食と世界

食と世界についての雑記 菜食・断食の勧め

イエス教徒とは

2012-02-24 22:20:23 | 焚書/解体


新約の四福音書は1世紀には
『マタイによる』 『ルカによる』等の標題がまだない匿名の書で、厚顔無恥な偽証を企図したパウロ名書簡とは異なる“偽りの著者名を与えられた偽名書”である。

記者は恐らく使徒ではなくイエスを直接知らない、教育程度の高い都市部にいたキリスト教徒。それを裏付けるように作中田舎地方ガリラヤの地理が大きく乱れている。内容の類似性は主に先行する福音書を模写したため。





肝心のイエスの物語はご覧の通りエジプトの太陽信仰に属する物語を中心的素材に、ユダヤ的肉付けをした神話の二番煎じ。イエスの有名な説教の多くも旧約聖書の焼き直しである。
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛せよ」 (申命記6:5)
「人はパンのみにて生くるにあらず、神の口より出づるすべての言葉による」 (申命記8:3) 「自分自身を愛するごとく、汝の隣人を愛せよ」 (レビ記19:18)


4世紀にローマ帝国の支配のためキリスト教が国家権力の座に着いた時、信徒は異教との結合を示すあらゆる記録の抹殺に忙しかった。悪名高いエジプトのセラピス神殿とアレクサンドリア図書館の破壊、人気女性哲学者ヒュパティアの殺害は映画の題材にもなっている。
『アレクサンドリア』 感想サイト

信者の
病的な憤怒は自身が古代の世界の最終的な混合物(パクリ)である事への自覚に由来していた面もあったのだろう。暗黒の数世紀の幕開けを暗示するかのような恐喝を前に、人々は次々にキリスト教へ改宗していった。

福音書からイエス本来の人格や生活を救い出すことはもはや難しいが、殆どない新約のオリジナル部に焦点を当てることでイエスが本当は何者であったのか、人類の病は何故生まれてしまったのかを浮かび上がらせる事ができるだろう。勘の良い人は薄々気付いているように、パウロを取り除けばイエス教が世界宗教として存続できる気配は微塵もないのである。






救世主か?
新大陸を発見したコロンブスは翌年、嬉々としてカナリア諸島(北アフリカ)から
サトウキビを植え付けに行ったという。

ユダヤ教で言う
原罪とは間違いなく人間が私利のために盗み、貪り、怒る意地汚い性質を指すので、キリスト教史のどこを見ても「癒されている」とは判定しない。罪なる性質からの解放者として既に天の賜り物があるのに神が救世主を派遣する必要がどこにあろうか。



キリスト教に過去の横暴を問えば、それは人間の性質のみが罪深かったと言う。だが私達は人間を信じる。キリスト教の教理そのものに何か非人間的な物が紛れ込んでおりそれが生への公正さ、真剣さ、精神力を完全に消し去ってしまう。キリスト教は人間の善性への恥辱であり、人類の歴史で最悪の災害である。


画像出典: jesusneverexisted.com 






コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

にせパウロ書簡とは

2012-02-15 22:35:08 | 焚書/解体


新約聖書の半数を占めるパウロ書簡のうちパウロの真筆と一般に認められているのは7つ。残りの6つはパウロが建てた教会やその系統の諸教会を指導する目的で
パウロの権威を借りて書かれた「第二パウロ書簡」として認識されている。その判断の論拠を簡単に並べてみたい。

パウロの名前で書かれた書簡(第二書簡)
http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/sinyaku.html

敬虔な律法主義的ユダヤ人キリスト者から見ると、自由で解放的な異邦人キリスト者の振る舞いは問題でした。パウロ亡き後、パウロ教会・第二世代の指導者は非難に応え、教会の秩序維持と倫理の適正化をはかり、異邦人信徒の品位を高めようと、教会の回読用として、再三書簡を送ります。


『テサロニケ信徒への手紙二』
(90年代?)
『テサロニケ一』の数十年後に黙示思想の観測上の変化から現れた書簡と見られている(異論もある)。文体はパウロ似。(偽書簡を意識してか)巻末に真正を示す判を押しているが、これはパウロのどの書にも見られない。
「わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。これはどの手紙にも記す印です。わたしはこのように書きます」(3:17)

