ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

牡丹が散って・・・・・

2021-04-15 09:09:10 | 草花
♪牡丹散りて うちかさなりぬ 二三べん♪  または  ♪牡丹散って うちかさなりぬ 二三片♪
これは与謝野蕪村の句でしたが、あれだけの俳人が創った句ですから、単純な光景の描写だけではなく、詠み手の心の中を推量するべきなんでしょうか、小生のような凡人には巨匠の心の奥行きを洞察することが不可能です。
そこで、この句の解釈について、ネット上でいくつか探してみました。
    ・・・・・・・・・・・
   解釈①:数日来、華麗に咲き誇っていた牡丹もだんだんと衰えを見せていた。いつしかそれも崩れるように散ってしまい、二三  
       片の花弁が地面のうえに重なっている。(長い間美しく咲かせていた牡丹はきっぱりと未練げも無く散り重なってい 
       る。それはやるべき事をやり終えたという満足した美しさでもあります。)

   解釈②:咲き誇っていた牡丹の花が、わずか数日で衰え始め、地面に花びらがニ、三片と重なって落ちていると、言う意味で、
       花の美しさと儚さ、栄華と衰退を表しています。

   解釈③:あでやかに咲いていた牡丹がはらりと散り始め、ぼってりとした花びらが二、三片、静かに重なっている。(「打ち重  
       なりぬ」という言い方によって、静かにゆったりと散る感じが出ている。)

   解釈④:今まで寸分の乱れもなくあでやかに咲き誇っていた牡丹の花が突然崩れるようにひらひらと散り落ちた。そして二片、 
       三片とかさなって地に落ちた。
       この句は「牡丹散って・・・」と詠い次の「打ちかさなりぬ」とのあいだに一息遅らすいわゆる一拍の間(ま)をおく 
       ことにより、まず今まであでやかに咲いていた牡丹のさまを読む者に想像させる。そして、その大輪の花が今、まさ
       に今散ったのだと訴える。「散って・・・・」と間をおくことにより読者に散る瞬間のイメージを湧き上がらせる空間
       を提供したのである。
       間をおくことにより、散る寸前の牡丹の完成された美しさ、崩れるように散るはかなさを、際立たせているわけであ  
       る。
       また、この間は「打ちかさなりぬ」とのあいだにさらなる空間を作り出している。散った瞬間からあとの、ひとひらご
       との花びらが地に落ちるまでの時の流れを、あたかも悠久の時の流れのように見せているのである。枝から落ちた花
       びらがゆっくりと、ゆらゆらと舞い落ちるさまを見せているのである。 
       そしてその生きているような牡丹の花びらはついには着地。二片、三片と打ちかさなる。強く地を打って着地する。 
       「打ち」は強調の意を示している。「その牡丹の花びらはやっと地に落ちたんですよ。」ひとひらで落ちたものもあ
       り、ふたひら、みひらと重なったものもあった。
       青空に咲く牡丹、くもり空の牡丹それぞれ趣はあるが、その咲き誇る濃艶な牡丹の一輪に視点を定だめ鮮やかな散り際 
       をそして散ってもなお美しいさまをとらえた句である。

それでは拙庭の牡丹の散って・重なった花びらです。 ↓

当然、蕪村の句を念頭に入れて花びらと対面しています。(前日の強い風によって花びらが全て散らされました。)
前日まで美しく咲いていた花がきれいさっぱり吹き落されて、小生の場合はむしろ清々しさを感じていましたね。
さて俳句の詠み手の蕪村さんはどう思っていたのでしょうか。



ヒトツバタゴ ↓



安城市北部小学校のヒトツバタゴは既報のように立ち枯れてしまいましたが、我が家の近くにある小学校の校庭の木は健在です。
そこに行くと花はまだ早かったのです。例年はGWに咲いています。



公園の(アメリカ)ヒトツバタゴか?



小学校の隣に小さな公園があり、そこにも細い木が植えられていて、こちらは咲き出しています。



コデマリ ↓





その公園の道路側の生け垣ではコデマリが華麗に咲いています。



ハナミズキ ↓

こちらは4月3日に掲載した花の初期にみたものです。


そして、こちらはその同じ木の、本日(4/15日)の姿で花(実は苞)の色が緑から純白に変わっています。


本当の花は純白の4枚の苞に囲まれた真ん中にあり、色は浅い黄緑色です。



八重咲きのヤマブキ ↓



こちらが実のならない八重の山吹です。(おしべが花弁化し,めしべは退化しているため。)
実のならない八重咲の山吹を詠った和歌は
  万葉集一八六〇番では・・・・・・・ 花咲きて実はならねども長き日におもほゆるかも山吹の花
 『後拾遺集』一一五五番兼明親王の歌 七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞあやしき
そして太田道灌の有名な創話では:   七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき と変化してきます。



カナメモチの花蕾 ↓

もう少しでバラ科らしいぱっちりとした花が開いて来ます。
コメント (2)
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