食と世界

食と世界についての雑記 菜食・断食の勧め

聖書を焼く

2012-01-22 07:55:20 | 焚書/解体


伝統的なキリスト教と聖書は、決して天から降ってきた物ではなく、ユダヤ教徒同士の仲違い、競合する様々な思想、文化的要因の中に長い醸造期間が見出される。そして最終的に発展したのはイエス自身が奉じていた宗教からは大きく乖離して成立した、人間の創造物であった事に疑いの余地はない。


出来合いの既製品に対して「懐疑」の勇気を人類が持てていたなら、起きないでいい悲哀史は幾らもあったであろうに。あらゆる不条理も悪徳も神の名で正当化できてしまうキリスト教だけに、激動する暗黒の波動を支え切る一切の観念は登場し得なかったのかもしれない。

第1次大戦後、人種差別撤廃の理想を掲げた日本の提案は既にアジアを
奴隷工場として所有する西欧の警戒で却下された。"戦犯""侵略者"と呼ばれていようとも、異国にたかる差別主義者の帝国主義時代を生きてくれた先人には感謝の念を捧げる事しか私にはできない。たじろがずに書く事ができない歴史の一つが下記サイトに簡潔に記されているので勇気のある方はご覧になっていただきたい。

黒人奴隷クンタの20年間=「世界商品」の生産と黒人奴隷制度=

第1章 襲撃  第2章 奴隷船への「積み込み」  第3章 奴隷船上の反乱  第4章 大西洋の三角貿易  第5章 奴隷船での日常  第6章 奴隷市  第7章 砂糖プランテーション …
「どっちなんだ?人間が神の失敗作なのか、それとも神が人間の失敗作なのか」フリードリヒ・ニーチェ







史上実在した神はさながら史上最大の怨霊であった。ここからは歴史化された神話、呪詛の紙を人類が如何にして捨てる事が出来るのかを模索する事にしたい。直解型キリスト教という汚れの除染が人類の明るい未来への第一歩となる。

例えば
裏切り~十字架刑が異教神話の再現なら、あまりにも有名なキリストを裏切ったユダは実在していたのだろうか。セトの一党がホルスを捕える場面とユダの一党がイエスを逮捕する場面は酷似しているという。

セトの一党がやってきてホルスを捕えると、彼らはホルスの額の王冠を目にして地にうつぶせに倒れる。   ユダとその一党がゲッセマネの園に入って
来る。「イエスを捜している」連中に「それは
私です」とイエスが答えると途端に彼らは
後退りして地に倒れた。 (『ヨハネ』)

ユダの史実性を揺るがせる今一つの論拠はその死に方である。『マタイ』27:5では首吊り、『使徒行伝』1:18では地に落ちて体が裂けた(飛び降り?)と不一致になっている。

イエスの元型の一つである旧約聖書のヨセフにも12人の兄弟がおり、銀貨20枚でイシュマエル商人に売られた(イエスは30枚)。ヨセフを「売ろう」と言ったのは弟のユダだった。(創世記37:27)

既存の書物の改訂版という事実が示すのはそれが歴史上起こった出来事ではないということだ。


中世以降強権を得たローマ教皇が富貴に狂乱しながら人民を残虐政治で痛めつけた痕跡の残る欧州では、キリスト教に対する疲弊感も根強い。

18世紀には遂に欧州人も聖書を焼き払うようになり、 空気の美味しい新天地米国へ競って移住して行った。割と敬虔な仏国でも現在毎週礼拝へ通う信徒は全体の1割強ほど。英国では5%を割っている。

グロテスクな積年の残虐行為の反省もなくキリスト教勝利主義、聖書原理主義へ返り咲くなどはあって良いことではないだろう。イエスが架空か実在かはキリスト教にはあまり関係のないことでもある。ナザレのイエスがこれ以上キリスト教徒の振り回す玩具であってはならないのだから。

画像出典:Sainte Eglise du Monstre en Spaghetti Volant NNDB: Tracking the entire world






 
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聖書原理主義の終焉

2012-01-18 07:20:13 | 焚書/解体


  イエスとマリアの先駆けと目されるエジプトの大地母神イシスと孝行息子ホルス


新約聖書の物語は天体と自然力を中心に回った古代の知識の表現であることを私達は発見できる。実在の人物を登場させた説話が聖書に同化され先祖の記憶が薄れると、古代から頻繁に登場した比喩・象徴は
史上実在した物語へと転換され、この上ない暴虐の歴史の扉を開くことになった。

