欧州とアジアの間に現れた、強勢を誇る軍営の宗教が無かった場合の世界を考えてみたい。 産業革命以降、中世の支配者・オスマン帝国も領土を蚕食される一方となり武器性能が飛躍的に向上した欧州世界が広く全地球を植民地・半植民地化していった。 近代のこの例から判断しても差別・弱肉強食の原理で動く百獣の王を脅かすライバルがいなければ、世界各地がより広範に引っ掻き回されたであろう推測は容易だ。生まれる場所が悪ければ私達も白人様に砂糖・タバコを献上するためだけに無賃金で酷使され人生を終えていたかもしれない。 キリシタン狩りをしていなければ今ごろ日本はスペインの植民地だった - 朝鮮歴史館 その先にもはや白人支配を阻む何物も存在しないと思われた時代、日本がロシアを破る激勝の報にアフリカ・イスラム世界は歓喜に沸き返ることになる。 アジア侵略に起因する戦後世界の一斉独立 悪者呼ばわりされてはいても私達は平等・共生の世界という理想を掲げた日本の先人の心を忘れる事はできない。そして特定の宗教のみを導くアンフェアな神を描く新約聖書の病理を暴き出す事が、痛みの時代の真の回顧になる気がしている。
7世紀にエルサレムを征服したカリフ・ウマルはユダヤ教徒・キリスト教徒を庇護民(ズィンミー)に置いた(ウマル憲章)。現世界がアラブ(イスラム)vsイスラエル(ユダヤ)に見えたとしても、両者が20世紀までミッレトの下摩擦の無い世界で共存共栄を果たしてきた事は忘れてはいけないと思う。紀元前に既に"神とはユダヤ人だけの神ではない"事を思い知っているユダヤ人が独善的に国家を建てる訳がない事実も。 オスマン帝国が欧州に向かって領土を拡大するなど社会の恥部・世界の恥部に厳しいイスラム圏の有益な怒りがいかに異教信仰を壊滅させる暴風雨を消霧させたかの比較宗教の視点に立つならば、日本人にとっては未だ"訳の分からない"中東の宗教に対する理解は立体的に膨らんでくれるだろう。 「われらはただ全世界への慈悲として、汝を遣わしただけである。」(コーラン21:107) 画像借用元: Ricochet.com |
マホメットの十数年間の忍耐が実り始めていた頃、イスラム教の成長と共に メッカのクライシュ族の反発が強まっていた。身の危険を感じたマホメットは622年7月16日、メッカの北部320kmにあるメディナに避難する。 (ヒジュラ: 聖遷) その後隊商路の封鎖措置で飢餓の脅威に直面したマホメットは幾度か隊商の略奪を企て、メッカ側の怒りは沸点へ。イスラム暦(ヒジュラ暦)二年、遂に武装したクライシュ族一千人がメディナに向かって進軍を始めた。 *以下緑字は『マホメットの生涯』(ビルジル・ゲオルギウ著 中谷和男訳 河出書房新社)、白抜きは『燃えるイスラム史』から転載 バドルの戦い(624年)
イスラム教最初の武力的勝利 アラブ恒例の一騎討ちにアリー、ハムザが勝利し作戦と士気に勝るイスラム軍が奮闘する。メッカ側はそれぞれ約70名の戦死者と捕虜を出し敗走、ムスリム側の死者は14名に過ぎなかった。ハディースその他の伝承はこの圧勝に天使による加勢を伝えている。 死体を略奪しようと砂丘に身を隠していた二人の戦場荒らしは、天から雲が地に降りるのを目撃した。「砂丘にいたのですが、雲が俺たちに近付いてきたのです。馬のいななきも聞こえました。その上、突撃!という叫び声も耳にしたんだ」 雲から、武装した天使たちが降り立つ。ある者は馬にまたがり、また徒歩の天使もいた。鮮やかな羽飾りの冑をかぶり、天使の軍勢が天から降り立つのを見て、泥棒の一人は感動のあまり悶死する。 目撃者によれば、天上軍の数は五千程とのことだが、正確ではない。敵に見られることなく異教徒を斃すため天使の中には姿を現さない者もいたからだ。 ウフドの戦い(625年) 翌年、約三千人からなるメッカ軍が再来。ウフド山に迎え撃ったムスリム軍は優位に戦闘を進めるも、弓兵隊の命令違反から背後を突かれ壊走。ハムザを含む約70名の戦死者を出し、敗北を喫した。メッカ側の死者は22名。ハンダクの戦い(627年) メッカ側は次いでムスリム根絶を目指しアラビアの諸侯、ユダヤ教徒を加えた一万人の大軍と共に出陣。三千人のイスラム軍はペルシャ人技術者サルマーンの提言を採り入れ塹壕(ハンダク)を築いて対抗した。メッカ軍はアラビアの戦争において前例のない塹壕を攻略できず、6名の敵を倒しただけで撤退。この戦いでメッカの権威は失墜しイスラム教の勢力は日増しに拡大していった。 メッカ征服(630年) クライシュ族との間で締結されたフダイビーヤの休戦協定が破棄された630年、マホメットはメッカに向かって進軍を開始。クライシュ族は抗戦不可能と見て遂に軍門に下りメッカは無血で征服された。マホメットはカーバ神殿の偶像を破壊、群雄割拠の半島にアラビアの部族を熱烈な精神で鼓舞し一致させる新秩序を吹き入れる事となる。
