一人のポイ捨ては全体に連鎖する。周りがやっていれば自分がやっても許されると思ってしまう。これが人間というものではないだろうか。一人の問題で済む事は何一つないと思う。 この国に「なくそう飲酒運転運動」が展開する事はあり得ない。各人自分には関係ないと思っているからだ。 「事故に遭っても自己責任です。アスパルテームを食べて脳腫瘍になろうと自己責任。米国産牛肉を食べてガンになろう。自己責任です。」 全てが一人の問題。独り占め。・・・・こんな国をどうやって好きになれと言うのでしょうか。 「自分には無関係」と言う間にフラフラする車が増加しいつかは我が身にも災いが降りかかる。その時社会は知らん顔。 ―結局人間一人では何もできないし、人間は全体で捉える必要のある生き物でもある。本来は一事が万事の筈なのだが。。 埼玉園児事故:17人死傷 「カセット裏返そうと脇見」 埼玉県川口市の市道で「川口小鳩保育園」(同市戸塚)の園児らの列に車が突っ込んだ事故で25日、病院に搬送された園児2人が死亡した。他の園児3人も意識不明の重体。保育士の女性2人と園児10人が重軽傷を負った。 今後の日本が怖くてたまらないと思ったなら、今悪いと思える事を一人一人がやめて行くしかない。 社会全体を見渡せば全てが因果応報、一人の行為が全体に影響を及ぼしてこうなってしまった。誰が悪いと言うより全体責任ではないだろうか。「殺生は良くない」と言うと宗教臭がしてしまうが、どうやら美食三昧という生き方に人類は構造的に耐えられないのも事実だ。そしてこの毎日の酒池肉林が何でもないと考えるのは、少々「人間」を忘れ過ぎていると思う。 神は助けてくれない 「神よ核兵器を廃絶して下さい」などと祈っても「それは人間のやる事だ」と返されるに決まっている。神は古来より考えて行動する人間を補助するだけの存在だった。人間は少しの努力で報われるようになっているのだから、教会はまず「食べない努力」をしてみてはどうか。慈愛の強い神が怒り易いのならそれは人間の事を本気で考えている証拠に違いない。神は幼児達の死に憤る存在であり、何も感じず行動のないキリスト教会に大した加護のあるはずもない。 「神は正しく働く者を助けようとして待ちもうけておられる」 -トマスアケンピス (ドイツ 聖職者)
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人間が変わってしまった時、必ず環境に原因を求める事ができる。
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70年代以前、親と子供は固い絆で結ばれていたものだった。無我の社会には子供達の未来をきちんと考える大人がいた。今はどうだろう。自我の強い社会に自己中心型我が侭人間が増えた。家族同士の殺し合いのニュースを聞かない日はない。 9月 「殺そうと思った」中2男子、母親をバットで殴る 9月 父を殴り死なす 40歳男逮捕 西宮 9月 <殺人未遂>父殴り重体、16歳二男を逮捕 北名古屋 8月 <埼玉小六焼死>中1長男「両親が死んでも仕方ない」と話す 8月 稚内女性殺人 母殺害30万円で依頼 8月 母、2児を殺害 天理自宅から 8月 <母親殺害>自殺図った42歳長女を聴取 名古屋 8月 <乳児絞殺容疑>32歳母を逮捕 愛知・豊明市 8月 45歳長男が父親殺害 文化包丁で胸を刺す 7月 中1男子が母親の頭切る 成績言われカッと 7月 親類4人を包丁で刺す 隣家の23歳男を逮捕 7月 父親焼死 19歳長女逮捕「両親が厳しく当たった」千葉県佐倉市 7月 8歳娘落とし殺害で母逮捕 愛知・豊田市の陸橋 6月 放火殺人で高1長男逮捕 「成績、父親に言われた」 6月 親子で口論、長男を刺殺 周南 致命的な“人間嫌い” 日本社会の人間愛の冷え込みは依存症の増加にも見て取れる。加えて環境を壊してばかりで不必要に強欲な大人の態度が人間嫌悪に拍車を掛けている点にお気付きだろうか。少年少女はもう醜い人類の為に立ち上がるなど馬鹿らしいという。
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キリストの言葉に次のようなものがある。 どれだけの健康を得ても、健康への感謝を失ってしまったら どれだけの能力を得ても、相手を敬う心を失ってしまったら どれだけ平和な国でも、国民が平和の価値を見出せなくなってしまったら どれだけ美味しい物を食べても、その美味しさを感じられなくなったら その人間の人生は恐らく空しい。英国では富豪ほどよく自殺するという。 物が豊かになっても、物を大切にする心を失ったら… 今の日本にグサリと突き刺さる言葉ではないか。 生きてはいても― 全てを手に入れた日本人に無いもの、それは真心 誠心誠意 正義心 団結心 愛国心といった心であるように思われる。まず社会に血が通っていない。困った人間に手を差し伸べる人間が居ない為、イジメも虐待も詐欺も傷害も戦争ももうやりたい放題なのだ。 「我々は平和を失うまでその尊さを知る事はできないのか」 人間にはきちんと平和へ感謝する心が備わってはいるが、如何せん現代には霊の命を葬る障害が多過ぎる。常に命の門を選び続け平和を守り抜いた江戸時代の人間は本当に良くやったと思えるが現代の日本人は心を失い、視れども見えず聴けども聞こえず食えどもその味を知らずの盲目状態に陥っている。 今の日本に真の平和と自由があるだろうか? あるのは協力し合う事もできず人間と人間が親子同士でさえ解かり合う事のできない無機質で無慈悲な平和と、飲酒運転で一瞬にして他人の幸福を奪って良い自由。己を制し得ない者が自由人を名乗る事などできる筈はない。このまことの命を損じる死(楽)の門の先に、究極の堕落・戦争が待ち受けている。 神は傍観者に過ぎない 神は人間が戦争をしようと平和を築こうとどちらでも良いと考えているのではないだろうか。神の仕事と言えば平和を築いた人間を天国へと迎え、平和を壊した人間をひっ捕らえて地獄の火炎の中へ放り投げる事。各人の信仰の過ちを正す事など職務外。今も昔も平和を壊している某宗教の変わり映えの無さが、それを証明している。
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