たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

父母を偲ぶ3

2013年05月12日 | 日記

今日は母の日、昨年母は108歳と驚異的長生きで、この世を仕舞って行きました。特に100歳を過ぎて家庭介護に当ってくれた、実家の孫嫁と隣の姉、兄の苦労に感謝しています。
貧乏百姓でとにかくよく働きました。私の庭でゴルフの真似までやる人でした。3枚の写真は私が撮ったものです。
 

本籍地の役場へ行き使用目的を告げ、適正であれば「除籍謄本」が交付されます。今回一緒に13回忌を勤めた義姉の死亡届に、義姉の息子すなわち甥と役場へ行った13年前ついでに、自分と父の除籍謄本を求め、請求理由は家族史の調査で受理され交付されました。

これで父が母と1925年(大正14年)4月に婚姻届を出していることが分りました。この謄本で御両人の祖父母の名を知ることができました。

父の死亡月日は1963年(昭和38年)6月の死亡(その葬儀で未亡人になった母の写真です)、私は亡妻との結婚が翌年の1964年(昭和39年)5月であることも分りました。亡父の満50回忌が今年で、私は亡妻が生きていれば金婚式が来年だと分りました。もう結婚記念日も忘れていました。

今回の法事で母の箪笥から出てきた虫食いの和紙の古文書を、ホームセンターから障子紙と糊、刷毛を買って来て帰宅し、法事の前夜この古文書を姉を助手に裏打ちし修復しました。
それは父の本家の108年も前の 祖父から孫への旧民法の家督相続届でした。

 「祖父助五郎死亡に因り明治38年(1905年)5月13日戸主と為る、同月19日家督相続届出同日受付・○○村長 ○○」

甥への家督相続で昔は役場へ届けたと分ります。戸籍謄本と同じような書式で、インターネットは年号換算などお茶の子で便利ですね。祖父母の名を知ることができました。相続権者に当るのか、家督を継いだ孫の祖母の名と叔父に当る私の父の2人だけ身分が記載されています。旧民法は兄弟全部に相続権はなかったのでしょう。祖母は

○○(長女)1848年(嘉永元年)4月10日生まれ

とあり、曽祖父母、ひいじじ・ひいばばの名や、曽祖母はどこから嫁いで誰の子か分りました。

法事の朝コンビニに足を伸ばしコピーを取り、本家の跡取り、現在の戸主にも一部差し上げました。本家の戸主は今春県都の職業安定所長を最後に役人生活から解放されました。
彼は法事の中締めの挨拶をしてくれ「血縁の先祖の法事にあたり、認識を新たにする出来事にもありました」と挨拶してくれました。 帰宅して父系の略系図をつくりました。


父母を偲ぶ2

2013年05月11日 | 日記

父親の英姿 撮影時期は不明 明治後期でしょう

カッコいい!金沢の騎兵連隊に所属し、20代前半の青年の頃は騎兵でした。
騎兵第9連隊 衛戊地は金沢 軍旗親授は1906年(明治32年)~軍旗奉還1940年(昭和15年)所属師団は第9師団に属した”とあります。
この話はいつも聞かされました。あるとき高貴な方が訪問され、障害飛越をお見せすることになり、上官から指名され名誉ある模範障害飛越の騎手をやったそうです。
どじな話は騎兵の時、馬のヒズメで手を踏まれ、確か右手の中指の第1関節から失って、傷痍軍人でした。軍人恩給は貰っていませんでした。傷痍軍人徽章は保存してありました。 

 

生まれは1887年(明治20年)2月 没年は1963年(昭和38年)6月 77歳没 写真左側
今年が丁度満50回忌でした。77歳は私の今の年齢です。

父は復員して本家の跡継ぎだったのが、事情で分家し新家庭を持ち嫁を迎えます。当時は結核が死の病で先妻2人に死別、後妻に初婚の母を迎えます。
母は17歳違いの後妻なんてと、祖母の嫁ぎ先へ逃げ、折から村の祭礼でお宮の拝殿の柱にしがみ付いて抵抗したといつも聞かされました。
父と母の実兄が仲が良く勝手に兄が決めてしまったとか。昔の話といってもひどい話です。
父は貧乏百姓のかたわら伐採夫(きこり、そま)として生計を支え、山や田畑を買い僅かづつ財産を増やして行きました。堅物で頑固、まじめな働き者、学問好き、昔の尋常小学校高等科(6年生)を卒業したのが自慢でした。母は尋常小学校普通科 (4年生)だったようです。
年齢差は17歳当然合わなくて、若い頃夫婦仲はすんなりしていませんでした。