『エフェソ信徒への手紙』 (80~100年頃)
文体や語彙のほか要所での主張もパウロと異なっている。短く簡潔な文を書くパウロとは対照的な長文(例:1章3節~14節が一文)が特徴。
『エフェソ』に出てくる100前後の文のうち、9つは50以上の単語から構成されている。例えば『フィリピ』に登場する102の文のうち、50以上の単語を持つ文はたった1つだ。181の文から成る『ガラテヤ』でも、同じく1つしかない。加えて『エフェソ』には、パウロの文書では見られない言葉が頻出する。その数は何と116語に上り、優に半分以上だ(例えば、ほぼ同じ長さの『フィリピ』の5割以上)。(引用:『キリスト教の創造』バート.D.アーマン著)

『コロサイ信徒への手紙』 (80年代)
『エフェソ』同様異邦人改宗者にユダヤの律法を守る必要がない事を説いている。高度な解析から、こちらも他人の筆を真似る難しさを露呈している。
■「反意接続詞」(例えば「~にも関わらず」)の頻度
『ガラテヤ』は84回、『フィリピ』は52回、『テサロニケ1』は29回、
『コロサイ』はたった8回
■因由接続詞(例えば「なぜなら」)の頻度
『ガラテヤ』は45回、『フィリピ』は20回、『テサロニケ1』は31回、
『コロサイ』はたった9回
■名詞節に繋がる従位接続詞(例えば「~ということ」や「~の時に」)の頻度
『ガラテヤ』は20回、『フィリピ』は19回、『テサロニケ1』は11回、
『コロサイ』はたった3回 (引用:同上)

『テモテ一・二』『テトス』 (2世紀) - 牧会書簡
エフェソの牧者テモテ、クレタ島の牧者テトスに宛てる形で書かれた指導書。司祭・助祭の任命法などパウロの時代になかった教会制度(階級制)を論じている。作者は同一(?)。全848語中306語がパウロの文書にないもの、加えて2世紀の関係者に常用された語句が多いという。2世紀前半のパウロ信奉者・マルキオンの正典にもこの3書が含まれておらず発生が新しい可能性がある。



わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(マタイ5:17)


『マタイ』のイエスはパリサイ派にも勝って
律法を遵守しなければ神に認められないと厳しく戒めている(マタイ5:17~20)。律法を無効としたパウロの救済論がパウロの死後に現れた福音書の救済論と噛み合っていない点からも、パウロ思想が1世紀から教団の中心部に結び付いていたとは判断し難い。その上で偽名パウロ書簡などにどの程度の権威があるのか考察の余地はあろう。

画像出典: jesusneverexisted.com 






 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パウロ書簡を捨てる

2012-02-11 10:57:00 | 焚書/解体


新約の文書は全てナザレ人イエスと道端ですれ違っても気付かない
人々によって書かれている。書き手で唯一真作(著者と著者名が一致する)書簡を持つパウロもイエスに師事した人物ではなかった。

パウロはシリアの教会の後援で宣教活動を行いそこはまだ律法主義的ユダヤ人キリスト教徒の場所でもあった。
律法放棄を訴えたパウロの主張は所属教会からも糾弾されることがあり、手紙の中でパウロは大々的に反論、告発を展開している。

4世紀に新約聖書が綴じられ新生カトリックが始まってからもパウロに反駁する声は止んでおらず、その急進的ユダヤ神学を正統とはしていない教団が存在したことを証言している。



原罪思想:原罪 =全ての人がアダムとイブの過失から受け継いでいる罪・欠陥。人類はイエスの十字架の贖いを信じる事によってのみ原罪が癒され神の恩寵を得られるとしている。

信仰義認: 善行やユダヤ人の誇る律法の遵守は神の前に役に立たず、キリストへの信仰によってのみ人は神に認められるとする。
「なぜなら、律法を実行することによっては、誰一人神の前で義とされないからです」(ローマ3:20)

ユダヤ教では律法(トーラ)の遵守で神に義認されるため、1世紀に『使徒行伝』(パウロを英雄視した伝道物語)を書いたグループにもこの信仰義認の考えは完全に無視されている。


ローマ帝国全体ではせいぜい1~2割の人間しか字を読む事ができず、書く能力のある人間は更に限られた。
「書ける」類稀な強みを活かしてパウロは新体系を成文化し現トルコ・ギリシャ周辺に次々と教会を建てる助勢としていた事情が窺える。

