古典古代世界(古代ギリシャ・ローマ)における信仰生活はどのような物だったのだろうか。現代からすると意外な事に、それは“真理”に糞真面目に打ち込むような物では全くなかった。 サトゥルヌス祭 収穫祭を兼ねた冬至のお祭り(12/17-24:クリスマスの前身)では人々は獣皮などをまとって神々にちなむ仮装・女装をし、無秩序な叫び声、放縦なダンスと共にバカ騒ぎ、賭け事、狼藉に興じていたという。酒神 ディオニュソス(バッコス)に憑かれた女信徒は平時から粗野な掛け声と共に山野を駆け回り、動物の生肉を裂いて喰らう猟犬の群れと化していた。 真理に全くと言っていい程無頓着だった諸宗教の中でただ一つ"何が神の前に正しく、何が間違っている"かに傾倒していたのがユダヤ教だった。
人間をロボットの様に扱うシュメールの神話は冷厳な態度で共同体を支配する国家宗教の経典に引き継がれた。もうご存じの通り、聖書を通して歴史は一かけらもない。 反ユダヤ宗教としてのキリスト教 ローマ帝国中で嫌悪されていたキリスト教が何とか足場を固められたのは、ユダヤ教に対し最善の適応を示す形でであった。3世紀までに帝国内のユダヤ教徒は減少を続け、主な内訳は改宗。ユダヤ戦争以後体裁を悪くしたユダヤ教内にはキリスト教へ改宗する者が絶えなかったためだ。時と共に両者の緊張関係は激化していった。 発生が2世紀に近い『ヨハネ』では裁判中、イエスの身柄がユダヤ人に引き渡される。『ペトロ福音書』(120年頃?)ではイエスの処刑を決めるのはユダヤ王ヘロデだ。その後のエルサレム神殿の破壊(70年)はその神罰として理解されている。 「その時、ユダヤ人と長老達、および祭司達は、自分達自身のためにどれほどの悪を行ったかを悟り、(悲しみのあまり胸を)打ち始めて言った。「我々の罪に呪いあれ。裁きとエルサレムの終わりは近づいた」と」(ペトロ7:25) かつて母神キュベレの熱狂的な信奉者は、自らを去勢した男性達であった。自分の宗教が絶対的真理だと思うからそこまでの事ができるのか。… 勿論違う。子供の頃、無意味な物にも熱中できたように、“子供心”丸出しで幻想に傾倒するのが宗教。全身全霊を注いだ下らなさの度合いこそ彼らの信仰の見せ所だったのではないだろうか。 これだけが本物だと思わせる真空の一神教が全てを統合すると、人々の間から笑いが消え"全てが間違いだ"と言える心の余裕は失せてしまった。 http://inuiyouko.web.fc2.com/folklore/kybele.html その儀式の間、祭司や信者たちは、去勢されたアッティスにならって、自ら男根を切取り、自傷することで神と交感しました。生贄とされた雄牛の男根とともに、女神にその切断した男根を捧げ、切断された男根はすべて太母神の聖なる洞穴に置かれました。ときには、切断された男根はとくにありがたいものとして、家々に投げこまれ、そのお返しとして、その家の主人は去勢されたばかりの人々に女性の衣服を与えたといいます。 しかし、この祭りは、掛け声や叫び声をあげながら群れをなして狂い歩き、手に持つ器具や刃物で身体を傷つけて血を流して狂いまわるという狂信的なものであったため、ローマでは、後に禁止されました。 画像借用元: Charch of Flying Spaghetti Monster 関連記事: 左脳人間と聖書 |