イスラム教の大征服(632年~) 預言者の死後、イスラム教は2代目カリフ・ウマルの時代にシリア、トルコ、イラク、イラン、エジプトにまで侵攻、戦いはいずれも連戦連勝であった。3代目カリフ・ウスマーンの時代には長年ローマ帝国に対して優勢を保ったササン朝ペルシャ(226-651年)が滅亡。短期間のうちに出現したイスラム帝国(サラセン帝国)はキリスト教が欧州全体に根付く8世紀にはイベリア半島(スペイン全土)を覆い、欧州諸国にとって脅威以外の何物でもなかった。 キリスト教への警告 イエス(イーサー)を敬うべき預言者としているイスラム教のキリスト教への仲間意識は強い。しかしコーランはキリスト教の教義の中核は割とはっきり否定している。中でもローマ帝国の都合で忍び込んだ異教との習合要素への批判は厳しい。キリスト教は思い違いをし、失敗しているのである。
さらにイスラム教の信条によればアダムの罪は既に赦されている。 イエスはアッラーが処刑前に別人にすり替え(贖罪はない)、イエスを磔にする姦計は失敗していたのだ。
「災いあれ、自分の手で啓典を書き、僅かな代償を得るために、「これはアッラーから下ったものだ。」と言う者に」(コーラン2:79) 「彼らの中には、自分の舌で啓典をゆがめ、啓典にないことを啓典の一部であるかのように、あなたがたに思わせようとする一派がある。また彼らは、アッラーの御許からではないものを、「それはアッラーから来たものだ。」と言う。彼らは故意にアッラーに就いて虚偽を語る者である」(コーラン3:78)
15世紀以降この非人間的な質疑応答の下、貿易といえるものではない凄まじい略奪がイエス・キリストにちなんだ名前の宗教によって行われた。選民意識に力付けられた西洋人の頭に残念ながら異教徒・非白人は隣人・同等の人間として映っていなかったのだ。 そんな陰惨を極める人類史の中でも僅かにきらりと光った希望は、7世紀に既に迷信も程ほどにしろという啓示を受け取った怒れるキリスト教の兄弟が派生し無統制な西洋の倫理と戦いながら、地上に新しい信仰を広め人間行為の全般に渡って一つの革命をもたらした点である。 国際商業都市でそこそこ成功していたマホメットは、突如茨の道へ引きずり出され、安楽・財産・友人関係の犠牲の上に神の道具としての役割を強いられた。そして最後の預言者として使命を全うした。イスラム教ではそう考えている。 「私は私の任務を果たしたのでしょうか? おお神よ、その証をお示し下さい」 マホメット"別離の説教"から 画像借用元: The Islamic World to 1600 Islamic History 世界の国旗一覧 燃えるイスラム史 関連記事: 神々のブレンド |
欧州が地球上の「悪」の拠点と化していく事で、キリスト教を弾圧したローマ人がその賢明さを証明しつつあった時。 ローマ人キリスト教への防壁として下された天の啓示がイスラームであったと言っても、それに合理的疑念を挟ませない程の歴史的裏付けは取れない。7世紀の預言者は何を見て、イスラームを興したのだろうか。 *以下緑字は『マホメットの生涯』(ビルジル・ゲオルギウ著 中谷和男訳 河出書房新社)、白抜きは『燃えるイスラム史』から転載 ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ (570年頃-632年) イスラム教の開祖。アラビア半島メッカの支配部族・クライシュ族の名門ハーシム家に生まれる。モーセ、イエスその他に続く最後の預言者とされる。 洞窟の啓示(610年)
光が降り注ぐ啓示にマホメットは狼狽し自身が悪魔にとり憑かれたようだと錯覚してしまう。その動揺を救ったのは15歳も年長の妻ハディージャの機知だった。 「私がひとりとなると、たちまち『おお、マホメット、おお、マホメット』と呼び掛ける声が聞こえた。私が天の光を見るのは、夢の中ではない、すっかり目覚めた時なのだ。眼に見えぬもの、やがて起きることを知っていると言い張るあの偶像や魔法使いどもを、私はこれまで嫌悪してきた。その私が、今、魔法使いになってしまったのか。私を呼ぶ者は悪魔ではないのか」(バラドゥリ『年代記』) 天使が姿を現したら、すぐ呼ぶようにとハディジャはマホメットにいう。マホメットは妻に叫んだ。