『マタイ』は不当な脚色を加えたために叙事の正確性が疑わしい物になってしまった。『ルカ』+『使徒行伝』(ルカの第2巻:文体、語彙、序文が類似)も同様に不安定な存在を確立している部分に触れてみたい。
『使徒行伝』は他にもパウロの真筆と食い違う部分が多く、記述の正確性が疑問視されている。『使徒行伝』のみを典拠とする事実 ・パウロがタルソス出身であること ・ローマ帝国の市民権を持つこと ・テント造りが生業であること ・エルサレムで逮捕され投獄されたこと― 等について批評家は懐疑的だという。 画像出典: Cherished Travel 関連記事: 福音書の神話的アイデア |
マタイ福音書の特徴と言えば、旧約聖書の言葉を盛んに引用して“旧約預言の成就”としてのイエスを描く事に腐心している点にある。 しかし敬虔な不正行為が発覚した「14世代作戦」同様、熟読すると頓珍漢な聖句引用の繰り返しが目立っている。自慢気に披露された偽りを並べてみよう。
マタイの加筆: 墓を見に行った女達
十字架の場面
『マタイ』は『マルコ』を下敷きにして書かれた事が通説であるため上記はマタイの加筆になる。最もユダヤ的な良書とされる『マタイ』でも、ギリシャのロマンチックなフィクションと競合した跡を残しているのだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ バビロン捕囚を解放したペルシャ王キュロス、神殿を再建したゼルバベルが聖書内でメシア(油の子)視されているのはユダヤ教のメシア観を良く表している。 (イザヤ書、ゼカリヤ書) 「主は油注がれた者キュロスに、こう仰せられた」 (イザヤ45:1) 政治的に無名で、ローマ帝国からの解放と王政復古の率先者でもない男に関するメシア預言がある筈もなく、恐らくマタイの目的の為には、使えそうな記事を適当にイエスに切り貼りするよりなかった。その中に聖書の盗難を訴えるユダヤ教徒を納得させるような物は残念ながら1つもないだろう。 1世紀に実在の物証が皆無である急造救世主の悲劇の構成の露出は、キリスト教の諸設定が自らの宗教を広めたいヘレニスト達による神聖なでっち上げに過ぎなかったという結論をいよいよ不可避にしているように思われる。 画像出典: CoolChaser 関連記事: イエスは史上実在したのか |
福音書は多様なキリスト教集団が問答集や宣教文書として保持していた代物で20種類以上が知られている。 "史実"を記録した書物とは言い難く、熟読すると各派の言いたいようにイエスの口が操られているのが判る。異なるイエスの家系図を書いた2つのグループの福音書を比較してみよう。 ■聖書が完璧ではないわけ(聖書が人間の書物であるわけ) - 三十番地キリスト教会
『ルカ』のイエスの血統はアダムまで遡る壮大な系図だ。旧約聖書に通じた集団を相手にした『マタイ』とは違い、アダムやアブラハムを知らない異邦人にもイエスが広く人類の救世主である事を周知しているように見える。(もっとも処女懐胎のためナンセンスな連結だが…) 「このアダムは神の子である」(ルカ3:38) 旧約の引用が『ルカ』より正確な『マタイ』はアブラハム→ダビデ→バビロン移住→キリストが各14世代で移行したと主張する。つまり旧約の神の計画によってキリストが誕生したその正統性を(ユダヤ教徒にまで)誇示しているようだ。 ところが、最後の区間は13世代しかいない。また旧約聖書をお持ちならこの系譜の偽善的な操作を確認できる。 ヨラム-ヨタム間(ヨラム-ウジヤ-ヨタム)は『歴代誌I』3章では6代(ヨラム-アハズヤ-ヨアシュ-アマツヤ-アザルヤ-ヨタム)だ。(ウジヤ=アザルヤ(参照:歴代誌II26:1)) エコンヤの父も本来の「エホヤキム」を削除して、計18代の系図を意図的に4代カットしているのだ。 両者共旧約の人物ゼルバベル(BC597~)を経由している。ゼルバベルはバビロン捕囚解放後ペルシャ王キュロスの資金援助で第二神殿を再建(BC515)した功労者だが、『マタイ』がイエスまでの約600年を11代で繋いでいるのはいかにも苦しい。ここは20代を挟んだ『ルカ』の方が妥当性があるだろう。『マタイ』は14に拘るあまりここでも自滅しているように見える。 信じやすい異教徒のためのゴスペル 福音書は彼らの教祖を信じさせたい信者が様々な工夫を凝らした宣伝文書であって、真実を告げる歴史の派生物とは解釈し難い。 家系図に相違が多過ぎるため「『ルカ』の方はマリアの系図です」と言い繕う人も稀にいる。しかしシャルティエル・ゼルバベル親子を通した時点で少なくとも片方は間違いでどちらも殆ど信憑性がない事は否定できなくなるだろう。 不遜と過信の果てに人間をはたき殺し「良く読んだら人間の文書でした」では済まされない。自分の信じているモノに責任くらい持つべきではなかろうか? 画像出典: |