先日3月10日は川柳の時実新子先生のご命日(7回忌)だった。
その前日の9日には神戸で、大きな川柳大会(月の子忌)があり、私はもう川柳には関わっていないので出席は遠慮させていただいたのだが、後日その様子をある人から伝え聞いた。
その時聞いた句の中に「友達はいつも平熱ありがたし」(弘津 秋の子)というのがあり、とても印象に残った。
選者は誰だったのだろう、良い選の目を持っておられると感心した。
ほんとうに何かあった時に真っ先に相談したいのは、まさにそのような「平熱の友」である。
こちらの浮き沈みや発熱具合に関わらず、いつものように、ふん、ふん、へぇ~、そうなんや、、などと軽く相づちを打ちながら話を聞いてくれて、最後にはお互いに自然に笑って、まるで何事もなかったかのように普通に話が終わるような、、。
そんな「いつも通りの対応」をしてくれる存在はまことにありがたい。
私自身しょっちゅう落ち込んだり、喜怒哀楽も激しい人間なので、(人からはそう見えないで飄々と何の悩みも無く?楽しく生きてるように思われがちだが)心の中には暴風雨が吹き荒れていたり、「曇り空」の日もけっこう多いのである。
さすがに最近は還暦もとうに過ぎたので、何だかんだといろいろなことがあっても、「まっ、人生こんなものか」とだんだん思えるようになってきた。
第一「悩む力」も失くなって来たせいか、すぐに眠くなって、『さぁ、今日こそは思い切り悩んでやろう!』と身構えていても、いろいろ考え始める前に寝てしまうので、どちらかと言えば私も(低めの体温ながら)おかげさまで「平熱」になってきつつあるのかもしれない。
「歳を取るというのはこういう得をする面もあるのだな」と知ったのである。
ところで、ほんとうにいい友だちというのは、ただ接するだけでこちらまで平熱にしてくれる気がする。
そう思って自分の周りを見渡してみると、私には案外そういう「平熱の友」が多いことに気付いた。
これは意外な発見だった!
もしかしたら自然にそういう友を選んでいるのかもしれない。
けれどもさらによく観察すると、そういう友の中には私よりもずっと熱い情熱がたぎっていて、「内側は熱々のたこ焼き!」のように秘められたものがあり、ただそれを表には出していないだけなのだとわかった。
「いつも平熱の友」というのは、「単にクール」というのとは、ひと味違うのである。
「平熱」という言葉のニュアンスは、あっさりしているとか、淡々としているというのとも、またちょっと違う。この微妙な感じをこの句はうまく表現していると思う。
しかも「いつも平熱」なので、その安心感とか、頼りになる感じとか、、もしっかり伝わってくる。
だからこの句の下五の、「ありがたし」という作者の気持ちもよくわかるのである。
川柳にもいろいろあるが、私はこのような「平熱」の川柳が好きである。
さらに言うなら「人を平熱に戻してくれる」のが川柳の「王道」なのではないかと思う。
熱い川柳、醒めた川柳も好いが、今の時代に必要とされているのは「平熱の川柳」なのかもしれない。
人もしかり。世もしかり。
私も自分自身の「平熱」を忘れずにいたい。
補足(蛇足):ちなみにこの句の作者を存知上げているので付け加えると、彼女は日頃から夫の世話、ご近所の老人会のお世話など、また周囲の誰彼や川柳仲間たちにもさりげない気配りされている人であって、自分自身のことで人に迷惑をかけたり、心配をかけたりするなどということはほとんど無い人だ。
そういう人だからこそ、友だちだけではなく、あの人もこの人も「今日も元気で無事でいて欲しい」と、みんなの「平熱」を願う彼女の優しさも人一倍なのだと感じる。
この句の「ありがたし」という言葉は、決して「自分のために」相手の平熱を願うというのでは無く、もっと深い「みんな元気でいてくれてありがとう!」という、彼女の素朴な感謝の気持ちなのである。
なお、私ならこの「友達」という漢字を「友だち」と、ひらがな混じりの表記にすると思う。
その方が平熱に似合う気がするからだ。
それにしても川柳とはこんなふうに、もう何年も川柳を離れていてさえも、つい、人を「熱く」させてしまうものなのかもしれない。