天使が彼の側にいて、光り輝き、語りかけるのだ。ハディジャは、右膝の上に座るよう夫に命じた。彼は妻の右膝に腰をおろす。 「まだ天使が見えますか」とハディジャは問うた。「うん見える」とマホメットはいう。彼女は膝を変えるように命じ、「私の左膝にお座りなさい」彼は従う。 「やっぱり天使はいますか」「まだ見える」とマホメットは答えた。 ハディジャは衣服を脱ぎ捨て素裸になり、マホメットにも裸になるよういった。そして、彼女の体に腕を回し、力一杯抱き締めるようにいった。マホメットは従った。「これでも天使は見えますか」 「いや」と彼は答えた。「天使はいなくなった」 ハディジャは衣服をつけ、夫にいう。「あなたに語りかけたのは、やはり天使です。悪魔ではありません」 彼女の説明によると、それが悪魔だとすれば、裸の妻が夫を抱くのを見て、心を乱すことはない。一方、天使は内気で、みだらな光景には耐えられない。はにかんで、そっと姿を消したのを見ると、それはまさしく天使であり、悪魔ではないというのだ。これで証明された。 ハムザの改宗(615年) 天使の命を受けて始まったマホメットの宣教は困難の連続だった。親族は改宗に応じず、無視と嘲笑、次第にメッカの宗教を貶す説教には部族社会からの罵倒が強まり始めた。相次ぐ暗殺未遂事件でマホメットは血まみれになり、ハディージャの子ハリト(前夫との子)が最初の殉教者となった。格闘家にして騎士、マホメットの叔父ハムザは或る日、預言者の敵アブー・ジャフルがマホメットを殴った話の顛末を聞かされた。宣教には反感を覚えていたハムザであったが、親しい甥が虐げられた事に激昂、カーバ神殿まで行き、座っていたジャフルの頭にいきなり弓を叩きつけて、こう言い放った。 「マホメットが一族から見棄てられるとでも思っているのか。よく聞け。今日からおれは、彼の宗教を受け入れたぞ! おれはイスラム教徒になる。もし、お前にしろ、他のやつらにしろ、イスラムを攻撃する勇気があるやつは、おれにかかってこい!」 この瞬間から、信徒の中に騎士が加わる。彼は、アリと共に戦場を駆けめぐり一騎打ちにたけ、恐れを知らぬ騎士として、アラーの栄光を地上にもたらすこととなる。 ウマルの改宗(615年)
ウマル(オマル)は家に入るにも屈まねばならない、豪胆直情な大男。騒乱の種であるマホメットを始末するためムスリムの集合場所に向かっていた。途中の道で出会った男(ムスリム)が企てに気付き、ウマルに言った。 「最初に君の一族に異端者がいないか心配したらどうだい」 ウマルは尋ねた。「俺の一族とはどういう意味だ」 「君の妹ファーティマと夫のサイードがそうじゃないか」 怒り狂って踵を返したウマルが妹夫婦の家の前に着くと、ちょうど家の中からコーランを吟唱する声が聞こえてきた。これを耳にするとウマルは激怒して、家に入り2人が血だらけになるまで殴り続けた。 しかし妹ファーティマは殺されても棄教はしないと言う。いささか冷静さを取り戻したウマルは、その宗教心に打たれ、読んでいたものを自分にも聞かせるよう求めた。読誦されたのはコーランの20章であったと言われている。
「驚くべき崇高さだ!」 オマールは妹夫婦をかき抱き、赦しをこうた。そして直情怪行な彼らしく、ただちにイスラム教徒になると宣言するのだった。 コーランは無数の脚韻を踏み、文飾、詩的な趣が聴く者の心を惹きつける。彼は世界で四十番目のイスラム教徒に改宗した。悪魔も恐れおののく男ウマル=ハッターブ(後の2代目カリフ)の改宗により活気付いたムスリム達はカーバ神殿で堂々と礼拝を行うようになった。 (以下続く) マホメットが意図したのは新宗教の樹立ではなく、古き真の神に由来する宗教の復興、即ち一神教徒の怠慢によって舞い込んだ“加筆”の削除だった。 「預言者なんて嘘」 批判的な見方がキリスト教側には常にあるが、新生カトリックの粗末さゆえに宛がわれた兄弟としてのイスラム教の側面は小さくないのではないか。コーランの教説は旧約より新約聖書の方に土台を持っており、マホメットの信仰に影響を与えていたのはマリアの偶像化・聖人崇拝を嫌ってローマ帝国を追われた(431年)キリスト教ネストリウス派であった。
全世界の侵略と莫大な個人の富の夢に適した宗教にヨーロッパが包装し直された時、アラビアの部族を一つの信仰に団結させる砂漠の巨人が立ち現れ、東西に広く版図をとり白人種を長く欧州に押し込め続けたのは歴史の偶然として片付けられるのだろうか。 画像借用元: 世界史地図理解 宗教史授業シリーズ |
