たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

自宅診療ナウ <ドキュメント 訪問診療の暑い夏1~8>を読んで

2017-08-17 | 医療・介護・後見

170817 自宅診療ナウ <ドキュメント 訪問診療の暑い夏1~8>を読んで

 

昔のお医者さんの面影というと、ビートルに乗って、思い革の鞄を持ち、威厳のある格好でやってくるおっかいない大人、というイメージが私のどこかに残っています。

 

戦後初期頃までは訪問診療がまだ田舎では結構あったのかなと思いながら、うっすらした記憶が生きています。幼い頃病弱だった私にはおっかない医師が必要だったのかもしれません。その後長く病院や診療所に行く機会がなく、訪問診療といったことも忘れてしまうようなこの頃です。

 

私が横須賀にいた頃関わったのは医師・看護師グループを中心とする終末期医療を自宅でという実践活動への支援でした。上記の私の危うい記憶を思い起こすこともありませんでした。

 

いま毎日朝刊で連載してる見出しの記事は、すでに8回になり、「訪問診療」という言葉がなにか身近に感じるようになりつつあります。まだ連載記事は続くようですが、ひとまずこれまでの掲載記事を読みながら、訪問診療の実態についてその切れ端を並べて、その将来を少し考えてみようかと思います。

 

と思ったら、最近、腕の痺れが少しでてきており、今日はとくに痛みが強くなる嫌な感じですので、少し手加減して、手短で簡潔にしたいと思います。

 

ドキュメント訪問診療の暑い夏/1(その1) 「虫の知らせ」命救う>では、主人公の<「たかせクリニック」(同大田区)の高瀬義昌医師(60)>について、<「医療のプロだが、同じ人間同士」との思いで、白衣は着ない>と紹介しています。

 

私は白衣が人と人との触れあいを遮断する、人を見ない医師を育てるという面があることを忘れてはいけないと思うのです。

 

訪問診療のスケジュールにない、介護施設に高瀬医師は一人で駆けつけました。そして<異変は、その背中をひと目見て感じた。>聴診器を取り出して診察した高瀬医師、<女性は感染症が疑われた。「キュウハンしますか?」。隣にいた施設長が「救急搬送」を依頼すべきか尋ねてきた。「した方が安全だね」  「虫の知らせ」でここに来た。>というのです。

 

そして<彼女のことは、病歴から処方した薬の効き具合まで頭に入っていた。天候の変化で自律神経や免疫力に影響を受けやすい。「だから、僕の頭の中では彼女に旗を立てていた」。命を救った「虫」の正体は、患者と向き合って得られた多くの「情報」なのかもしれない。車に戻ると「来てよかったあ」とつぶやき、座席に身を沈めた。>

 

これは大変な仕事です。そしてまさに医療の「現場」に終日対応しているのです。

 

続いて<訪問診療の暑い夏/1(その2止) 長い1日「おもしろい」>では、上記の救急搬送の後に向かった<集合住宅の一室。大柄の70代の男性がすり足で出迎えた。先に入った看護師が、血圧や酸素量を測りながら話し始めた。「お酒は飲んでらっしゃらない?」「4月から一滴も飲んでない。足が動かずに怖い目にあったから」。うれしい報告だ。

 ひと足遅れて、先生も話に加わる。最近、検査入院したらしい。「よく勇気を持って病院行ってくれたよ」。病気の正確な診断は治療の基本だが、悪い現実を受け入れたくなくて、病院から遠ざかる人もいる。だから「勇気」とねぎらったのだ。聴診器を当てた後は肩までもみ始めた。「だいじょぶ、優等生! また困ったことあったらすぐ言ってね」>

 

当然ながらまったく異なる環境で、患者の症状も異なります。でも高瀬医師は患者の生活全般を全身で受け止めて診療に当たっているように見えるのです。

 

<朝から13件の診療を終えるともう午後5時近かった。車を降りて出た言葉は「ああ、おもしろかった」。プロとしての達成感と、13人の人生を少しでも支えていることの喜び、だろうか。>いいですね。

 

次の<訪問診療の暑い夏/2 薬の種類、徐々に減らす>は、少し前このブログでも一部取り上げました。

 

今度はアパート。<神奈川県の川崎市内にある2Kのアパートに向かった。80代と70代の老夫婦は、最近訪問を始めた新患。狭い玄関で靴を脱ぎ、台所を通り、6畳間の布団にいた夫に声をかけて、奥の部屋のベッドに横たわる妻から診察にかかった。>

 

高齢者の薬の服用は過剰になっていることが少なくないですね。高瀬医師は<「いい話があんの。糖尿病はよくなった!」。12種類もの薬が出ており、見直しに着手する頃合いだ。まず三つの糖尿病薬、念のため一つ残して二つを消す。高脂血症薬も同様に減らせると判断した。後でクリニックから薬局にファクスを入れれば、2週間分の薬が届けられる。高血圧薬も四つあるけれど、食事の見直しなどでさらに減らせそう。でも、急にはやらない。相手の気持ちを考えて徐々にやっていく。>と患者の気持ちに寄り添いながら誘導していくのです。夫も同様です。

 

薬の適切な服用は年老いた患者には困難なことが少なくないでしょう。高瀬医師はその点もしっかり配慮。< 「じゃあ、ぼちぼち頑張ろう」。部屋を出て車に乗り込むと、夫婦を受け持つケアマネジャーにすぐ電話した。日々の生活を支える介護保険のサービスは、ケアマネが計画する。夫は脳梗塞(こうそく)の後遺症で歩けない。押しつけがましくないように「リハビリできるといいんだけどなあ」と提案する。ケアマネから新たな情報も入る。ヘルパーが促さないと薬を飲めないようだ。>

 

訪問診療は一人の医師・看護師ではできません。多様なサポートが必要です。その核となる一人がケアマネでしょう。

 

続いて<訪問診療の暑い夏/3 「独居で認知症」に挑む>では、認知症患者が相手。

 

状況は<1人暮らしの80代の女性を支えるため、医療や介護の専門職が集まり、親族も交え話し合う。その初顔合わせの日だ。電車が通ると、声はみな大きくなる。認知症だが本人には自覚はなく、病院に連れて行くのが難しい。訪問診療の出番だ。>

 

<「お国はどちらでしたっけ?」。先生はやさしく話しかけた。女性は散歩好きで、迷っては警察に保護される、その繰り返しだという。「入院するとドーンと悪くなる。できるだけ長くここでやれるようにしていきたい。よろしくお願いします」。大きく、はっきりと伝えた。

