「昭和天皇ご発言メモ騒動」は、第二次世界大戦終結後の東京裁判判決結果によるA級戦犯の靖国合祀に端を発し、『靖国参拝』を否定する発想が根底にあるから沸き起こったと言っても差し支えないであろう。
しかし、若し、この一連の流れ(A級戦犯判決を下した東京裁判に対する肯定的史感)を変えることができたなら、どうなるのか。即ち、先の投稿(「東京裁判史観一考」(2/6) )から繰り返し述べているように、東京裁判判決そのもの、A級戦犯の存在を否定し得たらどうなるか?我々日本人の国家史観として、極東国際軍事裁判(東京裁判)判決の中「A級戦犯の存在」を(歴史認識上に於いて)否定し得るものであれば、靖国問題は瞬時に解決するのではあるまいか。
殊に、大東亜戦争を「侵略戦争」と看做さず、当時の日本に於ける「自衛戦争」であったと判断すれれば、その瞬間に「A級戦犯イコール犯罪者」であるという歴史認識を払拭できるか。
東京裁判のより深い考察を続けるには、今から十数冊の関連書籍を読破しなければならず、そのため少なくとも今後数年間の時間を掛けなくてはならない膨大な作業となるであろう。時間がかかっても、是非やり遂げてみたい。もって一連の拙ブログ投稿記事は、自分自身のための我国近代歴史観の入り口となる。
これ機に、我々国民の多くに固定概念化された「既存知識」への、片寄った刷り込みに物申し自問自答したいのである。もって本日投稿記事も引き続き、「東條英機・封印された真実(著、佐藤早苗氏)」の一冊の解説論文写しを掲載する。
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<以下、引用文>(前回掲載分は、こちらからご参照いただけます・・)
解説「東条英機の戦争史観について」<著・小堀圭一郎>
(p295~p300まで)
東條は担当弁護人として面会に来る清瀬の口を通じて直接に、或いは法廷での冒頭陳述にメモを取りつつ共感を込めて耳傾けることを通じで、清瀬の歴史観から多分に学ぶ事があったであろうし、またそうした形で徳富蘇峰の歴史把握の基本的姿勢から間接的に影響を受ける、ということもあったのではあるまいか。そんな判断を下してみる一つの喫機は、東條が昭和二十三年一月六日に証人として自ら証言台に立ち、主席検事キーナンとの緊迫した対決のあと、清瀬弁護人に語ったという所感の言葉である。これも朝日新聞東京裁判記者団著『東京裁判』から引用する。
<この際とくに申し上げることはありませんが、私の心境はたんたんたるもので、ただ靖国神社の祭霊と戦争により戦災をこうむられた方々の心になってのべたつもりです。言葉は完全に意をつくしておりませんが事柄だけは正しくのべたつもりです。もし私にここで希望をいうことが許されるならば、二つの希望が残っている。この裁判の事件は一九二八年(昭和三年)来の事柄に限って審理しているが、三百年以前、少なくとも阿片(アヘン)戦争までにさかのぼって調査されたら、事件の原因結果がよく分かると思う。またおよそ戦争にしろ外交にしろすべて相手のあることであり、相手の人に、相手の政府とともに心理の対象となったならば事件の本質は一層明確になるでしょう>
<三百年来>といふと、徳川幕府による日本人の海外渡航禁止令、南欧商船の来舶禁止令が漸く(ようやく)徹底して来て、東アジアの海域には、長崎に出入りするオランダ船を除けばヨーロッパから来航の船影がとみに乏しくなり、この地域での国際関係が相対的安定期に入った頃である。おそらくこの年数は東條が不用意に口に上せたまでのことであって正直に検討する必要はないだらう。保坂正康氏の『東条英機と天皇の時代』では<三十年前>と言った様になっているが、それも亦意味がない。眼目は<阿片戦争までさかのぼって>というところにある。
これは東條の眼に届かなかった徳富蘇峰の宣誓供述書の中で、近世幕末期の日本人にとって最も恐ろしかった外国はロシアであり、次いでフェートン号事件(一八〇八年)でその乱暴無法ぶりが明らかになったイギリスだった、と述べたことと通底している。或いは又林房雄が高名な『大東亜戦争肯定論』で、「東亜百年戦争」の開始は明治維新より約二十年前、英・米・露・仏等の船の日本近海への出没が急に頻繁になった弘化年間と設定してよい、と述べたこととも共通している。林は阿片戦争の名を挙げていないが、阿片戦争(一八三九―四二)が天保十年から十三年に亙ってをり、清国の無残な屈服の報知が幕末の朝野に大きな衝撃を与へたのがまさに天保の末年(一八四三)から翌年の弘化改元の頃にかけてだった。
ここで敢えて私見を挿(さしはさ)ませてもらふならば、仮に林房雄のいう様に「東亜百年戦争」が戦はれていたのだ ― との発想を借用するとすれば、筆者はその象徴的端緒を一八三九年勃発の阿片戦争に見ることに多いに賛成である。そして東條が「近代日本ノ国際的地位ヨリ見タル大東亜戦争ノ責任 ― 第一次世界大戦以来ノ国際関係二於ケル欧米列強ノ矛盾行為」と題する、東京裁判への抗弁論覚書の中で、「(二)文明と人道」なる節を設けて以下の如きノートを作っていることに注意を惹かれる。十一項に分けて反論覚書が記されているが、その一から五までを以下に引いてみる。本書百六十一頁以下で佐藤氏が内容の検討を試みている部分であるが筆者は敢えて手記原文を引く。(お断り:原文のカタカナ表記部分は、書き写しの段階で全てひらがな表記とした)
一、 独逸に於ける国際裁判に於いて米国検事は、この裁判の窮極の法基準は文明と人道の原則に在る旨を述ぶ。かかる主張はC級戦犯罪に関する限り、而してそれが戦勝国人に対しても同様に適用せらるる限り、承服し得る所なれども、A級戦犯罪に関しては到底承服し得ず。
二、 凡(およ)そ文明と人道の原則を身に付けたるものが自国のみなりとするが如き考え方そのものが、思ひ上れる世界警察官気取りにして、それが正に今次大戦を惹起せる一大要因なり。
三、 独逸人が血の優先を説き、日本人が万国に優先せる神国を自負せる如きことが、致命的過誤なりせば、一民族が文明と人道の代表を以て任ずるも亦同様の過誤となさざる可(べか)らず。嘗(かつ)てWhiteman’s burdenの名に於て(引用者注、「白人の重荷」、イギリス詩人R・キップリングの一詩の題名)帝国主義植民地分割が行はれ、「キリスト」教布教の名に於て、如何に悪辣なる政治的諜略の行なわれたるかを想起せよ。
四、 特に欧米近代社会の支柱が、実は「アジヤ」と「アフリカ」の隷属にあり、如何に欧米に於いて人道、人権、自由、平等、の支配等が唱へらるるとも、これ等は有色人種には、無縁の標語にして「民族主義の世紀」と謂はれたる十九世紀は、正しく欧米による「アジア隷属化」の世紀に他ならず。欧米が、その資本主義文明乃至自由主義経済によりて如何に文明と繁栄を享受したるにせよ、その蔭には原料産地及び製品市場として単一耕奴植民地乃至半植民地たる地位を強ひられ愚民政策に依り民族意識を抑圧せられたる「アジヤ」「アフリカ」十数億の有色人種の隷属ありしことを忘るべからず。
五、 「アジヤ」及び「アフリカ」が欧米に隷属せしめらるるに至れる歴史を想起せば、そこには凡そ正義、人道や「キリスト」教精神とは逆の凡らゆる武力征服、残虐非道、不正貪婪(どんらん)、陰謀恫喝を見出し得べし。黒人奴隷、苦力の売買、阿片戦争や南阿戦争の暴挙、印度に加へられたる略奪と暴挙の如きは其の一端に過ぎず。
第一、二、三の格好に共通して現われる語句が<文明と人道>である点に東條の激情の発露が見れて取れると言へよう。東京裁判それ自体が、「文明の名に於いて」「人道に及する罪」を裁くものというふれこみであった。それならば、裁く側は文明であり、捌かれる側は非文明といふことになる。それが異様な思ひ上がりであり、客観的にも誤りといふ他ない判定であることは第二項に言ふ通りであるし、後の論証の示す如く、戦争の原因がアメリカの世界戦略にありと見る以上は、その「文明の要求」こそが戦争を誘発する根本的原因であった(その意味では日本もまたこの「文明の要求」を内に抱いたがゆえに戦わざるを得なくなったのだった)。「人道に及する罪」といえば東條は此処に記していないが、原爆投下こそその最たるものであって、そのことは東京裁判開廷当初の、昭和二十一年五月十四日の法廷に於けるブレイクニー弁護人の痛烈な指摘が示す通りのことであった。
就中(なかんずく)第四、五の両項は畢竟(ひっきょう)一の「東亜百年戦争論」である「東条英機史観」の大前提であるとみてよいだらう。
東條の人物像についてこれまで世間が形成し、あてがってきた評価といえば、頭脳明晰で記憶力は抜群、そして天皇に対する一貫した忠誠心は天皇ご自身も深くこれを認め嘉(よみ)し給うたほどであったが、しかし他方、視野が狭く、見識は低く、小心翼々として些事に拘ることの多い能吏型の小人物 ―、かうした小人に大日本帝国八千万の国民の運命を託したことこそが国運の傾く端緒、全ての禍と不幸の出発点 ― といったところが大凡の平均値であったと思はれる。昭和十九年の七月に、重臣連の倒閣運動に遭遇して内閣を投げ出すころまでの東條については、こんな評価も、当らずといえども遠からず、といった所であったらう。だが、東京裁判の被告として指名を受け、拘置生活を送るようになってからの二年余の間に、彼は持前の鋭い頭脳と緻密な注意力とを駆使しつつ、近代史についての思索家として又研究者として、同じ囚はれの身となった職業的外交官・政治家の誰彼に、歴史的知見の広さと深さの点で殆ど遜色なき急速の進歩と成熟を遂げていったらしく見える。
今我々は著名な東條「口述書」のみならず、新発掘の検察側への反駁覚書といった資料を通じて、彼の近代史観が生長し形成されてゆく後を辿ってみることができる。そして、尤もなこととも言へるし又意外なこととも言へるのだが、能吏型の一軍人にすぎない東條の近代史解釈が、所謂「東京裁判史観」への反措定(そてい)の一つとして、理論的に立派に成立しているのを発見する。いやそれはやはり驚くべきことといってよいのではなからうか。何しろ彼がこの歴史研究を成し遂げたのは拘置所の独房の中でのこと、頼みとする資料は元秘書官の赤松貞男と井本熊男に依頼して必要が生じた分をその度毎に持ち込んでもらふ、記述が少しまとまると面会時に清瀬弁護人に話して意見を乞う、といった形で少しずつ進んで行く、さうした極めて厳しい条件の下で積み上げられて行ったものである。
<続く・・>
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<添付画像>:「Wikipedia百科事典」極東軍事裁判より・・
しかし、若し、この一連の流れ(A級戦犯判決を下した東京裁判に対する肯定的史感)を変えることができたなら、どうなるのか。即ち、先の投稿(「東京裁判史観一考」(2/6) )から繰り返し述べているように、東京裁判判決そのもの、A級戦犯の存在を否定し得たらどうなるか?我々日本人の国家史観として、極東国際軍事裁判(東京裁判)判決の中「A級戦犯の存在」を(歴史認識上に於いて)否定し得るものであれば、靖国問題は瞬時に解決するのではあるまいか。
殊に、大東亜戦争を「侵略戦争」と看做さず、当時の日本に於ける「自衛戦争」であったと判断すれれば、その瞬間に「A級戦犯イコール犯罪者」であるという歴史認識を払拭できるか。
東京裁判のより深い考察を続けるには、今から十数冊の関連書籍を読破しなければならず、そのため少なくとも今後数年間の時間を掛けなくてはならない膨大な作業となるであろう。時間がかかっても、是非やり遂げてみたい。もって一連の拙ブログ投稿記事は、自分自身のための我国近代歴史観の入り口となる。
これ機に、我々国民の多くに固定概念化された「既存知識」への、片寄った刷り込みに物申し自問自答したいのである。もって本日投稿記事も引き続き、「東條英機・封印された真実(著、佐藤早苗氏)」の一冊の解説論文写しを掲載する。
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<以下、引用文>(前回掲載分は、こちらからご参照いただけます・・)
解説「東条英機の戦争史観について」<著・小堀圭一郎>
(p295~p300まで)
東条英機 封印された真実講談社このアイテムの詳細を見る |
東條は担当弁護人として面会に来る清瀬の口を通じて直接に、或いは法廷での冒頭陳述にメモを取りつつ共感を込めて耳傾けることを通じで、清瀬の歴史観から多分に学ぶ事があったであろうし、またそうした形で徳富蘇峰の歴史把握の基本的姿勢から間接的に影響を受ける、ということもあったのではあるまいか。そんな判断を下してみる一つの喫機は、東條が昭和二十三年一月六日に証人として自ら証言台に立ち、主席検事キーナンとの緊迫した対決のあと、清瀬弁護人に語ったという所感の言葉である。これも朝日新聞東京裁判記者団著『東京裁判』から引用する。
<この際とくに申し上げることはありませんが、私の心境はたんたんたるもので、ただ靖国神社の祭霊と戦争により戦災をこうむられた方々の心になってのべたつもりです。言葉は完全に意をつくしておりませんが事柄だけは正しくのべたつもりです。もし私にここで希望をいうことが許されるならば、二つの希望が残っている。この裁判の事件は一九二八年(昭和三年)来の事柄に限って審理しているが、三百年以前、少なくとも阿片(アヘン)戦争までにさかのぼって調査されたら、事件の原因結果がよく分かると思う。またおよそ戦争にしろ外交にしろすべて相手のあることであり、相手の人に、相手の政府とともに心理の対象となったならば事件の本質は一層明確になるでしょう>
<三百年来>といふと、徳川幕府による日本人の海外渡航禁止令、南欧商船の来舶禁止令が漸く(ようやく)徹底して来て、東アジアの海域には、長崎に出入りするオランダ船を除けばヨーロッパから来航の船影がとみに乏しくなり、この地域での国際関係が相対的安定期に入った頃である。おそらくこの年数は東條が不用意に口に上せたまでのことであって正直に検討する必要はないだらう。保坂正康氏の『東条英機と天皇の時代』では<三十年前>と言った様になっているが、それも亦意味がない。眼目は<阿片戦争までさかのぼって>というところにある。
これは東條の眼に届かなかった徳富蘇峰の宣誓供述書の中で、近世幕末期の日本人にとって最も恐ろしかった外国はロシアであり、次いでフェートン号事件(一八〇八年)でその乱暴無法ぶりが明らかになったイギリスだった、と述べたことと通底している。或いは又林房雄が高名な『大東亜戦争肯定論』で、「東亜百年戦争」の開始は明治維新より約二十年前、英・米・露・仏等の船の日本近海への出没が急に頻繁になった弘化年間と設定してよい、と述べたこととも共通している。林は阿片戦争の名を挙げていないが、阿片戦争(一八三九―四二)が天保十年から十三年に亙ってをり、清国の無残な屈服の報知が幕末の朝野に大きな衝撃を与へたのがまさに天保の末年(一八四三)から翌年の弘化改元の頃にかけてだった。
ここで敢えて私見を挿(さしはさ)ませてもらふならば、仮に林房雄のいう様に「東亜百年戦争」が戦はれていたのだ ― との発想を借用するとすれば、筆者はその象徴的端緒を一八三九年勃発の阿片戦争に見ることに多いに賛成である。そして東條が「近代日本ノ国際的地位ヨリ見タル大東亜戦争ノ責任 ― 第一次世界大戦以来ノ国際関係二於ケル欧米列強ノ矛盾行為」と題する、東京裁判への抗弁論覚書の中で、「(二)文明と人道」なる節を設けて以下の如きノートを作っていることに注意を惹かれる。十一項に分けて反論覚書が記されているが、その一から五までを以下に引いてみる。本書百六十一頁以下で佐藤氏が内容の検討を試みている部分であるが筆者は敢えて手記原文を引く。(お断り:原文のカタカナ表記部分は、書き写しの段階で全てひらがな表記とした)
一、 独逸に於ける国際裁判に於いて米国検事は、この裁判の窮極の法基準は文明と人道の原則に在る旨を述ぶ。かかる主張はC級戦犯罪に関する限り、而してそれが戦勝国人に対しても同様に適用せらるる限り、承服し得る所なれども、A級戦犯罪に関しては到底承服し得ず。
二、 凡(およ)そ文明と人道の原則を身に付けたるものが自国のみなりとするが如き考え方そのものが、思ひ上れる世界警察官気取りにして、それが正に今次大戦を惹起せる一大要因なり。
三、 独逸人が血の優先を説き、日本人が万国に優先せる神国を自負せる如きことが、致命的過誤なりせば、一民族が文明と人道の代表を以て任ずるも亦同様の過誤となさざる可(べか)らず。嘗(かつ)てWhiteman’s burdenの名に於て(引用者注、「白人の重荷」、イギリス詩人R・キップリングの一詩の題名)帝国主義植民地分割が行はれ、「キリスト」教布教の名に於て、如何に悪辣なる政治的諜略の行なわれたるかを想起せよ。
四、 特に欧米近代社会の支柱が、実は「アジヤ」と「アフリカ」の隷属にあり、如何に欧米に於いて人道、人権、自由、平等、の支配等が唱へらるるとも、これ等は有色人種には、無縁の標語にして「民族主義の世紀」と謂はれたる十九世紀は、正しく欧米による「アジア隷属化」の世紀に他ならず。欧米が、その資本主義文明乃至自由主義経済によりて如何に文明と繁栄を享受したるにせよ、その蔭には原料産地及び製品市場として単一耕奴植民地乃至半植民地たる地位を強ひられ愚民政策に依り民族意識を抑圧せられたる「アジヤ」「アフリカ」十数億の有色人種の隷属ありしことを忘るべからず。
五、 「アジヤ」及び「アフリカ」が欧米に隷属せしめらるるに至れる歴史を想起せば、そこには凡そ正義、人道や「キリスト」教精神とは逆の凡らゆる武力征服、残虐非道、不正貪婪(どんらん)、陰謀恫喝を見出し得べし。黒人奴隷、苦力の売買、阿片戦争や南阿戦争の暴挙、印度に加へられたる略奪と暴挙の如きは其の一端に過ぎず。
第一、二、三の格好に共通して現われる語句が<文明と人道>である点に東條の激情の発露が見れて取れると言へよう。東京裁判それ自体が、「文明の名に於いて」「人道に及する罪」を裁くものというふれこみであった。それならば、裁く側は文明であり、捌かれる側は非文明といふことになる。それが異様な思ひ上がりであり、客観的にも誤りといふ他ない判定であることは第二項に言ふ通りであるし、後の論証の示す如く、戦争の原因がアメリカの世界戦略にありと見る以上は、その「文明の要求」こそが戦争を誘発する根本的原因であった(その意味では日本もまたこの「文明の要求」を内に抱いたがゆえに戦わざるを得なくなったのだった)。「人道に及する罪」といえば東條は此処に記していないが、原爆投下こそその最たるものであって、そのことは東京裁判開廷当初の、昭和二十一年五月十四日の法廷に於けるブレイクニー弁護人の痛烈な指摘が示す通りのことであった。
就中(なかんずく)第四、五の両項は畢竟(ひっきょう)一の「東亜百年戦争論」である「東条英機史観」の大前提であるとみてよいだらう。
東條の人物像についてこれまで世間が形成し、あてがってきた評価といえば、頭脳明晰で記憶力は抜群、そして天皇に対する一貫した忠誠心は天皇ご自身も深くこれを認め嘉(よみ)し給うたほどであったが、しかし他方、視野が狭く、見識は低く、小心翼々として些事に拘ることの多い能吏型の小人物 ―、かうした小人に大日本帝国八千万の国民の運命を託したことこそが国運の傾く端緒、全ての禍と不幸の出発点 ― といったところが大凡の平均値であったと思はれる。昭和十九年の七月に、重臣連の倒閣運動に遭遇して内閣を投げ出すころまでの東條については、こんな評価も、当らずといえども遠からず、といった所であったらう。だが、東京裁判の被告として指名を受け、拘置生活を送るようになってからの二年余の間に、彼は持前の鋭い頭脳と緻密な注意力とを駆使しつつ、近代史についての思索家として又研究者として、同じ囚はれの身となった職業的外交官・政治家の誰彼に、歴史的知見の広さと深さの点で殆ど遜色なき急速の進歩と成熟を遂げていったらしく見える。
今我々は著名な東條「口述書」のみならず、新発掘の検察側への反駁覚書といった資料を通じて、彼の近代史観が生長し形成されてゆく後を辿ってみることができる。そして、尤もなこととも言へるし又意外なこととも言へるのだが、能吏型の一軍人にすぎない東條の近代史解釈が、所謂「東京裁判史観」への反措定(そてい)の一つとして、理論的に立派に成立しているのを発見する。いやそれはやはり驚くべきことといってよいのではなからうか。何しろ彼がこの歴史研究を成し遂げたのは拘置所の独房の中でのこと、頼みとする資料は元秘書官の赤松貞男と井本熊男に依頼して必要が生じた分をその度毎に持ち込んでもらふ、記述が少しまとまると面会時に清瀬弁護人に話して意見を乞う、といった形で少しずつ進んで行く、さうした極めて厳しい条件の下で積み上げられて行ったものである。
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