秋の子さん、句を拝借させていただきありがとうございました♪
その前日の9日には神戸で、大きな川柳大会(月の子忌)があり、私はもう川柳には関わっていないので出席は遠慮させていただいたのだが、後日その様子をある人から伝え聞いた。
その時聞いた句の中に「友達はいつも平熱ありがたし」(弘津 秋の子)というのがあり、とても印象に残った。
選者は誰だったのだろう、良い選の目を持っておられると感心した。
ほんとうに何かあった時に真っ先に相談したいのは、まさにそのような「平熱の友」である。
こちらの浮き沈みや発熱具合に関わらず、いつものように、ふん、ふん、へぇ~、そうなんや、、などと軽く相づちを打ちながら話を聞いてくれて、最後にはお互いに自然に笑って、まるで何事もなかったかのように普通に話が終わるような、、。
そんな「いつも通りの対応」をしてくれる存在はまことにありがたい。
私自身しょっちゅう落ち込んだり、喜怒哀楽も激しい人間なので、(人からはそう見えないで飄々と何の悩みも無く?楽しく生きてるように思われがちだが)心の中には暴風雨が吹き荒れていたり、「曇り空」の日もけっこう多いのである。
さすがに最近は還暦もとうに過ぎたので、何だかんだといろいろなことがあっても、「まっ、人生こんなものか」とだんだん思えるようになってきた。
第一「悩む力」も失くなって来たせいか、すぐに眠くなって、『さぁ、今日こそは思い切り悩んでやろう!』と身構えていても、いろいろ考え始める前に寝てしまうので、どちらかと言えば私も(低めの体温ながら)おかげさまで「平熱」になってきつつあるのかもしれない。
「歳を取るというのはこういう得をする面もあるのだな」と知ったのである。
ところで、ほんとうにいい友だちというのは、ただ接するだけでこちらまで平熱にしてくれる気がする。
そう思って自分の周りを見渡してみると、私には案外そういう「平熱の友」が多いことに気付いた。
これは意外な発見だった!
もしかしたら自然にそういう友を選んでいるのかもしれない。
けれどもさらによく観察すると、そういう友の中には私よりもずっと熱い情熱がたぎっていて、「内側は熱々のたこ焼き!」のように秘められたものがあり、ただそれを表には出していないだけなのだとわかった。
「いつも平熱の友」というのは、「単にクール」というのとは、ひと味違うのである。
「平熱」という言葉のニュアンスは、あっさりしているとか、淡々としているというのとも、またちょっと違う。この微妙な感じをこの句はうまく表現していると思う。
しかも「いつも平熱」なので、その安心感とか、頼りになる感じとか、、もしっかり伝わってくる。
だからこの句の下五の、「ありがたし」という作者の気持ちもよくわかるのである。
川柳にもいろいろあるが、私はこのような「平熱」の川柳が好きである。
さらに言うなら「人を平熱に戻してくれる」のが川柳の「王道」なのではないかと思う。
熱い川柳、醒めた川柳も好いが、今の時代に必要とされているのは「平熱の川柳」なのかもしれない。
人もしかり。世もしかり。
私も自分自身の「平熱」を忘れずにいたい。
補足(蛇足):ちなみにこの句の作者を存知上げているので付け加えると、彼女は日頃から夫の世話、ご近所の老人会のお世話など、また周囲の誰彼や川柳仲間たちにもさりげない気配りされている人であって、自分自身のことで人に迷惑をかけたり、心配をかけたりするなどということはほとんど無い人だ。
そういう人だからこそ、友だちだけではなく、あの人もこの人も「今日も元気で無事でいて欲しい」と、みんなの「平熱」を願う彼女の優しさも人一倍なのだと感じる。
この句の「ありがたし」という言葉は、決して「自分のために」相手の平熱を願うというのでは無く、もっと深い「みんな元気でいてくれてありがとう!」という、彼女の素朴な感謝の気持ちなのである。
なお、私ならこの「友達」という漢字を「友だち」と、ひらがな混じりの表記にすると思う。
その方が平熱に似合う気がするからだ。
それにしても川柳とはこんなふうに、もう何年も川柳を離れていてさえも、つい、人を「熱く」させてしまうものなのかもしれない。
秋の子さん、句を拝借させていただきありがとうございました♪