 6月末、午前8時。クリニックの開業時刻前なので、先生は自分で運転して女性宅に来た。急いだのは、女性が散歩に出てしまうからだ。これまでも何回か「空振り」していた。チャイムを押すと、ケアマネジャーがドアを開け、「前座を務めてました」と笑顔を見せた。よかった、今日は間に合った。あいさつしながら、クリニックのパンフレットを渡す。先生の顔写真が載っているのがミソ。「みかけた顔」になれば女性の気持ちがほぐれてくる。>

 

私も認知症の方、認知症になりかけの方、さまざまなタイプの方を、仕事上、対応してきました。まだらの場合、その方の不安な気持ちを理解しつつ、その動揺する言葉を否定しないで、丁寧に受け止めながら、話を聞いてきました。根気のいることでしょう。

 

高瀬医師の<体温を測る。順調かな……。そう思ったとたん、女性は不機嫌になる。「いったい、どういうことなの!」。カルテをとじた青いファイルを2度3度、左手でたたく。先生は「これはねえ、役所のね……」。こういう時は「役所」という言葉が有効だ。女性も納得してくれた。そのあと先生が「ヘルパーさんに、買い物行ってもらえば……」と言うと、また不機嫌に。「買い物は1人でやりますから。人にやってもらうのは嫌」。ケアマネが「そうそう、嫌なんですよねえ」と素早くフォローした。「善意」がそのまま通じないのが認知症ケースの難しさだが、挑みがいもある。>も参考になります。

 

今度はチーム連携です。<訪問診療の暑い夏/4 留守役、息の合った連携>では<クリニックの患者は400人弱。2週間に1回の訪問が基本だが、その間にも相談の電話は頻々と入る。すべてを先生につなぐことはできないから、看護師の「前さばき」は重要になる。新患が入れば、訪問診療の前に説明に出向き、日常生活の様子を聞き取る。患者が退院して在宅に戻る時の病院との打ち合わせも、看護師が先生の代打ちをすることが多い。>

 

介護施設、訪問介護事業者、疾病に応じた専門医や入院が必要な場合の病院など、など、いろいろな手配連絡が不可欠でしょう。医師一人でできることは限られます。いい仕事は多様な関係者との連携とチームワークによって成り立つのでしょう。

 

そして重要な主役の一人は家族です。<訪問診療の暑い夏/5 肩肘張らず遠距離介護>では<東京都大田区に1人で暮らす山口貴美子さん(96)宅には毎週金曜の夜、大阪から長男、省三さん(68)がやって来る。週末ごとの遠距離介護は2年目になった。>

 

長男さんは頑張っています。<7月1日土曜日の朝9時すぎ、開店直後のスーパーに省三さんが姿を見せた。コロッケを三つに焼き魚2品。野菜の煮物も忘れてはならない。買うものは決まっているから滞在時間は5分ほど。総菜19品、しめて4230円。毎週決まって、ここで1週間分の食べ物を調達する。それが長男の「土曜朝の日課」だ。>

 

母親は訪問診療・看護は受け入れるのですが、<介護サービスは受け入れない。「面倒みてもらうのは嫌だ」。何度勧めてもダメ。最後は土下座までして「イヤ」を貫いた。食事はどうするのか。宅配弁当を頼む手もあったが、ゴミ出しができない。そこで長男の登場となった。>こういう女性、明治(もういないでしょうね)大正生まれに多いのですよね。私の母親もそうでした。

 

長男さんの思いやりもいいなと思うのです。<家族構成を聞かれて「4人です」と答えていた母。父も弟も病気で亡くなってもういないのに。そういえば、家族用サイズの炊飯器いっぱいに、ご飯を炊いている。「お父ちゃんと弟の分も炊いてるんだな」。母は昔の世界に生きているようで、認知症の心配もある。「好きな時に寝て食べて、ゆっくりできる。今が母にとって最後のチャンスかなあ」>と。

 

その家族をも支えないと訪問診療は成り立たないのですね。<訪問診療の暑い夏/6 患者支える家族もみる>では、<「お母さん、夜眠れてる?」。6月末、東京都大田区の訪問診療医、高瀬義昌先生(60)の月2回の定例の訪問診療。区内の夫婦2人暮らしの家に来て、先生がまず話しかけたのは妻の方だった。患者の夫より先に。「少しは。……ワインを飲んでみたんですよ」「お母さん、飲むなら漢方(薬)がいい」。妻はあれっという顔になる。「先生、聞く相手が違います……」

 間違えたわけではない。「患者を支える家族もみる」が先生のポリシーなのだ。「お母さんが先に倒れちゃダメ。倒れたら、お父さんが大変だから」。そう言葉を重ねた。>

 

まさに訪問診療の醍醐味であり、医師の本領発揮でしょうか。

 

帰り際も見事です。<「お父さん、またねえ」。診療を終えると、先生は患者と握手する。親密さを伝えるのと同時に、最後にもう一度、手の震えや関節の硬さなど異変がないか感じ取りたいから。そして見送りの妻にも、車から一言を忘れない。「からだ大事に。奥様の方がね」>と。

 

いつは死を迎えるのですが、自宅が一番でしょう。<訪問診療の暑い夏/7 自宅で最期を迎える>で、みとりをこころ安らかな方法で行われています。

 

<東京都品川区の自宅で、昭子(てるこ)さんは息を引き取った。享年90。大腸がんだったが痛みは少なく、穏やかな最期だった。>

 

<みとりは、痛みを和らげたり体の状態に合わせた食事を考えたり、残りの人生を穏やかに過ごすのに主眼を置く。点滴など「生き続けさせる」措置はしない。ただ、家族にはつらい場合もある。何か食べたそうに見えるし、唇に食べ物が触れると口を動かすこともある。「それって、反射現象なんですよ」。訪問してくれる看護師とやり取りしながら、迷いのあった長男(65)も腹が決まった。

 「9人きょうだいで育った母は、ゆっくり食べたら自分の分がなくなるって、食べるのは速かった」。それが徐々に、何も口にしなくなった。<枯れるように死ぬ>。手渡された先生の自著にあった一文そのままに、午前2時過ぎ、命を閉じた。

