徳次第で健全に運営することができるだろう。そこに様々な
欠点があるとしても、初めから自由の根絶を目指す全体主義国家・専制国家の悪と同列に論じることはできない。
ミルの霊も「リーダーが次々と輩出される」「仮に間違いがあっても修正しやすい」など、民主主義の利点を挙げて
専制国家との対比を明確にした。
現代の専制国家である中国については、「思想を一元管理するために、警察や軍隊を使って人々を抑え込んで
いるということであれば、無理のあるシステム」「それが他の国に対する脅威にまで発展するのならば、何らかの
防波堤は必要」とコメント。さらに、かつてペルシャ帝国と戦った民主主義国家アテネを例に引き、自由を守るために
戦う覚悟は現代でも必要だと語った。これは、近隣国の脅威に曝されながら平和ボケを続ける日本人への
一喝と受け止めるべきだろう。
霊言の最後、ミルの霊は再び教育論に言及し、変化の激しい現代では、早い段階で学び終えてしまうのではなく、
勉強し続ける忍耐力、失敗から学ぶ力を持ち、勇気ある決断ができるリーダーを輩出すべきだと激励して話を締めくくった。
人間の幸福に立脚点を置き、そこから、自由論、民主主義理論を展開した思想家J・S・ミル――。
その魂は天上界に還ってなお、地上で自由の精神が滅びないことを祈り、我々を見守っているようだ。
現代の人類は、自由を死守し、教育によって個人と社会の智慧を高めてゆくことでその想いに応えねばならない。