181223 歩く道(その4) <中世末期に一際輝いた雑賀孫市の雑賀城付近を歩く>+補筆
ふと司馬遼太郎著『尻啖え孫市』を思い出しました。歩く道のコースをどこにしようかと考えたとき、紀の川河口を見たいと思ったのです。でも、現在の河口は幅400m以上あり、しかも全長500mもある波止(白灯大波止)がまさに人工物で、釣りをするにはよいかもしれませんが、私には少し興ざめです。では中世はどうだったか、それは古代を含め歴史景観を研究されている日野雅義氏による「紀ノ川河口付近の古地理変遷図」があり、縄文期からの変遷が図で示されています。
中世は和歌山市大浦が河口となっていました。この大浦には中世末期、この付近を拠点に日本各地で活躍した雑賀衆という共和制?の集団統治システムがあり、そのリーダーとして雑賀孫市がいました。その活躍ぶりは司馬さん流に、龍馬の維新での活躍のように、見事な筆致で描かれています。
雑賀衆の城がこの雑賀崎にある岬突端にあったそうです。雑賀衆が没落して400年以上経過していますが、周辺のまちなみがどうなっているか興味深く思ったのです。というのは雑賀衆の末裔が横須賀にやってきて、維新後呉服商などの商売で繁盛し、現在は横須賀中央駅横のさいか屋という横須賀で唯一?のデパートとして頑張っています。私はここの中華料理店が気に入りで時折食べに行っていました。横須賀はカレーの町といわれますが、中華料理が結構いい店があってよかったですね。
また横道にそれましたが、なにかと横須賀の雑賀衆の末裔と、元の雑賀衆の拠点とがむすびつくような気がして気になっていました。それで今日の歩く道は雑賀崎町周辺でした。
実は雑賀崎(さいかざき)の手前に、魚頭姿山(たこずしやま)とか紀州東照宮のある小高い山があり、そこを登って和歌山市街の展望を見て、行こうかと思ったのですが、天皇誕生日ということでしょうか?立入禁止になっていました。それで雑賀崎港までてくてく歩いて、そこから雑賀崎の断崖を見上げました。おそらく中世の紀ノ川は現在の市街地を横断する水軒川に沿って流れ、雑賀崎の海に出っ張った高台と魚頭姿山の高台までつながる壁に当たり、やっと海に出ていたのでしょう。
この2つの高台は山城的で海に出るときは出やすく、敵が海から攻めてくるときも眺望がきき、守りやすかったのではないでしょうか。
近くの閑静な住宅街を通りましたが、道は普通車がやっと通れる程度でした。それでも分譲地に近いくらい割合整備されていたかと思います。平坦なところはそうでした。中世の時代はきっと人が住んでいなかったのでしょう。
ところが雑賀崎の近く、雑賀崎漁港から登っていくと、これはまさに漁港のまちなみ景観でした。道は歩くのが精一杯、家は極めて建て込み、斜面地に軒を寄り添い合っているのです。谷間も尾根筋も一杯でした。そして歩いたのは幅2尺もないほどの狭い通路です。ちょうど上から降りてくる高齢の夫婦がいて、すれ違うのをお互い譲り合って礼をしながらでした。これもこういった漁村ならではの風景でしょうか。
そしてこれこそ横須賀の維新後海軍の町として発展し、現在も続く岬にある山のてっぺんまで傾斜が続くところに建てられたまちなみとほぼ似ています。戦後は米軍が広大な敷地に快適な住宅を作る一方で、そこに仕事で通う人たちの住む住宅はそういった傾斜地の安全性の担保されていない住宅であったと思われます。労働環境もアスベスト被害に晒されるものでした。米軍基地だけではないですが、横須賀がアスベスト被害を訴えた労働者が勝訴した先駆例でしたか。
また脱線しました。で、雑賀崎漁港を歩いたのですが、漁港自体は結構大きく感じましたが、漁船があまりなかったですね。漁業組合の建物も小規模でした。雑賀城(城が作られたというわけではないようです、拠点という趣旨のようです)の跡は現在、灯台が作られていて、そこからの見晴らしは素晴らしいものでした。現在の紀ノ川河口もよく見えました。その先に新日鉄住金の大きな工場もあります。ちょっと右に転じると、和歌山城を含め市街中心部も展望できます。おそらく現在の河口が整備する前は、この大浦まで湿地が続いていたのではないかと思います。攻めてくるにしても水路もなく、むろん歩くこともできず、当然のようにこの旧河口まで来ないといけなかったのでしょう。