 しらせを受けて駆けつけた看護師が昭子さんの体を清め、きれいな姿にしてくれた。そして、亡くなった後も数日間、家で過ごした。病院で亡くなると、人は「遺体」として扱われるが、自宅では少し違う。遺族はもちろん、お世話になったデイサービスのスタッフやご近所さんとのお別れの時間がたっぷり取れた。好きだったフラダンス用の純白のドレスを家族が着せ、見送った。>

 

今回の最後<訪問診療の暑い夏/8 父入院、動けない娘は>では、場所が、<トタンを壁に打ち付けた2階建ての貸家だ。>こういった場所も訪問診療では当然、重要な舞台となるのでしょう。

 

<古希をすぎた父と女性の部屋は散らかり放題だった。畳の床はたわんでいる。食べ物や薬のにおいが混じり合って室内に籠もっていた。確かに退院した父親が、ここですぐ生活するのは難しいだろう。>心配して毎日尋ねてきているという<兄だって仕事がある。>

 

訪問診療の生の現場は、まさにさまざまなヘルプが求められるのです。

 

<「介護保険を申請しようとしたけど、主治医が必要で……」。要介護認定の申請には主治医の意見書がいる。「俺がなってあげる」。先生が即座に請け合う。あとはケアマネジャーと、入院費など費用の相談に乗る人も必要だ。次の訪問先に向かう道すがら車内から親しい税理士に電話を入れ、入院に合わせて家に来てもらうことにした。父親の退院を延ばすよう病院にも掛け合わないと。クリニックの看護師に電話を入れて指示する。

 女性の世話をしていた母親は、数年前に他界した。福祉サービスの手続きもせず、なぜ彼女がふせりがちなのかわからない。障害のある子どもを親がひとりで抱え込むと、その親が倒れた時に困ってしまう。福祉のサービスはいくつもあるが、助けを求めなければ声は届かない。>

 

最後はやはりさすがですね。

 

<訪問の最後には写真撮影をする。「記念写真」ではない。撮っておいてカルテに貼っておけば、クリニックの誰が来ても、患者や家族の顔、その時々の状況がわかる。女性と兄、税理士と先生がうまく納まるよう斜めに<隊列>を組んで並んだ。「救助隊!」。先生がおどけると女性が噴き出し、みんなもつられて笑った。>

 

なんだかんだといいながら、痛みを少し忘れて、高瀬医師の思いに乗り移ったようで、最後まで読んで、引用させていただきました。指先がびりびりしてきました。危ない状況。

 

今日はこれでおしまい。


水銀と人の歴史 <水俣条約 発効 水銀汚染、根絶へ課題は>などを読みながら

2017-08-16 | 廃棄物の考え方

170816 水銀と人の歴史 <水俣条約発効 水銀汚染、根絶へ課題は>などを読みながら

 

今日のテーマをある少年の感動的な更生をめぐる記事に注目して取り上げようとしたら、ウェブに掲載されておらず、テーマを変更しました。

 

今日「水銀に関する水俣条約」が発効されたということで、毎日朝刊は1面で<水俣条約発効 水銀製品、原則禁止へ>として、<世界最大規模の有機水銀中毒事件「水俣病」の被害を繰り返さない決意を込めた日本の提案で、条約名に「水俣」の地名が冠された。日本は条約に沿った水銀規制を盛り込んだ水銀汚染防止法制定などの準備を経て、16年2月に条約を締結した。>と「水俣」という地名を冠した含意を取り上げています。

 

ただ、<国連環境計画(UNEP)によると、人為的に大気中へ排出されている水銀は年間約2000トン。半数以上が途上国でのASGMや、石炭など化石燃料を燃やすことによって排出される。>ということですから、その現在の環境や人への影響はそれほど大きいともいえません。<条約事務局によると条約を締結したのは、14日現在で73カ国と欧州連合(EU)。>という加盟国の数は関係国もさほど多くないと一応はみてよいのかもしれません。

 

条約自体、<発効に伴い、水銀を含んだ蛍光灯や電池などの製品の製造や輸出入が2020年までに原則禁止されるほか、今後15年以内に水銀鉱山からの採掘もできなくなる。また途上国での零細小規模金採掘(ASGM)での水銀使用も減らすよう求める。>ということで、世界全体の経済への影響はさほど影響があるとは考えにくいように思います。

 

より詳細は環境省の<水銀に関する水俣条約の概要>や、その<条約解説>で大筋は理解できると思います。

 

毎日朝刊は13面で特集し、<水俣条約 発効 水銀汚染、根絶へ課題は>として、日本とフィリピンのNPO、それに環境省の担当者にそれぞれの視点から水銀汚染の根絶が容易でないことと、その対策を語ってもらっています。

 

だいたい水俣病自体、いまなお解決されていない事実を私たちは忘れてはいけないでしょう。水銀自体の毒性も問題ですが、さまざまに利用されることにより化学変化し、特定の健康被害の原因物質を特定するのに多大な時間がかかった経験を活かす必要があるでしょう。また、微量摂取の場合の慢性毒性では他の疾病との識別を困難にすることがあることも注視しておく必要があるでしょう。一旦、排出されたら、さまざまな生態系プロセスで多様な影響があることも、忘れてはいけないでしょう。

 

<NPO「水俣病協働センター」理事・谷洋一さん>は、<日本政府の姿勢の最大の問題点は、水銀中毒の人体への影響を極めて過小評価していることだ。>と強調しています。

 

年間数10トン前後の水銀を輸出していることにについて、谷氏は<水銀の回収や管理については、日本国内で出る水銀はやはり国内で処理し、保管すべきだ。輸出された先の国々で汚染につながることはやめなければいけない。国内のどこで保管するのかを含めて、そうした水銀処理のシステムを早急に確立すべきだ。>と、安易な有毒廃棄物の海外移転を非難しています。

 

また、<比NGO「バントクシックス」職員、アーリーン・ガルベスさん>は、条約は<新規水銀鉱山の開発禁止。既存鉱山からの産出は発効から15年以内に禁止>としつつ、途上国の経済や地域の生活を維持するため、<零細小規模金採掘(ASGM)は使用を削減>としたことに関連して、水銀が危険なものであることを<フィリピンのような貧しい国では、教育を受けていない人はその恐ろしさを知らない。知識がないまま使用し、健康被害を引き起こしているのが現状だ。条約を通じて多くの国が協力し、貧しい国にも水銀についての教育と規制が広まってほしい。>と訴えています。

 

これを読んでいて、わが国も古代から水銀を利用して長い間、虐げられた人たちがその有毒の犠牲になってきた、そして水俣病も多くの献身的な医師や弁護士、無数の支援者のおかげで問題が明らかにされたのは長い年月をかけ、ようやくでした。