可愛い!母17歳の写真です。「左側のブスの方」といつも娘の私の姉がからかいます。右の方の名も姉は知っています。
こんな古い写真が、母の寝室の箪笥の一番下の小さな引き出しに、古文書や写真、子供の通知表や表彰状などと一緒に保管してありました。
明日は母の日です。どれもいい写真だと私は思います。亡父50回忌、亡母一周忌を縁に、変なものを馬鹿息子が世間様に晒してと、遠いところから叱っているでしょう。 


父母を偲ぶ

2013年05月10日 | 日記

亡父50回忌、亡母一周忌、亡義姉13回忌法要を5月4日無事勤めてくれました。在所の皆さん、親戚のみなさんありがとう。母の日が近いので、先ず母から、親族の写真をネットに公開すると叱られるかな。

上の写真は母米寿記念の親族の内祝いで、三重県鈴鹿市で撮ったものです。 弟が名古屋に住み長く勤めて定年退職した会社の寮を世話してくれて、一泊旅行した記念写真です。
いい写真でしょう。記念品は母の寝室に置くテレビだったのです。それを持っているのが60歳定年が近い甥、トヨタのデザイナーで、看板も作ってくれました。センスあるでしょう。
21年前の写真なので、ひ孫たちのこどものその後を紹介しておきましょう、

前列右から2人目⇒結婚して広島在、 3人目⇒郷里で勤め、 4人目⇒瑞浪市在で今春大学院を卒業、デンソー研究所に就職し初任給22万円とか。法事にお参り、 5人目⇒豊田市在で大学を卒業し病院の栄養管理士、 6人目⇒岡崎市在、間もなく3歳になる娘と、1歳になる長男の玄孫を見せに法事の前5月1日帰省してくれました。私は会えなく残念でしたが、愛娘と電話でお話ししました。 大学を卒業し育児休暇中。
2列(だっこ)右1人目⇒瑞浪市在で今春大学を卒業、県内の病院へ就職しリハビリ専門職、法事にお参り、 2人目⇒郷里で特養老人ホーム勤務。
皆大人になって立派に社会に出て活躍中、お婆さんも喜んでいるでしょう。


 5月4日亡母一周忌 没年 2012 平成24年4月 年齢108歳

遺影は岐阜新聞「ばんざい100歳」に特集され、新聞社のプロカメラマンが撮ったもの。和服に合成した。仏壇の横、床の間に置かれた中陰壇は在所では一周忌まで置かれ納骨とともに取り払われ額のリボンを外し、内閣総理大臣小泉純一郎氏の 白寿表彰状とともに長押に飾られる。

お婆ちゃんは若い頃から苦労したけれど、晩年はいい家族に囲まれて幸せな人生でした。
見出し写真は在所の甥、跡取りの長男が白寿記念のお祝いに、親族が平湯温泉へ家族旅行した折、古い写真をスキャナーで取り込みPower Pointで編集してくれた一枚です。
今度の法事では、この写真集を基に「ことばあの108年」というのを、解説の吹き出しつきで編集し直し、法事の前にテレビに映してくれ親族は皆感慨にふけりました。ありがとう。




新緑

2013年05月09日 | 日記

連休は少し寒かったが、快晴に恵まれました。
法事にお参りした飛騨の在所からの帰途、道の駅でネギ一束、ほうれん草一束を求めました。
孫にはお菓子を一袋求めました。
美濃地方は濃い緑に変わっていますが、飛騨路の新緑は柔らかく優しい緑です。
往路も帰路もバイクのツーリングが多いことに閉口しました。帰路は馬瀬川沿いに岩屋ダムから飛騨金山に下りたので、山道のカーブにバイクが飛び出し危ないなと感じました。
飛騨金山にあった大きなドライブインは、道の駅はどこも満員なのに、一部の建物を残し閉業更地になっていました。ここには白川郷から移築した合掌作りの民家があったので、保存を心配します。

 