大陸の侵略
18世紀、豪州へ着いた英国人は先住民アボリジニの掃討を開始。虐殺と人間を
スポーツハンティングの獲物にする娯楽的殺人の結果、百万人いた先住民人口は1割以下に減少した。

欧州人の大陸侵略はキリスト教教理によって推進されるのが常だった。第一にイエズスが信徒の罪を買い取ってくれて晴れて無実の身(殺し放題)であるし、真実の神を植えつける事は無上の宗教的行為に他ならなかったからだ。19世紀のタスマニア島、ニュージーランドでもジェノサイドの末に土地が奪われた。(何が鯨だと憤る人も多いだろう)
実によって木を見分けられるというイエスの言葉が想起される。

「歴史に記録されている世の中で最も極悪で残酷な罪は、宗教という名の下に行われている」 マハトマ・ガンジー
オーストラリア人による人間のスポーツハンティング


史上最大規模の奴隷制
欧米キリスト教徒が近代史において一体何をやってきたのかと言えば、飽くなき殺人と飽くなき人間・自然の換金だった。15世紀にポルトガル人が始めたアフリカ人奴隷の売買は北南米の征服で軌道に乗り、都合
2千万人以上の黒人が新大陸へ連れ出された。航海中の死亡率は20%前後あったと言い、大農園での(砂糖、タバコ、綿花などのプランテーション)過酷な労働で死亡する者も多かった。

日本でも織田信長へ宣教師から黒人奴隷が献上されている。(弥助 - Wikipedia) 教科書には載っていないが耶蘇教徒を優遇し布教を許可していた秀吉が宣教師(伴天連)追放令の発布、鎖国体制確立の第一歩に踏み切った背景は
日本人奴隷の海外流出に恐れと怒りを抱いた事だった。
豊臣秀吉を激怒させた南蛮人の日本人奴隷貿易 - ひろむの一言メモ
日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?! - ニッケイ新聞


利益に目が眩んだ集団が自身の行為を人道に照らし合わせて省みる機会は殆どなかった。何故なら唯一正統なる神を奉ずる自分達には精霊の導きがないはずがないからだ。

100年前に世界の8割以上を全面的に支配していた欧米は征服可能地が飽和するにあたっては利権の綱引きから世界大戦を起こした。
「たとえ全世界を手に入れても真の命(=霊的な命)を損じては何の得があろう」というイエスの言葉が思い起こされる。

「不条理なものを信じているものは悪事を犯す」 ヴォルテール



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


古代ローマで神々に熱狂していた人々も、それが歴史上実在した神だなどとはついぞも考えた事はなかった。

おみくじ 破魔矢 厄除は真理か? 宗教は太古から子供の遊び心を以って
空想・憶測を楽しむ物に違いなかった。真剣な顔つきで異教を否定したり “唯一の真理” を触れ回る集団はかつてローマ帝国が睨み付けた、社会の異分子以外の物ではないだろう。

聖書のイエスは人類の罪を背負ったのではなくあくまで自分の責任で死んでいる。それは人間が如何に生きるべきかの手本を示したに過ぎない。

イエスが死んだ時点で「救われた」、「贖われた」と話を打ち切る集団は悪に倒されても最後は神が幕を引くのだという感動のラストへ行き着くことはできない。キリスト教の歴史は十字架が何万本あっても足りない、誰もが目を背けたがる巨悪が勝利して終わるストーリーを代々伝えて来たのだ。塵ホコリの様に散らされて行った無数の人生の為にも、聖書は再解釈されなければならない。