 

少し横道にそれますが、水銀は金、銀、銅などのアマルガムとして重宝され、東大寺大仏の金メッキでも大量に使われ、労役を課されたたちに多くの健康被害を生じさせたのでしょう。帚木蓬生著『国銅』ではその点も描写されていたと記憶します。

 

わが家から遠望できる雨引山の背後には丹生都比売神社が鎮座していますが、丹生は水銀のある場所として古来、地名とされてきましたが、その世界遺産ともなった神社は元は水銀を祀っていたとも言われ、その後は豊作のための雨乞いを祈るようになったとも言われることがあるようです。

 

縄文時代以来長い間、水銀は有用性があるものとして利用されてきたわけです。で、現在も途上国を中心に金の精製に利用されているのです。

 

ガルベスさんは<フィリピン国内では金の混じった鉱石や砂を採り、そこから金を精製する「零細小規模金採掘(ASGM)」の現場で水銀が使用されている。水銀を金鉱石などと混ぜると合金ができる。これを熱すると、水銀だけが大気中に蒸気となって飛散し、より純粋な金ができる仕組みだ。>と指摘します。

 

映画「ブラックダイヤモンド」では暴力集団が略奪してきた子どもを使って、新たな殺戮を繰り返すとともに、河で金を見つけさせ、密輸して兵器などの資金源にしている状況を描いています。

 

ダイヤモンドや金、だれが欲しがるのでしょうか。よくその生産方法や過程が適法におこなわれている保証を国際的には求めていると言われていますが、それを担保するだけの法制度は途上国、とりわけ紛争地帯や秩序が安定していないところでは、そのような制度があっても意味をなさないでしょう。

 

その意味では、金やダイヤモンドを利用し、消費する人が、どのような意識をもつかが問われているように思うのです。

 

<環境省水銀対策推進室長・西前晶子さん>の指摘は、環境省職員としては的確な内容だと思いますが、現状の問題に対してどこまで有効に働くか、注視していく必要があるでしょう。

 

中途半場ですが、今日はこの辺でおしまいです。


事故と安全対策 <奈良・小型機墜落 目撃者「燃えながら落下」 2遺体発見>などを読んで

2017-08-15 | 事故と安全対策 車・交通計画

170815 事故と安全対策 <奈良・小型機墜落目撃者「燃えながら落下」 2遺体発見>などを読んで

 

この時期日本中がお盆行事とレジャーで静寂さと賑わいを醸し出しているように思えます。終戦の日の今日、日本武道館では戦没者追悼式が天皇皇后を迎えてしめやかに行われました。田舎ではお墓参りで普段は閑散とした古家や町にも賑やかな雰囲気に包まれているでしょう。国内外に旅行に出かける人も大勢ですね。

 

そんな中、毎日朝刊は2つの事故を報じていました。一つは見出しの軽飛行機が墜落しご夫婦が亡くなったとのこと。もう一つはカヌー転覆で10歳児死亡とのこと。

 

いずれもご本人、ご遺族は残念で辛い思いでしょう。小型機の事故はそれほど多くないと思いますが、時折発生し、死亡事故につながっていますね。前者は航空機事故ですから本格的な調査が今後行われると思いますが、とりあえず毎日記事から事故原因と安全対策がどうだったか、素人の目で見てみたいと思います。

 

私はカナダ滞在中、なんどか小型機免許をとろうと検討したのですが、結局、雑務に追われてたりして断念しました。まったく知識はありませんが、小型機を操縦することが一つの夢でした。とりわけ水上飛行機ですね。

 

で、今回の事故機はソカタTBM700という私がこれまで乗せてもらった軽飛行機に比べ立派な機体で、毎日記事では「快適性にもすぐれて、高級自家用機などとして利用されている。」とのこと。パイロットならきっと操縦してみたくなるようないい機ですね。

 

しかし、その高級自家用機が上記記事によると、<警察や消防には「燃えながら落ちた」「回転しながら落下した」などの目撃情報が寄せられた。>ということですから、突然の異変が発生したのでしょう。

 

<県警によると、離陸16分後の午後0時13分、男性操縦士から関西国際空港の小型機専用の管制に「八尾空港に引き返す」と連絡があり、3分後にレーダーから消えた。>

 

続報の<「機体は空中分解していた」事故調査官>では<運輸安全委員会の航空事故調査官は15日、「周囲の樹木が折れた状況から、機体が空中分解していたのは間違いない。ほぼ垂直に落ちた」との見方を示した。>というのですから、見出し記事で紹介された<航空評論家の小林宏之さんは目撃情報から「両翼にある燃料タンクに引火した可能性が高い」と指摘。「失速して操縦不能のまま、きりもみ状態で落ちたのではないか。エンジンか燃料系統のトラブルが考えられる」と話している。>というのが実態に近いかもしれません。

 

以上の経緯から、異変を感じてほんの数分で空中分解になるほどに至ったわけで、脱出その他逃れる道はなかったのでしょうね。

 

時折パラシュートがあれば助かるのではといったことを考える人もいますが、よほど訓練を積んでいる人でないと、いくら速度がさほどないといってもかえって危険でしょう。

 

今回はまさにエンジンなど飛行機の燃料系統などの不具合が想定されるわけですが、それもかなり重要な不具合があったのではと思うのです。

 

というのは、私自身、四半世紀前のことですが、アマゾンの森の上をセスナ機で飛んでいるとき、突然、エンジン音が聞こえなくなり、操縦席を見るとパイロットがなにか機器をあっちこっち触っているのです。むろんプロペラも止まっています。空中遊泳でした。なんとも不思議な感覚でした。

 

そのときパイロットが悠長に話したのは、以前、アマゾンの森の上でエンジンが止まり不時着し、そこから町に何日かかけてたどり着いた人がいるということを持ち出し、安心させようとしたように?思います。むろん、広大な森の中で不時着するのも大変ですが、その後歩いて町に出るなんて不可能に近いと逆に不安にかられました。

 

そのとき思ったのですが、エンジンって突然、エンストみたいに止まるんだ(とくに古い被告機の場合?)、でもグライダーみたいに浮力で簡単には落ちないのだと、そのとき結構な風圧を感じながら浮遊していたのを覚えています。

 

パイロットがどのくらいでしょうか、10分にも30分にも感じられましたが、かなりの時間悪戦苦闘?して、ついにエンジンが起動したのです。そしてアマゾンの広大な森から無事脱出できました。