ローマ帝国の監視・防衛機構として新生カトリックが発足すると(4世紀)、全般的な目的と構想の下に教義は解釈し直され「原罪」は地中海沿岸の人々を繋ぐ楔(くさび)、「罪の赦し」は改宗者に下る皇帝からの赦しとなった。
人類始祖の堕落を数千年も後になってから贖う滑稽さは江戸時代の学者・新井白石にも「赤子のたわ言」と一蹴されている。 『デウスこれをあはれむがために、自ら誓ひて、三千年の後に、エイズスと生れ、それに代りて、其罪を贖へりという説のごとき、いかむぞ、嬰児の語に似たる』(『西洋紀聞』) 新井白石と天地創造。
このダビデの話(サムエル記I 21章)が安息日の出来事だったとはどこにも書かれていない。この強引な解釈の中にイエス=ユダヤ人の願望なる新モーセが表現されているのが垣間見えるだろう。旧約と新約では神が見事にイメチェンを果たしているのも興味深い。 「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう」(マタイ12:7)
キリスト教の言う"天国"は無益な愚考だったかもしれない。 しかしキリスト教の地獄は十分に本当だった。“終末の再臨”はユダヤ人を解放したペルシャの思想の複製に過ぎず、万人に神性の体験の普遍性が吹き込まれている以上、再臨は特定の人物に倣わなくても良い。
「詩篇に、『その屋敷は荒れ果てよ、そこにはひとりも住む者がいなくなれ』と書いてあり、また『その職は、ほかの者に取らせよ』とあるとおりである」(使徒1:16-) 引用元 「彼らの宿営は荒れ果て 天幕には住む者もなくなりますように」 (詩編69:26) 「彼の生涯は短くされ 地位は他人に取り上げられ」 (詩編109:8) これをユダの預言の成就だと言って聖書を盗み去ってしまうモラルの野蛮なキリスト教書記が語る“聖霊”もいかがなものか。 地中海を出た原罪の全世界的な適用が後世キリスト教の恐喝的な伝道に根拠を与え続けたことは言うまでもないだろう。 アメリカの征服 http://www.hpo.net/users/hhhptdai/kyoukaihanzai.htm ハツアイ(Hatuay) と言うインディオ族長は、火あぶりになる前に宣教師から「洗礼を受ければ天国に行けます。洗礼をしますか。」と聞かれた時、天国にはキリスト教信者がいるのかと質問しました。「勿論」と宣教師が答えると、「じゃ、結構です。そんな残酷な人と一緒になりたくない。仲間のいる地獄の方がいい。」と断りました。(ドイツ新聞taz,1987・2・21からの引用) ハツアイ族長の様な反応から、当時のクリスチャンはインディオ達が無知の悪魔族だと確信しました。 さて、ローマの世界を汚染した狂的信仰の環境から他力本願・敗北者主義・各地に進出して行く性向の残忍な迷信が欧州一帯に広まり出すと、全世界がキリスト教の一元的支配に屈するのは最早時間の問題と思われた… 画像借用元: Chuck Boening's History Web Site 関連記事: パウロ教 |
ローマ帝国が抑圧に困ったキリスト教を統治機構の内に取り込むまでの経緯を最後に確認しておこう。ローマ帝国の東端で生まれた新宗教は4世紀の為政者にその高い組織力が着目される頃までには、無知な一般レベルへの適合に長けた西洋人キリスト教への奇怪な変形を遂げていた。
コンスタンティヌスの過失は、キリスト教の美しい"人道主義"の覆いに隠された偏狭さ、凶猛性を見抜けなかった点にあろう。異質なものとの共生ができない未熟で不名誉な装置を後世に残す事になるとは、考えもしなかったのではないか(母はキリスト教徒だった)。哲人皇帝ユリアヌスはそのコストを見抜き、ローマの美術品を破壊するキリスト教徒に怒りの目を向けた。
コンスタンティヌスの生涯の信仰が不敗の太陽神ソルと共にあった事は念頭に置く必要がある。彼は2体の像を造り1体は母神キュベレ、もう1体は自身に似せたソルだとした。彼のコインにも“不敗の太陽神(SOLI INVICTO)”の文字が刻まれている。 死に際してコンスタンティヌスはキリスト教の洗礼を受ける。彼は崩壊して行こうとする落日のローマ帝国の再建をキリスト教に託すのである。 画像借用元: Ancient Coins Chronicles |