ゴルフバッグ使い初め

2013年05月08日 | ゴルフ

連休明けの昨日はホームコースの年寄りの同好会のコンペでした。会員の年寄り連中で、ゴールドティから発進する70歳以上が大半を占めています。
クラブ競技のシニア杯、ゴールドシニア杯から入会した人が多く、皆飛ばすし全体に上手い人が多いです。今年から昨年のスコア実績からハンディキャップを見直し新ハンディが与えられました。自分は最下位でハンディキャップ20を貰いました。今日の参加者12人の平均ハンディは15.1、上がって反省会の総員平均スコアは92.75でした。名手が多いでしょう。

自分は山へ行ければ幸せ、スコアは今更望みません。朝は少し寒いくらい快晴でしたが午前中は風が吹きました。今年の5月連休は20年ぶりに寒い日が続いたと報道しています。
コースへ着いてバッグポーターとスタート係から、新品のゴルフバッグをからかわれました。
「このバッグどうしたの」 、「バッグ新品に替わりましたね」
「アハハ、法事に在所へ帰り兄から貰ったの」
「ついてるね」 と彼等は苦笑していました。
「今度は賞品に靴でも貰ってもらいたいよ」

OUTのスコア 2 4 2 2 2 2 0 2 2=18オーバー+36=54  3パットが4ホール、2番はOBと散々でした。
INのスコア  1 1 1 1 2 1 1 1 0 =9オーバー+35=44  上等でした。こうでなくっちゃ。合計98 成績表は12人中5位。

昼食は無料で豚肉とキャベツの味噌味炒のスタミナ丼を選んだのがよかったかな、食べ残したけど。おまけに帰宅して清算書を見たら、誰かのてんぷら追加料金200円が自分に間違ってついていました。ありゃ!
同伴者2人が、優勝してグロス82、準優勝者してグロス89で、花嫁の介添え役でした。

優勝者のドライバーはタイトリストVG3を使っていて、個性的スイングながらよく飛んでいました。新型VG3は練習場の試打会で今春打ったことがあります。別の店からこのクラブの宣伝、芹澤信雄と菊池絵理香のレッスンDVDを貰ってきていて時々見ます。

絵理香さんがフェアウエイウッドの打ち方を教えていました。右肩が下がらない構えをするため、球の上でクラブヘッドを浮かせて構える、ダウンブローに払っていく。このほかに右手のスナップを利かす。これを先日練習でドライバーで試しました。
すごく飛距離が出ます。しゃくり上げないせいでしょうか。曲がりも少ない。グッドヒントになりました。フェアウエイウッドでは自分にはいまいちでした。


一周忌法要3

2013年05月07日 | 日記

今年の5月連休は好天に恵まれました。亡母1周忌法要、納骨前お寺さんを在所の長男がお迎えに出かける前、親族は記念写真を撮りました。法事は本家の跡取り、長男は大変ですね。親戚も多いし年忌法要も重なるし、出費も多いし・・。
集落の申し合わせで、葬式の香典返しは集落内はしない、年忌法要の親戚のご仏前は1万円、以前はそれに御供えとかお酒1升、金額では5000円をといった相場だったのを、申し合わせで改めたとか。親の一周忌なので外へ出ている兄弟は2万円と低めに決めました。3つの年忌が重なったし、納骨法要を兼ねるのでお寺さんへのお礼は5万円としたとのことです。

最近は経済出費の面で一周忌はおろか49日忌もお寺でお経を上げてもらい、親戚を集めての法事はしない家庭もあります。寺で上げてもらう場合は、御布施2万円、御席料を1万円お礼するのが大体の相場のようです。母の3回忌は身内だけになるでしょう。
私の手次寺は家内の葬儀を出すに当り、檀家にしてもらいました。亡くなったご住職は、その際の諸々で
「親が子にひもじい思いをさせなかったように、どんな苦労しても子に食べさせたように、 銭金で大変だからと、 親の年忌法要は欠かしてはならん」
と教えられました。それを親戚を呼んで料理屋でお斎を振舞うか、身内だけでお寺でお経だけにするかの、2通りになってきています。

