3月11日は、テレビも新聞も「大震災から4年め」と競って特集を報道していた。仮設住宅が映り、復興に向けて努力する人達がおり、失った家族や故郷を恋う人がくりごとを言う。
「毎日なんにもすることがない」と話すおばあさんは、「いつになったら帰れるかなあ」と他力本願のままでひたすら待っている。被災者も、仕事として事故をほじくり返す人も、「絆。絆」とすがりつきあう。
原発事故の町の人は、食堂を作ったり、収穫した作物を加工したり他県へ発送したりしている。しかし放射能汚染は減るどころか今も毎日拡大している。フランスは核廃棄物を地下150メートルに埋め続けているのに、日本は地表を30センチばかり削って裏返し、また裏返し、耕し、作物を作っている。努力しなければ生甲斐が無いとしても、協力してくれる人達を不幸にしていいということはない。原発のある土地は、農産物も海産物も100%汚染されているという。
新聞の別のページに、昭和20年の空襲で亡くなった人の数が書いてあった。数では震災で亡くなった人の方が多かったが、家や家族や家財衣類、なにもかも失ったということでは同じだ。電話もない。救援物資も無い。窮乏生活のさなかだから、お腹いっぱい食べてもいない。空襲に遭わなっか親類や知人が助けに来たという話も聞かない。
被災者が頼って行っても、追い払われた人達が多かったということだ。そのあとの生活は悲惨だった。それでも焼け出された人達は不服も言わず、失ったものに拘泥せずに生きて来た。