原始教会ないしエビオン派のパウロへの反発は"「復活」がイエス信仰の発端ではない"事実を逆説的に浮かび上がらせている。「神の子」としても「メシア(ユダヤの王)」としても発生したとは思えないイエスへの信仰は、何故ユダヤの地で発祥していたのだろうか。その原初の姿を追ってみたい。 紀元後1世紀、パレスチナの村落共同体は、新たな支配者のローマ帝国に組み込まれ、政治、経済、宗教、文化のグローバリズムに晒されて困窮化の一途を辿った。重税で借金漬けになった農民は土地を取り上げられ、家族も解体して流浪化し、「ローマの平和」は実に過酷で、… http://kgur.kwansei.ac.jp/dspace/bitstream/10236/7330/1/20110428-4-5.pdf 2千年前のユダヤ世界では新たに流入したローマの支配体制の下で貧困と律法(宗教的戒律)によって苦しむ人々が増え続けていた。 野蛮なローマ帝国(共和国)は植民地に飢えており、巨大な軍事・官僚機構を抱え重税が基本。その重圧が上流階級(サドカイ派)でも中流階級(パリサイ派)でもないユダヤ教徒貧民層に時代の要請に応じた救世主(み言葉)への需要の手を呼び起こしていたのではないか― イエスの実像をある程度そこに洞察することができると思う。 世界史講義録 http://www.geocities.jp/timeway/kougi-18.html 極端に言えば救われるのは金で戒律を守ることのできる人だけになる。そして、ローマの支配下で重税をかけられて、貧しい人々がどんどん増えていたのが当時のパレスチナ地方です。 こういう状況の中で、イエスが登場して民衆の支持を得る。イエスが何を言ったか、もう想像つくでしょ。かれは、最も貧しい人々、戒律を破らなければ生きていけない人々、その為に差別され虐げられた人々の立場に立って説教をするんですね。戒律なんて気にしなくてよい。あなた方は救われる、と言い続ける、それがイエスです。 パレスチナの混乱
1世紀には熱狂的なユダヤ原理主義(ユダヤ・ナショナリズム)が吹き荒れていた。伝統的戒律を乱す異端的集団への厳しい追及が必然的に起こり、迫害はやがてユダヤ教とキリスト教の分離を決定的にするのだった。 その過程の中ですべてが既存の異教神話が混入したと私は推定している。エジプトの有名な神を拾い上げている点でも(母イシスは2世紀以降ローマ全土で信仰された)初めから実在した神話としての実現は想定しておらず、それよりは早くユダヤ教の亜種を始めたい人々がいた事情を窺わせる。 イエス派ユダヤ教がローマ帝国内で睨まれるキリスト教運動の段階に引き上げられた頃には、宣教者達は原始福音に背を向けていたのだ。 http://www31.ocn.ne.jp/~fellowship/act_08.htm ステパノの殉教から始まった教会への迫害は、宣教を拡大させるものとなった。… 宣教の舞台はエルサレムとユダヤを離れて、異邦人世界へと大きく展開していく。 ・膨大になった律法と教条主義の行き詰まり ・憐れみ・善意を疎かにした宗教エリートによる「差別」 ・ヤハウェ=家父長的な原理への追従の限界 イエスの説教から幾つかの方向性を導き出せば、2千年前のユダヤ世界の諸問題に対応している事が分かる。イエスは或いは厳罰で共同体を支配する父性の神に抱き合わされた花嫁的存在でもあったのではないだろうか。 現在のキリスト教はパウロによる所が大きいが、初めの数百年間、救いの為にはユダヤ教徒でいる事を求めた"ユダヤ教内イエス信仰"がなお存続し、原初の光を放ちながら歴史の表舞台から姿を消して行った事は注目に値する。「イエスが架空の存在であれそんな事では揺るぎもしない」 それが最古のキリスト信仰であったろう。 画像借用元: The Roman Empire The World's Best Photos 関連記事: 誰がキリスト教を始めたのか |
数多の偽書を生んだキリスト教の初期にはより多くのキリスト教分派が存在した事が知られている。 乱立するキリスト教集団は自身の教義に沿う正典を独自に護持していた。パウロを"無知"と断じたクレメンス文書も信奉され、パウロの名声も一様ではなかった。初期キリスト教はどんな集団だったのだろうか。
異端とされたグノーシス派でも、今日のキリスト教の様な低俗な思想ではなかった。キリスト教グノーシスでは復活信仰では救われず、イエスが語る神智を自力で解明する者だけが救済に与ることができる。 “カトリック”(普遍)としてローマ帝国に認められた一派は、ローマ周辺で勢力を保っていた集団だった。またユダヤ的要素を(旧約聖書ですら)廃していたマルキオン派も同じく、西側のローマ周辺で勢力を築いた一派だった。 考えてもみていただきたい。開放的なラテン人に、ユダヤ人の緻密で地下的な世界が理解しうるものだろうかと。 宗教熱心な今の米国人にはモーセ五書、十戒はおろか、四福音書さえも言えない人が少なくない。大味な西洋人の民族性に合うのは、叡智と実践を犠牲にしながら一般化されたパウロ思想だけであったのかもしれない。 最近千年間のキリスト教が1億人以上を殺害・奴隷化した事実に鑑みる時、皇帝権威/公会議によって一掃された宗派こそ本物のキリスト教であり、現代まで君臨したのがローマの男神崇拝、女神崇拝の換骨奪胎でしかなかったという結論に異論を差し挟める人はいないだろう。 画像借用元: 聖書の民 横浜金沢みてあるき 白地図、世界地図、日本地図が無料 参考文献: 『キリスト教成立の謎を解く』 バート.D.アーマン著 津守京子訳 柏書房 関連記事: 異端問題と新約聖書 |