今回も親戚に迷惑をかけました。その際話題になる一番は、老人介護の大変さです。20人ほどの親戚で老いた親の介護で苦労している姻族は5指を超えます。中には300百万の施設入会金に月々20万円の経費で預けっ放し、200万円で月々30万円とか、自宅介護でボケボケの母親を介護し、ディサービスとショートステイ10日くらいでも月々15万円など、愚痴話や本音の苦しさが語られました。老いることも大変、看取ることも大変で大方がボケています。

姉の家で2泊お世話になり、何かと恵まれない85歳になって苦労の耐えない姉の話も聞き帰宅しました。 大腸手術の後遺症でトイレの近い私は、気兼ねの要らない大事な姉です。
隣の実家へ名古屋の弟と挨拶に寄り、兄貴からゴルフコンペで貰った賞品のゴルフバッグをそれぞれが貰ってきました。弟は小型が欲しいと、私は中型で値札は27,300円・キャスコのキャスター付きを形見分けだと貰ってきました。

兄は昨年沖縄八重山の知覧飛行場を見たいと二度目の旅行、韓国済州島・チェジュへ旅行したと土産も貰ってきました。3年前まで経済団体の常勤役員をしたことで、退任役員は何かとセールス対象にされるとか、旅行も屋根に元も取れないソーラー発電パネルを250万円で買わされたと嘆いていました。月1万円の売電、消費電力1万円くらい、冬は積雪で発電量が落ち効率が悪いとか。20年で減価償却は無理のようです。

帰りは飛騨萩原町から旧馬瀬村へ峠を越し、岩屋ダム沿いに新緑を愛でて帰宅しました。
   


一周忌法要2

2013年05月06日 | 日記

法事の朝は上天気になりました。亡母の納骨は前もってお墓にお骨を納めておくよう、お寺さんから指示され、午前中に内輪で納骨だけしました。

一周忌法要は午後1時から、その前にお寺さんをお迎えに行き、年忌法要の前に墓前にて納骨法要となりました。お寺さんは阿弥陀経を一巻上げられ、その頃は親戚もほとんどお参りされ、墓は家のすぐ裏手なので、各自が線香を上げお焼香していただきました。墓は大正年間に亡父と弟の2人が本家の墓として建てたものです。その後本家より払い下げられ、墓になっています。その前が本家の墓で後から建てられた墓です。住職からお墓石のコケを後で剥がすよう指示されました。

年忌法要は一周忌、三回忌、7回忌、13回忌と一周忌を除いてそれぞれ、3と7が下一けたにつく年に行う決まりになっています。年忌の年の数え方は“かぞえ年”であるとされています。引き出物は通常3回忌くらいまで、年忌法要は33回忌までが一般的と書物にあります。
:仏教エッセンス事典(土屋書房)

在所の兄がお斎の席で挨拶しましたが、今回は亡母一周忌を中心に、亡妻13回忌、亡父50回忌を兼ねました。本当は昨年が亡父の50回忌に当る年でしたが、母の葬儀、49日忌がつづき翌年の今年にしたということです。50年も前のことなので自分等はすっかり忘れていました。
浄土真宗大谷派なので、法事はお寺さんの高声の“先請弥陀”せんしょうみだ・・先ず請う、弥陀入堂場・・から読経は入ります。 
今回は3つの法事なので先ず、大経の仏説大無量寿経、仏説観無量寿経、小経の仏説阿弥陀経と、この宗派の経典3部経全部をご読経されました。
僧侶にとっては重労働です。終わってすこし説法があり、お勤めの正信偈(しょうしんげ)を三四引きという省略形の称え方で、参列者全員で称和しました。飛騨でも在所の辺は皆子供の頃から正信偈を夏休みなどに行事として練習するので、見事に朗朗と揃います。
住職の説教は「50年前というと、私はまだ坊主になっていなかった。それくらい昔のことで、50年忌法要は家名が無事長くつづいたことに感謝し、先祖を追善供養する仏事」とお話されました。

ご住職はとうに後の長男に継承しなければならぬ時期にきています。若い頃は東本願寺で堂僧として毎日読経の修行をされたそうで、声がいいことと正調で称えられることで、近隣に聞こえています。他所のお葬式で聞く読経はいつも聞き劣りします。