欧州とアジアの間に現れた、強勢を誇る軍営の宗教が無かった場合の世界を考えてみたい。 産業革命以降、中世の支配者・オスマン帝国も領土を蚕食される一方となり武器性能が飛躍的に向上した欧州世界が広く全地球を植民地・半植民地化していった。 近代のこの例から判断しても差別・弱肉強食の原理で動く百獣の王を脅かすライバルがいなければ、世界各地がより広範に引っ掻き回されたであろう推測は容易だ。生まれる場所が悪ければ私達も白人様に砂糖・タバコを献上するためだけに無賃金で酷使され人生を終えていたかもしれない。 キリシタン狩りをしていなければ今ごろ日本はスペインの植民地だった - 朝鮮歴史館 その先にもはや白人支配を阻む何物も存在しないと思われた時代、日本がロシアを破る激勝の報にアフリカ・イスラム世界は歓喜に沸き返ることになる。 アジア侵略に起因する戦後世界の一斉独立 悪者呼ばわりされてはいても私達は平等・共生の世界という理想を掲げた日本の先人の心を忘れる事はできない。そして特定の宗教のみを導くアンフェアな神を描く新約聖書の病理を暴き出す事が、痛みの時代の真の回顧になる気がしている。
7世紀にエルサレムを征服したカリフ・ウマルはユダヤ教徒・キリスト教徒を庇護民(ズィンミー)に置いた(ウマル憲章)。現世界がアラブ(イスラム)vsイスラエル(ユダヤ)に見えたとしても、両者が20世紀までミッレトの下摩擦の無い世界で共存共栄を果たしてきた事は忘れてはいけないと思う。紀元前に既に"神とはユダヤ人だけの神ではない"事を思い知っているユダヤ人が独善的に国家を建てる訳がない事実も。 オスマン帝国が欧州に向かって領土を拡大するなど社会の恥部・世界の恥部に厳しいイスラム圏の有益な怒りがいかに異教信仰を壊滅させる暴風雨を消霧させたかの比較宗教の視点に立つならば、日本人にとっては未だ"訳の分からない"中東の宗教に対する理解は立体的に膨らんでくれるだろう。 「われらはただ全世界への慈悲として、汝を遣わしただけである。」(コーラン21:107) 画像借用元: Ricochet.com |
マホメットの十数年間の忍耐が実り始めていた頃、イスラム教の成長と共に メッカのクライシュ族の反発が強まっていた。身の危険を感じたマホメットは622年7月16日、メッカの北部320kmにあるメディナに避難する。 (ヒジュラ: 聖遷) その後隊商路の封鎖措置で飢餓の脅威に直面したマホメットは幾度か隊商の略奪を企て、メッカ側の怒りは沸点へ。イスラム暦(ヒジュラ暦)二年、遂に武装したクライシュ族一千人がメディナに向かって進軍を始めた。 *以下緑字は『マホメットの生涯』(ビルジル・ゲオルギウ著 中谷和男訳 河出書房新社)、白抜きは『燃えるイスラム史』から転載 バドルの戦い(624年)
イスラム教最初の武力的勝利 アラブ恒例の一騎討ちにアリー、ハムザが勝利し作戦と士気に勝るイスラム軍が奮闘する。メッカ側はそれぞれ約70名の戦死者と捕虜を出し敗走、ムスリム側の死者は14名に過ぎなかった。ハディースその他の伝承はこの圧勝に天使による加勢を伝えている。 死体を略奪しようと砂丘に身を隠していた二人の戦場荒らしは、天から雲が地に降りるのを目撃した。「砂丘にいたのですが、雲が俺たちに近付いてきたのです。馬のいななきも聞こえました。その上、突撃!という叫び声も耳にしたんだ」 雲から、武装した天使たちが降り立つ。ある者は馬にまたがり、また徒歩の天使もいた。鮮やかな羽飾りの冑をかぶり、天使の軍勢が天から降り立つのを見て、泥棒の一人は感動のあまり悶死する。 目撃者によれば、天上軍の数は五千程とのことだが、正確ではない。敵に見られることなく異教徒を斃すため天使の中には姿を現さない者もいたからだ。 ウフドの戦い(625年) 翌年、約三千人からなるメッカ軍が再来。ウフド山に迎え撃ったムスリム軍は優位に戦闘を進めるも、弓兵隊の命令違反から背後を突かれ壊走。