 

でもそのエンジンが燃焼するような自体になれば、飛行機は燃料のガソリンを満タンに積んで離陸したばかりですから、燃え移り爆発するのは必至ですね。

 

それだけ離陸前の整備・点検が大事です。

 

航空法は73条の2

 

「(出発前の確認)

第七十三条の二  機長は、国土交通省令で定めるところにより、航空機が航行に支障がないことその他運航に必要な準備が整っていることを確認した後でなければ、航空機を出発させてはならない。」

 

と定めており、操縦していた機長は、奥さんを同伴していたわけですから、いつもより念入りに確認したと思うのです。

 

実際、<整備会社「7月上旬整備、異常なし」>の記事では<八尾空港内の整備会社「エアロラボ インターナショナル」によると、墜落した小型機は同社が6月末から7月上旬にかけて整備し、異常はなかったという。>しかも<同社は田中さん夫妻と約3年前から付き合いがあり、この日も担当者が田中さんと一緒に機体を確認したという。担当者は「燃料は満タンで5時間半は飛べる。エンジンも問題なかった」と話した。>というのですから、法的な意味での確認義務は履行されたと思われるのです。

 

ただ、平成206月付け航空局航空機安全課の<飛行前点検の取扱いに関する通達の改正について>という通知では、機長の確認義務について、<機長は、当該確認において、航空日誌等の整備記録の点検、航空機の外部点検、必要な機器の作動点検等を実施することが求められています。>とされていて、そのうえ、<航空機安全課長通達において、航空会社に対し、原則として、 法第20条第1項第4号の能力に係る認定事業場(航空機整備改造認定事業場)の確認主任者 又は有資格整備士(以下「確認主任者等」という。)による飛行前点検の実施とこれに必要な人員の配置を求めています。>と厳しい安全対策を必要としています。

 

ところがこの厳しい安全対策について例外を認め、<機長の出発前点検により安全の確保に支障がないと認められる場合には>「飛行前点検を省略」することを許してきたのです。

 

法令にはないので、通達で許容してきたのでしょうか。それでは整備体制が確保されていないと問題だということで、<整備部門との連絡体制や不具合発生時のバックアップ体制についての基準を設定する予定>というのがこの通知の趣旨ですが、その後改正されたのか、まだ見つけられていません。

 

なぜ問題にするかというと、見出しの記事で<国交省によると、同機は今月11日に八尾空港から神戸空港に向かう際、無線電話に不具合があり、引き返すトラブルを起こした。>というのですから、はたして整備が的確になされていたか、また、このトラブルの原因を解明し整備できていたのか、気になるところです。

 

それに事故にあった機長はわずか数日前のトラブルについて認識していたのかも気になります。ひいては担当者の話が、航空日誌等の整備記録等で裏付けられるのかも注視してみたいと思うのです。

 

すばらしい機体であっても、エンジンなど主要部分に不具合があれば、危険物体になるのですから、再発防止のためにも、また、亡くなったお二人のためにも、徹底的な事故調査を期待したいと思います。

 

もう一つのカヌー水難について、<水難事故西日本で相次ぐ カヌー転覆、10歳死亡 島根>の記事では、

 

<14日午前10時46分ごろ、島根県益田市横田町の高津川でカヌーをしていた松江市の男性(49)から「カヌーが転覆し子供が溺れた」と119番通報があった。溺れたのは男性の三男(10)=小学5年=で男性が救助したが、搬送先で死亡が確認された。県警益田署などによると、男性は男児とその弟(8)とともに約3キロ上流からカヌーに乗っていた。男性と弟にけがはなかった。3人ともライフジャケットを着用していた。>というのです。

 

カヌーは何度目かの流行に近い状態でしょうか。私が始めた40年くらい前も少しはやっていましたが、少数派でした。しばらくして野田知佑さんが著作やTVで取り上げられ、ちょうど長良川河口堰などの反対運動に乗り出すなど、全国版になったように思うのですが、カヌーをやらない人にもカヌーの存在が知られるようになったかなと思います。

 

カヌーはだれでも簡単に乗れるものですから、法令の規制はありません。インストラクターの団体などが以前から任意に安全対策を講じてきました。

 

本来、カヌーは安全な乗り物ですが、川下りではヘルメットをつけライフジャケットを身につけるのがマナー(安全対策)です。日本の急流下りくらいだと馬鹿にしていると、沈(転覆)して起き上がれず流されることもあります。岩場が多いので、体中怪我することもありますね。

 

ましてや子どもやビギナーは、ちょっとしたことで沈すると覚悟しておいた方がいいと思います。

 

そのときライフジャケットを着けているから本当は安全なのですが、これも過信してはかえって危険です。私は一度、まだあまり慣れていない人と川下りしていて、排水口から大量の水が出てくるところで流れにのまれて沈したのです。ライフジャケットを着けているのですから、一旦沈んでも浮いてきますし、カヌーに捕まればなんてことはないのですが、慌ててしまうと、かえって水を飲みこみ、ますます動転して、救出することも容易でなくなります。

 

この10歳のお子さんも、ライフジャケットを着用していたわけですが、沈して動転し、水が口に入ると自然に浮くことも忘れてしまったのでしょう。かわいそうですね。ライフジャケットを着用させるだけでなく、私なら一度は水の中に落として浮かぶことを体験させておくことを勧めます。水の怖さにある程度慣れておく必要もあります。また、カヌーが裏返ったときにどう捕まるかも体験しておくといいでしょう。

 

そうすれば、エスキモーロールといった基本的なスキルも身につけることが容易になってくるでしょう。水中でパドル操作するなんてことが当たり前になるのです。というか上達すればパドルもいらない、いやほんとの急流だとパドルも使えないのですから。

 

余談がすぎました。安全対策は、いかにライフジャケットを着用していても、不十分であることを確認しておきたいと思います。そしてたのしい夏の休暇を楽しんでもらいたいと思うのです。

 

今日はこれでおしまい。

 

 


家庭養護とは <社説 虐待された子らの養育 里親・養親をどう増やす>を読んで

2017-08-14 | 家族・親子

170814 家庭養護とは <社説 虐待された子らの養育 里親・養親をどう増やす>を読んで

 