今日雑賀崎周辺のまちを歩いていて気づいたのですが、割合、水路があちこちに走っていました。排水路として使われているようですが、幅1m位はありそうでした。蓋がされていない水路が相当あったように思います。水が流れているところもあれば、まったく流れていないところもありました。流れているところではどぶ臭いところもありました。
他方で、暗渠という蓋付きも相当ありました。中には一部をグレーチングにしているところもあったり、蓋部分を簡単に開けれるようなものもありました。簡易に鉄板を置いているのもありました。
私は都市の美しさは、そこに清らかな水が流れているかで決まると勝手に思っています。そういった水路があると自然心がやすらぎます。そして当然、そこに住む人たちの日常的な努力や配慮が自然と目に浮かべることができます。道で会っても会話が弾むかもしれません。
臭いものに蓋ではないですが、大事な水、よくも悪くもするのは、そこに住む人の心持ちでしょうね。そういった町の構成員になることに誇りをもちたいと思うのです。ギリシア・ローマの市民権というのはそういう基礎がなかったのでしょうかね。
ギリシア・ローマ法の思想とは脈略はないと思うのですが、北欧の人たちは市民、国民であることを誇りに思っているように思えるのです。高い税金を支払うことは当然のこととも思っていますね。行政サービスが納税を気持ちよくする程度に充実しているのでしょう。自然も自由に享受できるという、誰もがその自然を大事にするという考え方、私たち日本人にもあったはずですが・・・
今日はこの辺でおしまい。また明日。
補筆
地名をいい加減に書いていましたが、少し気になり調べると、やはり間違っていました。<日本遺産 絶景の宝庫 和歌浦>と<地理院地図>で確認しました。
紀ノ川河口の中世の地名「大浦」に影響され、つい港や漁協、町の名前を「大浦」と書いてしまいましたが、「雑賀崎」が正解でした。大浦という名称は水軒川の河口付近で今も名前が一部残っていますが、あまり使われていないようです。
日本遺産の解説は参考になりましたが、ちょっと気になります。「若の浦」と呼ばれていたのが、ある時期から和歌の聖地となり、「和歌浦」となったというのはその名勝的価値がだれもが認めるところだったのでしょう。
山部赤人がうたった
若の浦に潮満ち来れば潟をなみ
葦辺をさして鶴鳴き渡る
(万葉集巻6 九一九)
は、葦の繁る潟が自然に浮かんできます。鶴が一斉に飛び立つ姿も豪快です。それとも遠くの空を群れになって飛んでいたのでしょうか。
でもその景勝のある景観はどこをいうのでしょう。現在の和歌浦港や片男波には残念ながらそのような心洗われるような景観を見いだすことは容易でないですね。実際、紀ノ川の河口を現在の位置に移し、同時に小河川を市街地から遠ざける、ある意味利根川東遷の小規模モデルとして北遷した江戸初期に大きく景観が変貌したと思うのです。
聖武天皇や山部赤人が見たのは、大浦の河口を臨む、雑賀崎の突端(灯台のあるところ)とか、ちょっと下った番所の鼻あたりからではないかと思うのです。
上記の日本遺産の「和歌浦」の一番最初に取り上げた写真は、まさに雑賀崎の突端から撮影されたものだと思われます。右から大島、中ノ島、双子島が並んでいます。そして双子島の2つの島がちょうど一直線となって奥の島が隠れる位置が雑賀崎の突端、灯台のある位置付近だと思われます。
日没の情緒も天平時代の歌人は好んだのではないかと思うのです。その夕日が落ちるところに、淡路島の島影がシルエットになるのも古事記の世界と連動するような印象でしょうか。