昼前の身内や兄弟のお茶のみ話で、50回忌でもあるし、一周忌といっても母は108歳も生きて目出度く天寿を全うし、白寿の際は内閣総理大臣、小泉純一郎氏の表彰状が仏間に飾ってあるくらいで、めでたい法事なので飛騨独特の酒席での祝い歌「飛騨めでた」を出してもいいなぁと話し合いました。兄貴に誰か音頭とりを考えて根回しするよう頼みました。

お斎(とき)は、町内の料理旅館でマイクロバスの送迎です。酒量もおおいに上がり盛大に飛騨めでたを住職さんが短い挨拶の後、音頭を取られ皆が二小節から唱和しました。
お客さんは23名ほど、座敷の端に席につかない身内や近い親戚が、長テーブルに寿司盛の別料理で着きました。家からも鉢ものを持参します。今回は実家の姪夫婦と子供3人、内2人は大学院と大学を春に卒業就職し、一人は大学在学中、連休で全員お参りしてくれました。



一周忌法要

2013年05月05日 | 日記

在所の年忌法要に行ってきました。亡母の一周忌は過ぎていましたが、5月連休にあわせ日取りをもらっていて、今回は亡母の一周忌、義姉13回忌、亡父50回忌の3つの法事を兼ねました。
古いしきたりを守る飛騨の地なので、まだ悲しみの癒えない一周忌と、50回忌は兼ねるものではないといわれているようです。
経済的な面や親戚のご迷惑などしきたり通りには行かず、お寺さんも最近は弾力的です。お墓への納骨も一緒にやるということで、前泊し一日前の日に行き、二晩泊まって帰宅しました。

途中家の近くのスーパーで御供えやお土産を少し求めました。憲法記念日なのに、岐阜から飛騨までの一般道の道筋で、国旗掲揚している家は、目にした限り2軒でした。帰りはこどもの日、まったく目にしませんでた。
1年ぶりの飛騨は夕方肌寒く、在所の川向の県道の気温表示は12℃を示していました。落ち着いた姉の家の前畑のチューリップは優しく咲いていました。


翌日先ず一番に、火災で罹災した同級生のお見舞に行きました。本人は認知症なので施設に収容され会えないし、会っても分らないだろうと、従姉妹に当る級友の家を訪ね、息子さんに渡していただくよう、僅かな見舞金を預けてきました。

近くの罹災地を見て、もう焼けた本宅部分は解体業者が入り取り壊していて、焼けた建築部材や雑多な生活用具が真ん中に、真っ黒に積み上げてあって、逃げ出せてよく助かったとお気の毒に思いました。

火災のあった日の前には病院に入院中だったとか、集落のお祭りなので一時退院し、息子さんは祭りの準備に出掛けていて、その間の不幸だったとか、翌日の例祭は神輿行列は中止になったようです。


虫の知らせ

2013年05月04日 | 日記

先日小学校の級友の家が失火で消失した。新聞で見るとちょうどその時間、同じ市内に住む級友と電話していたことになる。こういうことを虫の知らせというのかもしれない。

近くに住む級友3人が今年の同窓会の世話役、幹事を仰せつかっている。数週間前その下打ち合わせを自宅近くの喫茶店でやった。本当は今度は自分が中心ではやりたくなかった。
体調も十分ではないし、今まで何回も中心的に動いて世話役をやってきたし、心ない人は何もやらないくせに、難癖つける輩もいて気が進まなかった。
初めから、先導役のアパレル元会社経営者だった、級友に任せると言ってきてきた。
その思惑がなかなかうまくいかないのです。彼は経営者としてのリーダーシップは優秀でしたが、同窓会の世話役など苦手のようだ。
基本線を決めてこうやるので手伝えといってくれれば、こっちはワープロもやるし、案内状も作る事務的な作業は苦にならない。それがいつも船頭をやってくれない。

もうひとりも同じようで、弟と市内で会社経営をいていて、全く同じ様な按配なのです。
仕方なく自分が時期、場所、内容を提案し、二人の同意を得るという形になる。
今回も結局そうなった。先回の打ち合わせで、郷里の高山市2年前開催した同じ場所、旅館法では簡易宿所(お宿と自称し、旅館より立派)に決めた。
彼は後日電話してきて、
「今回は喜寿の記念同窓会にもなるので、こっちでやったらと思い直し電話した。往復のバス代くらいは自分が負担する。10万円くらいなら家内もいいことだというし、昼にはカラオケにでも行って少し派手にやったらと思って電話した」
という内容だった。
「それも一案なので旅館もまだ予約してないし、もう一度集まって案を練るか」
とやりとりしていた。