モーセ五書(トーラ)の作者がモーセであるというイエスら昔のユダヤ人が信じていた説は現代聖書学ではほぼ否定されている。 旧約聖書成立の概要 コヘレトの言葉(伝道の書)も、前10世紀のソロモンではない誰かが600年以上後の時代に記したらしい。 紀元前から文書偽造を領分としていたユダヤ人は、キリスト教世界では反論、問題解決の為に文書を使った。そしてそれらは使徒によって書かれたものだとした。正典入りしなかった外典の中にも一読の価値のある物が多い。
パウロから始まる様々な手紙・福音書は、“聖書”に比肩する物として書かれた訳ではない。あくまで外典・参考文献的であった文書群を旧約聖書にドッキングさせたのは、ローマ帝国の政治の安定の為であった。 それを「神の言葉」だと言うなら、キリスト教が今もローマ皇帝の前に跪いている事実を受容せねばなるまい。 参考文献: 『キリスト教の創造』 バート.D.アーマン著 津守京子訳 柏書房 |
ここにあるような検証は勿論いつの時代でも可能だったが、迷惑な事に、新約聖書はそう遠くない時代まで見ずに信じた人々による傲慢・侵略戦争・ユダヤ人迫害の隠れ蓑とされて来た。人類史の汚染源となった残りの文書も概要を纏めてみたい。
聖書訳文: 新共同訳 関連記事: 神々のブレンド |
現実の歴史ではない福音書の中でも発生の遅い『ヨハネ』の特徴は一層の史実性の薄さ。イエスの生涯の中で圧巻である"ラザロの復活"が先行する福音書に全く登場していない時点で話が創作だと見抜けなければならない。
画像出典: 関連記事: 史実ではないキリスト教2 |
『マタイ』は不当な脚色を加えたために叙事の正確性が疑わしい物になってしまった。『ルカ』+『使徒行伝』(ルカの第2巻:文体、語彙、序文が類似)も同様に不安定な存在を確立している部分に触れてみたい。
『使徒行伝』は他にもパウロの真筆と食い違う部分が多く、記述の正確性が疑問視されている。『使徒行伝』のみを典拠とする事実 ・パウロがタルソス出身であること ・ローマ帝国の市民権を持つこと ・テント造りが生業であること ・エルサレムで逮捕され投獄されたこと― 等について批評家は懐疑的だという。 画像出典: Cherished Travel 関連記事: 福音書の神話的アイデア |
マタイ福音書の特徴と言えば、旧約聖書の言葉を盛んに引用して“旧約預言の成就”としてのイエスを描く事に腐心している点にある。 しかし敬虔な不正行為が発覚した「14世代作戦」同様、熟読すると頓珍漢な聖句引用の繰り返しが目立っている。自慢気に披露された偽りを並べてみよう。
マタイの加筆: 墓を見に行った女達
十字架の場面
『マタイ』は『マルコ』を下敷きにして書かれた事が通説であるため上記はマタイの加筆になる。最もユダヤ的な良書とされる『マタイ』でも、ギリシャのロマンチックなフィクションと競合した跡を残しているのだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ バビロン捕囚を解放したペルシャ王キュロス、神殿を再建したゼルバベルが聖書内でメシア(油の子)視されているのはユダヤ教のメシア観を良く表している。 (イザヤ書、ゼカリヤ書) 「主は油注がれた者キュロスに、こう仰せられた」 (イザヤ45:1) 政治的に無名で、ローマ帝国からの解放と王政復古の率先者でもない男に関するメシア預言がある筈もなく、恐らくマタイの目的の為には、使えそうな記事を適当にイエスに切り貼りするよりなかった。その中に聖書の盗難を訴えるユダヤ教徒を納得させるような物は残念ながら1つもないだろう。 1世紀に実在の物証が皆無である急造救世主の悲劇の構成の露出は、キリスト教の諸設定が自らの宗教を広めたいヘレニスト達による神聖なでっち上げに過ぎなかったという結論をいよいよ不可避にしているように思われる。 画像出典: CoolChaser 関連記事: イエスは史上実在したのか |