今朝は結構寒さを感じました。まだほの暗いうちでしたが、たしか温度計が24度だったように思います。わが家は玄関が北東向きでしょうか。朝は周辺の住宅のおかげで朝日が当たるのが遅いように思います。他方で、西日はスギ・ヒノキ林のおかげか、その西方に屹立する和泉山脈のおかげか、さほどきつくないように思うのです。といっても西日が当たる時間はわが家にいないので実際はよくわかっていないというのがほんとです。

 

朝日と西日がさほど降り注がないおかげもあるのでしょうか、エアコンのお世話にもならずに過ごしています。といっても長年、夏は暑いのがいいと勝手な解釈で汗だくだくでもエアコンをつけることはまずなく、汗をかいた後はシャワーを浴びるのが一番いい冷房でしょうか。そのおかげか、若い頃、なんども熱帯地域を調査しましたが、なんとかもちました。

 

さらに高校時代、弱い野球チームのメンバーとして気持ちだけは甲子園を目指して炎天下の夏も真っ黒になって倒れる状態になるまで頑張っていたおかげで、多少は暑さに強いのが残っているのかもしれません。

 

話変わって、今日の本題、見出しの社説記事ですね、なぜ選んだのか、少し考えてみたのですが、多少、映画「愛する人」(原題: Mother and Child)を含め、アメリカ映画でadoptionが頻繁に取り上げられ、なんとなく気になっていたからかもしれません。

 

とくに「愛する人」は強い衝撃を受けたように思います。若い黒人夫婦が子どもが生まれない中で、養子を尼僧に相談し、養親を探している未成年の少女との仲介をするのですが、その少女が厳しく養親の審査を行い、それまですべての候補者が拒絶されていたのです。その少女が黒人夫婦に対する面接審査や家庭訪問での親族チェックなど、少女の鋭い観察と質問には驚かされます。

 

それ以上に驚くべき事は、その生まれてくる子は、生まれた瞬間に病院内で養親に引き渡されるのです。たしかにその方が産んだ母親にとっても養親にとっても、そして最も配慮すべき養子となる子にとっても望ましいかもしれません。わが国の里親や特別養子制度とはその点で大きく違っています。

 

映画のストーリー展開はさすがに意表を突く内容ですが、ラストシーンはとても心が安らぎました。とくに別のストーリーで登場する、やはり少女時代に子を産み、実母のせいでその子を手放した母親役として老いた姿のアネット・ベニングにも驚かされました。ヘップバーンが華やかで妖精のように軽やかに振る舞った若さを失い、動きのない老女の天使となって登場した映画「オールウェイズ」にはびっくりしたものの、さすがに気品を感じさせてくれました。しかし、ベニングは意地悪で疲れ果てた中年女性という、びっくりするような役柄で、一度見たときはわかりませんでした。

 

どうもすてきな二人の女優に気がとられ余談で横滑りしてしまいます。話を元に戻します。

 

なぜアメリカ映画ではadoptionが多いのかといえば、ウィキペディア情報では、世界中で飛び抜けてその比率が多いのです。欧米自体、結構な比率ですし、とりわけ北欧は高いのですが、その数倍の比率なのですね。その背景事情までは読めていませんが、アメリカ特有の事情をうかがわせます。これと比べわが国はきわめて低いと思います。

 

ところで、上記毎日社説は<虐待などで親と暮らせない子どもの8割以上が児童養護施設や乳児院にいる。厚生労働省はそうした現実を抜本的に変え、里親や養親などによる家庭的な環境の中で育てていく方針を打ち出した。>と基本的に、施設での養育を主眼とするこれまでの仕組みを大きく変えてようとしているわけです。

 

といっても方針は<特に未就学の子の施設入所は原則停止する。3歳未満は5年以内、3歳以上も7年以内に里親委託率を75%にする目標を掲げている。>わけで、アメリカの例のように、生まれた段階からの養親家庭での養育までは想定していないようです。

 

どちらがいいのでしょうか。簡単にはいえないでしょうが、<日本財団 ハッピーゆりかごプロジェクト 特別養子縁組とは・養子縁組に関する予備知識>によれば、<特別養子縁組になる子どものほとんどは、予期しない妊娠、とくに貧困、レイプ、学生、風俗、パートナーの裏切りなど、女性にとってはとても複雑で苦しい状況の中から生まれてくる子どもです。>というのが実態ではないかと思うのです。

 

むろんそういった状況でも、わが子を育てたい、育てる意思と環境が整っていればいいのですが、そうでないと、一旦、望ましくない条件下で育った子は、里親や養親にとっても、なかなか養育がうまくいかないように思うのです。

 

2009年12月の国連総会決議された「児童の代替的養護に関する指針」は長文ですので、なかなか読み切れないので、内容を取り上げることは今回はやめますが、上記日本財団の情報を引用させてもらうと<産みの親とその親族の次に養子縁組が推奨されています。>と施設養護よりも家庭養育を望ましいとしています。

 

社説では<<先進諸国は20~30年前から、施設から家庭への転換を進めてきた。」としつつ、その決議後7年近く経過して<ようやく遅ればせながら日本も2016年の児童福祉法改正で「家庭養護」が原則となり、養子縁組あっせん法も同年末に制定された。>と政府対応の遅れを指摘しています。

 

しかし、問題は、上記で指摘した根本的な点以外にも、社説が指摘するように、いくつも残されています。

 

まず受け皿不足ですね。<児童養護施設と乳児院には現在約3万人の子どもがいるが、登録里親数は1万世帯にとどまっている。>

 

その理由として社説は<里親になる要件が厳しい上、支援策が乏しいため、意欲を持って里親になっても孤立して燃え尽きてしまうケースが多いといわれる。そのため継続して子育てできるかどうかの資格審査が厳しくなり、さらに里親が増えない状況を作っている。>

 

たしかにそれも大きな要因と思いますが、私は上記指摘したように、根本的には現在の仕組み自体が問題だと思うのです。 それが受け皿不足につながっていると思うのです。

 

次に社説は<特別養子縁組の場合、縁組後は通常の親子と同等の扱いになるため、特別な公的支援が付かない。民間の福祉団体などが養親の支援を担っているが、国からの財政援助はなく、十分な活動ができない状況だ。>としています。

 

はたしてそうでしょうか。特別養子縁組をしたいと思う養親にとっては、財政的援助がないことが大きな支障となるのでしょうか。

 

87年民法改正により817条の2以下で、特別養子制度を設けたのですが、その数はさほど増えていません。

 