その頃、郷里の最近認知症を患う級友の住宅が燃えていたことになる。何ということだ。翌日罹災した親戚筋に当る級友の女性に電話してみた。
「腰を抜かして一晩たったいまでも震えています。彼は
アルツハイマーだったので、近所に嫁いでいる妹のところへ落ち着かせたところへ、民生委員と市役所が来て、当面4日ほど町内にある、特別養護老人ホームに収容することになった。後のことは全く白紙です」
と動揺していた。 同居の未婚の息子は新聞で見ると50歳を少し出て、折から外出中で無事だったと報じていた。気の優しい腕のいい大工職で同窓会の幹事もやってくれ、息子が名簿などを手伝ってくれた。二人の今後を心配しないではおられない。

どうか立ち直ってほしいと願っている。級友の彼は出来ればそのまま特養老人ホームに居れれば、それに越したことはない。ただ回復の見込みのない病気なので、介護老人保健施設(長期療養型病院)に転所できればいいがと心配です。
高校の級友の女性は同じアルツハイマーで50代中頃から入ったきりだ。
金もかかるし、家の再建もある、息子さんも大変だろう。最後の手段は医療・生活保護の手もあるだろう。気を落とさずがんばってほしい。夕方電話をくれた級友は
「前を通ったら屋根も抜け全焼だ」というし、もう1人の女性は
「お見舞は心のある人は、個人として持つとことに決まった」と伝えてくれた。


モニター解像度

2013年05月03日 | パソコン

パソコンこの未知なる物に手を焼きます。過日 Microsoft Fit It Center のインストールによる、トラブルシューティングを紹介しました。
これは前にマイクロソフト・コミュニティに質問したとき、モデレーターが勧めたトラブルシューティングツールです。その後何度か実行しています。DVD再生不能で今度もいくつか実行しました。
もちろん幾つかあるうちで、対象になりそうなメニューを実行しました。今回も

CD/DVDの読み取りと書き込み⇒問題発生を検知しますが解決できません。
Windows Media Playerのトラブルシューティング⇒異常を検知し解決済みと表示されるが、修復できていません。
IEのパフォーマンスと安全性⇒1項目異常を検知し解決済み。
Internet Explorerのアドオン⇒2項目異常を検知し解決済み。Javaに関するもので、1つは不適切なアドオンのためブラウジングに0.3秒余と、もう1つは0.2秒余時間がかかると検出し修復済み。
・Windows サーチに関するトラブルシューティング⇒問題検出せず。
・Windows Display Quality トラブルシューティングツール⇒異常を検知し、解決済みの表示が片隅に出ましたが、画面モードが大きくなりすぎて、操作中のダイアログボックスがほんの一部片隅に表示されドラッグもできず、クラッシュしました。すなわち、スタートのタスクバー初めすべてのメニューが隠れてしまいました。
画面モードとはディスプレイに表示される総画素数(縦、横のピクセル数)で表されるものです。
画面の解像度
さあ困った、壁紙が部分的に表示され、タスクバーもアイコンも隠れてしまって表示されず終了もできません。
困ってしまって、強制終了(Ctrl+Alt+電源ボタン同時押し)、次に通常起動しても同じで駄目、また強制終了しセーフモードで起動、画面設定の解像度800×600ピクセルと出ますが、当方のパソコンの正常値、1,024×768ピクセルに設定しても、セーフモードでは800×600ピクセル以外受け付けない作りになっている。戻ってしまう。こんなことを2,3度繰り返しました。

もう方法はただひとつ、セーフモードで起動し、システムの復元しか手はありません。復元ポイントを修復可能な前日に設定し、復元を試みやっと正常に戻すことができました。

マイクロソフトが推奨する、自社の診断修復ツールでもこの有様です。マイクロソフトも困ったものです。こういうことが起こるのでFit it centerは自己責任でお願いします。
それと、最後の切り札「セーフモードの起動」の操作と、セーフモードから「システムの復元」を、一度経験しておくといいかも知れません。パソコンの取り扱い説明書には操作方法が必ず記載されているはずです。