福音書は多様なキリスト教集団が問答集や宣教文書として保持していた代物で20種類以上が知られている。 "史実"を記録した書物とは言い難く、熟読すると各派の言いたいようにイエスの口が操られているのが判る。異なるイエスの家系図を書いた2つのグループの福音書を比較してみよう。 ■聖書が完璧ではないわけ(聖書が人間の書物であるわけ) - 三十番地キリスト教会
『ルカ』のイエスの血統はアダムまで遡る壮大な系図だ。旧約聖書に通じた集団を相手にした『マタイ』とは違い、アダムやアブラハムを知らない異邦人にもイエスが広く人類の救世主である事を周知しているように見える。(もっとも処女懐胎のためナンセンスな連結だが…) 「このアダムは神の子である」(ルカ3:38) 旧約の引用が『ルカ』より正確な『マタイ』はアブラハム→ダビデ→バビロン移住→キリストが各14世代で移行したと主張する。つまり旧約の神の計画によってキリストが誕生したその正統性を(ユダヤ教徒にまで)誇示しているようだ。 ところが、最後の区間は13世代しかいない。また旧約聖書をお持ちならこの系譜の偽善的な操作を確認できる。 ヨラム-ヨタム間(ヨラム-ウジヤ-ヨタム)は『歴代誌I』3章では6代(ヨラム-アハズヤ-ヨアシュ-アマツヤ-アザルヤ-ヨタム)だ。(ウジヤ=アザルヤ(参照:歴代誌II26:1)) エコンヤの父も本来の「エホヤキム」を削除して、計18代の系図を意図的に4代カットしているのだ。 両者共旧約の人物ゼルバベル(BC597~)を経由している。ゼルバベルはバビロン捕囚解放後ペルシャ王キュロスの資金援助で第二神殿を再建(BC515)した功労者だが、『マタイ』がイエスまでの約600年を11代で繋いでいるのはいかにも苦しい。ここは20代を挟んだ『ルカ』の方が妥当性があるだろう。『マタイ』は14に拘るあまりここでも自滅しているように見える。 信じやすい異教徒のためのゴスペル 福音書は彼らの教祖を信じさせたい信者が様々な工夫を凝らした宣伝文書であって、真実を告げる歴史の派生物とは解釈し難い。 家系図に相違が多過ぎるため「『ルカ』の方はマリアの系図です」と言い繕う人も稀にいる。しかしシャルティエル・ゼルバベル親子を通した時点で少なくとも片方は間違いでどちらも殆ど信憑性がない事は否定できなくなるだろう。 不遜と過信の果てに人間をはたき殺し「良く読んだら人間の文書でした」では済まされない。自分の信じているモノに責任くらい持つべきではなかろうか? 画像出典: |
新約の四福音書は1世紀には『マタイによる』 『ルカによる』等の標題がまだない匿名の書で、厚顔無恥な偽証を企図したパウロ名書簡とは異なる“偽りの著者名を与えられた偽名書”である。 記者は恐らく使徒ではなくイエスを直接知らない、教育程度の高い都市部にいたキリスト教徒。それを裏付けるように作中田舎地方ガリラヤの地理が大きく乱れている。内容の類似性は主に先行する福音書を模写したため。 肝心のイエスの物語はご覧の通りエジプトの太陽信仰に属する物語を中心的素材に、ユダヤ的肉付けをした神話の二番煎じ。イエスの有名な説教の多くも旧約聖書の焼き直しである。 「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛せよ」 (申命記6:5) 「人はパンのみにて生くるにあらず、神の口より出づるすべての言葉による」 (申命記8:3) 「自分自身を愛するごとく、汝の隣人を愛せよ」 (レビ記19:18) 4世紀にローマ帝国の支配のためキリスト教が国家権力の座に着いた時、信徒は異教との結合を示すあらゆる記録の抹殺に忙しかった。悪名高いエジプトのセラピス神殿とアレクサンドリア図書館の破壊、人気女性哲学者ヒュパティアの殺害は映画の題材にもなっている。 『アレクサンドリア』 感想サイト 信者の病的な憤怒は自身が古代の世界の最終的な混合物(パクリ)である事への自覚に由来していた面もあったのだろう。暗黒の数世紀の幕開けを暗示するかのような恐喝を前に、人々は次々にキリスト教へ改宗していった。 福音書からイエス本来の人格や生活を救い出すことはもはや難しいが、殆どない新約のオリジナル部に焦点を当てることでイエスが本当は何者であったのか、人類の病は何故生まれてしまったのかを浮かび上がらせる事ができるだろう。勘の良い人は薄々気付いているように、パウロを取り除けばイエス教が世界宗教として存続できる気配は微塵もないのである。 救世主か? 新大陸を発見したコロンブスは翌年、嬉々としてカナリア諸島(北アフリカ)からサトウキビを植え付けに行ったという。 