養子縁組との違いは上記「ハッピーゆりかごプロジェクト」のそれを援用させてもらいますが、まさに唯一の親子関係を成立させるものです。それだからこそ、一旦、自分の子として育てた場合、親権の強いわが国の法制の下では、特別養子制度を利用することは容易でなく、また、上記述べたように、一旦、産み親に育てられた子を育てることはきわめて難しいと思うのです。

 

項目

普通養子縁組

特別養子縁組

名称

普通養子

特別養子

成立

当事者の縁組意思と届出(契約)。養子が15歳未満の場合は法定代理人の代諾で養親と契約

家庭裁判所に申立て審判を受けなければならない

親子関係

実親、養親ともに存在

実親との関係消滅

戸籍の記載

養子・養女

長男・長女

離縁

可能

原則できない

養子の年齢

制限なし

6歳未満

相続権

実親子間・養親子間ともに相続権がある

実親子間の相続権は消滅

 

社説が指摘する<児童養護施設や乳児院も施設内での子どもの支援だけでなく、里親や養親などの元で暮らす子どもたちの支援機関になるよう意識も支援スキルも変えるべきだ。社会全体でバックアップしなければならない。>そのこと自体は反対するものではありませんが、現在の施設を経由した里親や特別養子制度の利用は大きな困難に直面していることに手を加える必要を感じます。

 

この問題は私自身経験がないのと、とりわけ勉強不足なので、この程度で今日は終わりとします。「ハッピーゆりかごプロジェクト」が指摘している内容は、大いに参考にされてよいと思う次第です。

 

 


お盆と日本人 <大阪うめきた 梅田墓に「大坂七墓」物証の人骨200体>を読んで

2017-08-13 | 宗教とは 神社・寺・教会 信仰

170813 お盆と日本人 <大阪うめきた梅田墓に「大坂七墓」物証の人骨200体>を読んで

 

今年はお盆休みが「山の日」休日もあって長期間の人も多いのではと思います。幸い巨大台風ノルーが過ぎ去って穏やか(暑さは仕方ないですが)な天候でお墓参りやそれぞれの地域特有の行事、各家庭の祖先供養が行われていることでしょう。

 

葬送文化は時代性・地域性を反映して、少しずつ、場合によっては大きく変わってきた、いや変わらないまま、見方によっていろいろな様相を示すかもしれません。

 

そんなことをつい書く気になったのは、昨日の毎日夕刊の見出し記事に驚かされたからです。

 

だいたい「梅田墓」といってもぴんと来ないですね。関西の地理・地下鉄駅にうといといっても、「梅田」くらいは知っていますが、そこに墓域があって「梅田墓」と呼ばれていたということまではなかなか結びつきません。

 

<JR大阪駅北側の再開発区域「うめきた」(大阪市北区)に江戸~明治時代にかけてあった「梅田墓(ばか)」の発掘調査で、200体以上の埋葬人骨が見つかった。>というのですね。

 

<梅田墓は、江戸期に庶民の間で流行した盆行事「大坂七墓巡り」の1カ所に数えられ、近松門左衛門の「曽根崎心中」や井原西鶴の「好色二代男」にも登場する>というのですから、江戸時代から有名な墓場だったわけですね。

 

驚いたのは、一つは大坂でいま最も発展著しい「うめきた」がわずか100年くらい前まで墓場だったということです。当時の梅田周辺の土地利用は知りませんが、中之島からでもさほど離れているわけでもないわけですから、辺鄙な郊外とはいえないでしょう。そんな場所に火葬・土葬が入り交じった墓地が作られていたということが、当時の墓地に対する意識を考えるヒントにもなるかなと思うのです。

 

そういえば、谷中墓地も青山霊園、雑司ヶ谷霊園など、前2者は訪れたことがあり雰囲気のいいところですが、いまでは東京都の中心街からそれほど離れていませんね。でも「うめきた」なみに、東京駅の北は皇居ですから無理ですが南の八重洲付近に墓地があったなんて想像できませんね。

 

江戸時代における大坂の活気と生死をも飲み込む多様な文化を取り入れる素地が、そういう土地利用を可能にしたのでしょうか。

 

土葬と火葬が混在というのも興味深いですね。<調査では、きれいな盛り土の層に整然と並ぶ棺桶(かんおけ)に入った状態で土葬された人骨が見つかった。一方、火葬されて骨つぼごと穴に投げ込まれたような状態で見つかったものや、骨つぼに入れられず、同じ場所に何層にも重なって埋葬された痕跡も確認されるなど、多様な埋葬形態が明らかになった。>

 

<調査した大阪文化財研究所の岡村勝行・東淀川調査事務所長は「江戸期の大阪では、火葬が大半だったとする史料が残されているが、土葬もかなりあったことが明らかになった。多様な埋葬形態は、時期の違いや貧富・身分の差によるものかもしれない」と話す。>ということですが、私自身は都市域での火葬はかなり大変だったのではないかと思うのです。

 

当時は燃やす施設も簡易なもので、燃やす材料も木や藁しかなく、日中は臭気や煙が大変で、夜中に燃やすのですが、それでも朝まで燃やしても容易に焼骨までならなかったと言われています。

 

江戸では、北千住に火葬場があったそうで、解体新書を書き上げた前野良沢、杉田玄白らは毎日のように通って死体を解剖して、オランダ原書を翻訳することに成功したという記憶です。つまり、江戸市中というより、芭蕉が奥の細道の出発点とした郊外地にあったという記憶なのです。

 

むろん、現在の拾骨儀式もありません。それだけの方法を採用するには、明治以降の先進的な火葬技術の進展をまたないと行けなかったわけです。ですから、いま斎場(火葬場とはいわないですね)で行われている拾骨儀式は戦後に普及したものですね。

 

もう一つこの記事で驚いたのは、土葬された遺骨の形態です。まさに屈葬です。高層ビルをバックに発掘現場が丁寧に撮影された写真では、そこに写っている遺骨はいずれもきちんと尾骨を中心に横に折れ曲げられています。

 

私が四半世紀前から愛読している?『火葬の文化』の著者・鯖田豊之氏は同書で、スイスの遣日使節団長アンベールが『幕末日本図絵』下で「遺体を折りまげてのかめやたるへの屈葬」を詳細に記述しているのを引用しながら、例外は皇女和宮の寝棺だけで上は徳川将軍から末端まで座棺収容の屈葬だったというのです。

 

明治以降も戦前までは、経済的に豊かな一部が寝棺を使用していますが、「全体としては第二次大戦直後まで土葬、火葬の別なく座棺が圧倒的だった。」というのです。

 

