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1995年の阪神淡路大震災がきっかけとなり自動書記で突如絵を描き始める 絵の仕事は26年目 ブログ光のチャレンジは11年

★ イエスは二人いた!?

2016-09-12 | 希望の光
ブログ「光のチャレンジ」に本日も遊びに来てくださってありがとうございます♪

皆さんは他にどんなブログをご覧になっておられますか?

私が最近一番びっくりしたのは「希望と喜びが溢れるJES社長のブログ」です。

なぜって、今連載されている「ヨシュアの物語」が、もうぶっ飛びの超凄過ぎる内容だからです。

この話が事実ならキリスト教世界は崩れる!!!とマジ思いました。


以前から「天下泰平」さんのブログでも「イエスは双子だった」という説が紹介されていて、

実はイエスは死なずに生き延びて日本に来ていたとか!? 日本で死んだとか。

そして十字架の刑で死んだのはもう一人の兄の方だった、、というような、本当に驚くような内容でしたが、

私は半信半疑で読んでいました。


なぜならもしもイエスが死なずに「身代わり」が死んだ!?のだとしたら、神の計画は一体何!?という疑問があったからです。
またその「双子説」ではいろいろ不自然なところや矛盾するところも無いとは言えないからです。


ところが、JES社長さんの物語では、双子では無く、兄と弟(ヨシュア=イエス)とは4つ違いで、その二人の父親は誰かということまで、はっきりと明らかにされていて、年号とかも合うし、いろんなつじつまが合うのです。

マリアは決して処女懐胎では無かったのです!!!

私はこれまでマリアは、いわゆる宇宙人に例えば現代の「代理母」のような役割をさせられて? 進んだ科学技術でその子宮に「種」(後に「イエス」となる受精卵)が挿入されたのかな?というふうに考えていました。

皆さんはどんなふうに理解されていたでしょうか?


今、この話は第8話まで掲載されていますが、ぜひ最初の1話から、たくさんの人に読んでもらいたいと思いました。


どんなミステリー本にも負けないぐらいワクワク、ドキドキ、スリルがありますよ。

一番のスリルは、この物語を書いているブログ記事そのものが、いつ削除されるかわからない点です。

また、こんなことを書いているのが見つかったら(誰に!?)誰かにもしかしたら妨害を受けたりして!?
これ以上書き続けられなくなるかもしれないからです。

なので、更新される度に飛びつくようにして読んでいます。

 ☆ 希望と喜びが溢れるJES社長のブログ ー ヨシュアの物語 ー


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ところで、規模は全く違いますが、なぜか私にも突然メッセージ!?が降りて来て

最近ふと、ある聖書の一節の解釈について、これまで思いもしなかったような考えが浮かんで来たのです。

それは、(新訳聖書「マルコによる福音書」の中で)イエスと弟子たちが最期の晩餐をして、さんび歌を歌った後、オリブ山へ出かけて行ったときに、ペテロとの間で交わした有名な会話です。

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イエス 「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。」云々。

(中略)

ペテロ 「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」

イエス 「あなたによく言っておく。きょう、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そう言うあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう」。

ペテロ 「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。

みんなの者もまた、同じようなことを言った。


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この問答の結果がどうなったかについては、よく知られている話ですので、詳細は省略しますが、

このペテロのイエスに対する「裏切り」を私は自分のことのように恥ずかしく感じ、ペテロの信仰やイエスへの忠誠?も、結局はみんな偽物だったのだなと慨嘆していました。

ペテロのしたことはユダよりももしかしたらもっとひどいことなのではないか!?とさえ思っていたぐらいです。

そして、この「耳に痛い話」(心の傷む話)は、ずっと刺さったままの「棘」のようにこれまで長年私の胸に残っていました。


これは「決して裏切ってはならない」(自分の言ったことは必ず守らなければならない)という重い「教訓」のように感じていたからです。


けれども、これはもしかしたらペテロの「恥」でも落ち度でも未熟でも何でも無く、

これこそがイエスの「愛」であり、

人は誰でもその場になってみなければわからないことがあるのだから、先に断言したり、誓ったりしたことをたとえ守れないことがあってもいいのだということ。

そして、それは決してイエスへの裏切りなどでは無く、その時、その場で違ったことを言ったりして、たとえ約束通りの行動が取れなくてもいい(ゆるされている)のだということ。


それが「イエスの伝えたいこと」(変化することは決して悪いことでは無く、人はそもそも変化する生き物=自由な存在 )ではないかと感じたのです。


ただ、「人は自分がそういう人間存在であること(変節することもあり得るのだということ)を知らずにいる」

だから(人は自分はちゃんと思った通りに行動したり、言った通りに未来もその通りに出来ると思っている)のかもしれません。

そのことをイエスはペテロに教えたかったのではないでしょうか。

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「人は時空から自由な存在であり、その場その場で変化することは間違ったことでは無く、むしろそんなふうにその時その時に感じるままに語り、直観で行動していいのだ」ということを

イエスは教え諭してくれているのではないかと・・・

そんなふうに感じたのです。



あの時ああ言ってしまったから、その通りにしなければ、、と自分を縛る必要は無いし、約束を守れなくてもかまわない、、人はそれ以上にもっとフレンキシブルで、自由な存在なのだということ。


その時、ペテロが(たとえ怖れからであったとしても)イエスのことを「知らない」と言ってその場を逃げ去ったとしても、それによって、いのちが助かり、ペテロが生き延びたのだとしたら、ペテロはある意味で賢明であり、

イエスはペテロに共に死んで欲しいと期待していたわけでは決して無く、むしろ弟子が一人でも助かったことを幸いと思いこそすれ、決してペテロを「卑怯者!」と呼んで非難することはしないに違い無い、、。

そもそも、最初からイエスは「誓いを守りなさい」ということを、弟子たちに学ばせようと思っていたのでは決して無いと思います。


それよりもむしろ、いつも全てから自由でいなさい・・・誓ったり、約束したりしても守れるとは限らないのだから。

自分とはそういう人間なのだということを、ただ「自覚」していなさい。



以前とは違うことをしたり、言ったりしても、そのことで自分を責める必要は無く、むしろ自分が全てから自由であり、

「自分で自分の言葉に縛られる」ことも無く、また誰かとの約束や誓いに縛られるようなそんな小さな存在では無いのだ、人間は。
(たとえ相手がイエスであろうと、大恩のある人であろうと、神さまであろうとも!?)

人はもっともっとそれ以上に大きな偉大な存在であることを喜びなさい・・・

あなたがたはそういうふうに創られているのだから。



ということを、イエスは伝えてくれている氣がしたのです。


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なぜ、突然にそこんなことが思い浮かんだのかは全くわからないのですが、

JES社長さんのブログとの「共時性」なのかも?しれません。 


JES社長さんのブログ記事を読んで、皆さんはどう感じられるでしょうか?
ぜひとも JES社長さんのブログへ「ヨシュアの物語」の感想を送ってあげて欲しいです♪ 

そしたらもっともっと隠された壮大な話を聴かせてもらえるかもしれません☆ 


長文を最後まで読んでいただきありがとうございました♡ 




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