ユダヤ教で言う原罪とは間違いなく人間が私利のために盗み、貪り、怒る意地汚い性質を指すので、キリスト教史のどこを見ても「癒されている」とは判定しない。罪なる性質からの解放者として既に天の賜り物があるのに神が救世主を派遣する必要がどこにあろうか。 キリスト教に過去の横暴を問えば、それは人間の性質のみが罪深かったと言う。だが私達は人間を信じる。キリスト教の教理そのものに何か非人間的な物が紛れ込んでおりそれが生への公正さ、真剣さ、精神力を完全に消し去ってしまう。キリスト教は人間の善性への恥辱であり、人類の歴史で最悪の災害である。 画像出典: jesusneverexisted.com |
新約聖書の半数を占めるパウロ書簡のうちパウロの真筆と一般に認められているのは7つ。残りの6つはパウロが建てた教会やその系統の諸教会を指導する目的でパウロの権威を借りて書かれた「第二パウロ書簡」として認識されている。その判断の論拠を簡単に並べてみたい。 パウロの名前で書かれた書簡(第二書簡) http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/sinyaku.html 敬虔な律法主義的ユダヤ人キリスト者から見ると、自由で解放的な異邦人キリスト者の振る舞いは問題でした。パウロ亡き後、パウロ教会・第二世代の指導者は非難に応え、教会の秩序維持と倫理の適正化をはかり、異邦人信徒の品位を高めようと、教会の回読用として、再三書簡を送ります。 『テサロニケ信徒への手紙二』 (90年代?) 『テサロニケ一』の数十年後に黙示思想の観測上の変化から現れた書簡と見られている(異論もある)。文体はパウロ似。(偽書簡を意識してか)巻末に真正を示す判を押しているが、これはパウロのどの書にも見られない。 「わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。これはどの手紙にも記す印です。わたしはこのように書きます」(3:17) 『エフェソ信徒への手紙』 (80~100年頃) 文体や語彙のほか要所での主張もパウロと異なっている。短く簡潔な文を書くパウロとは対照的な長文(例:1章3節~14節が一文)が特徴。 『エフェソ』に出てくる100前後の文のうち、9つは50以上の単語から構成されている。例えば『フィリピ』に登場する102の文のうち、50以上の単語を持つ文はたった1つだ。181の文から成る『ガラテヤ』でも、同じく1つしかない。加えて『エフェソ』には、パウロの文書では見られない言葉が頻出する。その数は何と116語に上り、優に半分以上だ(例えば、ほぼ同じ長さの『フィリピ』の5割以上)。(引用:『キリスト教の創造』バート.D.アーマン著) 『コロサイ信徒への手紙』 (80年代) 『エフェソ』同様異邦人改宗者にユダヤの律法を守る必要がない事を説いている。高度な解析から、こちらも他人の筆を真似る難しさを露呈している。 ■「反意接続詞」(例えば「~にも関わらず」)の頻度 『ガラテヤ』は84回、『フィリピ』は52回、『テサロニケ1』は29回、『コロサイ』はたった8回 ■因由接続詞(例えば「なぜなら」)の頻度 『ガラテヤ』は45回、『フィリピ』は20回、『テサロニケ1』は31回、『コロサイ』はたった9回 ■名詞節に繋がる従位接続詞(例えば「~ということ」や「~の時に」)の頻度 『ガラテヤ』は20回、『フィリピ』は19回、『テサロニケ1』は11回、『コロサイ』はたった3回 (引用:同上) 『テモテ一・二』『テトス』 (2世紀) - 牧会書簡 エフェソの牧者テモテ、クレタ島の牧者テトスに宛てる形で書かれた指導書。司祭・助祭の任命法などパウロの時代になかった教会制度(階級制)を論じている。作者は同一(?)。全848語中306語がパウロの文書にないもの、加えて2世紀の関係者に常用された語句が多いという。2世紀前半のパウロ信奉者・マルキオンの正典にもこの3書が含まれておらず発生が新しい可能性がある。
『マタイ』のイエスはパリサイ派にも勝って律法を遵守しなければ神に認められないと厳しく戒めている(マタイ5:17~20)。律法を無効としたパウロの救済論がパウロの死後に現れた福音書の救済論と噛み合っていない点からも、パウロ思想が1世紀から教団の中心部に結び付いていたとは判断し難い。その上で偽名パウロ書簡などにどの程度の権威があるのか考察の余地はあろう。 画像出典: jesusneverexisted.com |