画像出典:L和風素材×フリー和柄素材 ネオジャポニズム






 
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誰がキリスト教を始めたのか

2012-01-11 18:40:42 | 焚書/解体


キリストとミトラスの驚くべき類似性(生活上の出来事、特徴…)は太陽崇拝という同一の発端に裏打ちされていた事が明らかになる。

 
誘惑 好敵手セトによってアメンタの砂漠から山の高みに連れて行かれた。 好敵手サタンによってパレスチナの砂漠から山の高みに連れて行かれた。
誘惑の結果 ホルスはうまく誘惑に抵抗する イエスはうまく誘惑に抵抗する
変身 山頂で変身する 山の高みで変容する
行動 水面を歩く。悪魔を追い払う。病人を治療する。盲目を治す。彼は彼の能力で海を静めた。 水面を歩く。悪魔を追い払う。病人を治療する。盲目を治す。彼は海に『静まれ!動くな!』と命令した。
死者の蘇生 父オシリスを墓場から蘇らせる ラザロを墓場から蘇らせる
(『ヨハネ』)
蘇生が起きた場所 Anu (エジプトの都市) ベタニア (Bethany:文字通りなら「Anu の家」)
大切な演説 山での説教 山での説教 (『マタイ』)
死に方 十字架での死 十字架での死
一緒に死んだのは 2人の泥棒 2人の泥棒
死後の運命 墓場に埋葬され3日後に復活 墓場に埋葬され3日目に復活
復活の報告 女性達によって 女性達によって
未来 千年間の支配 千年間の支配
肩書き Karast (KRST):
油を塗って清められた人
Christ :
油を塗って清められた人
他の名前 良き羊飼い。神の子羊。命の糧。人の子。漁師。選別者。 良き羊飼い。神の子羊。命のパン。(以上『ヨハネ』) 人の子。漁師。選別者。

変身:ペテロ、ヨハネ、ヤコブの前での変容。 演説:『ルカ』では平地の説教。 3人の十字架刑:ホルスも盗人に挟まれ刑死、埋葬、復活する。ローマ法ではイエスと強盗2人は十字架刑にならない。


初めの福音書『マルコ』には処女降誕も復活(16章後半)も記されていなかった。福音書の主眼は順当に"ユダヤ教の改革者人間イエス"で残りの奇跡譚・復活はあくまで付録的に付いて来ただけと考えることができる。

キリストに様々な尾ひれが付いた背景は1~2世紀のローマ世界という、史上最も多彩な神と女神で満たされていた特殊な土壌が影響したのだと思う。新宗教を売り出す際の必要で異教神話から模られ旧約聖書を経由した新たな救世主の偶像(アイドル)が創られた。見切り発車であったのか家系や降誕物語等のプロフィールにはボロが多い。

原始キリスト教とは恐らくキリスト教と呼ばれる事さえ嫌ったはずの、ユダヤ教徒の集団だった。しかし次第に“決別”は不可避になったのだろう。パウロら反ユダヤ的パワーの外部拡散を抑えられなくなり、そして明確に新宗教となるや、彼らは狡猾なレトリックでユダヤ教徒を神の敵に仕立て上げたのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/キリスト教の歴史
しかし、ユダヤ教主流派による迫害を契機に各地に離散したヘレニスト(ヘレニスタイ:ギリシア語使用者)が精力的な伝道を展開し…





何者がキリスト教を創ったのか?
4世紀のエウセビオス著『教会史』によれば福音書はエッセネ派の文書だったとある。キリスト教運動は“エッセネ派の逆襲”だったのだろうか・・・? 結局、外部に適応する過程でキリスト教は1世紀から破損を続け、最終的には完全にローマの諸宗教と習合するのである。(「復活」と弟子達の伝道が起点だったとする教会の狂育は現実的観測でない)

数世紀の後に残ったのは元来有していた精神性が破棄された変わり果てた宗教だった。"原罪""契約""メシア" と辛うじてユダヤ教らしい所は残るものの、何れもが的外れな流用である。

ユダヤ教で言う一般的なメシアとはダビデの様な戦う王、漲る力でイスラエルをローマの植民地から解放する厳格な統治者のことだ。当時としてベツレヘムに生まれ、蚊を叩く様にローマ帝国に殺され、挙句墓場から甦る救世主など誰一人求めてはいなかっただろう。


キリスト教が現行の信仰体系を維持したいのなら、「聖書」のカバー+旧約聖書をユダヤ教へ返却してからにすべきだと考える。ユダヤ教から見たキリスト教文書は旧約と何の関連もない神への冒涜、現代まで連錦と続く迫害の種ともなったこの上なく忌まわしい偽典群だからだ。何より、聖書の神に息子はいないらしい。イスラム教でも「アッラーに息子などあるものか」(『コーラン』)と手厳しい。

原理主義者達が何を喚こうと、実数にして百分の一以下の聖書本家の訴えに耳を貸す気がない限り、物事の実相を正しく捉えることはできないだろう。

画像出典:LiveJournal.com

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