むろん、梅田墓も座棺屈葬であるのは当然です。ではなぜ座棺屈葬なのかについて、鯖田氏は、「胎児の姿勢をとらせるためより、故人の再帰迷奔をふせぐのがねらいともいわれるが、真偽のほどはわからない。」というのです。

 

私のような素人にはわかるはずもないですが、縄文時代から続いているのではないかと思うのです。すると、屈葬には日本人としてなにか重要なDNAなり血統なりの継承の意味があったのかもと考えてしまいます。そういう意味不明の議論はここまでとします。

 

私が屈葬を取り上げたのは、拾骨といういまでは当たり前のように行われている葬送作法の一つが寝棺となり、さらに火葬技術の向上によって初めて成り立ったという文化というか習俗というか、それを一言指摘したかったからです。それもわずか70年にも満たないような葬送作法でしょうか。

 

それは仏教でも儒教でも、ある種の宗教的な教理によるものではないことを改めて指摘しておきたかったわけです。鎌倉新仏教において初めて個人の心の問題を対象にするようになったともいわれます。葬送方法もその頃から次第に形成し、檀家制度を経てかなり実体を伴うようになり、戦後の経済成長の中でより進化したのではないかと思います。

 

それは個人の選択の問題でもあり、仏教を含む宗教団体、宗教者の対応の問題でもあり、いまはやりの各種葬儀業者の問題でもあるのでしょう。

 

最後に、二人の知見を紹介しておきます。

 

新谷尚紀著『「お葬式」の日本史』で、盂蘭盆会を含む葬送儀礼について、「日本の歴史では盆行事は、まず死者への供養が主であった。それは奈良時代や平安時代のことである。そして鎌倉時代になると、孟蘭盆会とともに万灯会、そして施餓鬼会がとりおこなわれるようになる。」とし、「供養の対象を先祖の霊から餓鬼の世界に墜ちたあらゆる霊に広げた施餓鬼供養は、仏教の浸透にさらに拍車をかけることになった。」というのです。

 

そして江戸時代の檀家制度と本山末寺制度です。新谷氏は「寺と檀家との結びつきが密接になると、一般民衆の墓は「寺院墓地」に設けられるようになった。一度檀家になった寺からの離脱を禁止し、一宗一寺の原則を敷き、民衆支配の機能を強化する。」と指摘します。

 

そして「戸籍業務を一手に引き受けた寺はしだいに尊大になっていった。庶民に対しても葬儀を強要する風潮が生まれたが、それは「五条日宗門檀那請合之旋」によるところが大きかったとされている。」のですが、この掟が「真っ赤な偽文書」だったというのです。

 

その偽の掟には「(宗派の祖師の法要、釈迦の死去した日、孟蘭盆会、彼岸と各人に先祖の命日には必ず寺に参拝すること)とし、これに参加しないものは吟味するというのである。」など現代の葬式儀礼につながる細かな指示が次々と打ち出されているのです。

 

決して庶民の自由な意思で選んだり、地域の自然な慣習から生まれたものでもないですし、仏教本来の教理から導き出されたものではないのです。

 

私はいま、現在の盂蘭盆会を含むさまざまな行事を廃せといっているのではないのです。仏教者を含む宗教者も、世俗の人々も、改めて何のために行うかを心に問いかけて、真の思いを尽くすことに叡智を傾け、行動する必要を感じているのです。

 

山折哲雄氏はなんどかお会いする機会があり、いつもその柔らかな語り口としっかりした内容に敬意を抱いてきた方であり、その著作も大変な量の一部ですが、愛読しています。その山折氏の著作『仏教とは何か』で、日本人抱く「先祖崇拝 その構造」という見出しの中で、仏教伝来を推進した蘇我氏が疫病の流行に直面し、当初より祟りが問題となり、その後政権を巡る殺戮を通して祟りと鎮魂が何世紀にもわたって支配するようになったというのです。

 

そのことについて山折氏は「このような「崇り」と「鎮魂」というメカニズムが、日本人の宗教意識の根底をつらぬく特質であった。その骨格はほぼ平安時代において定まったということができるが、それがやがて民間にも深く浸透していった。その結果として、われわれの先祖の霊もまた崇るという観念がしだいに定着していった。」というのです。

 

先祖崇拝と祟り・鎮魂の結びつきは、仏教の役割の変化、庶民に普及する過程で強固なものになったかもしれません。

 

山折氏は「先祖の霊にたいする供養をおろそかにするとき、その先祖の霊はかならずや何らかの形で崇りをなすであろう。それが先祖供養を支える中心的な観念であった。納骨や墓供養の問題がでてくるのも、そのような観念がしだいに強力なものとなっていったからなのである。」として、戦争中の「英霊」へも言及しています。

 

さらに山折氏は「こうして先祖や死者のための墓を建て、一定の時期に祭紀と供養をおこなうことが、子孫たるものや関係者たちのつとめとされるようになった。生きのこった者たちの家内の安全と幸福を約束する道であるとされるようになった。家の永続と子孫の繁栄は先祖の加護によってこそはじめて可能になるということがつよく信じられるようになったのである。」と明言しています。

 

ただ、それはこれまでの先祖供養の観念です。山折氏は現代世相の変転について常に心を砕いています。

 

山折氏は、その事実をしっかりと見据えて、次のように一人一人に訴えかけているように思えるのです。

 

「いま先祖供養の問題は、新たな展望のもとに位置づけられるべき段階にきているのではないであろうか。それはもはや、たんなる死者供養や霊魂信仰にとどまるものではない。先祖供養の課題は、それらの枠組みをとびこえて、むしろわれわれの日常化した現実生活を組みかえる、もう一つの人間関係を暗示しているようにもみられるからである。生きている者同士の、しばしば硬直化しかねない人間関係にたいし、生者と死者とのあいだに対話や連帯のパイプをとおす、深みのある人間関係をそれはひそかに主張しているようにもみえるのである。

 

先祖供養の問題は、今後はたして、あいもかわらず日本人の宗教意識を規定する固有の信念体系として受容されていくのであろうか。それとも、そのような枠組みを踏み破って、さらに広い普遍の場に歩みだしていくのであろうか。

 

いずれにしても、日本の仏教者は、そろそろこの先祖供養の問題を、正面から本気で考えるべきときにさしかかっているように私には思われるのである。」

 

そうです。私が言いたかったのは、山折氏の最後の言葉です。

 

今日はこの辺で終わりとします。2時間かけました。