ハムザを含む約70名の戦死者を出し、敗北を喫した。メッカ側の死者は22名。ハンダクの戦い(627年) メッカ側は次いでムスリム根絶を目指しアラビアの諸侯、ユダヤ教徒を加えた一万人の大軍と共に出陣。三千人のイスラム軍はペルシャ人技術者サルマーンの提言を採り入れ塹壕(ハンダク)を築いて対抗した。メッカ軍はアラビアの戦争において前例のない塹壕を攻略できず、6名の敵を倒しただけで撤退。この戦いでメッカの権威は失墜しイスラム教の勢力は日増しに拡大していった。 メッカ征服(630年) クライシュ族との間で締結されたフダイビーヤの休戦協定が破棄された630年、マホメットはメッカに向かって進軍を開始。クライシュ族は抗戦不可能と見て遂に軍門に下りメッカは無血で征服された。マホメットはカーバ神殿の偶像を破壊、群雄割拠の半島にアラビアの部族を熱烈な精神で鼓舞し一致させる新秩序を吹き入れる事となる。
イスラム教の大征服(632年~) 預言者の死後、イスラム教は2代目カリフ・ウマルの時代にシリア、トルコ、イラク、イラン、エジプトにまで侵攻、戦いはいずれも連戦連勝であった。3代目カリフ・ウスマーンの時代には長年ローマ帝国に対して優勢を保ったササン朝ペルシャ(226-651年)が滅亡。短期間のうちに出現したイスラム帝国(サラセン帝国)はキリスト教が欧州全体に根付く8世紀にはイベリア半島(スペイン全土)を覆い、欧州諸国にとって脅威以外の何物でもなかった。 キリスト教への警告 イエス(イーサー)を敬うべき預言者としているイスラム教のキリスト教への仲間意識は強い。しかしコーランはキリスト教の教義の中核は割とはっきり否定している。中でもローマ帝国の都合で忍び込んだ異教との習合要素への批判は厳しい。キリスト教は思い違いをし、失敗しているのである。
さらにイスラム教の信条によればアダムの罪は既に赦されている。 イエスはアッラーが処刑前に別人にすり替え(贖罪はない)、イエスを磔にする姦計は失敗していたのだ。
「災いあれ、自分の手で啓典を書き、僅かな代償を得るために、「これはアッラーから下ったものだ。」と言う者に」(コーラン2:79) 「彼らの中には、自分の舌で啓典をゆがめ、啓典にないことを啓典の一部であるかのように、あなたがたに思わせようとする一派がある。また彼らは、アッラーの御許からではないものを、「それはアッラーから来たものだ。」と言う。彼らは故意にアッラーに就いて虚偽を語る者である」(コーラン3:78)
15世紀以降この非人間的な質疑応答の下、貿易といえるものではない凄まじい略奪がイエス・キリストにちなんだ名前の宗教によって行われた。選民意識に力付けられた西洋人の頭に残念ながら異教徒・非白人は隣人・同等の人間として映っていなかったのだ。 そんな陰惨を極める人類史の中でも僅かにきらりと光った希望は、7世紀に既に迷信も程ほどにしろという啓示を受け取った怒れるキリスト教の兄弟が派生し無統制な西洋の倫理と戦いながら、地上に新しい信仰を広め人間行為の全般に渡って一つの革命をもたらした点である。 国際商業都市でそこそこ成功していたマホメットは、突如茨の道へ引きずり出され、安楽・財産・友人関係の犠牲の上に神の道具としての役割を強いられた。そして最後の預言者として使命を全うした。イスラム教ではそう考えている。 「私は私の任務を果たしたのでしょうか? おお神よ、その証をお示し下さい」 マホメット"別離の説教"から 画像借用元: The Islamic World to 1600 Islamic History 世界の国旗一覧 燃えるイスラム史 関連記事: 神々のブレンド |