それら新教義は原始教会には完全に忌避されたが、最終的な勝利者となったのは文書を残した側だった。キリスト教の鼻持ちならない独尊が神の顕現がイエスとは関係のないものへ譲渡された所に源泉を持つことはもう語るまでもない。



現在人口爆発を起こしているのは旧被支配国、自国の事を自国で決められなくなった地域である。

貧困国に食料を作らせている日本人の食べ方や買い方も世界の飢餓に影響している(自炊の勧め
参照)。バレンタインデーにチョコレートを贈与する慣習があるのは世界でも日本だけなのはご存知だろうか。

フェアトレード(公正貿易)の機運が高まっているものの、そもそも
不公正な貿易・劣悪な労働を押し付ける差別思想がどこから始まっているのか私達は考える必要がある

画像出典: jesusneverexisted.com World’s Population Graphs

関連記事: パウロ教





 
 
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰が聖書を書いたのか

2012-02-02 01:33:23 | 焚書/解体


神に感謝しつつ世界中を踏み荒らしていた西洋人も、聖書自体は殆ど読んでいなかったという。(17世紀の欧州の識字率は2割未満) 結局キリスト教が神の前に曝したのはあるキーワードを覚えた人間の霊性がどこまで朽ちて行くのかという事でしかなかった。

現在聖書には鋭い宗教批判のメスが入り、新約27書の大半が
著者名を偽った偽名書という有力説を否定する事は難しくなっている。(使徒マルコもヨハネも文書を書いていない)


考古学研究によれば1世紀のガリラヤ地方はアラム語を話すユダヤ教徒の田舎集落で、イエスが連れ添った貧しい農漁民達に識字と筆記の能力は乏しかったとされる。アラム語が書けないのに流暢な外国語で長編文芸を綴る事など不可能に近い筈だが、キリスト教文書は高い教養を持つギリシャ語を話すキリスト教徒によって記されたというのが現代聖書学の通説だ。

偽書の山
『コリント人への手紙III』 『ペテロの福音書』 『ヨハネ行伝』など驚くほかない大量の偽造文書の主要な発生源は、宗派間闘争にあったと言われる。 外典・偽典群

新約聖書を開くと
「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから...」(ペテロII 1:1) などとなりすまし犯が白々しく登場し、中途から異端への攻撃が始まる。まず自分自身に省みるべき処があるのでは?と促したくなると同時に、意図的な偽証という破廉恥に属する文書が「聖」の書を名乗っている歪さへの違和感も湧いて来る。

イエスは“預言のメシア”か
ユダの裏切りの銀貨30枚で畑が買われる場面、マタイは満を持して
「こうしてエレミヤの預言が成就した」(マタイ27:9)と宣言する。ところが、エレミヤ書のどこを探してもそのような記述はない。

ユダヤ教の
「旧約は何らイエスという男を預言していない」という主張の検証はせず、キリスト教徒はユダヤ教徒を聖書で殴殺し続けた。これはキリスト教が現実を直視できない、論理や理性から隔たった幻覚の世界であるが故の不条理だろう。

新約が人工の書物群(同時にヤーウェの敵)である事を認識できたら、キリスト教は聖書を返却しより真実の神を求めて独立し出直すのが善かろう。復活如きに重点を置いた哀れな信仰体系がイエスに認められる筈もない。



世界人口の推移
1500年 5億人
1700年 6億人
1900年 16億人
1980年 45億人
2011年 70億人
2050年 93億人


18世紀以降の差別と腐敗に端を発する悪しき支配モデルの継承により
商品作物の集中的栽培(プランテーション)を命ずる奴隷制は現在も隆盛が続いている。強欲を容認する紙屑が神威を放っている限り、この軌道は正せそうにない。

日本人は聖書に馴染みが薄いけれども、無制限の肉食、人権侵害、金銭の勢力という西方の伝統に染まりつつある現状を凝視すれば、その正体を知る事には益もあるはず。問題は根幹部分から修正すべきであって、この国は政治が歪んでいるのではなく人間が歪んでいるのだ。


画像出典: Church of the Flying Spaghetti Monster World’s Population Graphs






 
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする