<添付画像>:エドゥアール・マネ作品[フォリ=ベルジェールの酒場 1882 コートールド・インスティテュート(ロンドン)] IMAGE: "EDOUARD MANET". A Bar at the Folies-Bergère. 1882. Oil on canvas. Courtauld Institute of Art Galleries, London, UK.
BAR「フォワイエ・ポウ」を巡る人間アラカルトの描写、いよいよ核心に迫っていきます。
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長編連載小説「フォワイエ・ポウ」
7章
著:ジョージ・青木
1(転換期)―(4)
「解った。これでよくわかった。だから今日、美智子から電話がかからないんだ。休みでも、電話する。と、言っていたのに・・・」
本日、山本美智子はお休みを取っていた。しかし、昨夜のフォワイエ・ポウの状況報告を寺元に約束していたにもかかわらず、その報告がないという。
「寺元マスター、いちど自分で本田さんの店に出向かれたらいかがですか?」
「僕が行く!」
「そう、そうです。それが一番いいわよ」
「いや、やめとこう。やばいやばい。僕が行けば、もう、みもふたもなくなるから、止めとく」
ここで、奥のボックスからのキープボトルのお変わりの注文が入った。カウンターにいた寺元と木村栄は、協力して作業し、しばらく新しいボトルの売り上げに勤しんだ。
ひと通りの作業が終了し、2人は雑談を再開した。
「いずれにしても今夜、もういちど本田さんの店に行ってきます」
「そう、さかえさんも本田さんのフアンだからな。いってらっしゃい。2度顔出すのも、いいですな~」
「な、なに言ってんですか、マスター!マスターが本田さんの所のぞいてくれって言うから私は行くの。勘違いしないでください。お勘定ちゃんとマスターに回しときますからね」
「はいはい、分りました。どうぞどうぞ・・・」
いずれにしてもサンチョパンザの閉店まで、残すところ1ヶ月をきっていた。オーナーの寺元は地元に見切りをつけた。関東在住の友人からの誘いに乗り、友人の新規チェーン店オープンにあわせ東京に進出する予定でいた。
もしできることならば、寺元は本田にサンチョパンザの後継をお願いしたい気持ちがあった。したがって、本田に近いホステスを本田の店の偵察に覗(うかが)わせ、前もって情報を収集したい気持ちがあった。ある程度の情報が集まったところで、つまり、本田が断らないという確信を得た上で、寺元自身が最終的な交渉に乗出したい気持ちを持っていた。
しかしながら、同じ夜の飲み屋の世界でも営業形態の違いがあり、スナックバーとクラブの違いがある。つまり、店内にホステスのいる飲み屋は、風俗業の許認可を所轄の警察署でクリアーしなければならなかった。あわせて、全ての意味で客層の違いはある。
夜の世界に入った当初の本田は、ホステスを雇い入れた営業も、彼なりにイメージだけはしていた。シナリオも描いてみた。
しかし飲食業店舗としてのフォワイエ・ポウは、立地場所に問題があった。おしゃれな街並み、高級専門店街あるいはブティック街として市民に認知されている並木通りという店のロケーションは、なんとかレストラン食べ物屋としては成立するものの、飲み屋専門として営業を継続できるかどうか?非常に難しい立地条件からスタートして、今日に至っている。
本田をして、1年と半年間の経験を整理すれば、
(けっして女性従業員を雇わない)
(ゆめゆめ、クラブの客とホステスの集まる店にしてはならない)
(学生サラリーマンを問わず、若者専門の集まる店にする)
という現状であり、現状に迎合した方針を実行していた。
本田が夜の商売を始める決心をした時点から今日まで、高級ブティック街の端っこにあるバーの営業、飲み屋専門の商売が如何に難しいか、本田自身、身体をもって思い知らされていた。
夜の歓楽街を楽しもうとする客の多くは、中央通を東に渡った夜の街の集まる地域に足を運ぶ。
つまり、並木通りは中央通の西側に位置するから、フォワイエ・ポウに来る多くの顧客は、いちど中央通を渡って夜の歓楽街に繰り出し、1次会が終わった後になって、たまたま気が向けばわざわざ中央通を西に渡りなおし、並木通りに足を運ぶことになる。早い話が2度手間である。あるいは、中央通りを渡らずに、その手前の並木通りに直行してくれる客もいるが、そのパーセンテージは、かなり低い。JGBのメンバーがフォワイエ・ポウに足を運ぶ場合、事務所界隈のレストランか居酒屋で食事を済ませ、敢えて中央通りを渡らずにその手前の並木通りにある本田の店を訪ねてくれるわけだ。本田にとってはありがたい。
しかしほとんどの客は、中央通を東に渡ったら、再び中央通を西に渡り帰して、飲み直しに戻っては来ない。
ちなみに、いや、当然ながら、サンチョパンザは中央通の東の、夜の歓楽街のど真ん中、最高の場所に位置していた。
そんな夜の街ですでに15年、十分に経験を積んできたサンチョパンザのオーナー・寺元は、今後すぐに訪れる『バブル崩壊』の苦難の時代を予知していたともいえる。
あらためて言うが、この時期の本田の商売はけっして悪くなかった。夜の商売を立ち上げてから半年間、それなりの試行錯誤をした。1年後、自分流の夜の商売のやりかたが分かった。1年半掛かってしまったが、その自分流がようやく板についてきた。自分流のやり方とは、つまり本田流であり、フォワイエ・ポウの顧客の全員が、本田のフアンであった。ただ、それだけのことであった。
いつしか本田フアンの取り巻きは、構築されていた。
その取り巻き連中が、入れ替わり立ち代り本田を尋ねてフォワイエ・ポウに足を運ぶ、その繰り返しが収入を発生させた。取り巻きの多くは現役の大学生、限られた企業の若手社員。2~3年もすれば、フォワイエ・ポウの常連学生は卒業を迎え、おのずとフォワイエ・ポウから去っていくが、あらたに入学した新入生に引き継がれるから、店に出入りする学生の数の減少はない。若手サラリーマンも毎年新入社員が入る。新入社員は先輩によってフォワイエ・ポウが紹介される。
ただそれだけのこと、フォワイエ・ポウの本田オーナーのフアンクラブのメンバーだけが、店に出入りする。もし、本田がいなくなれば、今迄の顧客は出入りしなくなるであろうし、良かれ悪しかれ本田のパーソナリティーに相当する人材がいなければ、この店は維持できない。本田がいなければ何もない、何も残らない、何も与えられない、それがフォワイエ・ポウの現状であった。
だから、本田が毎日元気にカウンターに立つ限り、フォワイエ・ポウの営業は継続できる。現在の店の客層と基本的営業方針から推測して、今後しばらくの間、安定的営業を継続する可能性は十二分にあったと判断できる。
しかし、ここでまた、繰り返し言う。
フォワイエ・ポウ一店舗による売上げには限りがあった。
つまり、どう足掻(あが)いても、月間平均売り上げは120万円が精一杯であり、したがって本田の手元に残る利益は、せいぜい4~50万円が限界であった。この金額は、本田がサラリーマン時代の所得に届かないものであり、フォワイエ・ポウの経営を継続する限り、永久にサラリーマン時代の所得を上回る可能性は無かった。今はしかし、本田は脱サラし独立して商売をしている限り、あまり銭金に固執しない本田。しかし、せめてサラリーマン時代の所得の倍額の収入は得たい。と、常に考えていた。
しかし、この先、あらたに店舗数を増やすような投資行為については、疑問を持っていた。まして、ホステスをつかってさらに発展拡大的な水商売をする気など、本田は全くなかった。
<・続く・・>
*(小説フォワイエ・ポウ既掲載分、ならびに前号確認などは、こちらから参照可能です)
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1.『参考資料』
『エドゥアール・マネ』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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エドゥアール・マネ
草上の昼食エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832年1月23日 - 1883年4月30日)は、19世紀のフランスの画家。
西洋の近代絵画の歴史の冒頭を飾る画家の一人である。マネは1860年代後半、パリ、バティニョール街の「カフェ・ゲルボワ」に集まって芸術論を戦わせ、後に「印象派」となる画家グループの中心的存在であった。しかし、マネ自身が印象派展には一度も参加していないことからも分かるように、最近の研究ではマネと印象派は各々の創作活動を行っていたと考えられることが多くなっている。
マネは画家仲間のみならず詩人、作家との交流もあり、近代詩人の祖であるシャルル・ボードレール、エミール・ゾラ、そしてステファヌ・マラルメなどと深い親交があった。ボードレールはエッチング、ゾラとマラルメは油彩による肖像画がマネによって描かれている。
マネは1832年、パリのブルジョワの家庭に生まれた。父は司法省の高級官僚であった。はじめ海外航路の船員となるが、1850年、18歳の時に画家になることを決意し、当時のアカデミスムの大家、トマ・クーチュールに弟子入りする。1861年、サロン(官展)に『スペインの歌手』が初入選する。マネの画風はスペイン絵画やヴェネツィア派の影響を受けつつも、明快な色彩、立体感や遠近感の表現を抑えた平面的な処理などは、近代絵画の到来を告げるものである。(続きは、こちらから入れます・・)
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2.『参考資料』:(ビールの適温とレーティングビールについて)
"BEER MEMO"
"Serving temperature"
The temperature of a beer has an influence on a drinker's experience. Colder temperatures allow fully attenuated beers such as pale lagers to be enjoyed for their crispness; while warmer temperatures allow the more rounded flavours of an ale or a stout to be perceived. There are no firmly agreed principles for all cases; however, a general approach is that lighter coloured beers, such as pale lagers, are usually enjoyed cold (40-45F/4-7C), while dark, strong beers such as Imperial Stouts are often enjoyed at cellar temperature (54-60F/12-16C) and then allowed to warm up in the room to individual taste. Other beers should be served at temperatures between these extremes.
"Rating"
Main article: Rating beer
Rating beer is a recent craze that combines the enjoyment of beer drinking with the hobby of collecting. People drink beer and then record their scores and comments on various internet websites. This is a worldwide activity and people in the USA will swap bottles of beer with people living in New Zealand and Russia. People's scores may be tallied together to create lists of the most popular beers in each country as well as the most highly rated beers in the world.
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長編連載小説「フォワイエ・ポウ」
7章
著:ジョージ・青木
1(転換期)―(4)
「解った。これでよくわかった。だから今日、美智子から電話がかからないんだ。休みでも、電話する。と、言っていたのに・・・」
本日、山本美智子はお休みを取っていた。しかし、昨夜のフォワイエ・ポウの状況報告を寺元に約束していたにもかかわらず、その報告がないという。
「寺元マスター、いちど自分で本田さんの店に出向かれたらいかがですか?」
「僕が行く!」
「そう、そうです。それが一番いいわよ」
「いや、やめとこう。やばいやばい。僕が行けば、もう、みもふたもなくなるから、止めとく」
ここで、奥のボックスからのキープボトルのお変わりの注文が入った。カウンターにいた寺元と木村栄は、協力して作業し、しばらく新しいボトルの売り上げに勤しんだ。
ひと通りの作業が終了し、2人は雑談を再開した。
「いずれにしても今夜、もういちど本田さんの店に行ってきます」
「そう、さかえさんも本田さんのフアンだからな。いってらっしゃい。2度顔出すのも、いいですな~」
「な、なに言ってんですか、マスター!マスターが本田さんの所のぞいてくれって言うから私は行くの。勘違いしないでください。お勘定ちゃんとマスターに回しときますからね」
「はいはい、分りました。どうぞどうぞ・・・」
いずれにしてもサンチョパンザの閉店まで、残すところ1ヶ月をきっていた。オーナーの寺元は地元に見切りをつけた。関東在住の友人からの誘いに乗り、友人の新規チェーン店オープンにあわせ東京に進出する予定でいた。
もしできることならば、寺元は本田にサンチョパンザの後継をお願いしたい気持ちがあった。したがって、本田に近いホステスを本田の店の偵察に覗(うかが)わせ、前もって情報を収集したい気持ちがあった。ある程度の情報が集まったところで、つまり、本田が断らないという確信を得た上で、寺元自身が最終的な交渉に乗出したい気持ちを持っていた。
しかしながら、同じ夜の飲み屋の世界でも営業形態の違いがあり、スナックバーとクラブの違いがある。つまり、店内にホステスのいる飲み屋は、風俗業の許認可を所轄の警察署でクリアーしなければならなかった。あわせて、全ての意味で客層の違いはある。
夜の世界に入った当初の本田は、ホステスを雇い入れた営業も、彼なりにイメージだけはしていた。シナリオも描いてみた。
しかし飲食業店舗としてのフォワイエ・ポウは、立地場所に問題があった。おしゃれな街並み、高級専門店街あるいはブティック街として市民に認知されている並木通りという店のロケーションは、なんとかレストラン食べ物屋としては成立するものの、飲み屋専門として営業を継続できるかどうか?非常に難しい立地条件からスタートして、今日に至っている。
本田をして、1年と半年間の経験を整理すれば、
(けっして女性従業員を雇わない)
(ゆめゆめ、クラブの客とホステスの集まる店にしてはならない)
(学生サラリーマンを問わず、若者専門の集まる店にする)
という現状であり、現状に迎合した方針を実行していた。
本田が夜の商売を始める決心をした時点から今日まで、高級ブティック街の端っこにあるバーの営業、飲み屋専門の商売が如何に難しいか、本田自身、身体をもって思い知らされていた。
夜の歓楽街を楽しもうとする客の多くは、中央通を東に渡った夜の街の集まる地域に足を運ぶ。
つまり、並木通りは中央通の西側に位置するから、フォワイエ・ポウに来る多くの顧客は、いちど中央通を渡って夜の歓楽街に繰り出し、1次会が終わった後になって、たまたま気が向けばわざわざ中央通を西に渡りなおし、並木通りに足を運ぶことになる。早い話が2度手間である。あるいは、中央通りを渡らずに、その手前の並木通りに直行してくれる客もいるが、そのパーセンテージは、かなり低い。JGBのメンバーがフォワイエ・ポウに足を運ぶ場合、事務所界隈のレストランか居酒屋で食事を済ませ、敢えて中央通りを渡らずにその手前の並木通りにある本田の店を訪ねてくれるわけだ。本田にとってはありがたい。
しかしほとんどの客は、中央通を東に渡ったら、再び中央通を西に渡り帰して、飲み直しに戻っては来ない。
ちなみに、いや、当然ながら、サンチョパンザは中央通の東の、夜の歓楽街のど真ん中、最高の場所に位置していた。
そんな夜の街ですでに15年、十分に経験を積んできたサンチョパンザのオーナー・寺元は、今後すぐに訪れる『バブル崩壊』の苦難の時代を予知していたともいえる。
あらためて言うが、この時期の本田の商売はけっして悪くなかった。夜の商売を立ち上げてから半年間、それなりの試行錯誤をした。1年後、自分流の夜の商売のやりかたが分かった。1年半掛かってしまったが、その自分流がようやく板についてきた。自分流のやり方とは、つまり本田流であり、フォワイエ・ポウの顧客の全員が、本田のフアンであった。ただ、それだけのことであった。
いつしか本田フアンの取り巻きは、構築されていた。
その取り巻き連中が、入れ替わり立ち代り本田を尋ねてフォワイエ・ポウに足を運ぶ、その繰り返しが収入を発生させた。取り巻きの多くは現役の大学生、限られた企業の若手社員。2~3年もすれば、フォワイエ・ポウの常連学生は卒業を迎え、おのずとフォワイエ・ポウから去っていくが、あらたに入学した新入生に引き継がれるから、店に出入りする学生の数の減少はない。若手サラリーマンも毎年新入社員が入る。新入社員は先輩によってフォワイエ・ポウが紹介される。
ただそれだけのこと、フォワイエ・ポウの本田オーナーのフアンクラブのメンバーだけが、店に出入りする。もし、本田がいなくなれば、今迄の顧客は出入りしなくなるであろうし、良かれ悪しかれ本田のパーソナリティーに相当する人材がいなければ、この店は維持できない。本田がいなければ何もない、何も残らない、何も与えられない、それがフォワイエ・ポウの現状であった。
だから、本田が毎日元気にカウンターに立つ限り、フォワイエ・ポウの営業は継続できる。現在の店の客層と基本的営業方針から推測して、今後しばらくの間、安定的営業を継続する可能性は十二分にあったと判断できる。
しかし、ここでまた、繰り返し言う。
フォワイエ・ポウ一店舗による売上げには限りがあった。
つまり、どう足掻(あが)いても、月間平均売り上げは120万円が精一杯であり、したがって本田の手元に残る利益は、せいぜい4~50万円が限界であった。この金額は、本田がサラリーマン時代の所得に届かないものであり、フォワイエ・ポウの経営を継続する限り、永久にサラリーマン時代の所得を上回る可能性は無かった。今はしかし、本田は脱サラし独立して商売をしている限り、あまり銭金に固執しない本田。しかし、せめてサラリーマン時代の所得の倍額の収入は得たい。と、常に考えていた。
しかし、この先、あらたに店舗数を増やすような投資行為については、疑問を持っていた。まして、ホステスをつかってさらに発展拡大的な水商売をする気など、本田は全くなかった。
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1.『参考資料』
『エドゥアール・マネ』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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エドゥアール・マネ
草上の昼食エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832年1月23日 - 1883年4月30日)は、19世紀のフランスの画家。
西洋の近代絵画の歴史の冒頭を飾る画家の一人である。マネは1860年代後半、パリ、バティニョール街の「カフェ・ゲルボワ」に集まって芸術論を戦わせ、後に「印象派」となる画家グループの中心的存在であった。しかし、マネ自身が印象派展には一度も参加していないことからも分かるように、最近の研究ではマネと印象派は各々の創作活動を行っていたと考えられることが多くなっている。
マネは画家仲間のみならず詩人、作家との交流もあり、近代詩人の祖であるシャルル・ボードレール、エミール・ゾラ、そしてステファヌ・マラルメなどと深い親交があった。ボードレールはエッチング、ゾラとマラルメは油彩による肖像画がマネによって描かれている。
マネは1832年、パリのブルジョワの家庭に生まれた。父は司法省の高級官僚であった。はじめ海外航路の船員となるが、1850年、18歳の時に画家になることを決意し、当時のアカデミスムの大家、トマ・クーチュールに弟子入りする。1861年、サロン(官展)に『スペインの歌手』が初入選する。マネの画風はスペイン絵画やヴェネツィア派の影響を受けつつも、明快な色彩、立体感や遠近感の表現を抑えた平面的な処理などは、近代絵画の到来を告げるものである。(続きは、こちらから入れます・・)
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2.『参考資料』:(ビールの適温とレーティングビールについて)
"BEER MEMO"
"Serving temperature"
The temperature of a beer has an influence on a drinker's experience. Colder temperatures allow fully attenuated beers such as pale lagers to be enjoyed for their crispness; while warmer temperatures allow the more rounded flavours of an ale or a stout to be perceived. There are no firmly agreed principles for all cases; however, a general approach is that lighter coloured beers, such as pale lagers, are usually enjoyed cold (40-45F/4-7C), while dark, strong beers such as Imperial Stouts are often enjoyed at cellar temperature (54-60F/12-16C) and then allowed to warm up in the room to individual taste. Other beers should be served at temperatures between these extremes.
"Rating"
Main article: Rating beer
Rating beer is a recent craze that combines the enjoyment of beer drinking with the hobby of collecting. People drink beer and then record their scores and comments on various internet websites. This is a worldwide activity and people in the USA will swap bottles of beer with people living in New Zealand and Russia. People's scores may be tallied together to create lists of the most popular beers in each country as well as the most highly rated beers in the world.
私も今、習っている事で自分に自信が持てるようになった時、開業しようと思っています。
まだまだ修行中なので先の事になりそうですが、どれだけの人が来てくれるか …(^^ゞ
あっ、何か違う話になちゃって、すみません
ぽちっ♪
寺元マスターは既に自分が東京進出しサンチョパンザの経営ができなくなるのが分かってたのですね。
後任を本田さんにお願いしたい。
しかし自分がゼロの状態から本田さんに頼みに行けば本田さんは断るのがみえている。
よって何度も店のホステスたちにフォワイエ・ポウに様子に見せていかしていたと。
確かにバーとクラブでは違いますからね。
そして本田さんは弟さんから話を聞かされた頃からフォワイエ・ポウに人一倍の愛情を持っているでしょうし。
今後本田さんに寺元マスターはどう絡もうとするのでしょうか。
楽しみです。
いかがでしょうか。
同様に栄さんも。
本田さんがサンチョパンザの後継してくれれば、
喜ぶことでしょう…
さて本田さんは…
大体、寺本さんがその話を切り出すことになるのでしょうか?
しかし、本田さんも収入を増やしたい。
どうなることやら…
続きは次回のお楽しみということで!
またよろしくです。
済\(^0^)
フォワイエ・ポウは、本田さんのキャラが頼り。
全く違う性格の店だから、多角経営の可能性は在るわけですか。
うまくリンクすれば良いけども、経営者としてやるとしても、投資もだけど実質サンチョパンザを仕切る人選が難しそうですね。
独立経営・・・
今の世、たいへんです。
いろいろなシナリオプランニングを描く。
できるだけ投下資本少なく開業できる業種を選ぶ事です。
まずは緻密な計画を立てて、プランニングから実行してみて下さい。
でも、独立経営を否定する意味ではありません。
積極的に取組まれれるよう心より応援します。!
寺元さん自身、もうホステスを使う業種に辟易しているのかも分かりません。
本田と寺元の距離感、さてどうなるのでしょうか・・・
この先も継続して「フォワイエ・ポウ」をお読み下さるよう、宜しくお願いします。
いつも応援ありがとうございます。
今回はOK、大丈夫です。
今後とも宜しくお願いします。
PS:今からあすとろさんちへお伺いします。
明日か明後日に書きます。